お気楽読書日記:12月

作成 工藤龍大

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12月

12月28日

いよいよ年の瀬ですね。
どこもかしこも、年末モードに突入というところでしょうか。

うちも、いよいよ大掃除をやらないと。
ところで、昨夜はちょっとした事件がありました。

CPUのファンが異様な音で鳴り出した。
わが愛機もついに寿命化とあせりました。

調べてみると、放熱ファンのところに埃がたまっていて、それに引っかかっていたようです。
普通の住宅だと、埃は避けられませんね。(苦笑)

夜中に函体をはずして、内部のお掃除です。
パソコンだけ一足早く大掃除すみとなりました!(笑)

それにしても、細かい埃がたまっていたのには驚きました。
いくらやっても出てくる感じ。
「ご苦労さん」とねぎらいの言葉を呟きながら、手を合わせておりました。

ところで、もう20世紀も終わり。
だから、ちょっと景気の悪い話をしましょう。

あなたは、あと何年生きられるか?
まだ二十代の人には笑っちゃうかもしれなけれど、三十代後半になったら真面目に考えたほうがいいんじゃないでしょうか?

三谷幸喜ドラマ「合い言葉は勇気」に使われていたエルガーの行進曲「威風堂々」がすっかり気に入ってしまいました。
このごろ毎日鳴らしています。
元気でますよ、ほんと。

ところで、CDの解説をみていたら、イギリスの作曲家エルガーは1857年に生まれて、1934年に亡くなっている。
あれっと思って、自分で作ったジークムント・フロイトの年譜で生没年を調べたら、1856年生まれで、1939年に亡くなっている。

このサイトにあるフロイトの年譜「フロイトの生涯」は、手に入る限りの日本語文献を網羅して作成した力作です。
自画自賛になりますが、これほど詳しい年譜は他にはないと思います。
ぜひ一度見てやってください。
あまりにも詳しすぎて、頭痛がすること請け合いです。(笑)
わたしは1958年生まれだから、この人たちほど長生きしたとしても、2040年くらいがいいところじゃないでしょうか?
医学が飛躍的に進歩したとしても、2050年を超えるのがやっとかもしれない。

とにかく、よっぽど運がよくなければ、あと40年の寿命なんでしょうね。
健康によほど用心しないと、もっと前に霊界の住民になる。

そーか、いつまでも元気で生きているつもりでも、客観的にみれば、あと40数年でこの世とはさようならなんだな。
などということを考えてみると、「人の縁は大切だなーぁ」と思いますねぇ。

ほんのわずかな縁で出会って、あと少しでさよならなんですから。
「花に嵐のたとえもあるぞ
サヨナラだけが人生だ」
――なんてね。

いままで出会った人、これから出会う人は大切にしないと。
そんなことを思ってしまいました。
どうか、これからもよろしく。

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12月27日(その二)

本日はちょっと実用的な読書日記です。
じつはある本を紹介したいと思います。

「7つの習慣」(スティーブン・R・コヴィー)がそれ。
もう三年くらい前に、テレビCMでがんがん流していたので、知っている人も多いはず。
すでに読んだ人もいるでしょう。

「成功には、原則があった!」なんて、「キャッチコピーがうさんくさくて嫌だ」なんて人もいるかもしれない。

でも、グローバル経済に飲み込まれつつあるわが国民の皆さんには、ぜひ読んでおいてほしい本だと思います。

著者はコンサルティング会社を経営していて、社員トレーニング・プログラムを代行する業務が本職らしいけれど、そこまでつきあうことはない。
ただ、類書を非常にコンパクトにまとめて、そのエッセンスを抽出する手腕をみごとです。
この本に書かれていることはコヴィー氏が発見したわけではありません。ただいろんな本に書かれている「生きるための原則・法則」みたいなものをじつに巧みに整理してある。
ビジネスくさい臭いが鼻につくかもしれないけれど、鼻をつまんでいれば気にならなくなりますよ。(笑)

じつは、パウロ・コエーリョの「アルケミスト」を読んでいたときに連想したのが、以前読んだこの本です。
あちらは寓話化・象徴化しているけれど、中味は「七つの習慣」にとても似ている感じがしました。

根源にある考え方が同じだったからかもしれません。
それは、「インサイド・アウト」ということ。

つまり、自分の内面を変えなければ夢は実現しないし幸福にもなれない。ごく当たり前のことです。
ところが、このごく当たり前のことを、すっかり忘れているのが現代の日本人です。

勤勉さと忍耐力こそが日本人の最大の武器だったはずなのに、それを軽蔑するようになった。
かわりに思いつきと気まぐれを尊重するようになりました。

でも、これを武器にしたのじゃあ、絶対に世界では通用しない。思いつきと気まぐれなら、日本人よりも人種的にはるかに上手な民族はいくらもいる。
インド人と中国人には永久に勝てっこないです。(笑)

「七つの習慣」は、人生の成功をカネとモノには見ない。
自分の人格向上に、根源的な価値を置くのですね。
その上で、生活を向上するために、いかに努力するかを教える。

日本でも、アメリカでもトップ企業はみなこのトレーニングを受けているらしい。
なるほど、この本をよく読んでいけば、プロジェクトをいかに展開するかが、わたしみたいなビジネス音痴にもわかる。(笑)

この本が翻訳されるまで、自己啓発の本やセミナーでは「想念を現実化する」「人脈ネットワーク作り」といったオカルト型や、小手先のテクニック重視のやり方が紹介されていました。
よく読めば、結局はその手の本の内容も「七つの習慣」とさほど変わらないのです。
著者がカルトがかった金儲け主義者でなければですが。

注意深い人じゃないと、気がつかない本当のキー・ポイントを詳しく、かつ具体的に書いているところに、「七つの習慣」の価値があります。

あなたの人生にとって、いちばん大切な成功は、あなたの「人格」である!
この立場にたつと、次の七つの習慣が生まれます。

  1. 第一の習慣
    自己責任の原則(主体性を発揮する)
  2. 第二の習慣
    自己リーダーシップの原則(目的を持って始める)
  3. 第三の習慣
    自己管理の原則(重要事項を優先する)
  4. 第四の習慣
    人間関係におけるリーダーシップの原則(Win−Winを考える)
  5. 第五の習慣
    感情移入のコミュニケーションの原則(理解してから理解される)
  6. 第六の習慣
    創造的な協力の原則(相乗効果を発揮する)
  7. 第七の習慣
    自己再生更新の原則(刃を研ぐ)
これだけだと、なんだかわからんでしょうね。(笑)
でも、なんだかぴぴんときた人や、仕事や人間関係でいきづまっている人は本屋へ走るか、ネット書店に注文してみてください。
きっと、いまのピンチを乗り越えるヒントがみつかるかもしれない。

本日の読書日記は、今日か明日が仕事納めの皆様へ、読書家からの時期ハズレではありますが、ささやかなお歳暮です。
どうかご笑納ください。(爆笑)

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12月27日

一昨日のことですが、ある事件の判決が出たと報道されました。
見知らぬお婆さんの家に侵入して、金槌と包丁で惨殺してから金品を盗んだ少年の事件です。

精神鑑定の結果、治療の必要ありとのことで、五年以上の医療少年院への送致となりました。
他人に共感をしめす能力が欠如していて、凶悪な犯罪であることが認識できなくなっているからというのですが……。

もしこういう理由が通るなら、凶悪殺人犯は刑務所よりは病院に行かせたほうがいいんじゃないでしょうか。
いっぽうで、少年の責任能力は認めているのだから、おかしな判決だと思います。

はたして精神医学が、感情移入能力の欠如を癒すことができるのか?
五年ですむという問題ではないでしょうね。

ちらっとかじってみたけれど、カウンセリングとか精神治療はそんなに簡単なものじゃない。
精神医学を万能視してもだめだと思いますが。

ただ、その判決を紹介する記事で、少年がホラー・ビデオの愛好者だったことと、この少年の病理が深く関係しているという精神科医の意見が紹介されていました。

ホラーや残虐な映像を好むのは、自分自身の家庭内・社会内での位置付けに深い不安を覚えているからだというのですね。
自分と社会、家族、周囲の人間のあいだに、乗り越えられないようなギャップがあるような気がして、不安で仕方がない。

その不安を打ち消すために、かえって恐怖や暴力的な映像をみて、補償するというメカニズムが働く。
「やられる前に殺れ!」ということです。
そのうち、不安と恐怖が昂じて、自分自身が暴力と恐怖の主体になりたいと願うようになる。
究極の自己不安が、他者への攻撃性に変化する。
アドルフ・ヒトラーみたいですが、そういう心理学的メカニズムが働いている。

少年の場合では、こうなると無抵抗なネコやイヌを虐殺したくなる。
これを卒業すると、幼児や老人を襲撃できるようになる。
次には、女性をレイプできるようになる。
最終的に、成人男性を殺害できるようになったときが、このプロセスの上がりかもしれない。

(これが、冗談だったら良いのですが、どうもそうじゃなさそうだから怖い。)

ホラーを好む人の心の底には、自分の存在価値と他者への不安があるようです。
過剰な補償が、恐怖と残酷表現を求めざるをえない。

女性に、ホラー好きが多いのは、『女は世界の奴隷か』とジョン・レノンが謳ったように、社会から自分が不当に貶められているという感情がどうしてもぬぐいきれないからでしょう。
すこし頭が良いと、男性社会の不合理と差別に気がつかざるをえないから無理もない。
レノンの歌の原題は『女は世界のニッガーだ』というもので、もっと凄いメッセージをこめている。「ニッガー」はアメリカ黒人に対する最大級の侮蔑表現で、「ファック」よりも悪い。
「女性は黒人よりも差別されている」という強烈な皮肉ですね。

それと、男よりも社会的コミュニケーションに富んでいる代償として、漠とした他人とのコミュニケーション・ギャップに悩まざるをえない。
アホな男は、「百万人ありとも我行かん」と能天気に自爆するから、あんまりそういう恐怖はない。利口な代償ですね。(笑)

これは一般論だから、どうでもいい余談でした。(笑)
話をもとに戻しましょう。

ホラーを好む人には、もう一つ大きな原因があるそうです。
幼児期に母親の愛情が足りないと、自分の生存する根拠がどうしても薄弱になるらしい。
だから、自分が愛されて生きているという実感がもてずに、社会・他者から見捨てられる不安と恐怖にそれと気づかずに幼児段階から苛まされている。

現代では、こちらのほうが深刻です。
苦しみを言語化できないと、苦痛はいっそう強くなるというのが、人間のココロの仕組みです。
子どものころから、苦痛のなかで生きていたら、冒頭の犯罪少年のようになるしかない。

現代の子育ては、まさにこの泥沼に子どもたちを放り込んでいる。
これからますます少年犯罪が増えても仕方がない。

そのように考えてみると、十代の青少年に無制限に残虐映像を提供するのはもう止めたほうがいいようです。
社会が病んでいるから、という他はありません。

十代の青少年のわずかな小遣いをせしめるために、先のない老人・オトナが残虐映像を売りつける商売は……もうなくなってもいいんじゃないでしょうか?

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12月26日(その二)

読書日記のつもりでしたが、ちょっと忙しいので本日はパスですね。
まあ、体重が栄光の70キロ台にある代償でしょうか、ちからがいまいち……です。

ばてているなどと、泣き言はいわないで、
(……って、言っているじゃネェかという突っ込みがありそうだな、こりゃあ)
また明日しっかり書きますので、よろしく。

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12月26日

自分が算数に弱いことをつくづくと実感しました。
というのは、二酸化炭素排出削減をめぐる交渉です。

いまやアルプスやヒマラヤの永久氷河が融け出して、富士山よりも高い高地で大洪水が起きる時代です。
両極の氷も融解して、世界上の陸地が海の底になりつつある。

その原因は、人類が排出しつづける二酸化炭素。
これが増えると、大気中の熱が放散されないで、うちに篭もってしまう。いわば断熱材兼保温材みたいなものです。
そのため、大気中の温度がどんどんあがって、地球が温室みたいになってしまう。

大気のある金星などは、二酸化炭素のおかげで地表が物凄い温度になっています。

二酸化炭素が増えた原因は、べつに人口が増えすぎて、呼吸のために二酸化炭素を多く出すようになったわけじゃない。
化石燃料をどしどし燃やして、電力・工業製品を生産する副産物です。

こうなった以上は、できるだけ化石燃料の使用を控えて、二酸化炭素の排出量を削減するのが利巧というものでしょう。
それも早急に。
もしも思った以上に、二酸化炭素排出量を削減できたら、それこそ大成功なはず。
他の国や企業も、そうなるようにがんばろうと思うのが、自然だと思います。

でも、グローバル経済では、そうはならないらしいのです。
わたしも不勉強で知りませんでしたが、二酸化炭素排出量削減のため京都会議で、キッカイな提案が出されていたのですね。

つまり、ある国や企業が割り当てられた削減量よりもさらに削減に成功した場合、その超過分を売り買いできることになりました。
すると、アメリカや日本のように、削減に熱心でない国は、発展途上国や東欧諸国から削減量を買うことができる。これらの国々は、もともと二酸化炭素を先進国よりは出さなかったり、経済が低迷しているので工場が閉鎖して従来の排出量を下回っているからです。
だから、割り当てられた排出量と現実の数値に開きがある。
それを先進国が買って、自分たちが削減したことにするのです。

この方式のいちばん良いところは、インフラに手をつけずに、目標値をクリアできるところにある。
市場経済が発達したアメリカが提唱して、不況のために二酸化炭素削減の努力まで手が回らない日本が飛びついたらしい。

最近この削減量を売買する市場が誕生したと、NHKのドキュメンタリー「世紀を超えて」で知りました。
詳しいことはしりませんが、画面から見る限り、2002年から2010年くらいの削減量まで今から取引しているようです。
「先物取引もここまで来たか!」
というのが、正直な感想です。

この素晴らしく効率の良い目標達成方法の最大の問題点は、一目瞭然!
世界でいちばん二酸化炭素を排出している国々が、少しも努力をしないで、ただ数字の帳尻合わせをしていることです。

こんなことで、はたして太平洋の島々は海面下に水没しないですむのか。
地球環境はどうなるのか?

この方式を考え出したアメリカの意見では、二酸化炭素排出を押さえる努力が利益をだせば、たんなる規制よりも効果的だというのです。
規制を撤廃したおかげで、コンピュータ、金融証券、インターネット、バイオテクノロジーと先端産業の頂点に立ちつづけたアメリカの主張だから、もしかしたら正論なのかもしれません。

これが、グローバル経済の算数だとしたら、とっても難しい。
わたしにはお手上げです。
ツルカメ算のほうが楽ですは!(笑)

アメリカの考え方の根底には、「地球が破滅してもリッチで浪費的なライフ・スタイルを変えてたまるか!」という居直りがある。
どうやら、日本人もこのお仲間らしい。
少なくとも、日本人以外の外国人はみんなそう思っているでしょうね。

「先進国が率先して二酸化炭素排出削減に努力しろ」という第三世界の意見に納得してしまうわたしって、もしかして日本では経済的敗者なんじゃないでしょうか?
つまり、国内南北格差のミナミ側の人なのかも。

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12月25日(その二)

昨日の日記で訂正があります。詳しくはこちらをどうぞ。
訂正の情報メールをくれたのは、友人のS君です!
持つべきものは友だちですね。(^^)

ところで、読書日記です。
もう20世紀最後の読書にはこだわりません。
なにせ、体重が4キロ減ったんですから。

もうばてばてです。
病院で肝臓の検査をしたら、また数値が悪くなっている。
油断も隙もないですは……。
いったい、この読書日記もいつまで続くことやら。
ある日ぱったりと更新が途絶えて、それっきりなんてね。(苦笑)

とーぉっても、寂しい気持ちであります。(泣)

冗談はさておき、本日は図書館で借りた硬い本を読みました。
「中世の生活空間」(戸田芳実・編)という本です。

あいかわらず野望に胸を膨らませて、「吾妻鏡」と参考書を読んで暮らしています。
こんなことをいうとなんですが、いまどきの歴史学者さんの論文は小説家の作品よりも面白い。

この本に入っている服藤早苗さんの<家――「家」の成立と女性―『今昔物語』の説話から>や「堂 ― 平安京庶民信仰の場」(竹内光浩)、「暦 ― 中世農民の四季」(木村茂光)という論文は抜群に面白かった。
院政時代から鎌倉時代にかけての、庶民の生活があざやかに描き出されている。

こういうのを読むと、同時代を描いた歴史小説の描写が江戸時代(またはせいぜい戦国時代)の記録から類推しただけだとよくわかります。

どうやら、小説という技法と、歴史の面白さはあんまりうまく接合しないようです。
例えば、司馬遼太郎さんの場合。後期の作品はほとんど小説としての形を壊しかけているけれど、わたしには面白い。
小説的体裁が整っている初期・中期の作品は、このごろ読み返してみると、どうもあかんのです。

いまや古代ローマ史が専門になってしまった塩野七生さんは、小説的な骨組みは物好きなわたしでさえ退屈なのですが、歴史の面白さという点では現代ではベストでしょう。

わたしごとですが、歴史そのものの面白さと、小説という退屈極まりない枠組み(表現形式)のギャップをなんとかできないところに、わたしの物書きとしての致命傷があるのです。

この調子だと、来年もどっかの文学賞で一次予選どまりだろうなあ。

ちょっと気弱になったところで、今日はお終い。(笑)

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12月25日

政府の諮問機関である中央教育審議会が面白いことを発表しました。
教養教育を、幼児段階ではじめなければならないと。

ちょっと気がきいた人なら、これを茶化したネタで何か書くでしょうね。
わたしはぜんぜん気がきかないから、そんなことはしません。(笑)

というのも、この提言は絶対になんらかの形で実現すると思うからです。
この国の若い知性が壊滅的に損なわれたのは、以前こうした諮問機関が提言した「ゆとり教育」と「個性主義」を実現したからです。
そんなことが出来るわけがないと、当時受験戦争まっただなかの私たちは思っていました。

でも、あれから二十数年にして、「ゆとり」は本を読めないアナログ・デバイドとして実現し、個性主義は引きこもりをはじめとする社会病理としてみごとに現実のものとなった。
これは皮肉ではありません。
かつての諮問機関のアイデアは、文部省の指導のもとできちんと現実化したのです。
この事実を認めないわけにはいかないでしょう。

流行のミッション・ステーツメントで評価すれば、プロジェクトの達成度は100パーセントといえるかもしれない。

だから、幼児段階から教養をつけるというプロジェクトが動き出したら、たぶん実現することは間違いない。

しかし、「ゆとり」が知性を低下させ、「個性」が社会的無能力者を生産した事実は、このプロジェクトがそもそもめざしていた目標とはかけ離れたものでした。
どうも、この国のプロジェクトは「手段」が目的化して、「目的」とずれてしまうようですね。

「自分の頭で考える」「流れにのみこまれずに自主判断できる」人間をつくるつもりが、「学習時間を減らす」「協同作業能力を破壊する」という手段のほうへいってしまった。
だから、プロジェクトを発案・推進した官僚の方々は、なんで文句を言われているかわからないに違いない。

自宅での学習時間が一日20分以下という「輝かしい記録」が達成されているのに、なぜ日本の教育界は悪い言われるんだ!
自由に個性を発揮して、授業まで自主的に妨害するまでに「個性的な」生徒が出たじゃないか。
どこが悪いの?

たぶん、この調子で新しいプロジェクトは「幼児の教養とは何か」を定義するに違いない。
次にそれを実現する手段を発案して、強引に推進するわけです。

いまどきの学校の教科はよっぽど秀才だったお父さん・お母さんでないかぎり、子どもに教えられない。
この分でいくと、いまどきの十代・二十代がお父さん・お母さんになるころには、子どもの教養がさっぱりわからないはず。

子どもに「金太郎さん」のお話をしてとせがまれて、お母さんが話すのが、金太郎が竜宮城へ行ったり、鬼が島で七人の小人と相撲をとったりするお伽噺だったら……。

まんざらつまらなくはないでしょうが(笑)、
お友達にそんな噺をして赤っ恥を掻く子どもが可哀想な気がします。

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12月24日(その二)

♪メリークリスマス♪
イブに「ゴムじゃないコンドーム」なんて新聞広告が出る国なんて、日本の他にあるのでしょうか?

わたしは、キリスト教徒ではありません。でも、産業界がなぜ12月24日に消費者に発情をうながすのか不思議です。(笑)
宗教に無関心な欧米人であっても、そういうことを聞いたらムッとするでしょう。
連中よりはもっと宗教心のあるアジアや中南米のキリスト教徒が聞いたら、「大激怒!」ってところでしょうか。

なんだか大切なものを汚された気がするんじゃないでしょうか?

「クリスマス」とか「ホワイト・クリスマス」というと、貧しい人・困っている人にほんのわずかでもヘルプをしたいという優しい気持ちが湧いてくるのが、キリスト教文化圏らしい。

べつにスキー場の近辺で発情するという意味ではないようです。

国際親善のためにも、異文化尊重の意味からも、もう「クリスマス」という呼び名は日本では使わないってのはどうでしょう。
代案はあまり良いのが思いつきません。
「ファック・ナイト」とか「発情夜」とか「つるみ」「さかり」とか……。(笑)

もはや日本の人口は、バングラディシュより少なくなって世界第九位だそうです。
ただ前回が第八位だからそれほど落ちたわけでもなさそうです。

減る一方の人口を増やすために、もしかして「できちゃった婚」を期待しているんでしょうか? 産業界は。
ゴムじゃない「ウレタン製」の避妊具には、そうした秘策が隠されているのかな?

ところで、クリスマスになぜ鳥の足を食べるのか?
朝から考えているくせに、ろくなアイデアが浮かびませんね。

そこで、ちょっと国際謀略小説のネタとして構想してみました。
ただし、そんなジャンルは今後とも書く気はないので、無責任な想像にすぎません。
このことを了解してもらったうえで、話をすすめますね。

なぜクリスマスに鳥の足を食べるのか?
それは、アメリカ穀物メジャーの陰謀だった。しかも、それに協力したのがアメリカ軍だった!

ストーリーにすると、込み入ってくるので、アイデアだけ書いてみますね。
アメリカは第二次世界大戦が終わると、大量の農業生産物を余剰として抱えてしまった。
とくに穀物は作りすぎて値崩れが著しい。

大規模農業で生産技術が高まったので、穀物はいくらでも生産できる。だから、新しい輸出先が欲しかった。

こういう理由で、第二次大戦の敗戦国だった日本に潤沢な食料援助をして、それまで肉を食べない日本人に食肉の習慣をつけ、乳製品を食べつけさせた。
栄養学の名のもとに、食肉と乳製品の味を学校給食で新しい世代に覚えさせた。

なぜ穀物食そのままではいけないのか?
それは人間ひとりが食べる穀物の量などたかがしれているからです。
人間の食事よりも、飼料として家畜に食べさせたほうが数十倍七倍くらい消費してくれる。

北海道の農業関係者の方から、正確な数値を教えてもらいました。
肉牛が消費する穀物量は7倍だそうです。
ありがとうございました!
食肉の味を覚えさせるに当たって、ダイレクトに牛肉や豚肉はきつい。
まずは鶏肉から。なぜなら、牛・豚を食べない民族でも、ニワトリはよく食べる。
宗教的禁忌が哺乳類よりも鳥類のほうが少ないからでもあります。

それに牛・豚よりも飼育費用が安い。
零細な農家がはじめるには、うってつけのものです。

次に、穀物メジャーは支配下にある農薬会社や飼料会社に農村を回らせて、穀物で養鶏するアメリカ式養鶏法を広める。農家をアメリカに呼んで実習させることまでする。
これがブロイラー式養鶏法で、これでブロイラー農家が増えてくる。

このシナリオは、以前NHKなどで実際に穀物メジャーがやっている戦略として紹介されていました。

ところで、せっかくニワトリを大量に生産しても、さばく市場がない。
いかにして、その市場を作り出すか?

ここで重要な役割をはたしたのが、アメリカのポップ・カルチャーだった。
じつは日本にアメリカのポップ・カルチャーを伝えた伝道師が、アメリカ駐留軍だったのです。

アメリカ占領軍基地での各種パーティー、食い物つきのダンス・パーティー。
ここに並べられたご馳走が、基地に出入りする日本人を洗脳したのですね。

基地に出入りする日本人は、やがて芸能界に紛れ込み、日本の映画などのメディアに進出する。すると、基地でみた<アメリカ文化>のボランティア宣伝者になってくれる。

ここで、ご馳走としてのイメージが、鳥の骨付き肉に集約されたのではないか。
たしかに最初の段階では、まるごと一羽のロースト・チキンが豊かさのイメージとしてはありました。
ナイフで切り分けて、みんなのお皿にとるやつですね。

でも、核家族が進行しつつある日本の家庭で、まるまる一羽のチキンなど食えるわけがない。
となると、チキンは一人一本の足であるほうが料理するにも、食べるにも楽に決まっている。

ははあ、見えてきたぞ――という気がしません?
穀物メジャーの陰謀の結果、ロースト・チキンがご馳走として日本人に認知された。
でも、核家族化のせいで、ロースト・チキンは食べきれない。
そこで、丸々一羽を料理するかわりに人数分の鳥の骨付き肉を用意するようになったんだ!

しかも、こうやって簡便化したおかげで、よほど貧しい家でないかぎり、料理済みの骨付き肉を安く買えるようになっている。
普段も安いですからね。

いまでは、鳥の骨付き肉なんて、ご馳走でもなんでもない。
上手くもないけれど、ないと寂しいクリスマス版「おせち料理」になっている。

そうか、鳥の足は12月24日の「おせち料理」だったのか!
と、はなはだ勝手に納得したところで、本日の講釈は終わりです。

追記:
三日間寝たきりなので、本を読むどころじゃありませんでした。
だから――読書日記はお休みです。(笑)

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12月24日

突発的にインフルエンザにかかってしまいました。
こじらせたという次元じゃなかったですね、あれは。
出会いがしらの正面衝突みたいなものでした。
強烈にボディーにきました。

おかげで、体重が4キロ減ってしまいました。
いくらウォーキングをしても減らなかったのに、うそみたいです。(笑)
それにしても、ひどい目にあった。

神様も哀れんでくれたのか、昨夜は持ち直してワインとケーキと、鳥腿肉を食べることができました。
だれがなんと言おうと、この三つは12月24日の晩御飯には欠かせません。
キリシタンではありませんが、12月24日には鶏の腿肉とケーキを食べる。
土用丑の日にうなぎを食べることよりも大事な儀式なのです。

しかし、なぜニワトリの足を照り焼き・または塩焼きにしたのを、わざわざクリスマス・イブの夜に食べることになったんだろう?
不思議だと思いませんか?

そんな風習が他のどの国にあるんでしょうか?

アメリカなら、やはり七面鳥でしょうね。
七面鳥は新大陸にしかいないから、コロンブスがアメリカに到着するまでキリスト教文化圏で食べられるわけがない。

古くはコナン・ドイルのシャーロック・ホームズものに、クリスマスにガチョウを食べる話がありました。ガチョウの砂袋の中に盗んだ宝石が隠されているという話でした。

でも、考えてみると、19世紀イギリスの大作家ディッケンズの「クリスマス・キャロル」では意地悪のスクルージ爺さんが改心して身内に七面鳥をプレゼントする場面があったような気がする……。

日本で盛んなキリスト教協会はほとんどアメリカ経由で日本へ進出しているから、日本人が知っているキリスト教文化はアメリカ文化が色濃く浸透しているはず。
とすると、七面鳥がニワトリに化けたのかもしれない。

だいたい七面鳥なんて、そんなにうまい鳥じゃない。
特別な理由がなければ、人気があるとは思えない。
だから日頃そんなものを飼っていたのでは、養鳥農家(?)は採算が合わない。

クリスマスに七面鳥を売ろうとした農家もいただろうけれど、たぶん商売にならなかったんじゃないでしょうか?

そうやって考えると、いよいよ鳥の腿肉も問題は深みにはまっていく。(笑)

「アメリカの真似をしただけだよ!」という素直な考え方ももちろんありますが、ただ真似して一時的ブームになっただけのものが、いつまでも続くはずがない。
「きっと何かのたくらみか、プロジェクトがあった」と考えるほうが自然だと思いますね。(笑)

よーく考えてみると、クリスマスとサンタ・クロースとケーキと鳥の骨付き腿肉はいつのまにかセットになっている。
観念連合というのでしょうか、よっぽど肉嫌いの人じゃないとこの組み合わせは断ち切れませんね。
クリスマス・イブとサンタ・クロースとケーキ(または類似した菓子)は、微妙な差異があるにせよ、ほぼ同じものがキリスト教文化圏に共通してある。
ただし、鳥の料理というのは、そうでもないようです。

考えているうちに、いきづまったので、手元にある参考書をいくつか調べてみました。
どうやら、クリスマスに鳥肉を食べる風習は、歴史的にはイギリスが起源で、アメリカ合衆国に移ったらしい。
だから、日本でクリスマス・イブにニワトリの足を食べるのは、アメリカ合衆国の影響とみるのが自然でしょう。

これじゃあ、最初に逆戻りだあーっ!

気を静めて考えを整理してみます。
  1. アメリカにはクリスマス・イブに七面鳥を食べる習慣がある。
  2. その習慣を誰かが日本に持ち込もうとした。
  3. でも、七面鳥では日本人の好みに合わなかった。
    現にいまでも七面鳥は好まれない。
  4. 七面鳥の代役としてニワトリが登場する
ははあ、すこし見えてきたな。
でも、アメリカでは七面鳥は丸ごと出てくるはず。
少なくとも、映画・TVで見る限りはそう。

(情けないことに、わたしの知っているアメリカ人はケンタッキー・フライド・チキンを食べている連中なので、よくはわかりません。)

そうなると、なぜ日本人が鳥の腿肉を焼き鳥風にして食べるのかという謎は解けない。

もうすこし考えてみることにします。

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12月21日(その二)

読書日記です。
ところで、21日のテレビ朝日で市川新之助主演で「忠臣蔵うら話 仲蔵狂乱」という時代劇をやっていました。

途中から見たんですが、新之助には驚きました。
これがあの駄作「華の乱」でハンサムなだけの若き将軍義政を演じたのと同じ人!

なんとまあ、花のある役者さんですね。
ちょびっと出ていたお父さんの団十郎さんが気の毒になりました。
新之助がひっこんだとたんに、画面がだらけてしまうから……。

今の団十郎さんのお父さん先代・団十郎(十一代目)も天才だったらしいけれど、孫の新之助もすごい。
歌舞伎が趣味でもないのに熱烈な女性ファンが、大勢いるそうです。

一度見てしまったら、そうなるのは無理もない。
昨夜も新之助を見ているうちに、ドラマが終わってしまった。
ストーリーは、どうでもよくなっていました。(笑)

わたしが知らなかっただけですが、歌舞伎にはすごい人が出てきていたんですね。

新之助が演じた中村仲蔵という人は、名門の出身ではありません。
生涯下っ端として終わるはずだったのに、「仮名手本忠臣蔵」の悪役・斧定九郎を名演したおかげで天下の名優となりました。

ドラマは史実に忠実に描いていたように思います。
もっとも、途中からなんでよくわかりませんが。(笑)
それに歌舞伎の歴史に詳しいわけでもないし。
なら、書くなと怒られそうですね。

ほんのつまらない端役が天才の手によって、歌舞伎の名キャラクターに化けたのですから、事件というべきでしょう。
「仮名手本忠臣蔵」の人気者お軽・勘平のカップルの場面には、なくてはならない悪役ですから。

俳優の仕事は後に残らないというけれど、例外のない規則はない。
いまのように映像媒体としての記録は残らないけれど、技術は残ったというべきでしょう。

……
じつは、どうやら風邪を引いたらしく、考え事ができません。
今宵のよた話は、ここまでとさせていただきとう存じます。(笑)

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12月21日

驚きました。
光文社の「週刊宝石」が休刊するそうです。

八百長疑惑で叩かれた大相撲協会はほっとしているかもしれない。(笑)

いまでは発行部数が30万部にも満たない状態だったそうです。
広告も採算が取れなくなっていたとか。

週刊誌といえば、立ち読みしかしないものなあ。
お金出して、買うものじゃないといつのまにか思っていました。

女の子のグラビアがあるからといって、買う気にはなれません。

考えてみれば、大衆週刊誌は60年代の高度経済成長時代に創刊されて、以後次々と増えていった。
お客さんは、ホワイトカラー、ブルーカラーの会社員でした。

日本にサラリーマンが登場した時期に、その人たちをマーケットにした娯楽として登場したわけです。
屋台で安酒をあおりながら上司の愚痴をこぼすサラリーマンが、いつのまにかTOEICに励み、MBAをネット授業でとろうという「びじねすまん」になってしまった。

気の効いた「びじねすまん」は、週刊誌など立ち読みですまして、情報はネットで取るはず。
これじゃあ、売れるわけがない。

あの手の大衆週刊誌はどんどん消えるでしょうね。
「週刊宝石」はリニューアルして再登場するはずだけれど、よほどの新企画がないと駄目でしょう。
大衆週刊誌という形で、マーケットにできる階層はもういないと思うからです。

残念ながら、ちょっと英語が読める人は日本のマスコミを信用していない。
裏をとるなら、欧米のマスコミです。
西欧的価値観のバイアスがかかっていると、いくら日本のマスコミが文句をつけても、事実関係の詳しさでは勝負にならない。
取材倫理については、なおさらです。

西欧至上主義の色眼鏡なら、こっちが注意してフィルターすればすむこと。
もともとろくな取材をしていない日本マスコミとは違います。

情報源としての大衆週刊誌が消えるのは時間の問題だとしても、もうひとつ気になることがあります。
この手の大衆週刊誌は、大衆小説の発表の場所でもあった。

日本の小説家が文筆で飯を食えるようになったのは、じつは週刊誌のおかげです。
それと同時に、日本人の作文能力を高めたのは、大衆週刊誌が作り出した「週刊誌文体」なのです。
その最良の例が、じつは松本清張にはじまる国産ミステリです。

大衆週刊誌の娯楽として、推理小説が求められ、それが大衆文芸誌やノベルズ本の読み捨てミステリに連動した。
じつは日本人が活字を娯楽としたのは、大衆週刊誌の下支えができたあとなんです。

いくらオトナが昔の人は本を読んだと言おうと、それは大ウソ。
活字は一部エリートのものでした。

だから岩波新書ですら、今から30年前には普通の人にとって難しすぎた。
あれを読みこなせたのは、よっぽど頭のいい人だけだったんです。
他の人には、なにが書いてあるのかよくわからない。

椎名誠のような人気作家が執筆するようになったこの頃とは雲泥の差です。

それだけ、日本文化の下支えに貢献した大衆週刊誌が消える以上、大衆文芸誌も無事にはすまないでしょう。
純文学雑誌の休刊ラッシュはもう終わったから、次は大衆文芸誌の休刊ラッシュがくるはず。
たぶん大衆週刊誌の休刊ラッシュが来たら、まもなく始まるでしょう。

わたしの怪しい(笑)理論だとそうなる。

いまは投稿ブームで、大衆文芸誌の新人賞にはたくさんの原稿が集まっているそうです。
でも、この未来の作家さんたちは新人賞を主催する大衆文芸誌そのものを読まない人が多いとか。(笑)
いや、笑い事じゃない。

不思議な話ですが、自分ですら購買意欲をもたない市場へ、必死に参入しようとしているわけです。
究極の供給過剰とでも申しましょうか……(苦笑)

こういうことを考えてみると、紙媒体にはとうてい未来があるとは思えません。
出版社も苦しくなるだろうから、新人では冒険しなくなる。
新人が紙媒体から出てくることはとっても難しくなります。
ちょっと暗澹とした気持ちになりますね。

大きなミステリー関係の賞を受賞して少し騒がれても、いつのまにか見えなくなる。
たぶん書いているのでしょうが、発行部数が少ないか、儲けが見込めないので出版されないのでしょう。

紙媒体にかわるものとなると、いまのところネットしか思いつきません。
作品を発表する場としては、もはやネットしかないかもしれない。
情報源が紙媒体を捨てて、ネットへ移ったように。

それでも、ある時期までは電子化した活字マスコミを、作品の鑑定基準としてありがたがるかもしれない。
だから、活字マスコミの権威は不滅だと思うのは大間違いでしょう。

ネットは所詮口コミという、ピア・ツー・ピア(対話)型のコミュニケーション手段だからです。
それがわからない人は、情報敗者となってしまう。

ネット社会への本格移行がはじまれば、「お宝鑑定団」の役目はいらなくなる。
オークションと同じで、品物の値打ちは欲しい人の熱意で決まるわけですから。

だから、他の人にはクズでも、ある人には数十万、数百万を出しても惜しくないものが出てくる。

そうなってしまえば、「中立の鑑定人」は要りませんね。
大手マスコミや大手出版社は不要です。
その役割は、やる気のある個人か、小集団で事足りるはず。
ただし、その人たちには匿名の権威はない。個人の責任において発言するだけのことです。
大手新聞社の記者のように、大看板に隠れるネズミみたいなことはできません。

他人の物差しを頼りにするほかはない大衆社会は、ITの登場とともに終わりました。
そのことを、「週刊宝石」の休刊は教えているのです。

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12月20日(その二)

読書日記です。
今回はいよいよ帰ってきた「曽我物語」です。(笑)

考えてみれば、ずいぶんご無沙汰していましたね、これ。
この物語にこめられた仕掛けは、だいたい解読できたように思います。
それについては、おいおい書いてゆく予定です。
どうか、お楽しみに。

さて、本日は江戸時代の恋と、鎌倉時代の恋のお話です。
もちろん、登場人物は「曽我物語」の主人公です。

歌舞伎の「助六」というのがありますね。
正式には「助六由縁江戸桜」。
歌舞伎の題名はとても読めたもんじゃない。ルビをふると、「すけろく ゆかりの江戸ざくら」となります。

この題名を使えるのは、市川団十郎の家のものが助六を演じるときだそうです。
そのほかの家の役者が助六をやるときは、「助六曲輪菊」(すけろく くるまのももよぐさ)となるそうです。詳しいことはよくわかりませんが、とにかく仕来りがいろいろあって大変な世界ですね、あれも。

そんなことはどうでもいいにですが(なら書くなって!)、この助六さんが実は曽我兄弟の弟・曽我五郎だと言うのですね。
赤穂浪士みたいに大石内蔵助が大星由良之助になっているようにぼかしているのではなく、ちゃんと劇中で正体を明かします。
歌舞伎は変身ヒーローものみたいなところがあって、市井に埋もれた町人が実は歴史上の有名人という時代考証無視のスーパーいい加減さが売りなんです。

歌舞伎の「助六」は曽我五郎が江戸の侠客・助六になって、吉原の遊郭で金持ちのイヤミな老人・髭の意休(いきゅう)をいたぶるという筋なんです。
吉原の花魁・揚巻(あげまき)を恋人にして、他の花魁たちからももてもての助六の活躍は、本物の歌舞伎をみたことがなくてもTVで断片的に見た人は多いはず。

金と権力にものをいわせる隠居武士らしい意休を、庶民の代表助六がやっつけるのだから、金も権力も無い江戸庶民はすーっとしたでしょうね。
自分たちじゃあ、せいぜい顔をみるのがやっとの花魁たちに、アイドル扱いされているわけだし。
助六は、女ひでりの江戸の男の夢を体現しているのです。

江戸は武士や職人といった独身者の町で、女がそもそも絶対的に不足している。だから、男は結婚できないので遊郭へ通ったのです。
おかげで、江戸の女は日本一いばって暮らして、そのがさつさは天下にとどろいた……なんて、ことは言ってはいけませんね。(反省します。)

「助六」という劇が誕生するについては、かなり面白い話があります。
でも、それを書くと長くなるので、今回は省略します。

助六が意休の前で見得をきって縁台に座ると、花魁たちがいっせいにキセルをとりだし一服したのち、次々とそれを助六に差し出す。
自分が吸ったキセルを差し出すというのが、遊郭では最大級の愛情表現なのですね。
間接キッスなんて書く解説書もありますが、接吻などは寝屋で睦むときにしかしなかった江戸時代において、そんな簡単なものではない。
もっと生々しい、いつでもオーケーのサインです。
言い方がちょっと上品すぎるかな……。(笑)
あんまりもろに書くと、どうもね。
たぶん、あなたが想像する以上にエッチなことだと思ってください。(笑)

ところで、そのモテモテの助六の話が、鎌倉時代の「曽我物語」とどう関係するの?
余談が長すぎたので、そう思うのが当然でしょう。(笑)

参考書的に書けば、助六は仇討ちのために名刀・友切丸というのを探している。
敵を討つ必殺アイテムなんですね、名刀というのは。
これを盗賊に盗まれたので、侠客・助六に身をやつしているのです。喧嘩を売って、相手に刀を抜かせて、探すというわけです。

髭の意休の正体が盗賊とわかって、みごとその名刀を取り戻すというのがストーリです。
ただ、今回はそういう意味で関係があるというのではありません。

「曽我物語」では、弟の五郎時致(ときむね)の恋はあまり出てきません。
そのかわり、兄の十郎祐成(すけなり)と大磯の遊女・虎御前の悲恋がメインになっている。

虎御前なんて凄い名前ですけれど、大変な美女ということになっています。(笑)

受け継ぐ所領がない兄の十郎は結婚などできる身分じゃないので、遊女と恋愛しているのです。
ところが、街道筋のナンバーワン売れっ子・遊女の虎御前には鎌倉幕府の権力者たちがついている。
金の無い悲しさで、会いに行っても、権力者たちの宴席にはべっている虎御前にはあえない。気の毒に。

しかも、十郎の敵討ちの悲願を知っている鎌倉幕府の権力者たちは、ふたりの仲を知った上で、虎御前をはべらせた宴席に十郎を呼び出す。そして、いろいろと苛めるのです。

思慮深い十郎はおのれを押さえて、無理難題を悲壮な笑いを浮かべて耐える。
粗暴な鎌倉武士と喧嘩したら、たちまち切りあいになって仇討ちどころじゃないですからね。
それを承知の上で、いじめる幕府の権力者たちはなんなんだ!(怒)

恋人の虎御前は愛する十郎の忍耐を見ながら、こちらも必死に耐える。
その二人の姿に、「曽我物語」の聴衆は感動したのですが、江戸っ子は我慢できなかった。

「曽我物語」では弟・五郎が乱入してきて、兄の苦難を救う!
これはつけたりみたいなもので、耐える兄の姿のほうが、なんといっても「曽我物語」のお客(鎌倉・室町時代の人)の好みだった。
でも、江戸っ子が感情移入したのは、弟のほうなんですね。

「あんなしめっぽいのは見ちゃおれねぇ」といったかどうかは知りませんが、弟の破天荒な暴れっぷりを期待して出来たのが「助六」です。

「助六」には兄・十郎も酒売りに身をやつして登場しますが、これはさんざんにおちょくられる情けない役割です。
「曽我物語」のヒーローも形無しです。

口承文芸には詳しい江戸っ子のこと、これはパロディだよという作者のサインを見落とすはずがない。
兄・十郎のおたおたぶりをずい分と楽しんだことでしょう。

それでいて、権力者にいたぶられた兄の<仇討ち>を弟にやらせるのですから。
繰り返しますが、「助六」は「曽我物語」のパロディなんです。
ラストで正体を明かすまでは、意休は権力者そのもの。これをやっつけるのだから、気分がいい。

意休を盗賊にしてしまったのは、やはり江戸幕府の規制を恐れた演劇関係者の知恵ですね。

それにしても、悲恋の主人公・曽我十郎をおちょくるのも、決して悪意からではなく、権力のあるものが弱者をいたぶる構造そのものに対する抗議です。

悲恋と忍耐の兄に変わって、モテモテで豪快の弟をひいきすることで、江戸っ子は自分たちの心意気と優しさを後世にまで伝えているのです。

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12月20日

若い女性の子宮ガンが多いような気がします。
というより、最近そういうニュースを聞くことが多いだけかもしれませんが。

プロレスラー高田延彦の奥さん・向井亜紀さんが、子宮摘出手術を受けたというニュースがありました。
妊娠四ヶ月で、子宮ガンが発見されたとか。

放置すれば余命六ヶ月。つらい選択をしたそうです。
詳しい話は週刊誌・ワイドショーでご存知だとは思いますけれど……。

このあいだ、雑誌「PHP」を眺めていたら、昔アイドルだった八木沙織さんのエッセイが載っていました。八木さんも子宮筋腫になって手術を受けたらしい。
八木さんは三十そこそこの若さです。

八木さんのエッセイでは、歌手の庄野真代さんも子宮筋腫で摘出したそうです。
手術を受けるかどうか迷った八木さんは、庄野さんの著書を読んで手術を受ける決心をしたとか。

ストレスが多いからなのでしょうか。発ガン性の高い化学物質があふれているせいなのか。
原因はわからないけれど、生活環境が人体によくないものに変わっていることは間違いないようです。
むかし西丸震哉という学者が「現代人三十歳寿命説」というのを唱えていたけれど、その兆候が出ているのかもしれない。

遺伝子治療が進んでくれることを祈るしかないかもしれません。

いまの日本では高学歴の女性は晩婚化しています。
遺伝子治療がよほど早く進まないと、三十代くらいで子宮を摘出する女性が激増しないとも限らない。

そうなると、子どもを持ちたいという年齢になったとたんに、出産するチャンスを永久に失うことにもなりかねない。

いっぽうで、二十代の女性には子育ては荷が重過ぎるという風潮もある。
現代は複雑すぎるし、遊びたいというだけでなく、社会の中で自己実現をしたいという欲求が女性にもある。
遊びだって、いっしゅの自己実現といえないこともありません。(笑)

だから、女性としては、人生が安定する三十代に子どもを産んで育てるのがいちばんいいという意見が多いみたいです。

実感として、新聞の投書欄なんかをみても「幼児虐待」の報道に「自分だって、そうなりかねない」という意見が多い。
やはり「子育ては大変でつらい」ということなんでしょう。

出産するのがイタいから嫌だというエッセイストが、本を出したりしていますからね。

男の立場からすると、出産は痛そうだし、子育ては大変そうだし、まったくそのとおりですねと言うほかはない。

それでも、子宮は目には見えないけれど、女の人にとって大切らしい。
子宮がなくなるのが恐ろしいという感覚は、分かるような気がします。

比喩はひどすぎるかもしれないけれど、男にとって生殖器をちょんぎる宮刑と同じかもしれない。
去勢というのは、男にとって最大の恐怖ですから。
生き物として、人間として、すべての終わりという感じですね。
生殖のチャンスを失うことが生命体として耐えがたいという本能もあるでしょう。
それ以上に、自分の可能性の根源をちょんぎられた絶望がある。

たぶん、女の人がおっぱいや子宮・卵巣にこだわるのは、そうした感情をもっと強力にしたものでしょう。

女の人は「女という性」であることが、「自分」というもののキーワードになっている。
だからこそ、男が生きるべき規範を失った時代でも、自分を見失わずにいられる。
男は規範がないと、どうにもならんのです。
自分を見失って、ふらふらしていつ死ぬかわからない。ひ弱なものです。

子宮などの女性的器官を失うことは、そうした強みを失うことだから、もっと深刻なダメージがあるに違いない。

そうした運命にあった女性たちは、どうやってその後に立ち向かうのか。
すでに子どももいて、四十代・五十代ならあきらめもつくかもしれないけれど、三十代くらいでまだ子どもがいなかったり、未婚だったりする人はどうしたらいいのだろう。

答えがすぐ出てくる問題ではありませんが、八木さんにしろ向井さんにしろなんとか幸せを見つけてほしいと思います。
でも、どうやったら幸せになれるかは……わからない。
悲しいことですが。

八木沙織さんは昔からファンだったので、(アイドル時代の写真集をまだもっているヲタクなおぢさんです、わたしは)子宮筋腫のことを知ったときはショックでした。
なんとか幸せを掴んで欲しい――なんて、演歌みたいな科白しか思いつきません。

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12月19日(その二)

読書日記です。
前に予告しておいただけで、それっきりだった本がありました。
覚えている人はいないかな、やっぱり。(笑)

本日は、その本について書こうと思います。
それは「アルケミスト―夢を旅した少年」(パウロ・コエーリョ)という本です。
訳者は精神世界の本を翻訳するなら、このコンビという山川紘矢・亜希子ご夫妻です。

じつはこの本、前に一度読んだことがあります。
そのときは、感心しなかったので読書日記には書いていません。

今回読み直してみて、改めて唸ってしまったので、そのご報告というわけです。

スペインの羊飼いの少年が、夢に導かれて、エジプトへ宝物を探しに行く。
ストーリーそのものは、簡単至極な寓話です。

ただ、この本には類書にはない珍しいことが書いてある。
それは、「ココロの使い方」とでもいうべきものです。

「心」と書くと、せつない恋心などという発情モードになってしまう昨今です。
いや、金属バットをふるったり、包丁でバス・ジャックをする「心の問題」のほうが流行りかな?

とにかく、「心が壊れた人」が溢れているのが、20世紀も終わりの文明社会らしい。
人によっては「哲学的!」と誉めてもらうこともあるこの日記で、バカのひとつ覚えみたいに言っているのが、「いまは変化の時代」だということ。
だから、モラルも社会のルールが消滅するのは仕方がない。
でも、人間は社会的動物だから、社会という「群れ」がないと幸せに暮らせないのですね。
封建時代や野蛮な未開時代でも人が「群れ」を作ったのは、それがないと不幸せだからです。

親に結婚相手を押し付けられようと、領主に税金を搾り取られようと、借金苦で娘を女郎に叩き売ろうと、そんな不自由な社会が存在してこれたのは、「社会」がない状態のほうがはるかに恐ろしく苦しいからです。
あー、大袈裟だなと笑わないで、ちょっとつきあってくださいね。(^^)

ところが、安定した社会はともすれば停滞してしまう。
人間が環境をこれだけ変えてしまった以上、停滞した社会は人類の死を招く。
悪化した生活環境を改善するためにも、変化はとどまるところをしらない。

変化をしたら不利益があるかもしれないけれど、変化をしなければ自滅するコースを、人類は選んでしまった。もう後へは戻れません。

で、なにがいいたいかというと、その変化に耐え抜く生活技術が絶対に必要だということです。
「あ”ー、また陳腐なことを言っているな」と怒らないでね。

それはなんだと言えば、わたしは「自分のココロと付き合う技術」だと思いますね。
べつに瞑想をやれとか、カルトに入れということではなく、「自分のココロ」と向き合う方法を身に付けないと、やっていけないということです。

で、「アルケミスト」に戻りますと、この本は「ひとはどうやって自分のココロと付き合うか?」ということをテーマにしている。

もっといえば「人間はどうやって夢を実現するのか?」ということについて、具体的なプロセスが書いてあります。

現代において不可解なことに、こういう本はふつう文芸の棚にはありません。
どこにあるかというと、不思議なことに「ビジネス書」の「自己啓発」のジャンルにある。
恥ずかしながら、わたしもその手の本をカバに食わせるほど読みました。

「アルケミスト」を読んでいると、その手の本に書かれたテクニックがいちいち頭に浮かんできました。

「ココロとつきあうにはどうしたらいいか」
「夢を実現するには、どうしたらいいか」
「夢を実現しようとすると、どんな邪魔が入るのか」

そういうことが実に詳しく書いてある。
10代・20代のうちにこの本を読んでいれば、ずいぶんと得したろうなあと思いますね。
でも、大多数の若者には、この本がそれほど凄いとはわからないかもしれない。

手元において、ときどき眺めていれば、「自分のココロが何をしたいのか」「自分はどんな人生の罠にはまりつつあるのか」ということがわかるでしょう。
夢を追いかける人には必読の本だと思います。

残念ながら、20世紀の文芸はこういう役に立つことをあまり書いていない。
風向きがこの10年で少し変わってきたとは思いますが、「夢を実現できないようにするには、どうすべきか」ということをテーマにしている方が多い。
「アルケミスト」が教える人生の罠に、「むしろ、どっぷりはまろう!」と呼びかけないと、格調高い作品とは言われない。

「自分のココロと付き合えれば、夢は実現できるし、運命の人・仕事にも出会える」という技法は、戦う生活者がぜひ身につけなければいけないものだと思います。
だから、その手の技術を書いた本は、戦うビジネスマンが読む「実用書」の棚にあって、学生や暇な人が読む「文芸」の棚には見当たらないのかもしれない。
ある種の「文芸」は「夢を追うことを諦めた人たち」に奉仕するためのものです。

「ココロ」なんてどうにもならないと思わずに、それと付き合う方法をぜひ身につけてください。
そういう力を持った人がひとりでも増えれば、まわりの人がみんなハッピーになりますからね。

というわけで、21世紀を生きぬく同志の皆さんに、「アルケミスト」はお薦めの本であります。

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