フロイトの生涯



事蹟 補足
1815年
12月18日
父ヤコプ(カラモン.ヤコプ)・フロイト、テュスメニッツで誕生
1832 ヤコプ、サリイ・カンナー(第一の妻)と結婚、テュスメニッツ
1833年4月 エマニュエル・フロイト(長兄)、テュスメニッツで誕生
1834年8 or 9月 フィリップ・フロイト(次兄)、テュスメニッツで誕生
1835年8月18日 母アマリエ・ナタンゾーン、ブロドイで誕生
1852 エマニュエル、マリア・ローカッハと結婚
1855年7月29日 ヤコプ、ウィーンでアマリエ・ナタンゾーン(第三の妻)と結婚
・ 8年13日 ヨハン・フロイト(長兄の長男)、フライブルクで誕生
1856年5月6日 ジークムント・フロイト誕生
・ 11月20日 パウリーネ・フロイト(長兄の長女)誕生
1857年10月 弟ユリウス誕生
1858年4月15日 弟死亡
・ 12年31日 妹アンナ誕生
1859年1月 子守り女レジ・バチック監獄へ 1859 「種の起源」
・ 2月22日 ベルタ(長兄の次女)誕生
・ 8月〜1860年3月 ライプツィヒに滞在

エマニュエル一家とフィリップはマンチェスターへ
1860( 4) ウィーンに移住
・ 3月21日 妹ローザ誕生(ウィーンにて)
・ 6月28日 サム・フロイト(長兄の次男)誕生
1861 妹マリア誕生
1862 妹ドルフィ誕生 1862-90 ビスマルク時代 
1864 妹パウラ誕生
1865 ベルナール「実験医学序説」
・ 7月20日 叔父ヨーゼフ(父の弟)、贋札販売で逮捕
レオポルトシュタットの実科高等学校(M.K)
・ 10月3日 母方の祖父ヤコプ・ナターゾーン、ウィーンで死去
1866
・ 2月22日 叔父ヨーゼフ、重禁固十年の判決
・ 4月19日 弟アレキサンダー誕生

ウィーンのギムナジウム入学
1867 オーストリア・ハンガリー帝国成立
1869 ハルトマン「無意識の哲学」
1870(14) 故郷フライベルクを訪れる。ジルバーシュタイン。(M.クリュルによる、以下M.K.と略記) 1870 普仏戦争
1871 1871 ドイツ帝国建設
1872(16) 故郷フライベルクを訪れる。ジルバーシュタイン。(S.S)
・ 8月初〜9月15日 幼なじみギゼラ・フルスと再会する(初恋)
1873(17) ウィーン大学医学部入学
・ 5月9日 魔の金曜日、株の大暴落
1875(19) 初夏マンチェスター訪問

* このころフォイエルバッハに傾倒
1876(20)

大学3年生で奨学金、比較解剖学者カール・クラウスがトリエステに設立した研究所へ(3月)。400匹のウナギを解剖、成果
ブリュッケ(1819-1892)の生理学研究所
ブロイアー、エクスナー、フライシュ=マルホフと出会う
1877(21) 「ウナギの生殖腺の形態と構造について」 ゾラ「居酒屋」, 蓄音機発明、ベル電話会社設立

ブリュッケ(1819-1892)の生理学研究所(M.K)
1878(22) 「ヤツメウナギの脊髄神経節および、脊髄について」 シャルコー、サルペトリエールにてヒステリー研究を開始
ジギスムントからジークムントへ改名
1879(23) 「神経系統の解剖学的調整の一方法に関する予報」
1880(24) 1879〜1880 軍務、

J.S.ミルの社会問題やプラトンにかかわる論文を翻訳
1881(25) 医学部の最終試験合格、学位
1882(26) 経済恐慌, 反ユダヤ主義高まる。コッホ, 結核菌発見
・ 4月 マルタ・ベルナイスと自宅で出会う
・ 6月 マルタ・ベルナイスと婚約。
生理学研究所を辞める。ウィーン総合病院。志願医(Aspirant)
・ 10月 内科(内科部長ヘルマン・ノートナーゲル; 1841-1905)

「ザリガニの神経繊維および神経細胞の構造について」
1883(27) マイネルトの精神医学教室(副医 Sekundarzt に昇格),その後皮膚科 1883 市庁舎完成
5ヶ月間 精神病治療研究所 (テオドール・マイネルト所長)にて脳解剖学と神経病理学を研究
・ 6月14/(17) マルタ、母と妹とヴァンツベークに移住(M.K)
・ 10月 アンナ、エリ・ベルナイス(マルタの兄)と結婚(M.Kによる)
・ 12月 ライプツイヒ旅行(異母兄たち)(M.K)
1884(28) 神経科へ、医長になる ( = 4月に上級副医) エンゲルス「家族,私有財産および国家の起源」

コカインの効果を知る、フライシュ=マルホフに勧める
「コカについて」
* コカインの作用・神経症の諸論文多数
1884年-1887年 ;前後数年のノイローゼ
1885(29) 眼科に、再び皮膚科に ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」
・ 9月 ウィーン大学神経病理学 私講師(Privatdozent)
・ 10月 病院を辞める、日記を破棄
パリ留学(ブリュッケの推薦)、シャルコーのもとで学ぶ
・11月?  ヤーコブ・フロイトの白内障手術(片目)
担当医カール・コーラーとレオポルド・ケーニヒシュタイン
1886(30) スティーブンソン「ジキル博士とハイド氏」
・ 2月末 パリ出発、ベルリンにてバビンスキー (Dr. Adolf Baginsky 1843 - 1918) に小児神経を学ぶ

ウィーン公立病院で小児神経科の医長として勤める(長年、週三回)
・ 4月 開業 (ラートハウス通り七番地)
・ 8月〜9月 軍務(4週間)
・ 9月 結婚(13日市民結婚、14日ユダヤ教結婚式)
ヴァンツーベクにて(M.K)

シャルコー「神経組織の病気に関する講義」翻訳
汽車恐怖症が起きる
・ 10月15日 ウィーン医学会にて男性ヒステリーについて講演

この年、コカイン中毒の害があきらかになり、評判を落す
置物のコレクションを始める(or 99年〜)
マリア・テレジア通り八番地へ転居(?)
1887(31) 長女マチルデ誕生

ブロイアーを介してフリースと交際をはじめる
催眠暗示の方法を採用
1888(32) ベルネーム「暗示とその治療への応用について」翻訳
1889(33) 催眠術の技術向上をめざしてナンシーへ旅行、 ベルネイムの実験を見学 パリ万国博(エッフェル塔建設)

長男マルティン誕生
エミー・フォン・N夫人に催眠カタルシス法を施す
インフルエンザから不整脈を起こして、「心臓神経症」になる
1890(34) 先輩医師ブロイアーとヒステリーの共同研究をはじめる フレーザー「金枝編」

友人ウィルヘルム・フリースと不定期に会合をはじめる
・ 8月 ザルツブルクでフリースと会う−−旅行不安の発作

「心的治療(心の治療)」
1891(35)
・ 2月19日 次男オリヴァー誕生
晩夏(8 or9月) ベルクガッセ通り19番地に移転

友人フライシュルの死(1846-1891)
「失語症の理解のために」
「小児の半側性脳性麻痺の臨床的研究」
1892(36) 三男エルンスト誕生

催眠暗示の方法を捨て、自由連想の方法へと移行
ベルネーム「催眠術と暗示と心理療法に関する新研究」翻訳
1893(37) 次女ゾフィー誕生

シャルコー死去
「シャルコー」
「ヒステリー現象の心的規制について」
「小児の脳性両側麻痺について」
秋(10月〜11月) 心臓障害(M.K)を起こす
1894(38) 夏にブロイアーとの共同研究終了。関係悪化

「防衛による神経症と精神異常」(=防衛神経精神病)
・4月〜7月 心臓障害、抑鬱状態、死の空想(M.K)
・ 9月 アドリア海へ家族旅行(M.K)
1895(39) シュニッツラー「恋愛三昧」
・ 2月末 エンマ・エックシュタイン、フリースに手術を受ける(M.K)
・ 3月 エンマの手術ミスが発覚(M.K)
・ 3月〜4月 エンマ、一時危篤となる:結局はもちなおす(M.K)
・4月 心臓障害(M.K)、コカインで自己治療(M.K)
・5月 鼻の化膿(M.K)

10時間もの診察(M.K)
・ 7月 イルマの注射の夢:はじめて夢分析をおこなう
・ 8月 弟とイタリア旅行(ヴェネツィア)(M.K)

「ヒステリー研究」ブロイアー共著
・ 9月4日 フリース、ベルリンでフロイトの鼻を手術(M.K)

その帰途から「科学的心理学草稿」を執筆開始(M.K)
・10 or 9月 心臓障害のぶりかえし(M.K)
・ 11月8日 心理学草稿にいきづまる(M.K)
・ 11月29日 「科学的心理学草稿」執筆を断念(M.K)
・ 12月 ミンナが同居(M.K)

医者としての仕事が好調(M.K)

三女アンナ誕生
この年 ユダヤ人結社「ブナイ・ブリース」へ参加
1896(40) 「精神分析」という言葉をはじめて使用

ブロイアーと決裂し、フリースと接近
・ 2月 偏頭痛(M.K)
・ 4月16日 偏頭痛、鼻の障害、死の不安(M.K)

エンマの訴えを分析(M.K)

友人フリースの励ましだけを心に支えとする(M.K)
・ 4月26-28日 「ヒステリー病因論」を講演(M.K)
・ 5月2日 「夢判断」にかんする講演(M.K)
・ 6月初め 家族旅行、彼のみウィーンに(M.K)
・ 6月30日 父ヤコブ発病(M.K)
・ 7月末-8月末 家族で休暇(シュタイアーマルクのアウスゼー)(M.K)
・ 8月末-9月半 弟とイタリア旅行(ヴェネツィア、ボロニア、フィレンツェ)
・ 9月29日 心臓障害をともなったインフルエンザ
・ 10月23日 父死去

マルタの妹ミンナが同居 (E.ジョーンズ,鈴木晶による)

「神経症の遺伝と病因について」
1897(41) 自己分析に着手。フリースとの関係が極度に密接 1897 シオニズム運動発足 
 H.エリス「性心理の研究」

「小児脳性麻痺」
・ 2月 11〜12時間働く(M.K)
・ 4月 フリースへの無意識の敵意を発見

フリースへの転移性抵抗
・ 5月24日 ミンナと子どもたちは旅行、マルタとフロイトはウィーンに(M.K)
・ 6月初め 家族の滞在先(アウスゼー)にいって、ウィーンへ帰ってくる(M.K)
・ 6月中旬以降 字が書けない(書字抑制)、ものが考えられない(知的麻痺)という症状がでる(M.K)
・ 7月半ば ミンナと二人で徒歩旅行、義母を訪問、亡父の墓石をウィーンへ購入(M.K.)
・ 7月末 アウスゼーの家族と落ち合う。9月末まで(M.K.)
・ 8月18日 書字抑制から回復(M.K.)
・ 8月25日 マルタ、弟、弟子ガットゥル博士とイタリア旅行(M.K.)
・ 9月20日 旅行からウィーンへ戻る(M.K.)
・ 9月21日 「誘惑理論取り消しの手紙」をフリースに出す
・ 9月26 - 29日 ベルリンのフリースを訪問
・ 10月  内的戦いの決算をフリースへ幼児体験報告として報告
・ 12月5 - 19日 ブナイ・ブリースで夢について講演(M.K.)
・ 12月12日 鼻の化膿と便秘(M.K.)
・ 12月 クリスマスにフリースと会う。鼻の焼灼。
1898(42) 幼児性欲について最初の発言 ラジウム発見

「神経症の病因における性」
・ 2月9日 夢の本の執筆(M.K.)
・ 2月 ほとんどを執筆(M.K.)
・ 3月 夢判断執筆(2章)(M.K.)
・ 5月 夢判断執筆(3章)(M.K.)
・ 7月 夢判断執筆(断片)(M.K.)
1899(43)
・ 1月3日 フリースへの手紙に隠蔽記憶についての分析を書く、下記論文に
・ 5月 「隠蔽記憶について」
・ 6月27日 「夢判断」の第一刷紙(M.K.)
・ 8月1日 「夢判断」ゲラをフリースへ(M.K.)
・ 9月11日 「夢判断」完成(M.K.)
・ 11月4日 「夢判断」刊行

*汽車旅行恐怖が消える
1900(44) 大学で講義(夢について)。フリースと断交 プランク「量子論の基礎」パブロフ「条件反射」

「夢判断」の出版日付
・8月初 チロルのアッヘン湖でフリースと衝突

チロル経由でベネツィアへ(マルタともうひとりの友人)

ミンナとケルンテルンとテッシンへ旅行
・10月 「日常生活の精神病理学」の資料収集、女性患者ドーラの分析
1901(45)
・ 1月 フリースと文通の中止を提案
・ 1月25日 「ドーラ分析」をかきあげる(1904年発表)
・ 5月8日 「日常生活の精神病理学」(1904年発表)
・ 8月末 ローマ旅行(弟アレキサンダーと)、ミケランジェロのモーゼ像に感銘をうける
・ 11月 ウィーン大学教授任命の工作(?)をはじめる
1902(46) フリースとの交際が終わる
・ 3月 ウィーン大学 員外教授に任命
・ 9月 イタリア旅行
・ 10月 シュテーケル、アドラーと「心理学水曜会」

*ヴァイニンガー「性と性格」の出版により、フリースともめる
1903(47) ヴァイニンガー「性と性格」
1904(48) 「ドーラ分析」 ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義」
・ 9月 ギリシア旅行(アクロポリス体験)
―― トリエステからアテネへ船旅
1905(49) 「ジョークと無意識との関係」
「性欲論三編」
アインシュタイン「特殊相対性理論」

イタリア旅行
1906(50) ユングと文通。オットー・ラングと合う ユング「連想の診断学的研究」
1907(51) ユングと会う。カール・アブラハムと交際がはじまる ベルクソン「創造的進化」ジェームズ「プラグマティズム」

「W.イエンゼンの『グラディヴァ』における妄想と夢」
イタリア旅行
患者「ねずみ男」の治療
1908(52)
・ 4月 ブロイラー、ユングらがザルツブルグで「国際精神分析学会」

ジョーンズ、フィレンツィ、タウスクと会う
・ 9月 英国訪問、異母兄エマヌエルとフィリップと会う
・ 9月 チューリヒ訪問

「性格と肛門愛」
「幼児の性に関する考えについて」
「詩人と空想すること」
1909(53) ランク「英雄誕生の神話」

「五歳の男児の恐怖症の分析」(患者リトル・ハンスの症例)
・ 9月 渡米(ユング、フィレンツィ)

クラーク大学で講演、ウィリアム・ジェームズと会う
「強迫神経症の一例に関する考察」(症例 ねずみ男)
1910(54) フレーザー「トーテミズムと族外婚」レヴィ=ブリュール「未開社会の思惟」リルケ「マルテの手記」
・ 3月 国際精神分析学協会、ユングが初代会長(ニュルンベルク)
シュテーケルが機関誌担当


音楽家マーラーの治療
・ 9月 パリ、イタリア、フィレンツェ、ローマ、シチリアを旅行する
同行したのは弟子のサンドール・フィレンツィ

「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼児期の一記憶」
「精神現象の二原則に関する公式」
患者「狼男」の治療開始
1911(55)
・ 6月 アドラーが協会を脱退(自由精神分析学協会)
・ 8月29日 異母兄フィリップ死去(マンチェスター)
・ 9月 ワイマールで大会。

「自伝的に記述されたパラノイアの一症例」(症例シュレーバー)
この年、ブダペストで国際精神分析学会議を開催
1912(56)

雑誌「イマーゴ」創刊
ユングとの関係悪化
ジョーンズ「委員会」設立を提案
・ 9月 ローマ旅行(フィレンツィ)
・10月 シュテーケルが協会を脱退
1913(57) プルースト「失われた時を求めて」

ミュンヘンで大会。ユングと最終的に決裂
フェレンツィ、アブラハム、ジョーンズらが「委員会」結成
「トーテムとタブー」
「子箱選びのモチーフ」
「分析治療の開始について」
1914(58) ユングが協会を脱退 1914-18 第一次世界大戦 

「精神分析運動史」
「ナルチシズム入門」
「ミケランジェロのモーセ像」
「想起、反復、徹底操作」

・ 7月
* 第一次世界大戦 開始
・ 10月17日 異母兄エマヌエル死去(マンチェスター)

患者「狼男」治療終結
1915(59)

詩人リルケの訪問

ウィーン大学で「精神分析入門」講義
「心霊現象に関する試論」12編執筆
「本能とその運命」
「無意識について」
「戦争と死についての時評」
1916(60) 1916〜1917、大学で最後の講義

「悲哀とメランコリー」
1917(61) 1917 ロシア革命

「精神分析入門」
「『詩と真実』の中の幼年時代の一記憶」

1918(62)

ブダペストで大会
「ある幼児期神経症の病歴より」(症例 狼男)
・10月 弟子ヘレーネ・ドイッチェを分析(〜19年秋まで)
・11月11日
* 第一次世界大戦終結
1919(63) 1919 ヴェルサイユ条約

「快感原則の彼岸」、「集団心理学」の執筆開始
「無気味なもの」
国際精神分析出版所をウィーンに設立
「精神分析療法の道」
1919.1〜1919.3 ヘレーネ・ドィッチェ、タウスクを分析する
狼男の第二回治療(4ヶ月)
7月 タウスク自殺
1920(64) 1920 国際連盟
・ 1月 次女ゾフィー死去
・ 9月 ハーグで大会

「快感原則の彼岸」
「集団心理学」
1921(65) クレッチマー「体格と性格」

「集団心理学と自我の分析」(?)
1922(66) ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」クレッチマー「医学的心理学」ジョイス「ユリシーズ」ハイデガー「存在と時間」

「嫉妬、パラノイアおよび同性愛における二、三の神経症機制」
1923(67) ブーバー「我と汝」リルケ「ドゥイノ悲歌」

ガン手術(4月), 孫 Heinz 死亡(6月)
「自我とエス」
ロマン・ロランと文通をはじめる
1924(68) マン「魔の山」ブルトン「シュールレアリズム宣言」

ロマン・ロラン(S.ツヴァイクとともに)の訪問
ザルツブルクで大会
・ 8月 弟子ランク離反

「神経症と精神病」
「マゾヒズムの経済問題」
1925(69)

ハンブルクで大会
・ 7月 アンナ・フロイト(末娘)、委員会に参加
・ 12月 弟子アブラハム死去

「自らを語る」
「否定」
「両性の解剖学的差異から生じる心理学的帰結」
1926(70) カフカ「城」ヘミングウェイ「日はまた昇る」

誕生日にアインシュタイン、ロマン・ロランからの祝電
「制止、症状、不安」
1927(71) ライヒ「オルガスムスの機能」ビンスワンガー「精神分裂病」

インスブルクで大会
「幻想の未来」
「フェティシズム」
・ 9月 委員会解散
1928(72) ロレンス「チャタレー夫人の恋人」

「ドストエフスキーと父殺し」
1929(73) 1929-32 世界恐慌

オックスフォードで大会 ケーラー「ゲシュタルト心理学」
・ 秋 弟子フィレンツィ離反
1930(74) ビンスワンガー「夢と実存」
・8月 ゲーテ文学賞を受賞
・9月 母 アマリエ死亡

「文化への不満」
1931(75)

「女性の性愛について」
1932(76) M.クライン「児童の精神分析」ライヒ「ファシズムの大衆心理」「性格分析」

トーマス・マンの訪問
ヴィスバーデンで大会
「続精神分析入門」
1933 1933 ヒトラー,ドイツ首相就任
・ 5月 著書が禁書となる
弟子フィレンツィ死去
1934(78) 「モーゼと一神教」執筆開始
1935(79) ピアジュ「知性の誕生」

レヴィ=ブリュールの訪問
王立医学会名誉会員となる
1936(80) 1936-39 スペイン内乱

八十歳の誕生日。マリエンバートで大会 A.フロイト「自我と防衛」ラカン「鏡像段階」
1937(81) ホルクハイマー「権威と家族」

友人で弟子のL.A.ザロメ死去
「終りある分析と終りなき分析」
「分析技法における構成の問題」
1938(82)
・ 3月11日
ナチス、オーストリアを併合

ナチス、オーストリア侵入、国際精神分析出版所を接収
フロイト宅を家宅捜査
・ 6月3日 パリ経由でロンドン亡命

メアーズフィールド・ガーデンに落ち着く(終焉の地)
H.G.ウェルズ、マリノフスキーがフロイト宅を訪問
・ 9月 ガン手術(最後)
・ 9月29-30日
ミュンヘン会談
1939(83) ハルトマン「自我心理学と適応問題」

「モーゼと一神教」
「精神分析概説」(未完)
・ 2月 ガン再発
・ 9月1日
第二次世界大戦勃発
・ 9月21日 以後は昏睡状態
・ 9月23日 死去(83)
(鈴木晶氏およびM.クリュルの年表をもとに再編集)

文責 工藤龍大

© 1999 Tatshuhiro Kudo. All rights reserved.
Last Renewal Date; 99/09/08