冉求曰く、子の道を説(よろこ)ばざるに非(あら)ず。 力足らざるなり。 子曰く、力足らざる者は中道にして廃(や)む。今汝は画(かぎ)れり。 「孔子の弟子、冉求が云った。 先生の理想を否定するわけではありません。わたしには、それを実践する能力がないのです。 孔子は答えた。能力がないかどうかは、やってみて失敗してみなければ分かるまい。 お前はとりかかろうとする前に、諦めている」 孔子は冉求を叱り飛ばしている。 冉求(ぜんきゅう)という弟子は現実主義の政治家だった。 だから、理想家肌の孔子とは、対立することが多かった。 孔子が長年の放浪生活を終えて、魯国へ帰ってきた後のこと。 旅につきしたがった弟子たちも、それぞれ就職した。 冉求は魯国の有力貴族・季子の「宰」となった。 ところで「宰」という地位がどんなものか、少し調べてみた。 学校教育において、漢文を習うことは、国語力のトレーニングという側面を別にすれば、どんなものだろう。 少なくとも、古代中国史を理解することにおいては、マイナスの方が大きいような気がする。 この時代の中国を後の国民国家を念頭において想像するのは間違い――と云っていい。 むしろ、言語・人種を異にしたいろいろな民族が寄り集まっている現代の国際政治を土台にして考えるべきだろう。 たしかに「周」という王室があって、当時の中華世界は統一されていたような感じを、漢文という世界は抱かせる。 ただし、孔子の生きた春秋時代においては、周という王室は軍事力も政治経済力もない国際連合みたいなものにすぎない。 中華世界だからといって、その言語や文化は当時の人々にあっては現代の異人種といっていいほど違っている。 むしろ現代人が中華世界を考える場合、アジア・アフリカ・アメリカ大陸・ヨーロッパまで包含する国際社会をイメージした方が現実的だ。 中華世界の小国・魯国も、その意味でいえば、立派な独立国家である。 この独立国家は、日本史でいえば、江戸時代の幕藩体制に似ていなくもない。 江戸時代でいえば、魯国の有力貴族・季子は大名にあたり「宰」とは大名家の家老職に相当する。 魯国の支配者である「公」は、有力貴族たちの上に君臨する将軍のごときものだった。さらにいえば、魯国のような独立国家のつくる緩やかな政治連合が、周の王室という構造になる。 冉求は魯国の一大名である季子の権力を強大にするために、力を尽くした。 当時の常識であった税の許容範囲を越えて重税を課すようなことさえした。 季子を強大にすることで、魯国の政治を安定させるというのが、冉求の政治プランだった もちろん、それは孔子の徳治主義とは根本的に違う。後世において「法家」と呼ばれた法律至上主義者たちに近い。 皮肉なことだが、孔子の理想に反する「法家」は孔子の学問的継承者の流れから誕生した。 冉求が抱いたような思想は、おそらく孔子学派が出来た当初から隠然とした流れとして存在していたのだろう。 そうした冉求の政治姿勢を孔子は苦々しく思っている。 「第十一 先進編」では、「冉求など、もはや同志ではない」とまで云っている。 上に引用した冉求の言葉は、冉求の政治プランを叱りとばす師に対する苦しい弁明であった。 現実主義的な政治家としてみれば、冉求の行動について共感できないこともない。 もっとも、冉求ほどの葛藤もなく、長いものに巻かれてイエスマンになる人々に比べれば、冉求をこれほど非難するのは酷な気がする。 むしろ、リアリストとして誉めるべきだろう。 だが、孔子をただの理想主義者としてみることも間違いだ。 孔子は古い周文化を看板として持ち出してはいるが、政治家としては君主に権力を集中する中央集権をめざしている。 冉求のように旧時代の大名を強化する姑息な安定志向ではなく、大名の力を殺ぎ落として君主の権力を強化する――日本でいえば「廃藩置県」みたいなものだ。 そうやってみると、孔子は後世の儒学者が打ち出した聖人とは違う。むしろ大胆な改革者だといっていい。 あるいは、孔子の方こそ、「法家」に近いとさえいえる。ただし、「徳によって治める」という徳治主義と、重罰によって統制する刑罰至上主義という大変な違いはあるが。 冉求と孔子の会話は、師の改革プランに対する弟子のためらいを喝破している。 この葛藤は、現代でもよくみられる。 例えば、教育改革、政治改革など現代日本が直面する問題にたいして、迅速かつ大胆な改革が求められているのに、当事者たちも国民も腰が引けている。 いまの日本人は冉求のように遅まきで、現実的であるように見えながら、実際には姑息な行き当たりばったりの政策に終始している。 現代日本人にとって、いま一番必要な資質は、英会話でなければ、財務知識でもない。 新しい世界に飛び込む勇気――だろう。 どうしたら、それを見つけられるか。 答えは見当もつかない。 勇気を身につけるにあたっては、お手本などないのである。 ただ他人の葛藤を見ることによって、覚悟のない人間がどうなるかは知ることができる。ネガティブではあるけれど、それも一つの「智」だろう。 「論語」を読む効用は、そんなところにもある。 |
しばらく「論語を読む」を休んでいた。 「論語」に飽きたというわけではない。 この「第六 雍也編」にたどりついてから、一気に「論語」全編を読み、孔子とその弟子たちの人生がある程度つかめた。 しかし、そのせいで、気楽に書けなくなった――しばらく、執筆を止めていたのは、そうした理由からだ。 孔子について書かれた本を調べなおしてから、再開しようと思っていたが、なかなか簡単にはいかない。 いま校訂者の違う四冊の「論語」を読み比べているが、それだけでも時間がかかる。 とても、参考書全部に眼をとおす余裕がない。 そこで、思い切って、見切り発車で執筆を再開することにした。 調べ物が行き届いていないのは、まことに申し訳ないが、自分の頭で考えながら、孔子とその弟子たちの人生と向き合っていきたいと思うからである。 さて、本日は「雍也編」の「第十章」を読む。 前回は「第十九章」だったのに、前の章に戻してしまって、不審を感じる人もいるだろうが、この編は内容が詰まっているので、前後の順序は無視して、自分で納得できたところから、書くことにしたい。 伯牛、疾(やまい)あり。子、これを問う。…… 伯牛とは、孔子の高弟のひとりである。 姓は冉、名前は耕。伯牛は字だ。 顔回、閔子騫、仲弓という儒教の倫理派というべきグループに属する。 このグループに属するのは、政治家や財政家という実務家でもなく、文学・論理学・儀礼をきわめた学究タイプでもないが、儒教の倫理的側面を追求しようとした人々である。 なかでも、顔回と冉伯牛は抜きん出ていた。 だが、師の期待を集めた二人は早世する。 顔回については「論語」の第六巻に「第十二編 顔淵編」がある他にも、いろいろなところで名前があがっている。 冉伯牛については、徳行という顔回が専門とした実践倫理の分野で研鑚を積んだという伝えしかない。 この人物は、ハンセン氏病で亡くなったという伝説がある。 孔子はその顔を見るに忍びず、見舞いに出かけたが窓から手をとって、言葉をかけたという。 このことには異説もあって、朱子学の大成者・朱子は小難しい「礼」の作法にしたがって、孔子が対面を避けたというが、多くの学者は人情として納得しがたいとしている。 たぶん、朱子のいう冷徹な人間像は、「論語」に描かれる弟子思いの孔子という人のイメージからはほど遠い。 これ亡(な)し、命なるかな。斯の人にして斯の疾あるや、斯の人にして斯の疾あるや。 病で皮膚が爛れ肉が崩れた手を握りながら、孔子は呻くようにつぶやいたのではないか。 「これ亡し」という短い言葉は、まるで現代の若者言葉のように聞こえるのが、不謹慎だがおかしくもあり、同時にそれだけ悲痛にも聞こえる。 ただの偶然だろうが、孔子がぐっと身近に思える。悲嘆のきわみで口をついて出るのは、たとえ国や時代が違ってもこんな言葉だけだ。 「命なるかな」とは、人間の運命を左右する何者か対する恨みであろう。 この言葉に、旧約聖書の義人ヨブを連想した。 非の打ち所のない善人が、誰にも耐えられないような苦しみを受けて、死なねばならない。 古代ユダヤ民族の義人が絶望のなかで、運命の支配者を呪ったように、冷酷な現実を前にして、孔子でさえも絶望の呻きをもらす他はない。 「斯の人にして斯の疾あるや」と繰り返しながら。 この「第六 雍也編」の前半は、孔子の高弟たちの人物論である。 孔子が弟子を褒めた言葉、弟子を叱咤激励した言葉ばかりだ。 その中にあって、冉伯牛については、瀕死の床にある弟子を、孔子が見舞うことのみが記されている。 伯牛という人の悲運が、このことによって、浮き彫りにされる。 だからこそ、弟子を思う孔子の熱い心情が、弟子を厳しく叱る言葉のうちにも脈々と流れていることが印象づけられる。 「論語」編纂者の構成のみごとさ――というべきだろう。 それにしても、「これ亡し、命なるかな」という言葉は重い。 しょせん、人間は死すべき存在であり、やがては塵に返る。 このことだけは、きちんと頭の片隅にいれておかねばならない。 |
子曰く、人の生(い)くるや直(なお)し、これ罔(な)くして生くるや、幸(さいわ)いにして免(まぬが)る
「人間はまっすぐに生きてゆく。自分をいつわり、他人をごまかして生きていけば、いつどんな災難がふりかからないともわからない」 という意味の言葉である。 「まっすぐに生きないで、災難にあわずにすんでいるのは、偶然のたまものにすぎない」と原文にあるのは手厳しい。 この「まっすぐに生きる」とは、バカ正直に小心でこせこせと律儀に生きることではないと言う。 自分の心を偽らないし、他人も欺かないことだ。 真実の欲望は、自他にとってけっして有害なものではありえないという確信が孔子にはあった。 欲望が真実であるということは、保険金殺人や通り魔殺人を引き起こす欲望とは一線を画していることを意味する。 欲望であっても、等し並ではないのである。 このことの意味がわかる人であれば、孔子の云いたいことがわかるはずだ。 孔子のこの考え方は、「心の健康」と「生き方」を考える基本である。 フロイトやユンクのような深層心理学は、「人の生くるや直し」を実践する方法を求めて、病んだ心を癒すことを目的としている。 それは、かれらに反対する心理療法家たちも同じだ。 こころの病だけでなく、生き方を考える実践的思想家たちはすべてこの結論に到達している。 「人の生くるや直し」とは、到達すべき目標などではなく、生き方そのものの基本原則というべきだろう。 |
子曰く、雍(よう)や南面(なんめん)すべし。 雍とは孔子の弟子の冉雍のこと。字は仲弓(ちゅうきゅう)という。 冉雍という男は、人の上に立って、指導者となるべき人間だというわけである。 この冉雍はもっぱら仲弓という名前のほうで、有名だ。孔子の十大弟子「孔門十哲}のひとりである。 ただし、身分は下層階級だったらしい。むしろ「賤民」というべきだろう。 孔子は、この当時の下級貴族のはしくれにあった。 だが、その門弟には貴族だけでなく、平民とそれより下の賤民階級までもがいた。 孔子は自分の提唱する「学」が、古来の身分制度をこえて、普遍的なものであることをめざしていた。 というよりも、「周礼」というほぼ伝説上の権威を借りて、新しい世のために、指導者となる人材育成を目標としていた。 だからこそ、賤民階級の出身でありながら、すぐれた人間性と学識をそなえた冉雍を愛したのである。 この編の第六章では、賤民の子である冉雍を励ます言葉がある。 「耕作用の牛の子でも、毛の色艶が良くて立派な角があれば、人間が祭祀の生贄に使おうとしなくても、神様のほうが捨ててはおかない」 というのである。 この場合、もちろん生贄とは、晴れて政治の表舞台にたつことを意味する。 貴族階層が賤民の出身だからといくら馬鹿にしても、やがて世間がおまえを認めるときがくる。孔子は、このようにして優秀な弟子を励ました。 これを単純に教訓物語として考えることは、まちがっているとおもう。 孔子は乱世にあって、世に秩序をもたらす人材を育て、かれらに世を平和のうちに指導してゆく原理を教えようとした。 貴族主義がはびこる古代にありながら、その人材を最下層階級から求めた。 現代において、「論語」を読むことは、もちろん封建道徳を学ぶことではない。また処世訓を学ぶことでもない。 動乱の時代にあって、先人はいかにして理想を追求しようとしたかを見ることだ。 あえていえば、「論語」から教訓を受け取ることは間違いだ。 むしろ、孔子とその弟子たちの人生を追体験することで、おのれの生き方に何ほどかのものを加えようとする――それこそが、現代において「論語」を読む目的だろう。 封建道徳への反発から、論語アレルギーがはびこっているけれど、それは仕方がない。 気がついた人から、変革の書として、「論語」をみなおせばいい。 繰り返すが、「論語」は封建道徳の教科書ではない。 動乱の時代にあって、「孫子」とならんでもっとも頼りになる武器である。 古い社会が崩壊して従来の倫理が壊れ、人が生きる指針を失った時代に、「論語」が新しい時代を模索する知者たちに愛好されたのは偶然ではない。 理想無き「人が人にとって野獣である」時代こそ、孔子が生きた時代であり、孔子の理想を現実化しようとした後世の人々が直面した時代だ。 もちろん、現代もやはり理想を喪失した「人が人にとって野獣である」時代であることは、だれもが知っているとおりだ。 |
子曰く、已(や)んぬるかな、吾未(いま)だ能(よ)くその過(あやま)ちを見て内に自(みずか)ら訟(せ)むるものを見ざるなり。 「自分の行動をよく省察して、過ちがあれば、自分にきびしく、よくよく反省する――そんな人間を見たことがない」 孔子は弟子たちに断言した。 これだけのことなら、ただの教訓として覚えているだけでいい。 しかし、ここで一人の弟子を思い出す。 それは、「第一 学而編第四章」に登場した曽参(曽子)だ。 曽子について、孔子は「参は魯(おろか)なり」と厳しい言葉を吐いている。 「魯」とは、「にぶい」「鈍くさい」という意味だ。 師からそのように批評された曽子は、のちに孔子没後の教団の長になる。 「私は毎日三回、自己反省する。他人の相談にまごころこめて対応したか、友人との付合いで信頼を損ねるような真似はしなかったか、孔子先生に習った学問をろくに咀嚼しないで生半可な理解で人に伝えはしなかったか」 これが曽子の生活だった。 「魯」であるがゆえに、曽子は孔子の言葉を徹底的に忠実に実行しようとした。 のちの「第八 泰伯編」では、曽子が兄弟弟子たちの人となりを懐かしんでいる。 しかし、ここはただの思い出話というよりは、すでに死んでいる仲間たちの優れた点を、曽子が尊敬しつつ必死で身につけたというように読める。 「鈍い」がゆえに、かえって曽子は他人の教えや理想を己が心身と魂に刻みつけることができた。 これは「愚鈍なる者だけ」がもつ「ちから」だ。 おそらくは、この第二十七章の言葉も、曽子がその魂に刻みつけたものだ。 「論語」を編纂したのは、曽子の末弟子たちだ。曽子は自分が率いた教団にも、「愚鈍」のもつ値打ちを叩きこんだのである。 |
顔淵・季路侍(じ)す。子曰く、蓋(なん)ぞおのおの爾(なんじ)の志(こころざし)を言わざる。…… この問答は面白い。 孔子と、顔淵(顔回)、子路の人柄と生き方がはっきりでている。 季路というのは、子路のことである。どういうわけか、子路は季路という名前でも登場する。姓が仲、名前が由。字が子路である。なぜ、季路という別名があるのだろう。これは自分の宿題にしておく。 ところで、孔子が奥座敷でくつろいでいた。そのときいたのは、顔淵と子路だけだった。 孔子は二人に自分の希望を云ってみろとうながした。 すると、子路は自家用馬車に乗り、高級な毛皮や衣服を着る身分になりたい。そして、それを友達と共有して、万が一友達がそれを壊したり、破いたりしても怒らないようにしたいと語った。 顔淵は云う。 「善行を自慢することなく、他人に面倒なことをひきかぶせないようにしたい」と。 子路は少なくとも、その言葉とおりの人生を送った。 自家用馬車や、高級な毛皮や衣服を着るということは、政府高官になることである。 のちに子路は衛国の大夫(政府高官)になった。学友たちを地方長官に任じて、引き立ててやった。無能として、孔子が相手にしなかった弟子にさえ、そのような待遇をした。まさに言葉とおりである。 しかし、衛国の内乱に巻き込まれ、悲惨な死をとげた。その死体は切り刻まれて塩辛にされた。これは食人の風習を意味するものではない。死者が冥界で五体満足に存在しないように、そして力をもった悪霊にならないようにという古代的観念から、死体におこなう侮蔑的な葬送呪術である。 そのとき、かれが引き立てた学友たちは結果的にかれを見殺しにした。 だが、おそらく子路はそれを怨みに思わなかっただろう。そういう男なのだ。 顔淵とはもちろん孔子の愛弟子、顔回のことである。 ここに抄録した文の原文を書くと 「願無伐善」(願わくば、善を伐(ほこ)ることなく) となる。 「伐善」(ばつぜん)というのは漢語熟語で、「自分の長所を誇ること」という意味でいまも使われる。 顔回の云いたいことは、自分が優れていることをタネにして、他人を貶めたり、他人のいたらなさを攻撃するようなことはしない、押し付けがましいことはしないということである。 控えめで、仁の体現者である顔回らしい言葉である。ほとんど聖人みたいではある。 顔回が孔子から仁徳者として認められたことは、こんな言葉からもわかる。 この問答は、うちとけた雰囲気で、孔子の二大弟子が自分たちの希望を述べ合うという体裁になっている。 しかし、二人の一生を見る限り、まるで絵に描いたように鮮やかな要約である。 こんなところをみると、「論語」にもプラトンの対話編のような編纂者の演出があったと考えざるをえない。 官僚制度と現実政治のなかで理想を具現化しようとしたもの。 個人的なレベルにおいて、理想を実現しようとしたもの。 おそらく、それは孔子の思想を継承するものたちの典型だ。 子路、顔回はその代表であろう。 ふたりは後世の孔子学派の指標であり、お手本である。 ところで、孔子自身は、子路に聞かれてこう答えた。 子曰く、老者(ろうしゃ)には安(やす)んぜられ、朋友には信ぜられ、小者には懐(なつ)かしまれん。 「年寄りには安心され、友人には信頼され、子供にはなつかれたい」 一見すると、子路の肩肘はった理想論や顔回のしゃちほこばった道徳論を、孔子が軽くいなしているようにみえる。 みたかぎりでは、どの「論語」注釈も、すべてそのように解釈している。 だが、わたしには「おまえたちの言っていることは、噛み砕いて云えば、ほんとうはこんなことなんだよ」と孔子が微笑んでいる図が目に浮かぶ。 その心中には、子路や顔回の生き方を認め、よくぞ自分の考え方・生き方を実践してくれたという嬉しい気分があるのはもちろんである。 これを聞いた子路と顔回は、孔子とともに声をあわせて、笑ったに違いない。 「論語」本文には、そんな記述はもちろんない。 だが、まるで映画の一シーンのように三人が楽しそうに笑っている光景がみえるのである。 |
子曰く、孰(たれ)か微生高(びしこう)を直(ちょく)なりと謂う。ある人醯(す)を乞う。諸(これ)をその隣(となり)に乞いてこれを与う。 微生高という人物は、正直と有名だということしかわかっていない。 論語のここだけに、名前の出る人物らしく、そのほかのことはわからない。 とにかく、孔子はこの人物がみんなの言う「正直者」(=直)なんかではないと、批判している。 人が酢(=本文では「醯」)が欲しいというので、隣人から酢を借りて、これを又貸しした。 このことについて、「直」ではないというのである。 バカ正直に「酢なんかない」と断るよりも、機転がきいていて、立派だとおもうが…… 別の解説本を見ると、まったく逆の解釈だった。 微生高が同じ行為をしたと解釈するのだが、前が違う。 「直」を「バカ正直」と解釈して、正反対の読みをする。 みんなからバカ正直だと言われるが、微生高は機転がきく知恵者だと、孔子が誉めたというのである。 同意見のひとがあらわれて、嬉しくなった。 しかし、「直」という漢字を漢和辞典で引く限り、ネガティブなニュアンスはない。 「素直」、「まっすぐ」という意味でバカ正直という用法はないようだ。 「第八 泰伯編十六章」では「狂にして直」でないものはだめだとある。 この場合の「直」は「一本気」「純粋」という意味だ。 また「第十三 子路編」では楚国の賢人政治家・葉公に自分の考える「直」を説明している。 葉公は父親が盗みを働いたのを密告した息子を正直者(=「直」)の見本として誉めたが、孔子はそれは「直」ではないという。 孔子の考える「直」では、父親が盗みをはたらけば、息子はそれをかばわなければならない。 これを考えると、「直」とは杓子定規に規則を守るのではなく、人間としての情のおもむくままに行動することを指す。自分に嘘をつかないということだ。 たしかに、酢を欲しがっている人に、自分のところにはないから他所から工面して貸してやる――そのことはいい。世間では、善人、正直者でとおるだろう。 しかし、そこに無理はないか。 酢が自分のところにないなら、欲しがっている人が自分で探しにいけばいいではないか。 その人だって、知り合いは微子高だけしかいない――わけではあるまい。 酢を貸りてやるというくらいのささいなことでも、こんなにがんばる人なら、善人・正直者の看板のために、いろんなことで無理をしているはずだ。 そんなのは、駄目だよ。もっと素直に、無理しないで生きなさい。 孔子はそう云っているのではないか。 無理して正直者・善人になるのはやめよう。それでは、だれも幸せにはなれない。 ところで、論語読みの参考にしようかと思って、いろいろな論語注釈本を探してみたが、わたしが見る限り語学的・歴史的にも貝塚先生のテキストほど内容豊かに、かつ深い思索を感じさせるものはなかった。 有名な仏文学者のものや、岩波文庫も、その解釈は通説の域をでない。通説について貝塚先生は注釈できちんと整理しておられる。 「新訳論語」(穂積重遠)という本を読んでいるが、これまで読んできたかぎりでは、貝塚先生の読みには及ばない。もっとも、穂積という人は法律学者だから、それも無理はない。この人は平成天皇の皇太子時代に侍従をつとめた。 父は「法窓夜話」の著者・穂積陳重でこの人も法律学者だ。渋沢栄一の娘をもらって、生まれたのが、重遠氏である。渋沢とは、もちろん明治実業界の大物のことである。 渋沢栄一にも「論語講義」という著書がある。 さらに渋沢は孫の穂積重遠ら一族の子供たちのために、若い碩学を招いて論語を講義してもらった。 その碩学は宇野哲人といい、「論語新釈」なる著書がある。 芋づる式にぞろぞろ関連本がみつかった。 いつかは読まずばなるまい。読まずば二度死ね…… 論語読みも楽ではない。 |
子曰く、ィ武子(ねい ぶし)は邦(くに)に道あるときは即ち知、邦に道なきときは即ち愚。その知は及ぶべきなり。その愚は及ぶべからざるなり。 この文章はいい。 このィ武子という貴族政治家の生き方は、人間として望み得る最高の生き方だ。 ィ武子は隣の衛国の大政治家である。孔子の時代から100年くらい前に活躍した。 当時の衛国の君主・成公というのが箸にも棒にもかからない人物で、家臣に見放されて、国外に逃亡したり、外国勢力の力を借りて復位した。しかし、外国勢力にさえ見放されて、監禁された。王位には弟の公子・瑕(か)がついた。 ィ武子は名をィ愈という。「武」というのは家老などがなくなったときにつける尊称(=諡)だ。 この紛糾した時代にあって、知力のかぎりを尽くして、成公を救出して、公子・瑕を倒して成公を復位させた。 衛国は強大な楚と晋の両国にはさまれて、政情不安な弱小国だった。 成公の運命も、ひとつには両大国の意向に動揺する家臣団の反発・反目に理由がある。 この事態を収拾したィ武子の知略は、だれもが認めているところ。 ところで、「その愚は及ぶべからざるなり」というのは、どういうことだろうか。 最初は、愚人を装って、政争に巻き込まれたり、君主の嫉妬を買うことを回避したのかとおもった。 「春秋左氏伝」には、愚人をよそおって、相手に恥をかかせることなく、そっと相手をいさめたエピソードもある。 それをみるかぎり、老荘的な腹芸のできる大政治家とみるのが妥当だろう。 ところが、別の本を読むと、ィ武子の「愚」とは「国が乱れたときに、影にまわってあえて損な役割をひきうけて、損得勘定のわからない愚者のように、一生懸命はたらいた」ことだとしている。 こうなると、演技で馬鹿にみせかけて保身を図ったというよりは、損得を抜きにしてあえて損な難事業に挑んだということになる。 事実関係を考えてみれば、やっぱり知力と愚人をよそおう演技力・腹芸を兼ね備えていた大政治家というほうに軍配をあげる人が多いだろう。 その読みに反対はしない。 だが、わたし流の読み方では、前後をみて内容を考える。 この前の章では、魯国の宰相・季文子(き ぶんし)が国使として強国晋へ使いをするときにあたって、三度もあれこれ考え直して、ためらったうえで、出発したことが書いてある。 その慎重ぶりを、孔子が批判するのが、前章だ。 事情を知れば、季文子の行動も納得できるものなのだが、なすべき義務にあたってあまりにも優柔不断だと孔子は云いたいようだ。 それを考えると、なすべき義務をはたすために、あえて事件の火中に飛び込む愚挙をなしたィ武子の勇気と節を曲げない態度が際立ってくる。そのィ武子を、対照的な季文子と比較して誉めたのだと考えてみたい。 愚人をよそおう演技力や知略も、その根底に正義を断固おこなう勇気と廉直がなければ、孔子にとってはなんの意味もない。 だから、この場合の「愚」は損得勘定ぬきで難事に挑むことだとおもう。 孔子は二度も亡命生活を体験して、何度も政争に巻き込まれ、死にかけた。 そんな人が云う人物評だから、言葉とおりにそのまま解釈するのはナイーブすぎる。 |
子曰く、伯夷(はくい)・淑斉(しゅくせい)は旧悪を念(おも)わず、怨(うら)み是(ここ)を用(もっ)て希(まれ)なり。 伯夷・淑斉という人物は儒教ではあまりにも有名だ。 でも、ちょっとだけ解説しておく。 伯夷・淑斉とは、「孤竹国」という国の王子だ。 父王が弟淑斉を愛しているのを知って、長子の伯夷は国を去って弟に位を譲ろうとした。それを知った淑斉も国を捨てて、兄に位を譲ろうとした。兄弟は譲り合って引かず、王位はこの兄弟のあいだにいた王子が継いだ。 その後、伯夷・淑斉兄弟は殷の紂王に仕えたが、暴君ぶりに嫌気がさして周の文王に仕えた。 文王の子、武王の代になって紂王を滅ぼして、周が天下をとると、武王の武力討伐に異議をとなえて、首陽山という山にはいって蕨だけをとって暮らして餓死した。 世間的にみれば変わり者の敗残者だが、孔子の考える「仁」という世界観からすれば、その教義を体現した殉教聖者である。 弱肉強食の乱世の掟と対立する「聖なる掟」として、「仁」を考えるひとびとにとって、伯夷・淑斉の死に方はソクラテスや、イエスの刑死のような倫理的・情操的感動をひきおこした。 ここでいう「旧悪」とは紂王のあまりにも非人間的な暴政をさす。 それを目の当たりにしながらも、紂王の武力討伐を否定した伯夷・淑斉兄弟に、孔子がおのれの理想をみた。 「怨み是を用て希なり」 というのは、「こういう人物であるから、めったに怨みを買うことはなかった」という意味だと解釈される。 漢文のプロがいうから、そうなんだろう。 でも、なんだか、わたしには「仁」を体得した人間は、「怨みなどを抱くことは滅多にない」と孔子が感動を口にしたように思えてならない。 「こんな人間になりたい」と、孔子が感動をこめて、つぶやいたと思うわけである。 文法はさておき、ここは最初の人生訓めいた解釈と、あとの自己流解釈も並立して、立派に並び立つようだ。 「論語」は、こんなふうに多義的に読む書物なのではないか。 ひとつは誰もが納得するいわゆるオフィシャルな解釈。 もうひとつは己の心のなかを斟酌して、自律的・実存的に読む解釈。 学校で教わるのは、オフィシャルなものだけど、たとえ間違っているとしても、自律的・実存的に自分にひきつけて読まなければ、「論語」は死んだ格言のかたまりにしかならない。 |
子曰く、晏平仲(あんぺいちゅう)、善く人と交わり、久しくして人これを敬う。 晏平仲とは、斉国の宰相の晏子である。 斉の霊公・荘公・景公に仕えて、紀元前500年に没した。 春秋時代の大政治家のひとりだ。 斉の荘公は家老の崔杼の夫人と関係して、崔杼に殺された。 その後、崔杼は殺され、国政は他の家老の陳氏・慶氏などが争いあって凄惨な状況になった。 晏平仲はそうした政争のなかにあっても、全国民の信頼があったので、だれも手出しができなかった。 この「公冶長編」の第十五章からは、過去の有名政治家たちに対する孔子の人物評となっている。 たった一行の記述ではあるけれど、「論語」編纂当時には晏平仲の事蹟はひろく知られていたのだから、くだくだしく書く必要はなかった。 このあたりの記述は、長ければ長いほど、孔子は対象となる人物に批判的である。 だから、実際に読んでみると、晏子に対して短い言葉しかないことは、かえって最大限に誉めているとしかおもえない。 じっさいに、孔子も晏子のような大政治家になりたかったのだが、志をはたせなかった。 この言葉には、孔子の憧れと、溜息みたいなものが感じられる。 ひるがえっていえば、「善く人と交わり、久しくして人これを敬う」と状態に自分をもっていくことを考えた末に、いきついたのが、「仁」という理想だ。 この前の第十六章では、衛国の大政治家子産に君子の理想を観ている。 君子に四つの道あり。その己(おの)れを行うや恭、その上(かみ)に事(つか)うるや敬、その民を養うや恵、その民を使うや義。 子産と晏子をかねそなえた政治家こそ、孔子にとってめざすべき理想の政治家だ。 ところで、子産とは時代がずれて合うことはできなかったが、晏子と孔子は面識があるかもしれない。 というのは、孔子は36歳のとき(紀元前517年)に、斉国に亡命している。 このころなら、まだ晏子も健在だった。 「晏平仲、善く人と交わり、久しくして人これを敬う」というのは、孔子が観た晏子の実像だったと想像してみたい。 |
宰予、昼寝(い)ねたり。子曰く、朽ちたる木は彫るべからず。糞土の牆(かき)はぬるべからず。予に於いてか何ぞ誅(せ)めん。…… この文章はよくわからない。 孔子の愛弟子、宰予というのが、昼寝していた。 そのことに対して、孔子は「腐った木に彫刻することはできない。腐って汚い土壁の垣根を上塗りすることはできない。宰予には何をいっても無駄だと」 と怒った。 「糞土の牆」とは、ぼろぼろになって汚い土壁のこと。 古代中国では、土を突き固めて壁や垣根を作った。これは田舎では今でもやっている。 風雨でぼろぼろになったり、水気を含んで汚らしくなってしまった「牆」(かき)はどうしようもない。 こう怒られた「宰予」とは、通称、「宰我」といい、孔子のすぐれた弟子のひとりである。 「孔門十哲」という弟子のベストテンにも数えられるほどで、弁舌の才能については子貢に匹敵する。 のちに隣の大国、斉にいって、政府高官になった。 それにしても、孔子の怒り方は尋常ではない。 昼寝をしていて、これほど怒られることがあるだろうか。 上の文章に続いて、孔子はこんなことを云っている。 「今まで人を判断するのに、その云うことを信じて、行動も言葉のとおりだと思い込んで、人は信用してきた。しかし、これからはどんな立派なことを云ったとしても、行動を観て判断するようにしよう。人物判断のやりかたを変えるきっかけは、宰予だ」と。 宰予がよほどひどい行動をとったとしか思えないが、実際には昼寝をしただけである。 こんなところから、昼寝がただの怠け心ではなく、昼ひなかから、不倫したり、性交渉していたのを咎められたという奇説をとなえた学者もいる。 ただの性交渉ではなく、不倫だったり、あるいは男色だったから、孔子はいっそう怒ったというのである。 小説的にみれば面白いが、なんだか奇をてらっているとしか思えない。 もし、これが正しいとしたら、孔子の弟子のなかで色事で怒られているのは、宰予だけということになる。 乱脈をきわめた貴族政治家の閨房生活さえ、あからさまに書かない「論語」で一箇所だけそんな部分があるのは変だ。しかも、頭がきれて、弁舌のたつ宰予が、そんな行動をとったと書いたのだとすれば、筆者たちの悪意さえ感じる。 宰予が孔子の学問に批判的だったから、孔子の不快感をこんなかたちで表現したのだと、貝塚先生は考えている。 すると、どれだけ悪人かとおもうと、「論語」をみるかぎり、大人しい弟子である。とても、孔子が憎んでもあまりあると考えているとは思えない。 こんなときは、前後の文脈を考えてみるのがいちばんだ。 この前後を読むと、子路・冉有・子貢といった「孔門十哲」の弟子たちを誉めているような、貶しているような微妙な書き方で、人物評をしている。 読み方にとっては、誉め言葉にもなるが、悪意をもってみれば貶しているとしても読めるような書き方だ。 子貢などは「顔回には到底及ばない」と孔子に云われ、次には「りっぱなことを云っていても、そんなことはおまえにできっこない」とも皮肉られている。 なにかあるなと思って考えてみた。 漢和辞典で「孔門十哲」の名前をみるともなしにみているうちに、ふとひらめいた。 この優秀弟子ベストテンに入っているのは、孔子が亡命放浪生活に入る前からいる古株たちばかりだ。 そのなかには、孔子の死後、魯国で教団の後継者となった有子(有若)や曽子(曽参)の名前は入っていない。 「論語」の編纂にあたったのは、有子や曽子の系譜をつぐ学派である。 ここで貶されている子貢は衛国の宰相になったし、宰予は隣の大国斉の政府高官となった。 この文章を含めて、このあたりの記述は、「孔門十哲」のうちでも弁舌すぐれて、他国で政治家として活躍した子貢や宰予を貶すために書かれたのではないか。 あの連中ははぶりはよかったけれど、大先生の孔子からこんなに嫌われて、評価されていなかったといいたいのである。 だから、子貢や宰予の弁舌を徹底的に貶さなければならない。 おそらく居眠りでもして、宰予がしかられたときの言葉をわざと収録したのに違いない。 さらにいえば、後半の文章も再考してみる必要がある。 宰予の二枚舌から、人の言葉と行動を疑ってかかるようになったというのが、一般の解釈だ。 しかし、これまでの流れからいけば、あえてこんな推理もなりたつとおもう。 人の言葉と行動は必ずしも一致するものでないと、孔子に進言したのは、むしろ宰予ではないだろうか。 すぐれた教育者の常として、人が善すぎる孔子は、そのことをきっかけにして、あらためて人間を厳しくみるようになったというのはどうだろう。 もちろん、孔子を超人的存在に考えるなら、こんな夢想はお笑いぐさだが…… わたしには、別々の場面で言われた孔子のふたつの言葉を、宰予を貶める意図で一箇所にまとめたとように思えてならない。 その裏には、繰り返すが、魯国で政治家としてではなく教育者として終始した学者たちの系統を引く「論語」編纂者グループの、自己顕示欲がある。 宰予に対する最初の厳しい叱責は、怠けて気が緩んだすぐれた弟子に対する愛の鞭だったとおもう。 その愛の鞭と、孔子の誉め言葉を、「論語」編纂者はわざとねじまげて、いっしょに引用した。 それが、この第十章のわかりにくさの秘密だ――と、いまわたしは考えている。 |
子曰く、道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従う者はそれ由(ゆう)か。…… 孔子は四十六歳から五十歳のころに、魯国の政治に嫌気がさして、東方の海へ亡命しようとした。 ここの文章だけを読むと、やけになって愚痴を云っているだけのように思えるが、後の「第九編第十四章」をみるとかなり本気で準備したらしいことがうかがえる。 結局、無謀な移住計画はやめて、孔子は魯国に仕えた。 そんな人生の転機に吐いた言葉がこれである。 理想とはあまりにも程遠い現実の魯国を捨てて、未開ではあるが、心がきれいな人々の住む海の向こうへ移住するのも悪くないと思ったようだ。 そんな無謀なことにつきあうのは、弟子のなかでも子路だけだろうと云うのである。 「由(ゆう)」とは、子路の名前だ。 名指しされた子路は、得意になった。 それをみて、孔子は云った。 「子路は私などよりも、ずっと勇ましいことが好きだな」と。 しかし、「子路に桴(いかだ)の材料を用意する才覚があるかな」ともつけくわえた。 この会話はただの冗談のようでいて、孔子が子路の資質をきびしく見定めたエピソードだとおもう。 次の第八章で若い貴族に子路の器量を問われて、孔子がこんなことを言っている。 「子路という男は、千台の戦車が出せる国で、軍政を担当できる人物だ」と。 孔子は子路の勇気と純情を愛していたが、いささか思慮にかける性格を危ぶんでいたようだ。 本編第二章と第三章で、弟子南容と子賤を仁者と評したのに続いて、本編第四章では別の弟子の子貢を仁者ではないと評した言葉がある。 仁者ではないが、抜群のやり手だと誉めている。 この第七章もそうした意味で、子路のキャラクターを浮かび上がらせるために挿入されたのかもしれない。 血の気の多い子路は、論語のなかの人気者だ。 子路が登場する場面は、なんとなくユーモラスであると同時に、孔子一門の愛情と好意が感じられるのでいい。 仁者といわれた南容や子賤にほとんど逸話がないのに対して、子貢や子路に楽しいエピソードが多いのは、ただの偶然ではないはずだ。 もしも、子路や子貢の逸話がなければ、論語読みの興味は半減するだろう。 これは、「論語」編纂者のたくまざる構成の妙か、それとも現実生活には子路や子貢のような人間的魅力や知略がなければやっていけないことを教えているのか。 どちらかといえば、「人に好かれる愛嬌と、きれる頭を持て」という世間知を、行間にひそませているという見かたのほうが、わたしは好きだ。 |
この第五章は、孔子の人物論を集めたもの。 対象は弟子が多いが、同時代の年上の政治家や、100年前の政治家にまで及ぶ。 現代でいえば、昭和から、明治・大正・幕末くらいまでの政治家を取り上げるようなものだ。 ところで、「公冶長」というのは、孔子の弟子のひとりである。 生年、字がさっぱりわからない。生国は魯であるらしいが、隣国の斉という説もある。 孔子との問答も残っていない。ここにだけ登場する不思議な人物だ。 第一章の内容を要約してみよう。 「孔子が弟子の公冶長を評して云った。 『この男に娘を嫁にやりたい。牢獄に入ったことがあるけれど、それは無実の罪だったから』 そして、孔子は公冶長と自分の娘を結婚させた」 公冶長の入獄については、奇怪な伝説がある。 この男は鳥の言葉を解する不思議な能力があったという。 近所で神隠しにあった子供がいたので、鳥の会話に耳をすませてみると、すでに死んでいた。死体のある場所を鳥から聞いて、ひとに教えた。そのせいで、幼児殺人犯として牢獄に入れられたが、鳥語を解する能力を証明して無罪となり、釈放されたとか。 この話は、はるか後世の漢時代に付け加えられたという説がある。 それにしても、なぜ、有能な弟子でもない男に孔子が娘を嫁にやったのか、だれもが不思議に思う。 その謎は、次の第二章でいよいよ深まる。 第二章では、魯国の貴族で実力者・孟僖子の子、南容という弟子に、孔子は自分の兄の娘を嫁にやっている。 その理由というのが、 「南容は、国家が正しい政治を行っているときには出世するだろうし、国家の政治が乱れているときでも、政争に巻き込まれて刑罰を受けることはないだろう」 として、その人物を見込んだからだ。 この南容という貴公子は、「第十四 憲問編 第六章」にも登場する。 ここで、孔子は南容を「君子であり、徳を尊ぶ人」として絶賛している。 としてみると、南容は社会的にも、孔子の弟子としても一目置かれた人物だった。だから、身内の娘を嫁にやっても安心だった。 孔子の考えかたからすれば、兄は大いに敬わなければならない。その兄のために、大切な兄の愛娘を託するには、南容は申し分ない人物だった。 それはいいとして、なぜ公冶長に孔子は自分の娘を配したのだろう。 あえて考えれば、子孫をもたないことは、孔子にとっては大変な罪である。 しかし、無実の罪とはいえ、かたちの上では前科者になってしまった公冶長には、まともな家柄からは嫁を貰うことができなくなったのではないか。 だとすれば、弟子思いの孔子としては、公冶長を結婚させてやりたい。だが、他所から望めないのであれば、自分の娘をやるしかないと想い定めたと考えるのは、どうだろう。 子、公冶長を謂(のたまわ)く、妻(めあわ)すべし、……。その子(こ)を以ってこれに妻(めあわ)す なぜ、こう考えるかというと、次の第三章の言葉である。 ここで孔子は弟子、子賤を評して「君子哉若人」と云う。 これは「君子なるかな、若(かくのごと)き人」と読んで、子賤を君子であると絶賛する意味だ。 ところが、この言葉は「第十四 憲問編 第六章」で南容を絶賛するときに使った言葉と同じである。 しかも、第三章では「魯国に君子がいないというなら、子賤をみよ」という意味の言葉もつけ加えられている。 この流れでいくと、公冶長、南容、子賤は、孔子が認めた「君子」であると考えたほうがいいだろう。 ただし、貴族の御曹司であり、孔子の創始した学問においても優れた南容がだれからみても、立派な貴族政治家であるのに対して、前科者の公冶長はそうではない。 「君子」という言葉は、当時の世間一般の使い方では、「貴族政治家」であるから、公冶長を君子と呼ぶには抵抗があった。ただ孔子としては、世間の通念と違って、「君子」を「仁の徳を体得した人物」と考えている。 だから、孔子は娘を嫁にやることで、公冶長に子孫を残すという務めをはたさせ、同時に公冶長を孔子が云う意味での「君子」(=仁の徳を体得した人物)だと認めている事実をしめしたと考えたい。 なぜ第一章に、公冶長と南容の嫁取り話をもってきたのかを、考えてみた。 この第五編は人物評ばかりを集めた場所だ。 その人物評をおこなう孔子の人間を見る目が、並外れたものであることを、「論語」の編纂者たちは誇示する必要に迫られた。 だからこそ、無名で前科者でさえある弟子と、名声ある貴族の御曹司を登場させて、社会通念にとらわれずに、人間の本質をしっかり見抜く眼力を孔子が持っていたことを鮮やかに示したのではないか。 もっと思い切って云えば、「論語」編纂者たちの思想としては、公冶長のような存在がいてくれたほうが構成がもっとドラマチックになる。 この部分の他には、史料もなにもない公冶長という男は、むしろ「論語」という書物をドラマチックに演出するために、創作された人物ではないかとさえ思えてくる。 そこまで考えるのはいきすぎだろうが…… ともあれ、孔子がなみなみならぬ眼力を持っていることは、公冶長と南容の結婚話で読者に証明されたことになる。 みごとな構成という他はない。 |
今日は嬉しい。 やっと「里仁編」の謎がとけた。 長いあいだ、頭を悩ましていた第一章と第二章に、解決がついたのである。 子曰く、仁に里(お)る美(よ)しと為す、択(えら)びて仁に処(お)らず、焉(いずく)んぞ知(ち)たるを得ん。 これが「第一章」の全文だが、貝塚先生の注釈がよくわからない。 それで、ずっと考えていた。 「里仁為美」という言葉には、古来、三つの解釈がある。
B説では、「知者は仁者の住むような里に住むべきだ」、つまり言い換えると「学者たるもの、生活環境を選んで居住せよ」ということになる。 漢文だから、どちらの読み方も誤りではない。 しかし、あまりにもみみっちい考えではないか。 気分としても、論理的にも、どちらもとりたくない。 ざっと論語を眺めると、各編の第一章には、その編全体を総括するような内容がある。だから、「里仁編」を全体的にみてみる必要がある。 ここは、「仁とはなにか」を「君子」や「小人」の行動を通じてあきらかにしている箇所だから、学者生活へのアドバイスという内容は第一章としてはふさわしくない。 C説が妥当だろう。 ここまでは貝塚先生と同じだが、次が違う。 「択不処仁、焉得知」は、貝塚先生の解釈によるとこうなる。 「仁の徳を選ぶのが、知者の立場だ。そして知者とは、孔子門下の弟子たちの立場でもある。知者としての弟子たちに、仁のあらわれ方を示している」 これは次の第二章にある言葉、 「仁者は仁に安(やす)んじ、知者は仁を利とす」 を「仁を体得した人(仁者)は、仁の徳自体におちついているし、知者は仁の徳を手段として用いている」 と解釈するからでもある。 仁の徳が自己目的であるか、手段にすぎないかを問題にしようとしているというわけだ。 この解釈が納得できない。 論旨が混みいっているし、分析がいまひとつすっきりしていない。 第一章の文脈では、「仁」は「仁者」という人間存在ではなく、「仁徳」という抽象概念だとしたはずだ。それが、「知」についてだけは「知」という抽象概念ではなく、「知者」という人間存在になっている。 ここがおかしく思える。「知」も抽象概念であるべきだ。 だから、ここは 「仁という徳を志向するのでなければ、ほんとうの知は得られない」 という意味ではないかとわたしは解釈する。 第二章については、こう考える。 「仁者は仁の徳を安(たの)しみ、知者は仁を利(はたらか)す」 日本語としてはこなれていないので、説明が必要だろう。 第二章の前半の文の趣旨は「仁の徳を体得していない者には、不遇な生活に長い間耐えることはできないし、逆に安楽な生活を送っていても、それを維持することはできない」というものだ。 つまり、仁ということがわかっていないと、不遇なときには自棄になって身を持ち崩し、豊かに暮らせるときには道楽でもして不幸を招くという意味である。 だからこそ、「仁」と「知」が必要だと云っていると思うわけである。 「仁」が内面の平和であるとすれば、「知」は外界に働きかける能力である。 この文章に続いて、「仁者安仁、知者利仁」という文章が続く。 この場合、「知者」というのは、「仁」という精神的幸福を外界に具象化する能力を有する人をさす。 嵐のときも晴れのときも、いつも心のなかは平穏で幸せであるひとが、仁者であるとすれば、知者はなんとかまわりに幸せを振りまこうとするひとであろう。 というわけで、はなはだ自分中心的ではあるが、ここにようやく納得できる解釈ができたので、「里仁編」はこれでお終いとします。 |
子曰く、民の過(あやま)つや、各(おのおの)その党(とう)に於いてす。過(あやま)ちを観(み)れば、斯(ここ)に仁を知る。 この文章にはてこずった。 初めの文の意味は、 「民衆が間違いを冒すときは、住んでいる社会に悪影響を受けたからだ」 というもの。これには、異論はない。 ところで、後半の文は 「民衆の間違いを観察すれば、仁徳の感化がどれだけ及んでいるかわかる」というのだが、どうも納得できない。 あえていえば、 「民衆の過ちを観察してはじめて、その社会が目標とすべき仁徳がわかる」 と考えたほうがいいと思う。 いいかえれば、事件を通じてあらわになった社会の欠陥をよく調査してこそ、それを克服する道が開けるということである。 これが文法的に正しいかどうかはひとまず置くとして、とにかくいまの私にはこうとしか読めない。 今回は、この読みでいきます。 |
子曰く、約(やく)を以って失(あやま)つものは鮮(すくな)し。 多忙につき、しばらく休んでいた「論語日記」を再開します。 ところで、休んでいるあいだも「論語」を開いて、この「里仁編」を読んでいたのだが、どうも貝塚先生の解釈がしっくりこない。 注釈と漢和辞典を頼りに、自分なりにひねくりだした考えのほうが、あたりまえだけれど、自分としては納得できる。 あらためて、じっくり考えてみて、それでも自分の考えが変わらなかったら、順次ここに書いてみるつもりだ。 思想を読むということ、哲学するという行為に、入試問題のような正解はない。 そのことは、自分の頭でものを考える人の常識である。 語学的には文法間違いの誤読であっても、読んだ人間の問題意識によっては、少なくとも本人には生きる力となる発想が生まれる。 それを、言語学者・文法学者の立場にたって非難しても仕方がない。 (でも、本物の言語学者や文法学者ほど、言葉のきわどさ・あやうさを知っている人々は他にいないから、このレトリックは幼稚すぎる……) もともと「本を読むこと」や「自分の頭で考えること」は、独善的な思い込みとすれすれの、孤独な行為だ。 この「論語読み日記」も最初は気楽にやっていくつもりだったが、性格というのはしょうがない。ぎっくり、かっくり、行きつ戻りつしながら、のんびりやってゆくしかないと諦めた。 さて、今回はすんなりと貝塚先生の解釈になっとくした。 この文章の意味は、こうだ。 「控えめにしていて、しくじることはめったにないものだ」 まさに、そのとおり――である。 ところが面白いエピソードがある。 江戸時代に乱暴者が剣術師範にいいがかりをつけて、立会いとなった。 乱暴者は普段から大言壮語して、腕自慢の嫌われ者。いっぽう、剣術師範は万事に控えめな人格者である。見物人は「能ある鷹は爪を隠す」の喩えとおり、温厚な剣術師範が乱暴者をぼこぼこにやっつけると思っていった。 ところが、結果は逆だった。ぼこぼこにやられたのは、剣術師範だった。 この話を記録した随筆の作者は、このごろでは「謙遜していれば安心」とばかりにやたら腰が低い武士が多いけれど、そういうにの限って、本当に実力がなかったりする。 むしろ大言壮語するような一癖も二癖もある武士のほうが、実力があるものだと評している。 「失敗を恐れて控えめにしている」なんて、ばかばかしい。 「でかい夢を語って、一生懸命」のほうが、泥臭いけれど、はたで見ていても気分がいい。 どうせ生きるなら、気分よく生きるにかぎる。 |
子曰く、唯(ただ)仁者能(よ)く人を好み、能く人を悪(にく)む この文の解釈もむずかしい。 貝塚先生によれば、 「仁の徳を体得した『仁者』は、わざわざ理性で自然の好悪の情を押さえなくても、感情のおもむくままにふるまっていながら、節度をこえず、人を愛し、憎むことができるようになる」 ということらしいが、わたしは違うようにおもう。 「仁」というものが、「良心的誠実」(=まごころ)と「他者への想像力」(=思いやり)が総合されたものだとすれば、「仁を体得したひと」が好き・嫌いをどうこうするという問題かと言う気になる。 「好」と「悪」という字を漢和辞典で調べてみると、「好」・「悪」は対概念で「好き・きらい」を意味するが、そこには感情的要素は少ないようだ。 感情的につよく「好き・嫌い」を表現する対概念は、「愛」・「憎」だとある。 この場合、「好」・「悪」は、むしろ日本語でいう「良い・悪い」という対概念のほうが近しいのではないか。 判断の結果として、「良い」と判定するのが「好」であり、「だめ」と判定するのが「悪」だとおもう。 そこで、この第三章を、わたしはこう解釈する。 「仁というものを体得した人だけが、人の本質をありのままに見ぬく眼力を持っている」と。 「素人が何を言うか」と、学者さんや国語教師からは怒られそうだが、わたしはこれからもこんな風に「論語」を読んでいこうとおもう。 「成熟とは、なんじの悟性を使用する勇気を持つことだ」 というイマニュエル・カントの言葉を信じて。 |
子曰く、参(しん)よ、吾が道は一(いつ)以てこれを貫く。…… 曽子曰く、夫子の道は忠恕のみ。 ここ何日か、この「里仁(りじん)篇」を読んで考えあぐねていた。 最初のほうの章句の意味がわからない。 曖昧模糊として、なかみがつかめなかった。 「仁」ということについて、孔子がいろいろ云っているのだが、どうにも具体性がなくてよくわからない。 「仁」「仁者」「道」という概念について云っているのだが、概念そのものを考えるとわかったようなわからないような「論語しらずの論語読み」になってしまう。 第四篇を繰り返し読んでみて、どうやら第十五章がキーポイントだと気づいた。 ここに引用した言葉に、孔子の本心がずばり顕れている。 「論語」という語録を構成する孔子の発言は、それぞれ異なったシチュエーションで、別の人々に語られたものだ。孔子の教え方そのものが、人をみておこなうものだから、結果的にこうなってしまった。 その結果、孔子の本意があいまいになってしまった。 第十五章の孔子の発言は、孔子が愛弟子の曽子に、自分の思想の根本を分かっておるかと念を押したものだ。 ここで「参」(しん)として、呼びかけられているのは、孔子の高弟・曽参(=曽子)である。 曽子が「わかっています」と胸をはって答えると、孔子は満足してそれ以上は聞かず、その場を立ち去った。 以心伝心の禅問答みたいな孔子と曽子の会話をそばできいて、他の弟子たちが「先生はなにをおっしゃったのか」と曽子に聞いた。 その答えが「先生の道は、忠恕だけだ」という後半の文である。 貝塚先生によると、 「忠」とは「自己の良心に忠実であること」 「恕」とは「他人の身になって考える知的同情」 であるらしい。 「里仁編」の中心テーマ「仁」とは、「忠」と「恕」をあわせたものだ。 いいかえると、「仁」とは「誠実さ」と「他者の立場になって考えることのできる想像力」だ。 これで、「里仁編」は読めた! ところで、貝塚先生の注釈では、この第十五章は「論語」全体の根本原理として後代の学者たちから重視されたという。 |
天下の道なきこと久し、天は将(まさ)に夫子(ふうし)以って木鐸(ぼくたく)と為(なさ)んとす 名文句である。 紀元前四九七年に、孔子が魯国から亡命して、衛(えい)の国へいったときのことだ。 衛国の儀(ぎ)という邑(まち)をとおるとき、そこの番人が、孔子を見て、こう云った。 「孔子こそが、乱れた世の中に正しき道をひろめる人だ。この亡命も、孔子の教えを広く天下に知らしめるための、天の配剤だ」 番人は、そう云って、悲嘆にくれる孔子の弟子たちをなぐさめた。 この番人は、ただの下級役人ではない。 すぐれた見識をもちながら、戦乱を逃れて辺境に埋もれている隠者である。こうした隠者という存在は、中国の文化史においては隠れた巨星である。 歴史の一頁にひょいと現われるだけで、あとをまったくとどめない。 こういう人々の特徴をひとことでいえば、「馥郁たる風韻のひと」とでもいうしかない。 よけいなことだが、「社会の木鐸」という言葉は、「論語」のこの部分から熟語となった。 本来の意味は、政府が人民を集めて布告するときに合図として鳴らす木の鈴だった。 ただし新聞が「社会の木鐸」であるかどうかは、現代ではよくわからない。 |
既往(すぎたる)は咎(とが)むべからず これだけ読むと、 「過ぎ去ったことの責任を追及するべきではない」 という意味になる。 これでは、政治汚職や組織的犯罪を弁護する言い訳にしかならない。 じつは、これは孔子の発言の一部で、第二十一章として残された発言は不思議な言葉に満ちている。 子曰く、成せし事は説くべからず、遂(と)げし事は諌(いさ)むべからず、既往は咎むべからず 最初の二つの文章の意味はこうだ。 「すでに終わった事件について論じてはならない。すでに決着のついた事件について諌めてもいけない」 これだと、ますます汚職政治家や、組織的犯罪の主犯たちにだけ都合がいいことを、孔子が云っているように聞こえる。 ところで、この孔子の発言は、宰我という弟子の言葉に対する批評である。 この宰我の言葉がまたわからない。 あるとき、魯の君主・哀公が国の社に植える神木について、宰我に質問した。 すると、宰我は夏王朝では松を植えて、殷王朝では柏(はく)という樹木を、周王朝は栗(りつ)を植えたと答えた。 栗(りつ)というのは文字とおり、クリの木のことで、どういうわけか、「おそれおののく」「ふるえおそれる」「つつしむ」「きびしい」「いかめしい」という意味もある。 宰我はこの言葉に続けて、「これには国民を戦慄させようとする意味がある」と謎めいたことを云う。 宰我と哀公の会話は、論語を精神修養の本だと決めてかかると、意味不明だ。社の神木がなにか崇高な抽象概念をあらわしていると思いこんで、解決不能なドグマに陥るのがせいぜいだろう。 そんななかで、いちおう意味がとおるのは、孔子の言葉だけだから、 「なんだかよくわからないけれど、過ぎたことは水に流すべきだと云っているのだな」 と納得してしまいかねない。 「論語読みの論語知らず」とは、こういう読み方をいう。 ところが、この章について、貝塚先生の解釈は冴えわたっている。 社の神木について質問した哀公に、宰我は神木にかこつけて、じつはクーデターをそそのかしていたというのである。 この推理には、すこし解説がいる。 じつは、孔子が五十歳ごろに陽虎という政治家がクーデターを起こした。陽虎は魯国の家老・季氏の執事だった。主君の季氏を追い出して、魯国を独裁支配した。 陽虎は当時の君主定公と貴族たちを「周社」という社に集めて、自分の政権を承認させ、一般国民は「亳社」という社に集めて同じことをした。 神前で、協力と忠誠を誓約させたのである。 この当時、魯の君主と貴族と、一般国民は祭る神が異なっていた。 魯の君主たちは「周王朝」の一族だから、「周王朝」と共通の先祖神を祭る。 いっぽう、一般国民はたてまえとしては「殷王朝」にしたがっていた民であり、魯国が成立するときに、周王朝と同族である貴族たちに征服された格好になっていた。 だから、「殷王朝」と同じ先祖神を祭り、その社は「亳社(はくしゃ)」または「殷社」とよばれた。 そこで、誓約する神もべつべつということになる。ひどく単純化してしまえば、衆参両議会で議案を通すようなものだ。 「国民を戦慄させるため」と宰我がいうのは、この過去の事件を踏まえて、もういちど哀公が宮廷クーデターを起こすべきだとほのめかしたのである。 相手は、陽虎が政争に破れて亡命したあとで、復権した家老の季氏たちだ。 季氏たちを追放して、「周社」に貴族たちを集めて、君主の哀公に忠誠を誓わせるというのが、宰我のプランだった。 孔子の言葉は、宰我のクーデター計画を押し止めるために、発せられた。 つまりは「過去のクーデターなど、忘れてしまえ」というほのめかしである。 孔子が生きていた時代の政治ドラマの一編で、つまらない教訓ではない。 こうやって読むと、 「『論語』読みは歴史推理だ!」 と、つくづくおもう。 |
子曰く、閑雎(かんしょ)は楽しみて淫せず、哀しみて傷(いたま)ず 今日はすなおに感心するだけだ。 「閑雎」という言葉は、「書経」の篇の名前だ。 孔子の時代には、ただの詩ではなく、管弦楽の伴奏をつけて、歌唱された。 上の言葉は、音楽全般について、孔子が考える理想を云ったものだ。 「楽しみて淫せず、哀しみて傷ず」 こうなると、演歌は分が悪い。 とぼしい音楽の知識をふりしぼると、ジャズやクラシック、オペラの名曲には、こういう節度がある。 いや、ポップス、ロックでもスタンダードになる名曲は、そうだろう。 楽しくて猥雑になるばかりだったり、思い入れたっぷりで感情過多に歌うとかえって、目もあてもられなくなるし、スィッチをきりたくなる。 このごろ演歌系のベテラン歌手たちが音楽番組にでると、その歌を聞いていられなくなって、ラジオやTVのスィッチをよく切ってしまう。 歌いっぷりが感情過多で、聞き苦しくて、耐えられないのである。 そんなことがたまたま続いたので、大したことを云っているようでもないこの言葉が、とても気にいってしまった。 貝塚先生の解説では、「孔子のこの言葉は中国文学の理想を示す」ものだそうだ。 なるほど。 昨日はいきおいであんなことを書いたが、人間なんて、千年や二千年くらいでそんなに変るものではないと、あらためて思った。 それにしても、いい言葉だ。 脳の記憶嚢にしっかりとしまっておくことにした。 |
子曰く、周は二代に監(かんが)み、郁郁乎(いくいくこ)として文(ぶん)なるかな、吾(われ)は周に従わん。 周というのは、周王朝のことで、二代とはそれに先行する夏・殷王朝のこと。 夏の文化は華麗・繊細であり、殷の文化は実用本位だったらしい。 孔子の考えでは、周の文化は夏の文化と殷の文化をとりいれたとする。 だから、周の文化は「花が咲き誇るように、美しくすばらしい」と誉める。 そういう周の文化が、自分の構想する理想政治だという。 孔子の周文化への心酔ぶりをよくあらわしている。 ところで、これだけなら、ほほえましく思うだけでいいのだが、この前に気になる章がある。 同じ第三編の九章だ。 夏王朝の子孫が、周の時代に「杞」(き)の国という地方半独立政権をつくった。 同じように、殷王朝の子孫は「宋」の国をつくった。 周王朝は封建制度という地方分権型支配制度をとっていたので、それぞれの国は独自の国家であることを承認されていた。 孔子は、夏王朝と殷王朝の政治制度について、独自の説をたてていた。しかし、当時の杞の国と宋の国には、孔子の説を実証する歴史伝承を伝える語り部や史料がないとなげいていた。それがこの九章である。 もし、語り部や史料さえあれば、自分の理論が実証されるはずだというのである。 ところが、よく考えてみると、孔子の言い分には賛成できない。 杞の国も宋の国も、まがりなりにも独立国家である。神政政治をとる都市国家にとって、いちばん大切なのは祭祀だ。 この大切なものに、かつての偉大な王朝の名残がないというのはおかしい。 そうして、先の言葉をもう一度噛み締めてみると、孔子が古えの理想的な制度を復活させようとしていたとは思えなくなってくる。 むしろ、孔子の考える理想制度とは、当時の中国の社会的要請をふまえて、孔子が創案したものではないか。 理想を過去におくという不思議なメンタリティが古代人にはある。 後代、孔子という偉大な思想生産者の流れが、極東の思想界を圧倒してしまったために、その思想に付着していた古代的メンタリティも近世まで残存することになった。 おそらく、孔子が近代世界に生まれていたら、このような表現はとらなかったに違いない。 おのれの理性と悟性を頼りにして、理想を打ち出すという近代ではあたりまえのことが、古代においてはできなかった。 この一点に、古代人・孔子とわたしたちの無限の距離があるような気がする。 |
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