お気楽読書日記:12月

作成 工藤龍大

日記目次へ戻る | ホームへ戻る

12月

12月31日

今年最後の読書日記です。

毎日12時過ぎにかえっていたおかげで、読書も進まなかったこのごろ。
宮城谷昌光さんの「青雲はるかに」を読了しました。

主人公范雎(はんしょ)は中国戦国時代の人。
拷問されて簀巻きにされたうえに、厠室で小便をかけられた逸話の主です。
のちに、相手に復讐した執念深い性格でも、知られている。

戦国時代の英傑のひとりではあるけれど、印象は暗い。
ところが、宮城谷さんにかかると、范雎という男がだんぜん輝いてくる。

世に埋もれながら、ひたすら天運を信じて精進し続ける男と、その男の魂を信じ抜いた女の愛の物語。
このように書くと安っぽいけれど、これが宮城谷作品の王道。
魂の位が高い人間とはどういうものか。
そうした人間が志を達するために、「天」という存在がどのような道を用意するか。

歴史には、そういう見本がいっぱいある。
けれど、凡庸な歴史学者や作家にはそれを表現することはできない。

宮城谷さんの懐かしいところは、そのような奇蹟をみごとに描き出してくれるところです。
『史記』にある范雎の列伝を読んだだけでは、とうてい宮城谷さんの慧眼には達しない。
司馬遷よりも、宮城谷さんは范雎という男を深く理解したに違いない。

いや、司馬遷は范雎に非凡なところに感じて、列伝に記録したことが、二千年後に知音をえて、その秘密が明らかにされたともいえる。

宮城谷作品の魅力のひとつは、極上の女たちが登場すること。
この作品に登場する女たちは、ルックスにさほど恵まれているとはおもえない范雎を熱愛します。
ただの好色な男の願望のようにみえるけれど、宮城谷さんの眼は違う。
男が同性にはみつけることができない「魂の高貴さ」を、直感的に見抜く叡智の眼をもつ生き物と、宮城谷さんはみている。
だから、范雎の美質を知り、女たちは恋し、愛する。

女は男の本質を知ることにおいて、男には及びもつかない能力がある。
そのちからがある女は、極上といえる。

范雎の妻となる原声。范雎の恋人で後に秦国王の正室となる華陽夫人。
彼女たちを筆頭に、高貴な魂の持ち主である美女たちが続々と登場する。

青雲の志をとげようと、市塵の底辺をはいずるまわる范雎を支え続けた女たちの思いに、目頭が熱くなります。
半殺しにあって恥辱のきわみを味わった男のいのちを立ち直らせたのは、この女たちのちからです。

『青雲はるかに』は、すごい小説です。
深い魂のメッセージがこもっている。
これを読まずに、生涯を終わることはなんとももったいない話です。

先頭に戻る

12月23日

Amazon.co.jp に注文していたレクラム文庫が到着しました。

『ラインの指輪』四部作と、『彷徨えるオランダ人』、『パルシファル』の計六冊。

以前に注文していた他の洋書より早かったのには驚きました。

これで、Amazon.co.jp でレクラム文庫がかんたんに入手できることがわかったので、これからドイツ語読書に励もうと思います。

ところで、ワグナーの楽劇台本を待ちかねていた昨日、荷造りをといていない本の段ボールから "NiebelungenLied" (ニーベルンゲンの歌)を発掘して読んでいました。
さすがに古いドイツ語はきつい。
解説のドイツ語はそれなりに読めるのに、本文は頭をかかえます。

といって、大学の授業じゃあるまいし、きっちり分かる必要もないので、読み飛ばしています。

いいかげんみたいだけれど、古典はまず読み飛ばすに限る。
すると、やがてテキストの方からいろんなことを教えてくれる。

楽劇の原典のひとつである『ニーベルンゲンの歌』に比べると、ワグナーのドイツ語はぜんぜん楽です。
台本だからページがすかすかというのも一因だけれど。

年末にかけて、たっぷり楽しめそうです。
おかげで我が家では超音波に近いワルキューレの歌声や、派手なオーケストレーションが一日中鳴り響いています。

先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記

12月22日

すごい小説があったものだ。
文庫解説者の佐藤隆介氏の口真似ではないけれど、そういわずにはいられない。

佐藤氏はご存知のとおり、池波正太郎氏の外国旅行に同行した通訳兼ファンのひと。ライターさんです。

この作品『さむらい劇場』には、池波作品のエッセンスがつまっている。
登場人物のひとりに、徳山(とくのやま)五兵衛という人がいる。
この名前に見覚えのある人は、かなりディープな池波ファン。
火付け盗賊改めとして別の作品で活躍したお旗本です。

この人の甥、榎平八郎という若者が主人公。
設定が似ているので、後半は『鬼平犯科帳』みたいな展開になっています。

しかし、そういうことが凄いのではありません。
ドロップアウトした人間がどうやって生き直すのか。
重いテーマが底流にある。

こういう問題を扱って、なおかつ山本周五郎にならないのが、池波さんの凄さです。
びしり、びしりとツボをこころえた漢(おとこ)・徳山五兵衛の薫陶が、ひとりの若者を希望の無いすさんだ生活から救い出す。

若者がひとりの漢(おとこ)に鍛えられるというのは、ロバート・パーカーの『初秋』にいたるまで「むかし男の子だったおじさん」たちがとても好むストーリーです。
ただし池波さんは、若者の教育をスーパー・ヒーロー一人にやらせるわけでなく、若者の友人(というより彼を悪に誘う仲間)との男の磨きあいに託している。
ここがすごい。

ときには若者の命を狙う悪党との友情と、命がけの男の磨きあいは、女性作家を嫉妬させる男だけの世界です。
まともな頭をもった女の人は、そういう世界があることを知っている。
いい男はそういう世界でしか育たないことも。

れっきとした娯楽小説ではあるけれども、池波作品は男という生き物が育つ道を教えてくれるバイブルです。
同時に、いい女とはどんなものかも教えてくれます。
そういったものすべてをひっくるめて、「凄い小説」というほかはない。

読み終えて、なんだかとても良い風に感じました。

小説を楽しむことは、作者の人間力に出会うこと。
少なくとも、わたしにとって小説はそういうものです。

先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記

12月21日

先週読んだ本の読書日記です。
なかなかアップする時間がなくて、読んだ本ばかりたまっていく。
ネタに困らないので、書くほうとしては楽ですけど。(笑)

今では読む人もあまりいない女流作家で、シャーリィ・ジャクスンという人がいます。

一九六五年に亡くなっているから無理もない。
この人の作品に、『山荘奇談』というのがあります。
執筆は、一九五六年。
わたしが生まれる前です。(笑)

ゴースト・ストーリーの有名な作品で、系統からいえば『地獄の家』(マシスン)、『シャイニング』(キング)の上流に属する。

まだ幻想文学やSFに中毒していた頃から気になっていた本ではありますが、ずっと積ン読状態でした。

理由は早川書房のモダン・ホラー・セレクションに入っていたせいで、このセレクションで面白いのを読んだことがない。
だから、なかなか読む気にはなれず、それでいて捨てる気にもなれず、引越のときの本の整理からも生き延びた。

読むたくなかった理由は、モダン・ホラーであること、あまりにも身勝手で(ついでに)みじめな若い女性が主人公であること。

違った看板で、主人公がもう少し魅力的だったら、ずっと前に読んでいたでしょう。

(これだけけなすなら、読まなければいいのに)
という声が聞こえそうだけれど、読んで後悔することはありませんでした。

主人公が魅力のない自己チューの女の子ではなく、山荘そのものだとわかったからです。

ホラー的に読めば、これは霊の住む「妖館」が若い女性を破滅させる物語となる。

しかし、そういう読み方しかできない人が読むと、あてがはずれるのは間違いない。
「敵の正体」はついに明かされないわけですから。
ただホラーを読んでうんざりさせられるのは、正体を現した敵の「しょーもなさ」だったりするから、この場合はかえって「オッケー」です。

むしろ、かつて精神分裂症いまでは統合失調症と呼ばれる病におちいった孤独な女の子が、周囲から見捨てられて、無残な運命をたどる心理小説ですね、これは。

恋愛心理を克明に描くのではなく、発作的に自殺衝動にとりつかれる狂気(統合の失調といわなければならないですかね?)にいたる過程を克明に書いてゆく。

ホラーというジャンル小説よりも、異常心理者のドキュメンタリーと呼びたい気分があります。

舞台となる「山荘」は、建築のすべての部分が少しずつ歪んでいる。水平な場所や垂直な場所はない。だから、船酔いにあっているように平衡感覚が日常的に狂ってゆく。

そして、この山荘は実の娘に異常な執着をもった故・建築者が我が子を外界から切り離して、とじこめておくための牢獄でもある。
別に監禁するための仕掛けがあるわけではないけれど、悪魔主義者かカルト的なオカルティストだった父親の亡魂に引き寄せられるようにして、娘はいったん外の世界に出て行ってもここに帰ってくる。
そして、生涯独身のまま世を終える。

それから数十年後に、ここにやってきた主人公は、痴呆の母の看護で外界との接触を失い、母が死んだいまでは姉夫婦の居候でしかない。
手に職もなく、生きる場所がない主人公がは、新しい生活を求めてきた。

そこで出会った連中は、山荘で幽霊の調査をしようと主人公たちを招いた科学者、労働意欲も無く親戚のうちで厄介になる青年、共同生活していたパートナーと大喧嘩して行き場をなくした若い娘。

ドロップアウターたちばかりなんですね。
科学者と青年にいたっては、怪奇現象に襲われる娘たちを護ろうという男気はまるでない。

この小説では、女性の悪夢が具象化している。
あてにならないばかりか、底意地の悪さを感じさせる同性の友人。
信頼できない弱いダメ男ども。
自分を見捨てる家族。
孤立。
疎外。

そして挫折感と疎外感で、自分をますます嫌いになる。
あげくは、狂気のファンタジーに飲み込まれる。

四六歳で死んだ作者シャーリー・ジャクスンは、こうした心理解剖がとても上手でした。

ところで、行間を読んでゆくと、救いのない主人公を、おのれの中に取り込もうとして働きかけている「何者か」がみえてくる。
これが「山荘」。たんなる建築物というより、建物に閉じこまれた霊たちの共生体のように思える。主人公は、この共生関係に取り込まれることをつよく願うようになる。

カルトに誘われ、洗脳されるような孤独な魂は、同類たちの間で病んだ安らぎをえるのです。

精神的に自立できない人間の苦悩を、分かち合うことは難しい。
周囲にいるのが同じ自立できない人々であればなおさら。
この作品が描いているのは、「人生を病む」つらさを癒すことのできない無力です。
だから、ココロの問題に興味があるひとには一読の価値がある。

当然、読む行為はひどく重たい。読後感は暗い。
それでも読んでみたいと思う人なら、一読して損はないはず。

先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記

12月14日

昨日の続きの『中華帝国志 上巻』(安能務)です。

この巻は、安能さんの『韓非子』と『始皇帝』の続編の趣きがあります。
秦の始皇帝が中華世界を統一したのち、その転覆を狙う韓王室の末裔・張良。
かれは韓非子の弟子でもあった。

始皇帝暗殺の試みに失敗して市井の潜む張良に、怪しい老人が声をかける。

これは有名な漢の軍師・張良と仙人・黄石公の出会いです。
張良に兵法・軍略の秘術を奥義を授ける仙人・黄石公は、神仙伝の人気者ですが、ここでは『韓非子』と『始皇帝』の名脇役「尉繚子」(うつりょうし)とされる。
韓非子の親友で、周代の同名の兵法思想家の子孫であり、本人も卓抜な兵法家である尉繚子は、自己が研鑚した兵法の奥義を授ける。

始皇帝亡き後の混乱を予想した尉繚子は、親友韓非子の夢である法治国家の再建をその弟子張良に託した−−という韓非子ファンには泣かせる展開です。

張良の深謀遠慮で、劉邦が漢の高祖となり天下をとる展開は、歴史ドラマの定番。安能さんの作品では『封神演義』に匹敵する活劇です。
役者がそろっているので、中国史ファンにはこたえられません。

張良の退場とともに、複雑怪奇な中国人の権謀術数の講義がふたたび始まります。
このあたりも小説にしてくれると、噛み砕き飲み込むのが楽ちんなのですが、思想劇をドラマにするには役者がいる。

安能さんの権謀術数談義を演じきれる役者は、『韓非子』の韓非子、『春秋戦国志』の晏子と管仲、それに張良ぐらい。
中国四千年の歴史でも、これだけの役者はなかなかいない。

これ以後の『中華帝国志』が、ドラマではなく、「論」になるのはやむをえません。

英雄は以後も漢の武帝、三国志のご存知の面々などなど続々と登場しますが、この四人に匹敵する「魂の位」の持ち主はいない。
「英雄」という得体のしれないものよりも、「魂の位」のほうが大切とするあたり、安能さんが好きな道教はどこか日本人の心に訴えかけるものがあります。
神道と道教は、同じ源流から出ているという説は、やっぱり本当なんでしょうね。

先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記

12月12日

時間がなくてなかなか読みきれない安能務さんの本です。
『春秋戦国志』が文庫本三冊。『中華帝国志』も同じ。
量もあるし、軽い歴史読み物というわけでもない。

安能さんの本の難しさは、類書がないことも一因です。
アカデミックな学者さん、中国通の歴史作家のだれとも違うことを、この人は書いている。
ひとことでいえば、中国人が本音でしかいわないことばかり。

ビジネスか戦争で、あちらの国の人に痛い目にあった人間でなければ、こんなことを書けない。おめでたいマスコミ人でも駄目でしょう。

安能さんは中国の人たちの裏の顔、それがいいすぎであれば、腹の底を知っている。中国人が登場しても、ニッポン人と変わらない中国もの作家とはまるで違う。

今回は、その『中華帝国志 上巻』(安能務)。
三巻それぞれが、中国民族の「権謀術数発達史観」(これはわたしの造語です)で貫かれていて、ひとまとめにくくるのが惜しい。

おそらく中国に対する造詣といえば、作家では陳瞬臣さんがナンバーワンでしょう。陳の作品はいろいろ読んだけれど、安能さんのような「哲学」がない。
本物の中国人である陳さんは哲学なんてものを鼻から必要とせず、中国人の哲学をかぎ出さずにいられなかった安能さんこそ、やはり日本人の典型といわざるをえないのでしょう。

安能さんの痛快さは、中国四千年の通史など、中国のインテリは読んだことがないと喝破したことにあります。

たとえば、「正気の歌」という漢詩を書いて、モンゴル軍への服属を拒否して自殺した南宋の政治家・文天祥。
安能さんの解釈では、モンゴル軍の宰相バヤンに、中国歴代王朝の興亡をかいつまんで講釈してくれたと頼まれたのが自殺の理由らしい。

じつは、中国知識人の最高峰と自他共に認める文天祥は、南宋にいたる中国正統王朝十七史を読破していなかった!
現代と違って、通俗なダイジェストもないので、知識人としては『春秋』『史記』などの正史を読破しなければならない。

清朝の未完成原稿を含めても、その量は牛車で五台。南宋とくると残りはモンゴルの後身「元朝」、明朝、清朝。王朝の数からいえば、牛車五台の大部分はそれ以前のものとなります。

中国の歴史時代のインテリは、自分の読書量を誇って「牛車一台分の本を読んだ」というのが常だった。一日本ばかり読んでいる書斎人でこれだから、政治家や武将をやっていると牛車一台分を読破するのは無理です。

少なくとも、牛車三台以上はある「正史」を読破するのは物理的に不可能。

だから、プライドの高い文天祥はそのことがばれるのがいやさに自殺した!
ただの笑い話に聞こえますが、あちらの国の人間の異常なプライドを考えると、笑い飛ばすわけにはいきません。この手のジョークのような、それでいて妙に説得力のある珍説を出してくるあたり、安能さんはなかなか食えない人です。

それはともかくとして、中国史が読破できない理由として、安能さんが発見したもうひとつが「パターン化現象」です。
つまり、似たような事件、出来事が判で押したように、どの王朝でも発生する。
おんなじ話が繰り返されるのですね、キャラクター名が違うだけで。

ここが日本史などと違うことで、源頼朝、義経、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といえば大体キャラクターが決まっている。
似たような人は他の時代には出てこない。

ところが中国史には、こういう英雄たちがパターン化して次々と現れる。
だから、英雄Aのやったことを英雄B、C、D、E、F(以下略)がやってみせる。悪人でもそう。後宮の美女もそう。

唐ぐらいまでいくと、あとはもうわけが分からなくなってきます。
だれが誰だか区別がつかなくなるんです。

なぜ、そんなことになっているのか。
大哲学者・安能さんが、その秘密を解き明かしてくれたのが、『中華帝国志』なのです。

先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記

12月10日

池波正太郎さんの小説には、人生がある。
登場する人々に背中がある。
つまらない小説とすごい小説の違いは、背中の厚みでしょうか。
なかには、背中そのものがないペラペラの紙人形ばかりのものもあります。

『秘密』(池波正太郎)の主人公である町医者・片桐宗春をとりまく人々は、どこかなく懐かしさと深みをそなえた人ばかり。

宗春の父の弟子だった医師・滑川勝庵、その弟子白石又市。患者の吉野家清五郎。
どちらかといえば小品である『秘密』のキャラクターが、すっかり心のなかにはいりこんでしまいました。

その感覚は、『剣客商売』の小世界と似ています。

つまらない武士の意地張りで、仇持ちとなった宗春は、追っ手の目を避けて放浪の旅にある。
剣の達人ではあるけれど、追っ手に剣技が劣る宗春は必死に逃亡し続ける。

その流浪のなかで、勝庵や吉野家清五郎の助けられ、人は一人では生きられないという真実を学んでゆく。

戦前生まれで世間で揉まれて生きた池波さんは、「人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」という甘えた根性をもっていない。

人が世にあることは、必ず何かのかたちで誰かに厄介をかけている。
存在するだけで、人に迷惑をかけているというべきでしょう。
だから、「人に迷惑をかけない」ということはそもそもありえない。

空気を吸わず、水を飲まなくても、真空中でも生きられると言い張るのは幼児だけです。
この国の人間が醜くみえて仕方ないのは、食い物を果てしなくねだり、糞便を垂れ流す惚け老人を美しく思えないのと同じかもしれない。
赤ん坊なら許せるけれど、大人の肉体をもった生き物が乳幼児と同じでは。

大人であるとは、「人間とは互いに迷惑をかけあうもの。だから助け合うもの」ということをわきまえていることに他ならない。

この真実を知っていることが、世を生きてゆくいちばんの「宝」です。
池波さんの小説は、力強くそのことを確かめさせてくれる。
だから、生活している人間、つまり他人の世話になったり、他人を世話せざるをえない人間は絶対的に惹かれる。

池波さんの小説を読むことは、「癒し」どころではない。
それどころか、「癒し」という寝言は、池波さんの小説には似合わない。

勇気づけられ、元気をとりもどす。
それが池波作品の効用です。

ただし、それを「元気をもらう」なんて乞食根性でいうとおかしなことになる。
甘えと乞食根性こそ、池波作品でもっとも軽蔑されるものだから。

「日本では真のハードボイルド作家は池波正太郎しかいない」とよく言われたものです。
ハードボイルドというジャンルはもはや死語に近いけれど、少なくともハメットとチャンドラーを基準にすると、これが文学として成り立つ要素は三つある。
無駄のない美しい文体。
言葉の真の意味で、モラリッシュであること。
魅力ある生きた大人の女が登場すること。

池波さんの小説は、この定義そのもの。
というより、これが大人が読みたい文学の定義でしょう。

本を読めないこどもには関係ない。
こどもは携帯メールでも読んでいなさい。

先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記

12月 8日

『源氏物語五十四帖を歩く』(監修・朧谷壽)を読んでいます。
源氏物語のダイジェストと、ゆかりの地の写真をおさめた紀行本です。

ガイドブック的に、名所を網羅しているので、なかなか便利。
源氏物語図屏風で平安時代貴族の風俗をしのび、現代に残る名刹、風景を楽しみつつ、源氏物語のストーリーがごく安直にわかるのがありがたい。

登場人物の相関関係や、血縁関係も図式化してあるのでわかりやすい。

古典教育がなっていないわたしたちの世代は、こんなガイドブックでもないと、源氏には入れないなあと痛感しました。

この手の本から徐々に気圧に慣らしていって、一気に源氏物語の世界へダイブする。
日本最大の古典にチャレンジするには、裏口からはいるのが最善のアプローチかもしれないと思っています。

題材が恋愛なんで、真正面から攻略する気にならないのが、泣き所なんですよ。

先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記

12月 7日

ワレリー・ゲルギエフ指揮の、キーロフ歌劇場管弦楽団の演奏会に行ってきました。

ゲルギエフはクラシック・ファン注目の世界的指揮者。ロシア作曲家の演奏を得意としているそうです。

会場でもらったパンフレットでは、1997年にロシアで80年ぶりに『パルジファル』を上演。2000年からは『ニーベルングの指輪』を上演しているとか。

詳細はよくわかりませんが、ワグナーはナチスの宣伝に使われたから、旧ソ連では上演されなかったのかもしれません。
旧ソ連の解体は、1991年。ゲルギエフの活躍は、ソ連解体と並行しているのでしょう。
その活動の舞台となるキーロフ歌劇場も、旧ソ連のモスクワ偏重政策で衰退していたのが、1988年にゲルギエフが芸術監督に就任してから第二次世界大戦前のような世界的なオーケストラに返り咲いたのです。

前年の1987年に旧ソ連のペレストロイカが始まったことと無関係ではないでしょう。

公演の演目では、リムスキー=コルサコフの交響詩『シェエラザード』が圧巻でした。
CDなどで聴いた他の指揮者とはまるで違ったサウンドでした。
音の厚みと迫力が違う。クラシック・ファイン必聴です。

バラキレフの「イスメライ(東洋的幻想曲)もすばらしい。
ロシア五人組といって、ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフはすぐに出るけれど、あと二人は思い出せない。
調べてみると、キュイとバラキレフなんですが、どちらの曲も出来の悪いクラシック・ファンのわたしは知りません。

五人組のリーダーだったのは、実はバラキレフだったのですが......

ところで、バラキレフ作曲の「イスメライ」は本来ピアノ曲だったそうです。
それをバラキレフの弟子リャブノフがオーケストラ用に編曲したのが今回の演目でした。

五人組はみんな独学で作曲技法を身につけたり、本業を別に持っているせいで、作品数が多くない。たとえば、ボロディンは大学教授(医学)で、リムスキー=コルサコフは海軍軍人でした。
だから弟子や友人が途絶した作品を完成させた例もあります。

有名なムソルグスキーの『はげ山の一夜』は、じつは仲間のリムスキー=コルサコフがかれの作品素材を組み合わせて編曲したもの。
編曲とはいえ、ほとんどリムスキー=コルサコフが作ったコラージュみたいなものです。

どういうわけか、ゲルギエフ指揮の『はげ山の一夜』と『中央アジアの草原にて』では眠気をもよおしてしまった。
綺麗な音の連続につい気が緩んだのでしょうか。

ところで、アンコール曲はチャイコフスキーの『くるみ割り人形』から「パドドゥ」と「トレパック」。
これがなんとも良い。
思わず身体が動き出す。
こんなのは、クラシックではめずらしい。

ロシアに堪能したコンサートでした。

ところで、妙な副作用が出ました。
『シェエラザード』を聴いていると、みょうにワグナーが懐かしくなる。
これを書いているのは、8日なのですが、つい疼きに耐えかねてレクラム文庫の「ニーベルングの指輪」四部作を注文してしまった。
おまけに「パルシファル」と「さまよえるオランダ人」もつけて。
注文したドイツ語原書が年内についてくれれば良いのですが−−

先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記

12月 6日

本日のお題は、国立西洋美術館でやっていた「ウィンスロップ・コレクション展」と本について。

ウィンスロップとはアメリカの実業家で美術コレクターだった人物。
没後、そのコレクションを母校ハーバード大学に寄贈した。同大学のフォッグ美術館に、コレクションは収蔵されている。

このコレクションの眼目は、イギリスのラファエル前派やギュスターブ・モローです。

今回、日本に来たのはこれにウィリアム・ブレイクを加えた垂涎もの。

「美しき骨董」という本の属性に目覚めた人間として、かのウィリアム・モリスの協力者バーン=ジョーンズの実物はぜひ見ておかねば。
−−などという勝手な熱に浮かされて、出かけた次第です。

ところが、実物に接してみると、バーン=ジョーンズには大して感銘を受けなかった。お仲間のロゼッティに至っては、「だれを書いてもおんなじ顔」としか思えない。
どうも相性がよくないようです。

ブレイクの版画と、モローはあいかわらず気に入りました。
意外だったのは、ぼやけた描線の画家だとして好きではなかったホイッスラーの絵がすばらしかったこと。
少女に近い若い女性を描いた大作「灰色と桃色のハーモニー」には見惚れました。
テムズ川を描いた「青と銀のノクターン」、ロンドンの商家を描いた「黒と金のノクターン」もいい。
「チェルシーのはぎれの店」といった方が通りが良い「黒と金のノクターン」は画面が暗いために、少し離れると真っ黒にみえる。
そこを近寄ってみると、闇のなかに浮かぶおぼろげなショーウィンドーや街灯がなんとも暖かい光を放っている。

厚かましいド派手な絵よりも、こういうのが好きですね。

ところで、先週からたびたび読んでいる『希書自慢 紙の極楽』で、荒俣宏さんがウィリアム・モリスの美本などつまらないと書いています。
もっと凄い本があるとして、17世紀のバロック本や彩色銅版画本をあげている。
たしかに、荒俣さんの言うようにモリスの本はインクナブラ(揺籃期本)の活字を復活させたり、中世写本のレイアウトを採用しているから、荒俣さん好みの「馬鹿馬鹿しい本」というにはお上品すぎる。
持ち上げるのさえ難しいバロック本とはパワーが違う。

その点は賛成なのですが、荒俣さんがもう一種類持ち上げるフランス・ロマンチック本は理解できません。
なんとなく安っぽい扇情主義を感じてついていけない。

エロと書かないで、「扇情主義」としたのは、カタカナにするだけの即物性、肉体性がなくて、どこか少女チックで、お上品だからです。
一言でいって、五十年前の少女漫画、いや戦前の少女愛小説(?)の挿絵に近いビジュアル感覚に、どうもついていけない。

これに比べたら、ニューハーフっぽいバーン=ジョーンズの女性像のほうが、はるかに好ましく見えるあたり、わたしのジェンダーの壁は厚いですね。(笑)

先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記

12月 1日(その2)

ふだん読書できない欲求不満からか、今日は読書に徹した一日でした。

『美しき書物の話』(アラン・G・トマス)。
『希書自慢 紙の極楽』(荒俣宏)。
『読書百遍』(奥本大三郎)。

本とは骨董だという真理に目覚めた読書家には、あらまほしき先達の方々です。
とにかくくたびれたし、お酒も飲んだので、詳しい話は日を改めて書くことにします。

先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記

12月 1日

昨日は、上野で美術展をはしごしました。

国立西洋美術館で「ウィンスロップ・コレクション展」。
東京藝術大学大学美術館で「ウィーン美術史美術館名品展〜ルネサンスからバロックへ〜」。

どちらも、名品ぞろい。
ウィンスロップはラファエル前派のバーン=ジョーンズやロゼッティ。それにギュスターブ・モローの名画が展示されています。
今月8日までなので、そちらに興味がある人は急いでいってみてください。

もっとすごいのは、「ウィーン美術史美術館名品展」。
図画や歴史の教科書に出てくる名画がぎっしり。
これだけあると、圧倒されます。

両方あわせると、どのくらいの金額になるのか。
とても計算できるものじゃありません。

名画のインパクトで、あたまのなかが飽和状態。読書家も語るべき言葉もなし。
精養軒で飲んだボジョレー・ヌーボーが美味かった。
覚えているのはそのくらいか。

気を取り直して、来週書くことにします。

先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記




© 工藤龍大