お気楽読書日記:11月

作成 工藤龍大

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11月

11月24日

『中世を旅する−−奇蹟と愛と死を』(新倉俊一)を読んでいます。

中世フランス文学の碩学による、中世という時代の紹介。
発行元の白水社が出している雑誌「ふらんす」に連載したエッセイをまとめたものです。

日本人のくせに、ヨーロッパ中世という時代は、なぜか懐かしい。
大学時代にドイツの中世法のゼミで苦しんだ記憶さえ甘美に変わっている。

ただ、そういう単純な懐古趣味というわけでもないようです。
中世は近代とは別個の世界観で動いていた時代で、現代風にいえば、今とはまるで別の文明なのです。
20世紀生まれのヨーロッパ人にとって、中世の「こころ」は理解しがたかった。

とはいえ、グローバル経済が時代の主役となった前世紀末以来、事情はすこし違ってきました。
EU 議会で通貨統合が実現されたヨーロッパは、18世紀、19世紀よりも中世文明に近づいている。

昨今の政治学者、経済学者の言っていることなど、ヨーロッパ中世史で叙任権闘争を学んだ身としては昔どこかで聞いたようなことばかり。

通説と違って、歴史は絶対に繰り返さないものではありますが、シチュエーションの似た時代は存在します。
21世紀はその意味で12世紀のヨーロッパに良く似ている。

こんなことを実証的歴史学者の前で口走るとえらいお叱りをうけますが、トインビーの視点に倣えばそう考えざるをえない。

ただし人権思想どころか、法治主義さえ貫徹していない時代なので、人間はえらく野蛮です。
有名な恋人同士、アベラールとエロイーズの場合、十代の娘をたぶらかしたという恨みをうけて大学者アベラールは男のシンボルを切り取られた。
ジャンヌ・ダルクは火刑に処されるとき、衣服が燃え尽きた時点で火勢を弱められて、丸裸となった肉体を公衆にさらけだされた。教会とイギリス軍が、ジャンヌの神秘性をはぎとるために行った行為です。

フィジカル(即物的)で、欲望に忠実な中世人たちのやらかす血と分泌物に満ちた数々のエピソードが次々と紹介されるのであきません。
「愛」と「恋」とは所詮、フィジカルで形而下的というか、ヘソの下的というか......

もっとも、著者新倉氏がフランスの小話集ファブリオを集大成して訳出した人でもあるわけだから、そちらの題材に事欠かなかったということも考えに入れなければならないでしょうけれど。

中世というのは残酷ですが、野蛮さと重ね合わせて若々しさを感じさせる時代でもある。半世紀近く前のこの国の若者たちの、甘酸っぱい臭いのする野蛮な反抗を連想します。

新倉氏が訳した中世の放浪学生たちの詩集「カルミナ・ブラーナ」に、こんな詩があります。

「若き日の甘美な果実を
われらはもぎり取ろう。

年寄りのすることだ、
生真面目なことにかかわるのは。

(中略)

われらの欲望に身を任せよう!
それこそわれらの若さにふさわしい。」

中世とは、鬱屈した欲望をたぎらせながら、陰鬱でありながら純粋で、しかも愛憎に満ち満ちている人類の青春時代なのです。

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11月23日(その二)

勤労感謝の日の読書日記、第二弾です。
ボジョレー・ヌーボーの赤ワインを飲みました。

少しいい気分になりながら、『本の歴史』(ブリュノ・ブラセル)と『文字の歴史』(ジョルジュ・ジャン)を眺めて楽しみました。
目当ては、もちろん中世の写本。

美しい挿絵はもちろん、カロリング体、セミ・アンシャル体、ゴシック体の文字を眺めているだけで、しあわせです。
前世は、ヨーロッパ中世で修道僧だったんじゃなかろうか。

美しい本は、写本だけではありません。
活字が発明されてから出現した「インクナブラ」(初期印刷本または揺籃期本と訳される)は、写本の体裁を模しているので、とてもきれいです。
「インクナブラ」には、画家のデューラーが挿絵を描いたものもあります。
書物とは、19世紀までほんとうに貴重な宝物だったことがよくわかります。

挿絵にある写本やインクナブラの美麗な頁をみるにつけ、「本は骨董だ」という思いが強くなりますね。
そういう価値観にたつと、「売れ筋ねらい」とか「売れなければだめ」という編集者根性がかえって出版の世界をゆがめ、衰退させたと考えざるをえない。

出版が高利益を生むというのは、20世紀特有の現象だったと、猪瀬直樹氏のようなものが見えている人たちは気づきはじめているようです。

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11月23日

仕事で疲れているせいか、無性に外国語が読みたい。
ただし、英語は駄目ですね。
毎日仕事で使っているから。
先週、フランス語聖書を買ったのも、理由はこれらしい。

商売抜きの外国語は、わたしにとって最高のリラクゼーションです。
仕事から家に帰ると、フランス語聖書を斜め読みしていました。
信仰というよりは、よく知っている内容を外国語で読みたかっただけです。
聖書というのは、キリシタン、伴天連でなくても、面白く読める本です。いや、むしろ、まじめな切支丹でないほうが十倍面白いという、とんでもないところがある。

新約聖書はもちろん、陰惨きわまりない旧約聖書も「人間学」の最良のテキストといえる。
人生ってのは......厳しい。
そういう文句がネオンサイン入りで行間に踊っている本でもあります。

ところで、本日は古代ギリシア語熱が猛然と湧き起こり、荷造りをといていない段ボール箱からギリシア語の文法書と辞書を発掘しました。

リドル・スコットの希英辞書と、Smyth の文法書、それに高津春繁先生の『ギリシア語文法』。

これがわたしのギリシア語の三種の神器。

おまけに、呉茂一先生の『ギリシア語文法』と Woodhouse の英希辞書を取り出して、準備は完了。
「どこからでもかかってきなさい」
−−という気分です。(笑)

来年は、プラトンの「饗宴」を読破するぞ!

追記:
段ボールを開梱していたら、コンクリンの『成功哲学』という本をみつけました。

この本に、心のなかに住むボスを味方につけろという言葉がありました。

「心のボス」という赤塚不二夫のマンガに出てくるブルドックじゃなくて(笑)、「お前にはそんなことはできない」とささやく心中の弱気です。

世界の一流のアスリートたちは、自分の心中でささやく「おまえにはそんなことは出来ない」とか「おまえは勝てない」という声に勝つ訓練をしている。
こういうメンタルなトレーニングをしていないアスリートは、通用しない時代です。

一般ピープルだって、同じこと。
「心のボス」を味方にして、「君ならできる」とささやき続けてもらえば、プラトン読破計画だって、できるだろう。いや、きっとできる。できてやる.....(笑)

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11月17日

池波正太郎さんの『侠客』を読みました。
江戸初期の町奴(まちやっこ)幡随院長兵衛の一代記ではありますが、なにせ史料がない民間人。
この小説は、歴史小説というよりは時代小説というべきでしょう。

ただし、フィクションではあるけれど、幡随院長兵衛という人物がこんな人生をたどったはずという物語のリアリティははずしていない。
データ倒れではない池波さん一流の人間通が、虚構のかたちをとった真実を描き出している。

徳川三・四代将軍のころに出現した「町奴」という侠客は、たいていは取り潰された大名家の浪人たちの子どもなのです。
この小説とは関係ないけれど、歌舞伎の荒事を作った市川団十郎の父もそうした連中のひとりだった。

そのようなアウトローたちがあの「江戸」という文化の土台を作ったことは間違いない。歌舞伎に出てくる得体のしれない奇抜な衣装は、江戸初期の町奴や旗本奴の衣装をコピーしたものだそうです。

ところで、話は変わりますが、鬼平犯科帳シリーズでよく使われる盗賊の「急ぎ働き」「畜生働き」などという言葉は、当時のものではないそうです。
職業的殺し屋を意味する「仕掛け人」と同じように、池波さんの造語だとか。

なんでも株屋時代の池波さんの顧客に、引退した大泥棒がいて、その話をよく聞かされたとか。池波作品に登場する魅力的な大盗たちには、池波さんの知り合いの大泥棒さんの面影が投影されているそうです。

わたしたちが知っているつもりの江戸時代などは、歌舞伎に通暁した池波さんたち時代小説家たちの虚構なのかもしれません。
とはいえ、その虚構を舞台にして、池波さんの小説や吉川英治、山本周五郎、藤沢周平さんの名作が登場したわけだから、虚構性を否定するのは愚かなことです。

もっとも、こういう大作家さんたちは、怠惰な読者と違って、事実と虚構を知り抜いたうえで、あえて物語性を組み立てるために確信犯的に執筆している。
これが、芸術家の勇気です。

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11月16日

安能務さんの『春秋戦国志』を読みました。
時間がないので、講談社文庫三巻本を読むのは手間取りました。

中身は、安能さんの『韓非子』と『秦の始皇帝』のテーマを、春秋戦国時代に敷衍したもの。
当然、中心は王侯貴族ではなく、謀臣(安能さんにいわせれば、官僚の先祖)となります。

安能さんは儒教が嫌いで、道教の信奉者だから、孔子さまや孟子さまには厳しい。
ただ孔子はそれなりに買っているのですが、孟子については声がでかいだけで中身なし。後世を誤らせたとんでもないヤツという意見です。

内容はあいかわらず濃いので、簡単に述べ尽くすことは不可能です。
おりおりこの本で学んだことを拝借することになりそうです。

それにしても、これほど中国人のものの考え方、あたまの仕組みに詳しいなんて、安能務という人は何を生業としていたのだろう。
すでに故人ではありますが、気になる人です。

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11月12日

思い立って、フランス語聖書を購入しました。
どうという理由もないのですが、なんとなくフランス語で聖書が読みたくなりました。

日本の厚めの文庫本サイズで、"LE NOUVEAU TESTAMENT" という新約聖書のみの版です。

普及版という性格上、かわいいフランス風の挿絵がそうとう入っています。
受難劇まで、学習マンガ風のイラストで書かれているので、ちょっと笑えますね。

この聖書でフランス語のリハビリをしてから、パスカルの『パンセ』原語版を読み上げる予定です。
それができたら、今度はモンテーニュの『随想録』原語版に挑戦する!

読書家の野望は、妖しく燃えています。

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11月 7日

『現代が受けている挑戦』(A・J・トインビー)を買いました。
訳者は吉田茂元首相の息子、吉田健一です。

白洲正子さんの本に名前が出たこともあり、つい買ってしまいました。

トインビーは1960年代にすでにイスラム文明の逆襲を予言した歴史家です。
ただし、主著『歴史の研究』はアカデミズムの歴史家から毛嫌いされて無視されきました。

もっとも、国立大学解体の危機にある現代では、トインビーを無視してきたアカデミズムそのものが存続できるかどうか......

閑話休題。

この本が文庫本として出版されるにあたっては、帯から判断する限り、イスラム文明の逆襲という911ショックと立花隆氏の推薦が大きく預かっているらしいのですが、中身はもっとグローバルです。

四十年近い未来を予見した眼力には、あらためて驚かされます。

現時点ではまだ夢物語に属するようなことも言っていますが、ただの甘い見通しと評論家が笑うような意見がさらなる未来で実現しないとはだれにもわからない。
トインビーは、この時代の否定的な批判者ばかりか、好意的な評者よりもはるか後の時代にまで読み継がれるでしょう。

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11月 5日

もう二週間前の日記を書きます。
材料が古びたので、メモ程度に手短に。

11月2〜4日まで、秩父の温泉へ泊りがけで行ってきました。
一日目は、音楽寺や「ヤマトアートミュージアム」。
二日目は、長瀞へいって、宝登山(ほとさん)神社に参拝。さらに上長瀞にある埼玉県立自然史博物館を見学。
三日目は、秩父鉄道で三峰口(みつみねぐち)駅までいって、バスで三峰神社を参拝。

秩父には日帰りで何度も行きましたが、今度の温泉めぐりを兼ねた旅でいよいよその魅力にとりつかれました。
「おやき」や「おっ切り込みうどん」の名物に、秩父錦・武宗正宗の地酒の美味を堪能しました。
ニジマスの甘露煮も名物で、これも美味かった。

「しゃくじ菜」の漬物というのがあって、北海道の「たい菜」に味が似ています。こちらも、北海道生まれのわたしには美味でした。

11月に入ったばかりだったのに、秩父はかなり寒かったので、埼玉県とはいえ寒冷地域といっていいんでしょうね。

長瀞にある宝登山(ほとさん)神社と、大滝村にある三峰神社は、秩父市のJR駅そばにある秩父神社とあわせて、秩父三社と呼びます。
今回で、秩父三社をすべて参拝できたので、なんとなくうれしい。

ところで、宝登山神社と三峰神社はあの日本武尊ゆかりの神社です。
またニホンオオカミを信仰した「お犬様信仰」の中心地でもある。

どちらの神社も狛犬はニホンオオカミです。
三峰神社のわきにある博物館で、ニホンオオカミの剥製・毛皮や復元像をみてきました。

「お犬」と呼ばれたニホンオオカミは、日本武尊を山火事から救った伝説から、「火止め(防火)」と盗難よけのカミさまになりました。
関東の村や江戸の町の住民たちが、両神社で祭る山の神様から「お犬様」をかりてくるという形式をとっている。その証文を書き、受け取り証を村や町の祠にいれるのです。

そうすると、お犬様一匹ごとに、五十戸の家を守ってくれることになっていました。
必要な数だけ借りてくるわけです。

どちらの神社もすばらしい紅葉でした。
ロケーションがいいので、眺望もすばらしい。

すっかり気分が良くなりました。
秩父のシンボル武甲山は、石灰岩採掘のためにかなり削られていますが、山頂だけはピラミッド形に残っているので見慣れてくると不思議な存在感があります。
もともと秩父神社の御神体は、この武甲山で、この山の男神が向かいの山の女神と聖婚するお祭りが、あの秩父夜祭です。
「シンボルを削りまくって、どうなるの?」という危惧をかかえつつ三日間、武甲山をみあげて旅をしていました。

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