祭るに在(いま)すが如(ごと)くし、神を祭るに神在すが如くす 一見すると、同じことを繰り返しているようである。 貝塚先生の解説では、ここは二種類の祭祀をいっているらしい。 祭るとは、祖先の霊魂である「鬼」(き)を祭祀すること。 神を祭るとは、自然の神霊を祭ることだという。当時のひとびとは、神を人面獣身の半人半獣の怪物と考えていた。これは、古代オリエントやエジプトの神観念と同じなので面白くおもった。 貝塚先生は、この部分を次のように解釈する。 「死者である祖先の霊を祭るときには、あたかも生きた人間を招いて儀式をおこなうような厳粛な気持ちで祭祀をとりおこなう」 ここまではいい。 だが、次がどうもいただけない。 「人間でない半人半獣の神を祭るときも、まるで高貴な人間が臨席しているようにうやうやしく祭る」 こういうふうに、孔子が神を現代と同じように「人間」的なものだとに理解していたというのだが、そうだろうか。 別にそこまで考えなくてもいいのではないか。 孔子が神を半人半獣の超自然的な精霊だと考えたからといって、孔子というひとの偉大さが減じるわけではない。 むしろ、ここは前の第十、十一章をふまえて、「鬼」(祖先の霊)や「神」(自然の精霊)という目に見えないものにたいしても、「礼」というルールを厳格に守ろうとした孔子の決意をのべていると、わたしはおもう。 わざわざ「神」をもってきたのは、恐ろしい祟り神である「自然の精霊」のように、「祖先の霊」にも霊威があるのだぞと、強調したいためではないか。 なぜ、そうまで強調するかといえば、昨日書いたとおり、そのころ魯国の君主・文公がルール破りの位牌配置換え事件を起こしたからだ。 子曰く、吾(われ)祭に与(あずか)らざれば、祭らざるが如くす 「与」という語を引くと、「仲間になる」「たすける」「したしむ」という原義から、「いっしょにする」「参加する」「出席する」「賛成する」という語義が生じたとある。 だから、孔子の言葉は、たんに出席するという意味ではない。 魯国の重要な国家祭祀で、君主が無法な行為をおこなった。そんなやり方では、きちんと祭祀をおこなったことにはならないと憤慨している――と、わたしは解釈する。 理想を抱きながらも、それを実現できない孔子のもどかしさ、悔しさが云わせた言葉だとしか読めないのである。 こういう読み方になるのも、「論語」がわたしにとって、もはや只の過去の偉大な思想家の言行録ではなくなっているからだ。 これは、ひとりの偉大な英雄の物語だ―― |
本日は<テイ>という古代祭祀をめぐって、孔子の処世術を考える。 <テイ>という字はこう書きます。 ![]() <テイ>というのは、魯国の君主が祖先の廟でその祖先を祭る国家的大祭だ。 もちろん、古代神政政治のなごりが強い当時だから、いまでいえば、大統領選挙・国会選挙ほどに意義は重い。同じ政治がらみの宗教問題といっても、靖国神社参拝とは意味合いがまったく違う。 貝塚先生の解説によると、土中に立てた藁の柱みたいものに酒を注いで、大地の底の冥界にいる祖先の霊を呼び出すことから、儀式がはじまる。 このあたりは、ギリシアの英雄時代にオデュッセウスが生贄の家畜の血を土中の穴に注いで、冥界の英霊たちを呼び出すところに似ている。 呼び出された祖先の霊は、祭壇に並べられた位牌を依り代にして乗り移る。招魂した霊にたいして、祭祀がとりおこなわれる。 ところが、魯国の君主文公が位牌の順序を並び替えた。 これは先祖崇拝を国家の根幹とする神政政治においては、重大なルール違反だ。 孔子はそれを怒り、<テイ>の祭祀で酒を注いで招魂の儀式が終わってからは、いっさい儀式は見ないことにしたと語るのが、この第十章である。 ただし、文公に言い分がないわけではない。 文公の父は君主の座を兄弟相続した。年長であるにもかかわらず、側室の子どもだったので、正妻の子である弟が先に君主の座についた。その弟のあとに、文公の父は即位した。子である文公にしてみれば、長幼の順序をただしたという気分があった。 公正な社会的ルール作りを生涯の理想とした孔子にしてみれば、エゴイスティックな肉親の情で、公的ルールを破った君主の行為は認められるものではない。 ただし、孔子はあえて目をつぶった。文字とおり、目を閉じて、儀式を見ないようにしたのである。 このあたりが、後代の人間としては納得いかないところだ。 この時代のことだから、家臣の分際でよけいなことをいえば、処刑されるのが落ちだったとは理解できるが…… 次の第十一章では、意地の悪い政治家に「テイの祭祀について意見を聞かせてください」といわれる。 もちろん、孔子が<テイ>の祭祀のやり方に批判をもっていることを知ったうえでの、意地悪である。文公のやり方は、魯国では大政治問題となっていたから、ただの意地悪とは考えにくい。おそらくは、孔子に口をすべらせて、讒言して罪に落とそうという罠であった可能性が強い。 孔子は<テイ>の祭りのことなど、無学なわたしにはわからないととぼける。 そんな大問題がわかるひとは、この世の森羅万象を掌をさすごとくに理解できるスーパーマンですよと云って、自分の手のひらをしめした。もちろん、ユーモアをこめた韜晦である。 (ちなみに「掌を指すごとく」という熟語は、この第十二章から出たらしい。) 反対する力のないことには目をつぶり、愚人をよそおって韜晦する孔子の処世術は、戦国乱世では生き延びる知恵だったと思わなければ、気の毒というものだろう。 正確には思い出せないが、ずっと後のほうで、時に英才、時に愚人を装って、激動の政界を生きぬいた先輩政治家を敬慕する孔子の言葉がある。 どんな好き勝手なことをしても、殺される心配のない現代日本人には、孔子を責める資格はない。 ただし、このように同情的に考えてみても、この後の第十二章は、やはり負け犬の遠吠えにしか聞こえない…… |
子曰く、絵のことは素(しら)きを後にす。……。 この章におさめられたエピソードは、のどかで心がほっこりする。 弟子の子夏が孔子に「詩経」の語句について、質問した。 「えくぼあらわに、えもいえぬ口元 白目にくっきり漆黒のひとみ 白さにひきたつ彩りの文(あや)」 これはどういう意味かと訊くのだった。 すると、孔子はこともなげに絵の書き方のことだという。 絵を描くとき、色彩を塗ったあとにホワイトの絵の具で輪郭線を描く。中国の古代絵画では同じような手順で白色の顔料を使って、ハイライトをつけた。 そのことを云っているのだと、博識な孔子にはたちどころにわかったのである。 ところが、頭のいい子夏は、 「それは先生のおっしゃる「礼」と同じことですね」 と云った。「礼」があればこそ、人間の行為がびしりと秩序だって、美しく、倫理的なものになるというわけである。 これには、孔子も一本とられた。 子曰く、予(われ)を起こすものは商なり。 「商」とは、子夏の名前である。 「旨いことを云うなぁ、おまえは。云われてみれば、そのとおりだよ」 と、先生の孔子のほうが感心している。 可愛い弟子の言葉に、目を細めている孔子の顔が目に浮かぶようだ。 |
![]() 本文の「イツ」とは、こんな漢字です。へたな字で恥ずかしー。(#^^#) さて、本日のお題は: 子曰く、君子は争うところなし……。 これは「貴族は競争はしない」という意味だという。 それだけ読めば、「立派な人間は、人と争ったりはしない」とも解釈できる。羊のように唯々諾々と生きていればいいとでも云うのか…… しかし、この文章のあとで、弓の競技のやり方が書いてある。 原文は引用しないが、要約すると、 「弓の競技をするときは、礼儀正しく挨拶して射場につき、弓を射る。射終わったら、礼儀として祝いの酒盛りをすべし」 といことだ。 こういうやり方が「貴族としてふさわしい競争だ」と、孔子は謂う。 すると、冒頭の言葉は、「競争するな」という意味でなく、あるべき競争の姿を云っているのではないか。 力万能の闘争はするな。ルールをもって、競い合えというほどの意味だろう。 ただ、なぜ例としてもってきたのが、弓の競技なのかが、気にかかる。 このことについては、この章の第十六章を読んで、疑問が氷解した。 子曰く、射は皮(まと)を主とせず、力の科(しな)を同じくせざるが為なり。古(いにしえ)の道なり。 「射」というのは、弓の競技のことである。 孔子によれば、弓の競技とは、どれほど遠くにある標的に矢を命中させるかを競うのではなく、射るときの態度などを採点して勝ち負けを決める。 射手の腕力を基準とせずに、その技量の上下をみるのが目的だからだ。貝塚先生は現代スポーツの体重分けと同じ思想だと考える。 つまり、身体が大きい、腕力が強いだけの人間しか勝てない「力は正義なり」という競争は望ましくない。 孔子は、そう考えた。それは乱世の思想だ。 乱世といえば、聞こえはいいが、野獣のごとき食うか食われるかの弱肉強食の世界だ。 孔子は、自分の死後に実力本位の下克上の戦国時代が到来することをはっきりと予見していた。 だから、人の世に競争があることは認めつつも、ルールのある平等な競争を理想とした。 相撲・レスリングなどと比べれば、弓術はこの意味での公正な秩序感覚に優れた競技だ。 第七章の末尾に、弓術のような競技こそが「君子の競争」であるべきだと云うのは、そういうことなのだろう。 その争いや君子なり。 市場経済、国際連合、WTOといった機関は、まだまだ不充分であるが、孔子の夢見た「君子の競争」を実現するプロセスなのであろう。 それができたのは、今からほんの三、四十年前だ。 ごく最近になって、健常者と障害者が共生する<バリアフリー>という思想がめばえた。 孔子がなくなってから、ほぼ2480年が過ぎた。 なんと大きな理想を抱いたのだろう、この人は。 人の生命が紙よりも軽く、奴隷制度ががっしりと社会に組み込まれていたはるかな古代に…… |
「ハツ」問題はまだ解決していない。いい知恵が浮かばない。 やっぱり、手書きで画像かな。 でも、字が下手だからなーっ。こんなことなら、小学校のとき、まじめに書道教室へ通っていればよかった…… ところで、本日のお題は: 子曰く、夷狄(いてき)の君あるは、諸夏(しょか)の亡きにしかず。 この文章を宋代の朱子はこう読む。 「夷狄(いてき)の君あるは、諸夏(しょか)の亡きがごとくならず」 まったく意味が違う。 ここで、夷狄とは中国周辺の野蛮な民族をいい、諸夏とは中国民族の国をさす。 最初の読みだと、 「君主をいただいて政治をおこなっている野蛮な民族の国と、中国民族の国を比べたら、たとえ君主がいなくて乱れた状態であっても、中華民族の国がいい」 ということになる。 朱子の読みでは、まるで反対の意味となる。 「野蛮な国であっても、君主がきちんと政治をしているなら、力ない君主のせいで乱れた政治をしている中華民族の国よりもずっといい」 常識的にいえば、朱子のほうが理解しやすい。 ただ、漢文そのものをみると、貝塚先生の読みのほうが素直な気がする。ただし、これは漢文には素人のわたしの目だから、なんともいえない。 こういうときには、この章の前後をみてみる。 「論語」はまんぜんと孔子や弟子の言葉を並べているだけでなく、前後でひとまとまりとなって、ストーリーをつくっている。 前後の章をみてゆけば、意味がわかってくるはずだ。 直前の第四章では、魯国のひと林放(りんぽう)なる人物が「礼の根本はなにか」と孔子に質問する。この人物は孔子の弟子ではない。しかし、孔子はその質問を誉めている。 直後の第六章は、孔子が弟子・冉有(ぜんゆう)を叱っている。その冉有という弟子は、魯国の家老・季康子の家臣となっていた。季康子はほんらい魯国の君主にしか許されていない祭祀をおこなった。魯国の君主に取って代わろうという野心のあらわれである。 孔子は長年教え導いた冉有が、そうした暴挙をとめることを期待していたが、冉有にはできなかった。そこで、教えを受けたことのない林放でさえ「礼」を知ろうとしているのに、お前はなんだと弟子の冉有を叱ったのである。 こう考えると、朱子の読み方のほうがすんなり理解できる。 もういちど、この部分のストーリーを整理してみよう。
これはこの部分だけで解釈してはいけない。全体の流れで解釈するべきだとおもう。 今回は、貝塚先生の解釈には反対である。 |
困った。 表題の「八イツ」の「イツ」の字が変換できない。 中国語や漢文では、よくこんなことがある。専門家の人はどうやっているのだろう。 仕方がないので画像でも張るか……。 とにかく、あとで考えることにしよう。もう少し待ってください。 子曰く、人にして仁ならずんば、礼を如何(いかん)せん。人にして仁ならずんば、楽を如何せん。 「人として人間らしさを失ったものには、礼や楽を論じる資格がない」 というほどの意味である。 この場合、「礼」は礼儀作法ではないし、「楽」とはただの音楽ではない。 「人間性の捻じ曲がったミュージシャンの曲はいけない」と解釈するのは勝手だが、たぶんそれは孔子の真意ではない。 しつこく説明調になるのが筆者の悪い癖だが、孔子が「礼」という場合、その用法にいちばん近いのは、たとえば作家大江健三郎氏などが「民主主義」という言葉で政治・社会のあるべき理想モデルを象徴することであろう。 戦後の知識人にとって「民主的手続き」が神聖化・呪術化された実践的政治行為であったように、孔子にとっては国家の祭祀・典礼がそれだった。 この時代の国家は、城壁に囲まれた小さい都市国家であり、その周辺に耕地がひろがり、農民も日中は耕地で作業するが、日没後には都市の城壁内部に戻ることになっている。 日本の農村のような村ができるのは、はるか後代のことなのである。 その都市国家は血縁共同体でもあって、君主は血族の元締め、本家である。 本家が一族の先祖を神として祭り、雨乞い、豊作の祈りや疫病退散を祈願する。その儀式が「礼」であり、「礼」をとりおこなうための呪術的仕掛けとして音曲の「楽」がある。 「礼楽」とはいうが、神政政治の当時にあっては、現代の「民主主義政治」「民主的選挙」に相当するものだと理解したほうがいい。 孔子の云いたいことは、 「人としての道をわきまえない輩に、政治を論じる資格はない」 ということである。 この前の第一章、第二章では、魯の君主の実権を奪った家老の季孫氏・猛孫氏・叔孫氏の一家が自分たちの家の先祖崇拝の祭りで、魯国の君主にしか許されない「礼」をおこなったり、魯公(=魯の君主)の宗家である周王朝の「楽」をおこなったことを、孔子は激しく怒っている。 これは、民主政治を踏みにじる政府にいまどきの人が怒りを覚えるのと同じことで、孔子としてみれば、見当違いな怒りを燃やしているわけではない。 孔子の秩序感覚でいけば、魯の君主の家系から別れた分家である家老三氏は魯公を尊重しなければならず、ましてや魯公の宗家には敬意を払って、畏れはばかるべきだというようなことになる。 孔子の「仁」という言葉には、こうした政治的・社会的秩序感覚が潜んでいる。 だが、それと同じように「人間らしい感情」というあいまいではあるが、他に表現方法がないたぐいのある感情も、「仁」というものにとっては欠かすことができない。 考えがいきなり飛躍してしまうが、こうした思想をあらわす言葉としては、ギリシア語の「コスモス」という単語を連想する。 この言葉には、「宇宙」という意味と「秩序」(物質的・倫理的・政治的・社会的)のふたつの意味がある。 あるいは、現代思想で見なおされている錬金術的な「ホーリズム」(Holism)とでもいおうか。 孔子の「宇宙感覚」といえば、云いすぎだろうか。 |
帝王学という言葉がある。 最近、警察上級官僚の不祥事でたびたび口にされることが多い。云うのは、上級官僚ではなく、その部下となる叩き上げの人々だ。 たかが官僚機構の幹部に「帝王の学」というのもおおげさだが、今より少し前の企業社会の選良もこの言葉を規範として使った。 どうやら、現場で汗を流す人間の邪魔をしないこと、さらにはその人々が働きやすい権限・予算を組織からぶんどってくるという組織内管理方法を身につけることを指したらしい。 能力本位主義な社会ではばかげた思考ではあるが、組織の階梯を上昇する人間と、絶対に上らない人間に峻別する階級社会でのみ有効な慣行である。 死に体になる組織では、こうした<帝王学>がよく発達するものだ。 戦前でいえば、陸軍や内務官僚がそうだったらしい。 内務官僚の直系子孫である警察官僚がそうであるのは、歴史的伝統だといえる。 論語の「第二 為政編第十八〜二十一章」を読むと、この言葉が連想される。 孔子にそれぞれ他の人々が質問する。弟子あり、君主あり、政治実力者あり……といううちわけだ。 真っ先に質問するのは、弟子の子張。姓は「セン孫」(センは変換できないので例によって片仮名とする)。名は「師」で、子張というのは字だ。これからも、よく登場する愛弟子のひとりだ。孔子よりは四十八歳年下である。 他は孔子の故国、魯国の君主・哀公、魯の有力貴族・季康子(=季孫肥)、季康子の家老で魯国の僭主となった実力者・陽虎(=陽貨)である。 ただし、最後の陽虎については異説があり、別人かもしれない。その理由はすぐ後で記す。 対話は、ほぼ孔子が放浪の旅から帰って亡くなるまでの最晩年におこなわれたと見るのが自然だとおもう。 陽虎については、貝塚先生は孔子が魯に仕える四十四歳以前のものだと考えているが、話の順序として見ると、むしろ最晩年のほうがふさわしいとおもう。 そのころには、陽虎は死んでいるから、たぶん対話の主は別人であろう。 話としてはよくできている。 子張が上級官僚として就職する方法を聞き(第十八章)、哀公が人民の支持を獲得する方法を聞き(第十九章)、季康子が政令を上位下達させ組織を活性化して引き締める方法を尋ねる(第二十章)。 このあたりが帝王学といえる。 内容はつまらないので、記さない。 面白いのは、最後の謎の実力者との対話だ。 この人物は孔子に政治の表舞台に出ることを要請する。 しかし、孔子は「書経」を引用して、かれの説く儒教を教えることこそ、自分が考える政治だと答える。 この「書経」の引用が今に伝わる「書経」のテキストにはない。貝塚先生の考えでは、陽虎のすすめに断りきれなくて官吏として就職した孔子の名誉回復のために弟子が創作した部分ではないかという。 しかし、むしろ、この言葉は、政治遊説の夢破れて、若者たちを教育をすることだけが、自分の天命と悟った孔子にこそふさわしい。 「書経」のテキストがあるかないかという問題は、瑣末なものだろう。 次の「第二十三章」では、十代先の王朝の制度を予想するのは可能だろうかと弟子の子張に問われている。 夏・殷・周王朝を研究した自分の学問を用いるならば、百代先の王朝の制度でも予測することは容易い。 これが、孔子の答えである。 この法螺吹きともみえる自信は、孔子の学問に対する自信と誇りであろう。 「第二十二章」で、「言葉が信用されないならば、人間として生きているかいがない」という激しい言葉を発しているのも、こうした一連の流れであってこそ、理解できる。 |
義を見て為ざるは勇なきなり あまりにも有名な言葉である。 バス・タクシーを待つ列を乱す人間、電車の痴漢、乱暴する酔っ払いを見てみぬふりをしてはいけない。電車やバスではお年寄りに席をゆずろう。 …… しかし、孔子が言いたいことはどうやら、そうではなさそうだ。 この文章は正確には、次のようになる。 子曰く、その鬼(き)にあらずして祭るは諂うなり。 義を見て為ざるは勇なきなり 「鬼」とは日本語の妖怪ではなく、この時代では先祖の霊魂を謂う。 古代中国では、夏・殷のころから先祖を神として祭祀をおこなうべきものとされた。 先祖でない神霊ももちろんいたが、それは人面獣身の精霊で恐ろしい疫神や祟り神だった。 そうした自然の精霊から、人間を守ってくれるのは、それぞれの民の祖先神しかない。 王とは、血族の代表として祖先神を祭祀して、血族に霊的保護と幸いをもたらす媒介者であった。 孔子のいた春秋時代にあっても、それぞれの王国はその地に棲む血族の連合体だった。 だからこそ、自分の血がつながらない神を祭祀することは、社会秩序の攪乱とみなされた。 「自分の祖先でもない神霊を崇拝して、祭祀するのは良くないことだ」と孔子は考えているわけである。 というのも、この時代において、排他的血族連合から、「天」という共通の至高存在を崇拝する気配がつよくなり、血族連合の政治的求心力が弱くなっていたからである。 しかも、そのことと平行して、女巫女がシャーマンとなって神霊を祭る新興宗教が誕生した。 宗教と政治が一致していた神政政治がようやく崩壊しようとしていた。 そう考えると、衰退しつつある時の権力者がシャーマニズムの女巫に頼って、新興宗教の祭祀をおこなうことがしばしばあったとみるべきだろう。 そうした行為に荷担することは、権力者におもねる卑怯なことであり、それを否定する正しき行為(=義)を実行するには勇気がいる。 孔子の言葉を、貝塚先生はそう解釈する。 歴史をふまえたこの見方は論理的であり、曖昧な挟雑物が入る余地はない。 ……それにしても、この調子でいくと、「論語」一巻を読むことは、中国歴史読み物を通読していくようなものだ。 楽しくもあり、おそろしくもあり――複雑なところだ。 |
子曰く、由よ、汝に知ることを誨(おし)えんか。知れるを知るとなし、知らざるを知らずとせよ。これ知るなり。 孔子が弟子の子路に云った言葉だ。 名言である。 ソクラテスの「無知の知」。 モンテーニュの「われ何をか知る」( Que sais−je? )、 と並ぶ人類の至言!である。 何も云うことなし。 |
子曰く、異端を攻(おさ)めるは害あるのみ。 異端好きの澁澤龍彦氏のファンとしては、納得できない言葉である。 「異端」とは、もともとは織物の両端らしい。 「異端を攻める」とは、織物を両方の端から巻いてゆくことだとか。 なるほど、それではどうにもならない。 清時代の載震(たいしん)という学者の説では、この一文を 「学問はひとつの専門に打ち込むべきで、いろんな学問を兼修するとものにならない」 とする。 「いろんな傾向の学問に一度に手をつけると、一人前の学者になれない」 という貝塚先生も同じ意見だ。 「攻」とは、もともと人が鑿をあてて物を作ること、それから転じて「修得する」「責める」「攻撃する」という意味が出た。 それを考えると、貝塚先生のように考えるしかない…… もっとも、発言のコンテキストもわからない短文である。意味をとるほうが無理だ。 「こんなのは、わからん」といって、放り出すのが、いちばんかもしれない。 ただし、 「正統でない知識・学問など有害無益だ」 といっているのでないことだけは確かだ。 勝手気ままに、知識のつまみ食いをしていたのではなんにもならないことを戒めている。 ところで、世間ではこの言葉は「異端は有害無益だ」というように通用している。 はたして、そうだろうか。 むしろ、異端といわれるもののほうにこそ、新しい可能性があるのではないか。 あの世の澁澤さんなら、むらむらと負けん気を出して、エッセイの数本も書くだろうが…… |
子曰く、学びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)く、 思いて学ばざれば則ち殆(うたが)う。 これは、すんなりわかる。 「教師から教わっているだけで、自分のあたまで知識を整理しなければぼんやりとしてはっきりしない」 「自分で考えていても、教わらないと、疑いを生じる」 という一般に流布している解釈でいい。 ところで、この文の後半はふつうはこう読む。 「思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」 辞書変換でも、「殆」は「あやうし」として出てくる。 貝塚先生は、ある学者の説をとってこうしたらしい。 ところがもっとも古い注では 「殆」は「怠」(つかれる)という意味だとされる。 そう云われてみると、思い当たることがある。 例えば、自分の頭だけを信頼して、森羅万象を疑ってかかろうとした哲学者デカルト。 「われ思う故にわれあり」という「方法序説」にはじまるデカルトの懐疑主義はえらくしんどいものだった。 あらゆる既成の知識をいったん疑って、おのれの理性のみですべてを検証しなおすという態度は、近代科学の出発点だが、理性といえども人間の一機能にすぎない。しかも、ただ一個人の狭い経験を土台しているだけだ。いってみれば、茶さじ一本で大海の水を汲み尽くそうという愚挙に似ていないこともない。 晩年のデカルトが、可愛い女の子の人形でお人形遊びにふけったという逸話を思い出す。 デカルト一流の思考を極限までに発達させ、懐疑主義と、批判精神を研ぎ澄まして、超孤独な哲学的思弁に生涯を費やしたのが、ドイツの哲学者イマニュエル・カント。 カントは晩年、老人性痴呆症で寝たきりになった。 意味不明の奇声を発して、夜中に暴れることもあったらしい。 「早く死なせてくれーっ!」と叫びながら。 「思いて学ばざれば則ち殆(つかれ)る」 古い注にしたがった読みも、なんだか捨てきれない。 |
子曰く、君子は周(した)しみて比(おもねら)ず、小人は比(おもね)りて周(した)しまず。 貝塚先生によると、「周(した)しむ」とは「親しみ合う」であり、「比(おもね)る」とは「なれあう」ことだと謂う。 そう云われても、よくわからない。「親しみ合う」と「馴れ合う」はどう違うのか。 「君子は義をもって交際し、親しき仲にも礼儀あり。小人は利をもって徒党を組む」 とも解説されているが…… 角川の新字源で調べると、「周」は「正しい道で親しむこと」、「比」は「私心で親しむこと」とある。 「比周」で、「親しくする」「仲間を組んで悪いことをする」という熟語がある。その出典は「論語」よりも古い「春秋」だ。 さらにわからないので、それぞれの原義をたずねる。 「比」は簡単で、人が二人並んでいる姿から字ができた。「並ぶ・並べる」「合わせる・いっしょにする」という原義から、「仲良くする」「比較する」という意味が派生した。 「周」はもっと複雑だ。田が整って、作物がびっしり生えている状態の象形文字から、「ゆきわたる」「めぐる」という意味が生じた。 さらには、「こまやか=ゆきとどく、まごころをつくす」「広くゆきわたる」「整う」という意味も派生した。 なんとなく、わかったような、わからないような…… ここまで書いていて、突然つまらないことを思い出して独りで笑い出した。 先日、しょーもない「論語知らずの論語読み」(阿川弘之)という本を読んだ。 このエッセイ集に「上野毛の隠居」と称する人物がでてくる。たぶん、山口瞳だろうとおもう。 この人物が「小人」とは男色の相手ではないかという奇説を唱えた。れっきとした中国文学者の説だというのである。 このことを念頭において、「比」の字を眺める。なるほど、後背位での男同士の愛情表現と見えなくもない。 いっぽうで、「周」を眺めると、漢和辞典で調べたせいか、きちんと礼服を来た貴族の文武百官が整列して、帝王のもと、一糸乱れずに古代における国家行事・先祖祭祀をしている姿が目に浮かぶ。 政治に参加するほどの貴族たるものは、威儀を正して社会活動に励むが、男色愛好家は……に励むということか。 しばらく、笑いがとまらなかった。 もう少し頭がクリアーになるまで、この一文には触れないで置いたほうが良さそうだ。 |
子曰く、君子は器(うつわ)にあらず。 この言葉がよくわからない。 意味は「立派な人間はたんなる専門家であってはならない」ということらしい。 この場合、<器>とは、特定の用途にのみ使用する道具である。 と思っていたら、薬害エイズ裁判の記事をみて、意味がわかった。 HIVウイルスが混在していることを知りながら、血液製剤の販売を許可した厚生省の課長と、害毒を知りながら血液製剤の使用を強要した医学界のボス。 どちらも、これ以上はないというぐらいエラい<専門家>だった。 頭が良くて、仕事ができる人間ほど<器>になってしまう。 何よりも第一に人間であることが最優先されるべきであるのに、常軌を逸した「専門家の非常識」に陥ってしまう。 社会的生き物であるだけに、ときとして人間は周囲の状況に巻き込まれて、いちばん大切なことがわからなくなる。 人間という大きな集団の善を考えるよりも先に、業界・仲間というごく私的なつながりのみの利益だけを考える傾向がある。 <器>になり果てた職業人は、社会にとって害毒でしかない。 |
子曰く、故(ふる)きを温(あたた)めて新しきを知る、以って師と為すべし 熟語「温故知新」の出典である。 この<温>という文字は、ふつうは 「故を温(たずね)て新しきを知る」 と読む。 ここは、貝塚先生の読みに従う。 普通の読みでは、「過去の体験・知識を生かして、目前の事態に対処しろ」と読めはしないか。 もちろん、これは現代では百戦百敗まちがいなしの「必負の戦略」だ。 この頃は、若いくせにこういう頭が硬すぎる人が多いので、世の中じゅうが困っている。 マニュアル人間の悲劇だ。 貝塚先生の読みだと、 「従来の見方を捨てて、過去のデータを分析しなおしてみる。そこから、新しい事実をつかみ出して来れないようなやつは、使いものにならんよ」 と、あくまでもシビアな勝負師の風貌が浮かんでくる。 わたしは、こっちのほうが好きだ。 みなさんは、いかが? |
子曰く、吾回(かい)と言(かた)る終日、違(たが)わざること愚なるが如し。 ここで登場する「回(かい)」という人物は、孔子がもっとも期待した弟子、顔回である。 孔子の三十歳年下で、最年長の弟子のひとり。 四十一歳で若死にした。その死の報を聞いた孔子は、「天我を滅ぼせり」と嘆いた。 その顔回の人となりが書いてある。 一日中、孔子から話を聞いていても、口をさしはさまないが、そのすべてを理解して、実践している。 一見すると、愚人としか見えないような人物であった。 退(しりぞ)きてその私を省(み)るに、亦以って発(あき)らかにするに足れり 顔回の日常生活をじっくりと観察していると、その行動は先生である孔子でさえ、そうか、と膝を打ちたくなるほど、目を開かされたような気分になった。 顔回ほど、孔子の理想を具体的に実践している男はない。 ――と、孔子は誉めている。 顔回は寡黙であり、貧乏だったこともあるので、弟子仲間から軽んじられることが多かった。孔子には、他の弟子たちをたしなめている気分があったようだ。 回は愚ならず ほんの短い言葉だが、孔子の弟子をおもう気持ちが一編の詩のように美しく描き出されている。 感情を詳細に書き連ねた近代小説とは異なる<表現のストイシズム>が、古代人の書物を読む最大の楽しみだ。 想像力と情操をフル活用しなければ、古人の喜びも悲しみもみえてこない。 ほんの短い記述に、涙ぐみたいほどの「熱い心の交流」があふれている。 ここに描かれたものは、もはや現代日本では死につつある「友情」という概念であろう。 隆慶一郎の世界 ―― ですね。 |
子ユウ、孝を問う。子曰く、今の孝はこれ能く養うを謂う。 子ユウというのは、孔子より四十五歳年下の弟子。 (漢字が変換できないので、カタカナにしました……) 礼儀作法の専門家である。 この男が親孝行の礼儀作法を詳しく聞いた。 こんなことを詳細かつ具体的にルール化するのが、後世の儒学の特徴である。 すると、意外にも孔子がたしなめた。 「現代の親孝行などは、父母を扶養することでしかない」 それだけでは、駄目だ。なぜなら、犬や馬でも人はペットや家畜として可愛がるではないか。 犬馬に至るまで、皆能く養うあり。敬せざれば何を以ってか別(わか)たん。 親に対して、尊敬と愛情を示さなければ、親孝行とはいえない――というわけである。 ここは、細かい礼儀作法を考えるよりも、敬愛という感情を親に対してしめさない限り、親という生き物は満足できないという事実を教えているのであろう。 いまどきの五、六十代は、戦前生まれの親を粗末にして、「能く養う」ことさえできずに、自らも老いた。 そんな人々も、こうした感情だけは抱いている。それは人間の性であろう。 勝手な話だが、どうすることもできない。 次の第八章では、別の弟子・子夏が親孝行について訊いた。 子夏、孝を問う。子曰く、色難(かた)し。…… 自分の尊敬と愛情を、表情と態度で表現することが、大切だというのである。 よほど病的な演技的人格の持ち主でなければ、持ってもいない尊敬と愛情を顔や態度に出すのは難しい。 現代は、親孝行が難しい時代である。 それに比べれば、ペットを家族として溺愛するほうがずいぶん楽だし、簡単だ。 現代人は、人間という厄介な生き物とのつき合い方を忘れたのかもしれない。 しかし、現代人を一言弁護するとすれば、人類社会において、こんな高齢社会がやって来るとは孔子の時代には想像もつかなかった。 現代医学の発達のおかげで、昔なら日なたぼっこして余生を送るだけだった年齢の人々が、寝たきりの親世代を看護しなければならない。 経済的にも苦しく、体力・精神力も若いほどにはない。 ジョナサン・スウィフトの「ガリバー旅行記」に不死人の話がある。 老いるけれど死ぬことができないのが、この不死人である。老いぼれきった親の面倒は、これも老いてよれよれの子供の不死人がみる。悲惨のきわみである。不死人でない連中は、ちっとも不死人をうらやましがらない。 スウィフトのブラック・ユーモアが、この国では現実となってしまった。 まさに「色難(かた)し」である。 |
子曰く、吾(われ)十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。…… あまりにも、有名な言葉なので、わざわざ講釈するまでもない。 「少年老いやすく、学なりがたし」( © 朱子) という有名な言葉とあわせて、 「子どもはよく勉強せいよ」と、爺さまたちが時々のたまう。 しかし、貝塚先生は、そんな意味ではないと断言する! 孔子は貴族の出身ではない。 父親は貴族の下の戦士身分であり、しかも母親とは正式には結婚していない。 血統主義の当時にあっては、私生児でしかない孔子は下層民であった。 その孔子が少年時代に「学」に志す。 その「学」というものも、書物で学ぶものではなく、当時の下層民であった楽人や埋葬・葬式請け負い人から学ぶ音楽であり、詩であり、宗教儀礼のやり方だった。 若い頃の孔子は、そうした下層の職業を点々としながら、後年の儒教のもとを作っていった。 今まで学んだものを「周公の礼」として学問のかたちで、ひとに教授するようになったのが、やっと三十歳になったころ。五経といわれた易経(哲学)・詩経(文学)・書経(政治学)・礼経(古代儀礼)・春秋(歴史・政治哲学)の五つの書物で、学んだ知識を体系づけることに成功したからだ。 「三十にして立つ」というのは、そういう意味だ。 「四十にして惑わず」というのは、そうして自分が体系づけた思想が真理であると本当に確信したことをさす。 このことには、孔子がいた魯国の政治的内紛がからんでいる。 孔子は三十六歳のとき他国へ政治亡命した。しかし、四十歳ころに、君主が変わった故国へ戻って、国家を再建しようとした。 自分がつかんだ絶対的真理、「周公の礼」を実践しようと決意したからだ。 どんな困難を排しても、儒教を現実に応用する覚悟も、「惑わず」という言葉には含まれている。 しかし、運命は皮肉だった。 改革の努力は失敗に終り、孔子は五十六歳のとき政敵に追われて魯国を逃げ出さざるをえない。 その後、十四年間を貧困と労苦のうちに、各地を放浪する。前途有望な弟子たちがあるいは死亡し、あるいは去った。自らは他国に官吏として就職もできず、学説を広めることもできなかった。 それだけでなく、何度も放浪中の諸国で殺されかけた。 孔子にとって、きわめつけの不遇な時代が五十代だった。 「五十にして、天命を知る」とは、そうした境遇にあって、自分が何者かを思い定めたことをいう。 政治家ではなく、君主の政治的ブレインでもない。 真理を語り継ぐものであり、教育者である。 という自覚が生まれた。 政治改革に失敗したことも、諸国を流離って誰からも学説を認められなかったことも、自分の本来の仕事である思想家と教育者となるために、人間を越えたなにものかが仕組んだことだと、孔子は悟った。 いっしゅ悲壮な使命感を抱いたわけである。その感情は、むしろキリスト教の「召命」という回心体験に近い。 儒教という後世の中華民族の骨格となる思想を打ち立てる孔子の仕事は、この積極的な諦念から出発した。 孔子という人間にとって「世に棲む日々」が始まったのは、自己の使命を決意した五十代だった。 「天命を知る」という言葉は、その意味で四十の坂を越えた人間にとっては重い。 深層心理学者C・G・ユングが云う「人生の午後」や「個性化のプロセス」という用語がめざすことは、「天命を知る」ということに尽きるのではないか。 この章の言葉は、ありふれた教訓として、よく引用されるが、真実は決してそんなものではなく、人間孔子の人生の縮図だった。 このことを忘れないようして、これからの「論語読み」を進めようとおもう。 ところで、六十代、七十代について、孔子はこう語る。 六十にして耳順(みみ したが)う。七十にして心の欲する所に従いて、矩(のり)をこえず。 正直にいうと、この言葉の意味がわからない。 「苦労したせいで、自分と意見の違う人のことを聞くようになった」 「自分の思うとおりにふるまっても、枠をこえないようになった」 貝塚先生はそのように解釈するが、なんとなく違うような気がする。 根拠はどこにもない。あえていえば、「哲学のデーモンが囁くから」とソクラテスの口真似をするしかないのだけれど。 |
子曰く、これを導くに政を以ってし、これを斉(ととの)うるに刑を以ってすれば、民免れて恥じなし。…… じつは、こういう考えが近代的法律というものの原則であるらしい。 法律の抜け道をかいくぐる悪徳業者や企業舎弟なんかが、「法律に違反していない」といって居直ることがよくある。 法律にさえ違反していなければ何をしてもいい。 ――というように、誰もが考えている。 だからこそ、さまざまな法規制を求めることになるわけだが、近代において、とくに法律学を発達させたフランスにおいて法律とは社会契約だと考えられた。 契約とは、まるで意志疎通が不可能なエイリアン同士が不可侵条約を結ぶような行為ではない。いちおう相手がどのようなものであるかを、お互いに承知しあった上で、双方の利益になるように取り決めを行なうものである。 たとえ、それが悪魔との契約であっても。 その相互了解の前提にあるのが、<良識>(ボン・サン)というものだ。 良識は常識ではない。それを振り捨てると本当の人間になれるという、60年代のヒッピーが夢想した「人間を縛る内なる鎖」ではなく、人間を人間たらしめる根本的機能であり、感情・直感・理性を総合した「何ものか」だ。 デカルトの懐疑主義から、フッサールの現象学にいたるまで、<ボン・サン>が哲学的思惟の根幹である。 哲学ということに限れば、ソクラテス、プラトン、アリストテレスでさえ、<ボン・サン>といえそうなものを前提にして議論を組み立てていた。 ジョン・ロックやモンテスキューのような近代法律論の原点にいる人々は、<ボン・サン>を前提にして新しい法理論を構築した。 この考えにもとづくと、「法律に書いていないことは、何をしてもいい」とはならない。 むしろ、「『良識にもとづいて』個人が『善意』を前提にして社会行動をおこなうべし」という大前提がある。 孔子の考えも、こうした法律理論に近い。 しかし、現実はせっかくの崇高な理論とはほど遠い。 中国においても、厳しく法律を定め、それに違反するものは手足をぶった切ったり、鼻を削ぐ、煮えたぎる油にぶち込むという「韓非子」のような法家思想が主流になる。 その思想は、現代中国においてますます盛んなようにさえみえる。 ところで、さきほどの文の続きは、こうなる。 これを導くに徳を以ってし、これを斉うるに礼を以ってすれば、恥ありて且つ格(ただ)し。 「道徳で指導して、倫理教育で規制するなら、人民は恥をかいてはいけないとおもい、悪に走ろうとする心を押さえる」 という意味らしい。 日本のことは知らないが、アメリカの刑務所では、「自分の存在価値を信じること」「自分を本当に愛すること」を受刑者に教えて、社会的更生をはかるプログラムがある。 社会崩壊が進むと、過酷な法規制だけではどうにもならないことが身にしみてわかるものらしい。 いっけん遠回りにみえる孔子の考えの方が、より効果的で実践的であることを、儒教の本家中国よりも、移民国家アメリカのほうが理解している。 面白いものだ。 |
子曰く、詩三百、一言(いちごん)以ってこれを蔽(さだ)むれば、思い邪(よこしま)なしと曰(い)うべし 孔子は弟子に「詩経」という古代中国の詩集を教授した。 「詩経」に収められた詩の数は正確には伝わっていないので確定はできないが、310編から305編くらいであったらしい。 「詩三百」という言葉は、したがって、いまでいう「文学」全般をさすと考えたほうがよいだろう。 「文学というものは、一言で言えば、『思い邪なし』ということに尽きる」 と、孔子はいっているわけである。 さて、「思い邪なし」という言葉は、貝塚先生の解釈によれば、 「詩の本質は純粋な感情が自然に流露し、しかもそれが調和をたもち、表現が適正で、けっして過度に陥ってはならない」 ということをいいあてた<すばらしい名文句>であるらしい。 しかし現代の日本文学には、孔子の意見は通用しないような気がする。 おそらく、これと全部反対のことをやれば、「芥川賞」がとれる。 しかし、それでもやっぱり、わたしみたいなオールド・タイプ日本原人は「思い邪なし」という作品が読みたい。 こういうのを、「反時代的妄想」というのであろう。 |
思念すること長くかつしばしばなるにつれて、我々の心をいや増すばかりの感嘆と畏敬の念を以って満たすものが二つある――我が頭上なる星辰輝く天空と、我が内なる道徳律である。
エマニュエル・カント「実践理性批判」 この言葉を、わたしは人類が発した最も美しい言葉だと思っている。 上はわたしの拙訳なので、原文の美しさを表現することはできていないが…… カントの言葉を持ち出したのは、他でもない。 これと似た言葉を、孔子が発しているからだ。 子曰く、政を為すに徳を以ってすれば、譬えば北辰のその所に居て、衆星のこれを共(めぐ)るが如し わたしは行ったことがないのでわからないが、貝塚先生によれば、孔子のいた華北の地は、わずかな雨季をのぞいてはいつも晴れ上がっているそうだ。だから、夜空には満点の星が北極星を中心に運行している様を観ることができる。 戦争と政争にあけくれた当時の現実では、のぞむべくもない道徳的な秩序を、孔子は天体の荘厳な調和と運動に夢想した。 紀元前6世紀の中国人孔子と、18世紀のドイツ人カントが同じような発想をしているのが面白い。 考えてみれば、ヨーロッパの歴史は中国の春秋戦国時代なみに戦争の連続である。 人類が同じ地域で、これだけ長期的(5世紀以上)かつ断続的に戦争ばかりやっていた時代は他にはない。 ヨーロッパの大国同士が実質的な戦争をやめたのは、やっと第二次世界大戦の後だ。じっさいに戦火をまじえなかった冷戦時代まで勘定すると、ごくごく最近まで戦争状態を継続していたことになる…… ふたりの居た時代は、案外似ていたのかもしれない。 |
「学而編」に登場する名言を書いてみる。 <八> 過(あやま)てば則ち改むるに憚ること勿(なか)れ ごもっとも――と云う他はない。 だが、自己の過失を認めれば、あとは浮かび上がれない封建時代や、ニッポン官僚主義にはあんまり役に立たない言葉であったろう。 きっと上役が部下に過失を「自白」させて、責任を転嫁するために、愛用した言葉だったに違いない。 そうした意味では、いまも生きるニッポン・ビューロクラシーの殺し文句ともいえる。 上役にこの言葉を投げつけられて、鉄道の線路へダイビングしたり、樹下で身長伸長運動をしたり、ビルの屋上から空中散歩するひとがいっぱいいたような気がする。 高度成長時代にあっては、運動不足になりがちな中高年の中間管理職に運動をうながす言葉だったのかもしれない。 <十五> 切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如し 熟語「切磋琢磨」の語源らしい。 もとは「詩経」の一句。 この言葉を引用した子貢は、孔子に褒められた。 子貢は字。姓は端木、名は賜。中国人には珍しい姓だ。 孔子の三十一歳年下で、弟子では年長グループ。文学の専門家であり、口がうまく、商売の才能はばつぐんであった。 いまの世の中では、いちばん羽振りがいいタイプである。 <十六> 人の己れを知らざるを患(うる)えず、人を知らざるを患えよ 孔子の弟子は学問を身につけて、立身出世しようという人が多かった。 というより、よほどの物好きでないかぎり、ほとんどはそうだった。 「そんなにがつがつ出世しようとするな、そのうち人は認めてくれるよ」 貝塚先生は、この言葉をそのように解釈するが、どうも違和感がある。 「良い人間的ネットワークをはりめぐらして、出世しそうな人や仕事ができそうな人を知っておかないとどうにもならないよ」 と、ひたすら目立って注目されることばかり考える弟子たちをたしなめたのではないか? 身も蓋もない解釈ではあるけれど、 「これから活躍しそうな人でまだそれほど有名でない人と知りあいになって、切磋琢磨すれば運が開ける」という処世訓を、人間通の孔子が孫みたいな弟子たちに優しく説いているという方が、なんとなくしっくりする。 もっとも、こんな風に思えるのは、すぐ前の<十五章>に「切磋琢磨」の一文があるせいだろうが…… |
曽子曰く、終りを慎(つつし)み遠きを追えば、民の徳厚(あつ)きに帰せん。 堅物まじめ人間、曽参の意見である。 これだけでは、なんのことかさっぱりわからない。 貝塚先生の解釈をみてみる。 (念のために書いておくが、これは貝塚先生の訳文と解釈をこねまわして、ダイジェストしたものなので、貝塚先生の翻訳そのままではない。 なぜ、こんなことをするかというと、貝塚先生の訳文と解釈を並べて提出すると、まるで漢文の授業みたいになってしまうからだ。 ひとは、それでもいいかもしれないが、わたしは入力するのでくたびれる。 ここはひとつお許し願いたい。) 「亡くなった人(貴族)の葬儀に哀しみをつくし、礼式をきちんと守ってつとめたり、 遠い祖先を慰霊する祭礼を忠実にする。 君主がそんな態度であれば、民心も安定する」 しかし、断りの一文をいれておきながら、原文とあまりにも様子が違うので、気が弱いわたしとしては、おせっかいながら、貝塚先生の翻訳も今回だけは載せておこうとおもう。 「なくなった人の葬式をとどこおりなくつとめ、遠い先祖の祭も決して忘れない。君主がそういう態度であったら、国民の気風もおっとりとしてくるものだ」 実は、この訳文だけでは、なんのことか、さっぱりわからなかった。――もしかしたら、頭の悪いわたしだけかもしれないが…… 一般論でかためた訓示みたいなもので、かえってよくわからない。 暗記して、そういうものだと覚え込むなら、いいのだろうが、「では、どういうことか説明してみろ」と云われたら、むにゅむにゃと誤魔化すしかないではないか。 葬式とか、三回忌とかをまじめにやっていたら、国民の気風がおっとりして、人心が安定するって! そんなわけはない!! すると何か、ロシアの政情が安定しないのは、エリツィンとプーニンが親の葬式をきちんとしなかったせいか! 大統領や首相の先祖供養が足りないと、ロシア国民の精神は荒廃するのか? 天皇一家と、歴代首相たちが墓参りと先祖供養をきちんとすれば、わたしたちニッポン国の国民の気風はおっとりするのか? というふうに、文字とおりの翻訳では、やっぱり、なんにもならないと改めてさとった。 これからは、わたしがダイジェストした訳文+解釈でいきます。 孔子の少し前の時代は、国の支配者の先祖を礼拝する祭礼が、国家運営とほぼ同義語だった。 祭政一致の神政政治だったわけです。 だから、先祖の神霊を祭る祭礼を厳格にやっていると、国が豊かになって、人心も安定すると素朴に考えられていた。 この考えでは、ロシアが乱れているのは、エリツィンの先祖供養が足りないせいだということになる。 ただし、孔子の時代ではこういう考えはもう流行らなくなっている。 祭政一致の神政政治はすでに遠い過去のものだった。 すると、「終りを慎んで遠きを追う」という言葉の意味は、 「亡くなった人の功績を死後も忘れない」 ということにも解釈できる。 曽子の云いたかったことは、こんなことらしい。 「死んだ人の功績を忘れない指導者なら、生きている人の功績もきちんと評価する。そんな指導者には、ひとが安心してついてゆく」 会社からたたき出した部下の功績はすぐ忘れる。そういう社長さんが多い世の中です。 リストラにおびえる中高年は、こんな想いを胸に秘めている。 四十歳をこえた御同輩のみなさん、がんばりましょう。 |
子夏曰く、賢を賢(とうと)ぶこと、色(おんな)のごとくせよ。…… 子夏という人物は、姓は卜(ぼく)、名前は商。子夏というのは字である。 あたまがきれて、弁が立った。 のちに、戦国初期の開明君主、魏の文侯の顧問となった。 孔子とは四十四歳も年下だ。 論語ではよく登場する有能な弟子である。 さて、この文の意味だが、 「美人を好むように、賢者を尊敬せよ」 ということになる。 貝塚先生の解釈では、「美人」とはただの奇麗な女ではない。 一家をささえ、子を産み、母となる女性である。 しかし、そういう存在を美人というだろうか? この定義にしたがえば、藤原紀香は未婚であるがゆえに、美人ではない。 貝塚先生の解釈を受け入れて、かんがえてみると、うけとるニュアンスがずいぶん違う。 美しい妙齢の女には、男であれば、だれでも心惹かれる。 この言葉は、そんなふうに、すぐれた人物を敬愛してつきあえという意味かと素朴に考えていた。 だが、考えてみれば、結婚生活うん十年、酸いも甘いもかみわけた糟糠の妻を大事にするように、すぐれた人物とつきあう ――という方がもっと奥が深いかもしれない。 よほどの恐妻家か愛妻家でもないかぎり、傍目にそれとわかるほど奥さんを大事にするものじゃない。 有り難みは身にしみてわかっていても、そんなものだ。 かえって、糠味噌くさい奥さんを普段から大事にしている亭主は偉いといえる。 しかし、物言いとしてはひどく回りくどい。 宋の朱子は、この文を「美女を愛する心を、賢者を愛する心にまで高めなければならない」と解釈する。 貝塚先生は、孔子は家庭生活と美を愛好する心を尊重していたから、朱子の解釈は浅薄だと一蹴している。 朱子の云いかたは、貝塚先生よりもさらに飛躍しているから納得できない。 しかし、貝塚先生のいうマイ・ホーム主義も納得しがたい。 ときどき、こんなつまらないことに引っかかるので、この「論語日記」はなかなか進まない。 |
「曽子曰(のたまわ)く、吾、日に三たび吾が身を省(かえりみ)る。人の為に謀(はか)りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか……」 ガーンッ! 脳天を直撃されたので、しばらく失神する。 …… …… 一日、三回もこんな自己反省をしたことが、これまであったろうか? 「友人のために、まごころをこめて相談に乗ってやったか」 「友達とのつきあいで、約束を違えたことはないか」 それはたまにはあるが、(気分がうつのとき)、ふだんは気にもしないで、後ろめたい思いをしながら生きているワタシ。 いままで、わたしにつきあってくれた皆さん、もうしわけありません。 生まれてきて申し訳ありません。 曽子というのは、孔子の弟子で、名前は曽参(そうしん)。 孔子よりは46歳年下である。 この人の弟子が、孔子の孫<子思>で、その<子思>のさらに孫弟子が孟子だ。 曽子は、孔子亡き後、孔子の塾を引き継いだ儒教の正統派。 孔孟の教えというくらい偉い大儒家孟子と孔子を結ぶ正統も、正統。たいへんなものだ。 だから、こんな異常な自己反省ができるのであろう。 ひたすら、おそれいるばかりである。 ほんとうに、生まれてきてすいません。 |
さて、今日から「論語」をぼつぼつと読んでゆくことにします。 人生経験が浅いもので、たいした内容ではないですが、よろしく。 では、記念すべき「論語」読書日記のスタートは―― もちろん、「論語」の第一ページ、「学而編第一章」。 だれでも知っている、あれです。 「子のたまわく、学んで時(ここ)に習う、亦説(たの)しからずや。有朋(とも)、遠きより方(なら)び来る、亦楽しからずや。人知らずして怒らず、亦君子ならずや」 いきなり従来と違う読みである。このテキストの注釈をしている貝塚茂樹先生の新説だ。 ふつう、ここは次のように読む。 「子のたまわく、学んで時(とき)に習う、亦説(たの)しからずや。朋(とも)有り、遠方より来る、亦楽しからずや。(以下は同文)」 このように読むと、 「本を読んで勉強して、ときどき読み直して復習するのは楽しい」 「友人が遠いところから、わざわざ来てくれるのは嬉しい」 という全然当たり障りない上に、ウソくさい話になる。 「復習」が楽しいなんて人間は、ざらにいるとはおもえない。 すこし勉強好きであれば、試験勉強みたいな強制がなければ、どんどん先へいったほうが面白い。 これでは学習塾の鬼教師の押し付けではないか! 遠いところから、友人が遊びにきてくれると嬉しいのは当たり前で、もしそう思わない人間がいたら、ただの人非人である。 わざわざ、そんなことを書く必要があるのか。 現代とちがって、ゴミ箱に入れたいような本を印刷するほど、この時代は紙があまっているわけではない。 もちろん、これは言葉のあやだ。そもそも、この時代には紙は発明されていない。 竹や木をけずって、その薄板を紐でつづって、墨で文字を書いたのである。 わかりきったことを、わざわざ書くほど、孔子も暇ではないだろう。だいいち、そんなことのために竹や木を削るか! ということを考えてみると、貝塚先生の云うことのほうが納得できる。 注釈を含めた貝塚先生の解釈では、こうなる。 「ものを教わる。あとから練習する。なんと楽しいことではないか」 「旧友や同学者たちが、遠方からやってきて、学園の行事に参列してくれる。なんと嬉しいことではないか」 この時代の学問は、後の時代の儒学と違って、「儀式の進行・司会、楽器演奏、作曲・編曲、書道、弓術などなど」の体育、音楽、芸術まで含んでいた。 だから、練習がどうしても必要だ。 習い事は練習もたのしいもの。 テニスのレッスンみたいに、やってみたら楽しいものだったのではないか。 孔子の学問は、政治家になると同時に、国家行事の綜合芸術プロデューサーになるためのものだったから、その発表会に仲間がきてくれれば、それは嬉しいにきまっている。 観客動員が望めない邦楽や、古典バレーや、小劇場で仲間内でチケットをさばくようなものだ。 人が集まってセレモニーが盛大であれば盛大であるほど、弟子たちの就職活動もうまくいく。学園の経営もうまくいく。 さっぱり修身の役にはたたないけれど、わたしはこの読みが気に入っている。 こういう解釈があるから、貝塚茂樹先生の「論語」はいい。 ところで、知っている人も多いけれど、故貝塚茂樹氏はノーベル賞学者湯川秀樹氏の実弟である。 この湯川兄弟の家は、代々、漢学者の家系だった。 晩年の湯川博士が、「荘子」に熱中していたのも、そうした育ちに関係がある。 という具合に、ぜんぜん哲学的でもないし、人生論風でもない。 こんな「論語 読書日記」ですけど、よろしければおつきあいください。 |
© 工藤龍大