四夜連続だったNHKの「四大文明の精華」と「四大文明」が終わりました。 伊豆諸島の地震のおかげで、放送が中断したきりの「四大文明」中国文明編を再放送したところで、シリーズも終わり。 この番組だけは、今週土曜日の9時15分からも再放送するそうです。 あと、8月19日だかに、おまけとして「アンデス文明」を特集するようです。 「四大文明」の補足みたいな「四大文明の精華」というシリーズでは、メソポタミア文明編とインダス文明編が面白かったです。 ただエジプトと中国はあまり面白くない。 エジプトや中国の美術展はけっこう人気があるので、少なくとも隔年に一回のペースで出かけています。だから、あんまり目新しいのがないのかもしれません。 中国文明編で紹介されていた始皇帝の「兵馬俑」も、「三星堆」という長江流域の青銅器も、美術展でみてきた記憶があります。 殷代の青銅器もかなり見ているので、あまり新鮮味がなかったということでしょう。 それにしても、草一本ない黄河上流の黄土高原はすさまじいものです。 天まで至る泥の山に、泥の大地。 山のてっぺんまで、畑になっているくせに、草一本生えていません。 季節もあるのでしょうが、泥の地獄……としか見えません。 四大古代文明はつまるところ都市国家として、森と川水の恵みによって誕生しました。 エジプトをのぞく他の三つの文明は、森林の破壊とそれにともなう川の枯渇や、土壌流出のために川筋が変化して、水の恵みから見放されて住民たちから放棄されたのです。 古代文明はある日突然滅びて、住民がこつぜんと消滅したわけでなく、長い自然破壊による農業の衰退のあげく都市が放棄されただけのことです。 だから、その土地にいた人々の遺伝子は、現代までになんらかの形で残っています。 インダス文明に残された解読不明な古代文字を、インド先住民族のドラヴィダ族の言語や社会観で洗いなおしてみるという研究者の言葉には、説得力がありますね。 まだ未解読のマヤやインカの文字だって、現存するインディオの言語として解釈しようという研究が主流です。 河川の枯渇で放棄されたインダス文明の遺跡近くから、地下水脈が発見されたと番組では紹介しています。 地表からは枯渇した川が地下の大河となって残っていたんですね。 歴史の流れというのは、こういうものだと思います。 地下水脈を発見して、砂漠に畑を作ったインド人のお百姓さんには、インダス文明など知ったことじゃないでしょうが、その人のDNAのどこかに同じ土地に住んでいたインダス文明人の遺伝子があるはず。 そんなことを言わなくても、インド人がなぜ川に浸かって沐浴するのが大好きか――なんてことに思い至ると、インダス文明からの長いながーい伝統があったとわかるわけです。 こういうことを面白がる人には、歴史は楽しいものです。 話は飛びましたが、さすがNHKと思ったのは、ドキュメンタリー・シリーズ「四大文明」の最後に、草一本ない黄土の砂漠と化した黄土高原に人々が植樹するシーンをもってきたことです。 乾燥につよいアンズの木を植えて、果樹農業への転換と、環境回復を図るという一石二鳥の企てです。 アンズなんかよりも、もっと強い樹木を植えて、森を作ったらどうだと思いましたが、この間から読んでいた読売新聞の特集記事によると、極貧地域のこのあたりでは、こうでもしないと農民の協力が得られないそうです。 ただの植樹では、たちまち木を切られて薪にされる。土壌強化のために草を植えると、草まで掘り起こして、天日で乾かして燃料にする。いくら禁止しても駄目で、夜中に身体の小さな子供にやらせるので、現行犯逮捕の取り締まりも難しい。行政側は根をあげたそうです。 中国ではこれが精一杯なのです。 これで元に戻るのでしょうかという、NHKの女性アナの不安そうなナレーションは、現地取材をしてきたクルーの、偽らざる本音だと思いますね。 でも、やっぱり世の中には偉い人がいて、定年退職後に中国へ林業や農業の指導へボランティアとして出かけていった人もたくさんいることを、別のインタビュー番組で知りました。 なるほど、そういう人生の使い方もあるなと、しみじみ思いました。 渡部昇一という学者さんが、「人間は30歳までに成功しなかったら、人生お終いだ」というご本を書いています。 本屋で立ち読みして肚が立ちましたが、そうでない実例もあるわけです。 一見枯れ果てて死んだかにみえる川が、大地のなかで堂々たる大河となって流れている。 人間であれ、自然であれ、そういう大きな摂理みたいなものが働いているのだなと思います。 だからこそ、世界は回っているのでしょうね、きっと。 |
「オスマン帝国の栄光とスレイマン大帝」(三橋冨治冨)を読みました。 新書版の本の表紙に、15−16世紀の中近東は「トルコの世紀」と云われると書いてありました。 この時代が、オスマン・トルコ帝国の全盛期でした。 当時のヨーロッパは、英仏百年戦争や宗教改革で戦乱にあけくれていました。 とても文化国家と呼べる国はなく、戦争が終わりもなく続く状態です。 15−16世紀をみれば、オスマン・トルコ帝国のほうが商工業・軍事技術・文化のあらゆる面において、先進国だったのです。 その時代に現れて、オスマン・トルコ帝国を最盛期に導いたのが、スレイマン大帝です。 このごろ中近東にまた興味が湧いてきたので、このような本を読んでしまいました。 スレイマン大帝の征服事業はすごいもので、西は北アフリカ沿岸部から、東はイランとの国境地帯にいたるまで、エジプトをはじめシリア・イラク・ヨルダンなど今の中近東諸国をほとんど包含しています。 ロシアではウクライナ南部や、アルメニア・グルジアも征服したうえに、ヨーロッパではバルカン半島を完全に制覇。 簡単にいえば、黒海沿岸をぐるりと取り囲んで、イタリア・フランス・スペイン沿岸を除く地中海沿岸を手中にしたわけです。 ローマ帝国の全盛時代にはやや負けますが、16世紀以降にこんな空前の大帝国を作ったのはスレイマン大帝だけです。 このあたりはヨーロッパ中心の歴史知識の穴場ですね。 薄い新書ですが、充実した内容で楽しめました。 著者の三橋冨治男さんは、オスマントルコ研究の権威だそうで、簡潔にスレイマン大帝の治世をまとめていたのはさすがです。 ところで、こういう偉大な統治者の伝記を読むと、きまってむなしい感じに襲われます。 なぜ、こうやって大繁栄した帝国は無残に衰退してしまうのか? いつも、こんな疑問にいきつくのです。 よくある答えは、征服戦争をやりすぎて国庫が疲弊したとか、優秀な後継者を宮廷陰謀で殺してしまったとか、官僚組織が腐敗したとか……どっかで聞いたようなことが多いですね。 でも、ほんとうのところはどうなんでしょうか? 国家には、適正な広さと人口というのがあるのかもしれません。 豊かになった国家はどうしても膨張したがるようですが、適正範囲を超えた膨張は長続きしないということかもしれません。 それと同じで、軍隊・官僚も国家歳入とつりあう数があるようです。 偉大な征服者は、国土を膨張させ、それを維持するために軍隊と官僚を大幅に増員して、あげくのはてに国家財政を破綻させるという構図になっているようです。 偉大な文化人であり、優秀な政治家・軍人だったスレイマン大帝も、その例外ではありません。 歴史に名が残るほど大変なことをしたがる指導者ほど、膨張の誘惑に耐えられないようです。 この本を読み終わって、数日前に読んだ竹内久美子さんの本を思い出しました。 そこにはコンピュータ・プログラムを使った実験の話が載っていました。 裏切りを戦略とする自動プログラムと、信頼を戦略とする自動プログラムをある数だけつくって対戦させて、どっちが生き残る数が多いかを調べたのです。 結果は、基本的には相手を信頼するけれど、相手が裏切ったら一度だけ相手に「しかえし」に裏切って、その後は信頼するというプログラムが圧倒的に生き残ったとのことです。 短期的にみたら、相手をとことん裏切るプログラムのほうが優勢にみえますが、実験のタイム・スパンを長くすると、「仕返しはするけれど、基本的に誠実な」プログラムが圧倒的に有利になるとか。 このシミュレーション用のコンピュータ・プログラムが、征服戦争をしたがる国家と同じに思えてなりません。 竹内さんによると、囲碁・将棋のような一回勝負が決まったら、それで終わりという「ゼロ・サム」ゲームなら裏切り型が有効ですが、勝ち負けのほかに点数を稼ぐたぐいのゲームであると「仕返し」型が有利ということです。 ゼロ・サム型の征服大好き英雄政治家は、長期的にみると、敵だけでなく、味方にもありがたくないということでしょう。 くれぐれも、英雄(=大政治家)待望論なんかが、この国で盛んになってほしくないと思いましたね。 偉大なリーダーシップのもとに速やかで大胆な改革をやると、どうもロクなことがない。 ぱっとしない人たちが頭を寄せ集めて、試行錯誤しながらやっていくのがいちばん国民には幸せなのだなと思います。 ただ、一部の人が独占的な利益を得るためなら、偉大なリーダーが現れてくれたほうがいい。その結果、大多数の人が苦しんでも、一部の人だけは困らない。 偉大なリーダーなんて、やっぱり無用の長物というべきものだと、大皇帝の伝記を読んで思いました。 |
今週月曜日から、NHKでドキュメンタリー「四大文明の精華」を放送しています。 ついでに深夜0時15分から、「四大文明」の再放送もしています。 月曜日はエジプト。8日はメソポタミアでした。 中近東を調べるのが、趣味のわたしには嬉しい番組です。 上野、世田谷、横浜で開催されている「四大文明展」には必ず行こうと思います。 ちなみに、上野の国立博物館は「エジプト文明展」(10月1日まで)、同じく上野の東京都美術館は「インダス文明展」(12月3日まで)、世田谷の世田谷美術館が「メソポタミア文明展」(12月3日まで)、横浜の横浜美術館が「中国文明展」(11月5日まで)となっています。 東京近郊で時間がある方はぜひ見に行きましょう! NHKとは縁もゆかりもないわたしが、宣伝してどうなるというわけでもないですけど。(笑) わたしはギリシアという国と、そこの古代文明がいっとう好きなのです。 ほとんどマニアックに好きです。 古代ギリシア語まで勉強している変わり者です。 簡単なギリシア語なら、そらでいえます。 「ティ、テーニカデ、アフィクサイ、オー、クリトーン。エー、ウ、プロー、エティ、エスティン」 「パヌ、メン、ウン」 これはプラトンの対話編「クリトーン」の冒頭の一節。「枕草子」の「春はあけぼの……」を引用しているようなもんです。 こんなことぐらい知っているからといって、あまり偉そうなことはいえません。 メンゴ、メンゴ……です。 (話題がメソポタミアなので、ちょっとハイになっています。 別にイラン人からクスリを買っているわけではありません。) ギリシアから入っていくと、ローマやイタリアなんかに興味が進むのがマトモな人でしょう。 ただし、わたしはアマノジャクなので、イスラムやロシア正教のほうが面白いと思っています。 というより、古代ローマや、ルネサンスなんかはいい加減本を読み漁ったので、飽きたのです。 ますます話題がずれていますね。 よく考えると、ギリシアから入って、古代ローマ、中世ヨーロッパ、ルネサンスはもういい加減押さえたので、ギリシア文明の他の二大末流であるイスラムや、ロシア正教にようやく手を伸ばしているというところでしょうか。 ギリシア文明をいろいろ調べてみると、古代オリエント文明の遺産にたくさん出くわします。 有名なギリシア神話も、原型となるお話が古代のオリエントや古代エジプトにあることはちょっと詳しい人ならよく知っているはず。 そういえば、わたしは旧約聖書を歴史書として読む趣味があります。 古い英語の文芸書を読むには、新約・旧約聖書の知識が不可欠です。そんなところ入ったのですが、いつしかそっちの歴史のほうが面白くなってしまいました。 ヨーロッパの歴史を調べていくうちに、どんどん古い時代が面白くなってくる。 べつに、ヨーロッパに限りませんが、歴史の面白さは遡及の快感です。 わたしなどは、古典古代や、ルネサンスからはじまったので、あっというまに古代エジプト文明や、古代メソポタミア文明にいきついてしまいました。 ところで、エジプト文明についてはこの五、六年も前からひそかなブームが続いているので、情報には事欠きません。 (なにせ宮尾登美子氏が「クレオパトラ」を書いたくらいですから。 あの作品は云っちゃなんですが、一連の自伝的名作を書いた人と同じ人が書いたものとはどうしても……) 今回のNHKの放送でも、それほど目新しい情報は、エジプトに興味のある人にはほとんどなかったんじゃないでしょうか。 それにくらべて、メソポタミア文明の方は、イラン革命やら、イラ・イラ戦争やら、湾岸戦争、イラクの経済封鎖やらで、1980年くらいから恒常的戦争状態です。 エジプト考古学の吉村作治さんみたいな人気者も現れなかったから、ついぞ新しい映像も情報もなく、古い本や写真で満足するしかなかった。 今回の放送で嬉しいのは、新鮮な映像で現代の史跡がどうなっているか改めて観ることができたことです。 古い写真でしか見られなかったベヒトゥス碑文(楔形文字の解読者ローリンソンがロープで身体を吊り下げて、崖から写し取ったというあれです)だの、バビロン、ニネヴェなんていう王都の発掘現場とか、たかがTV画面ですが、ファンには観られただけでうれしいものばかり。 シュメールの都市国家ウルに、イラクが聖塔(ジッグラト)を再建していたなんて、嬉しいことも知りましたが、その横腹にアメリカ軍のミサイルの破片があけた穴をみて、暗澹とした気持ちにもなりました。 「四大文明」の監修者の一人で、メソポタミア文明の研究者・松本健教授が別の番組で、古代シュメール人のビールを醸造メーカーの研究所の助けを借りて再現しているのを観ました。 これは、パンを砕いて素焼きのつぼに入れて、酵母と水を入れてつくるのです。 エジプトのビールも、この製法を学んだものです。 世界のビールの源流ですな。 ビール好きの人は、シュメール人に感謝しなけりゃいけませんね。 日本酒の神さまは、京都の松尾神社の松尾さま。ビールの神さまは、シュメールの女神イナンナとなるのでしょうね。 日本なら、「かんながら くしみたまえ さちみたまえ」を三回唱えればいいんですが、シュメールならなんと云うのか。 そこまではわからない……ですは。(^^) 気分があまりにもハイなので、どんどん話題がずれております。 申し訳ないです。 ところで松本健氏によると、シュメールには古いことわざがあったそうです。 「人生でいちばん楽しいのはビールを飲むこと」 そして―― 「人生でいちばん嫌なことは戦争に行くこと」 サダム・フセインとクリントンには、よく聴いておいてもらいたいですね。 というところで、本日のノリノリの読書日記はお終い。 本の話については、また明日。 |
「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」(14世ダライ・ラマ)を読みました。 読み終わって、爽快な気分を味わっています。 真実の強さというのでしょうか。 陳腐な喩えですが、清々しい高山の大気に触れたような気持ちです。 毒々しい逆説や、ひねくれた物言いが流行るのは、大衆社会のどうにもならない一面です。もともと自分の生き方に自信を持てない人を、大衆というわけですから。 だから、大衆に受けるものが、顛倒した思考の産物であるのはやむをえないところです。 そんな中にあって、真実とは何かと考え抜いた人や、それを目指そうと努力する人の言葉には、深層水と同じような豊かさと味わいがある。 きっと、心身ともに良い作用があるに違いないと思います。 ダライ・ラマ14世が云うように、人間の肉体は「内部から知と心によって支えられている」わけですから、知と心が曇ればまともに生きられるわけがない。 自殺も他殺も同じ殺人である。病気もわれとわが身を苦しめた自分の所業の仕業。 そう思えば、世を恨むことも、自分の不運を恨むこともない。 すべては、自分のせいである! そう達観したところに、ほんとうの幸せがなりたつ基盤がある。 あっさりと凄いことが、どしどし書いてあるのが、この本です。 「今日の世界では、貪欲が成功の秘訣であるように考え、振舞う者がいる」 これも、ダライ・ラマ14世の言葉ですが、ビジネス関係の本を読むと、こんなことを書いている人はいっぱいいますね。 会社の偉いさんでも、けっこう同じ考えの人がいるようです。 貪欲でない人間は駄目だと、こういう人はお説教するのです。 じゃあ、貪欲でない人はどうすればいいかというと、貪欲な人の犠牲になれというわけで、そういうことでは棲み分けをして生きている腸内細菌にも劣る社会しか作れない。 ダライ・ラマは云っています。 「貪欲は盗みへの一歩である」 「外的な価値を追求すれば、その必然的に至るものは破滅でしかない」 「貪欲は破滅への道である」 ここでダライ・ラマが破滅というのは、内面的世界の頽廃であり、ひいては輪廻転生による来世の不幸をさすと、言い換えてもいい。 内面的世界が駄目になることと、来世も陰惨なものになるとは、因果論ではなく、同じことを意味しているのが、チベット仏教の特異さです。 しかし、すんなりこう云ってもらうと、凡人のわたしは気分がいいです。 なにせ、わたしは我ながら、どうも金持ちや出世人間になれるほどの貪欲さはないなぁと常々考えている小心者。 会社の偉い人から、「人は好いけど、欲が足らんデクノボウ」と云われ続けているタイプなので、ときどき自分はアカン人なんじゃないかと寂しく思ったりします。 そりゃ、人並みに利己主義はありますが、偉くなる人ほどギラギラした貪欲さはないことは自覚しております。 出世する人ってのは、ときどき呆れるほど欲深で、物欲が盛んなので、好い格好しいでいうわけではないけれど、ああした真似はできないなと思うのです。 そうはいっても、ダライ・ラマは利己主義を全面否定するわけではなく、自分を大いに生かしたい、自他ともにすばらしい人生を送りたいと願うような「遠大な視野でとられるある種の利己主義」は絶対に必要だと力説しています。 欲望も否定しはしません。 自分の魂が心から望む良きものを獲得しようとするとき、強固な決意と自信が生まれる。その決意と自信をともなう意志の力が、発動するような欲望。 それを正しい欲望といい、これに裏打ちされた楽観的な精神を持つことで、人間は進歩、発展できる――。 歴史の本を読んでいると、超人的な生涯を送った非凡なる凡人という人によく出会います。そのような人は、異常な能力を持った超人であるよりは、大きな夢を持って、しかも実現するために粘り強く営々と働いたケースがほとんどです。 現代のような歴史の転換期にいると、「真面目にやっちゃいられない」「人生は洒落のめして生きるしかない」という刹那主義に陥りがち。 近い例でいえば、昭和初期と江戸時代の文化文政時代がそうでした。 こうした時代にはホラーとエロ・グロが盛んになるのですが、あいにくその後にはもっと酷い時代が来て大変なことになる。 「洒落で生きていける」と思ったのもつかのま、「洒落にならない」地獄のような世界がやってくるわけです。 たぶん、現代もそうでしょうな。 他人事のようですが、そのように思えてなりません。 そんな自棄になって浮かれた時代にこそ、次の時代を作る人たちが何事かを準備しているわけで、現代もそうした「種まき」の時期に入っているのでしょう。 たぶん、収穫を手にするのはもっと後の時代の人だから、わたしたちはその夜明けは見られません。 そんなことを考えると、ダライ・ラマの本は、荒れ狂う暗黒の海上を照らす一条の光のように思えます。 ダライ・ラマは素敵なこともいっています。 意図と、行為の結果はどちらが重要か? 良い意図ではじめたことが最悪の結果に陥った場合と、悪い意図がたまたまとても良い結果になった場合、どちらが価値があるだろう。 たぶん歴史小説の大家(もう亡くなった人も含めて)や、歴史研究家、いやそれどころか、ほとんどの人は後者の方が値打ちがあると答えるでしょうね。 ただ残念なことに、この乱世に生きる人は必ずしも良い結果を出せるとは限らないのです。 結果の良否とは、ある時点でみた評価にしかすぎません。 1945年で良かったことが、2000年でも良いと云えるかどうかは疑問です。 おそらく、2045年での評価は、まったく逆転しているかもしれません。 価値判断を現代のような混迷した時代に考えることは、知力すぐれた人であればいっそう相対主義に陥ってしまう。 結果の良否については、そもそも判断することは不可能ではないかという気がします。 ダライ・ラマは確信にもとづいて、云っています。 「善き意図こそ大切なのだ」 「宗教心の観点から考察したとき、意図は必ず結果より重要である」 「物事の善悪を見極めようとするとき、意図こそが最も尊重すべきものである」 自信に満ちて、こんなことをいう現代日本人がいるでしょうか。 あるいは、日本の宗教者がいるのか? わたしは寡聞にして、そんな人を知りません。 この言葉を知っただけでも、ダライ・ラマの本を読んでよかったと思います。 |
「賭博と国家と男と女」(竹内久美子)という本を読みました。 竹内氏はもともと京大理学部出身の生物学研究者であるらしい。 現在は、生物学をネタにしたエッセイスト。 例によって、この本は古本屋で買いました。 わたしは古い本ばかり読んでいるので、メーリングリストで知り合った随分年配の人に「古い人ですねぇー」と好意を込めて――と、自分では思っています――云われたことがあります。 竹内氏の本も新刊書店で見つけたなら買わなかったでしょうね。 古本屋の棚に並ぶようになると、本というのは掛け値なしの実力勝負になると信じています。 新刊書店はワイワイとお祭り騒ぎの余韻があるようで、いささか安っぽく、うさんくさい。 おまけに、ケチなわたしとしては、本の内容と価格を見比べて、この本はいくらとまず考えます。 それがわたしにとって適正価格で、新刊書店での定価とはあまり一致したことがありません。 竹内氏の文庫本は定価450円で、文庫本の平均価格としては決して高くはない。 でも、わたしの鑑定では、250円ですね。 古本屋では、180円でしたので、いい買い物となりました。(^^) つまらないことのようですけれど、資本主義経済の世の中なので、本はこうやって戦術的に買うしかないのです。 いっぽうでは、わたしももう四十歳を超えてしまったので、眼や身体がいつまでもつか分からないという不安があります。 だから、古典といわれる本は、まだ身体に無理がきく四十代のうちに完全制覇しておきたいと思っています。 この読書日記で、やたら古臭い古典が登場するのはそんなわけです。(笑) ところで、竹内氏の本は「利己的遺伝子」という生物学理論を使って、人間社会を考えてみようというなかなか面白いアイデアで書かれています。 「利己的遺伝子」というのは、リチャード・ドーキンスという生物学者が言い出した理論で、別に「利己的遺伝子」という遺伝子がそのへんをウロチョロしているわけではないのです。 その説を簡単に要約すると―― 遺伝子は自分の複製(コピー)を作ることだけを目的にしていて、あらゆる生物は遺伝子を運び、繁殖させる乗り物(ヴィークル)にすぎない。生物の行動は、すべての遺伝子の利己的振る舞いの産物だ。 たった、これだけの仮説なのですが、ちょっと自分は頭が良いと思っている人にはとても人気のある仮説です。 わたしの見るところ、大都市近郊のまだ田畑が残っている地帯に住んでいる人にはとても心魅かれるものがあるようです。 というのも、この理論が好きな人は、わたしの知る限り、そういう半田舎にすむポーズ的都会人ばかりなのです。 で、肝腎の中身なのですが、どうもいただけません。 ロジックとしての、面白さを追求しているのですが、ロジックとして展開している部分と結論の部分はじつはまったく関係のないことが多いのです。 たとえば「芸者なくして日本近代はありえたのか」という章をみると、一夫多妻制社会のほうが男は政治的能力を向上させるというロジックと、だから芸者遊びをした明治維新の元勲(この場合は、伊藤博文)は偉かったという結論があります。 しかし、芸者遊びは一夫多妻といえるのか? という疑問は残ります。 プロの芸者とつきあったおかげで、高い政治能力を獲得した男はそのエネルギーを国家建設に振り向けた! ――といわれると、それはさっきまでのロジックとは論旨が違うだろうとつぶやきたくなります。 ぎゃくにいえば、ロジックが両刃の刃であるとも云えます。 「イギリスの貴族階級や、日本の皇族を例にとって、上流階級がなんの役にも立たない学問を好むことによって、繁栄してきた。それは利己的遺伝子のなせる行為で、意図的なものではなかった」 ――という論旨がありますが、逆にいえばなんの役にも立たない学問を好むことによって、イギリスの貴族階級は衰退してきたということもいえます。 さらに、利己的遺伝子の繁栄には有利な階級制度のあるイギリスのほうが長期的にみると、平等主義のアメリカよりも繁栄していると、竹内氏は見るのですが、どこが繁栄しているかというと、イギリスの「ネイチャー」という学術誌のほうがアメリカの学術誌「サイエンス」よりも「格が上だ」と竹内氏が考えるからだとか……。 またノーベル賞受賞者はイギリス人のほうが多いからという理由も挙げていますが、それは19世紀からの蓄積があるだけだし、その分知名度の点でイギリス人が今まで有利であったというだけでしょう。これからは、受賞者の数だって逆転するかもしれません。 というわけで、竹内氏の挙げる例は有効な論証とはいえませんね。 このロジックをひっくり返すと、正反対の結論も出てしまう。 そんなことを考えているうちに、わたし流の評価額がちょっと変わってしまいました。 50円以上、200円未満というところでしょうか。 |
「推理小説作法」(土屋隆夫)という本を読みました。 わたしは国産ミステリには興味がないので、こういう本とは今まで無縁でした。 この本は古本屋で見つけたのですが、著者の土屋氏の真面目な書き方にちょっと感動してしまったので、百円玉四枚ほどで引き取ってきました。 著者の土屋隆夫という人については、まったく知りません。 どこかで名前を見たような気もしますが、はっきり覚えていません。 似た名前の別人かもしれません。 ただ昭和六年生まれの老作家が、自分の信じる「正しい推理小説」(もちろん、そんな言葉を著者が使っているわけではありません)の書き方を読者に問うている。 そんな姿勢が、なんとなくゆかしく、好ましく思えたのです。 『現代の日本には大人の読む文学、或いは老人の読む文学と云ふものが殆どないと云つてもよい。(中略)殊に所謂純文学を読むのは、十八、九から三十歳前後に至る間の文学青年共であつて、極端に云へば作家もしくは作家志望の人たちのみである』 谷崎潤一郎「芸について」 昭和八年に書かれた谷崎潤一郎のこの文章を、土屋氏は引用します。 この状況が現在(土屋氏の本の初出は、1992年)の推理小説にもあてはまるというのです。 日本推理小説史の生き証人である土屋氏には、昨今の推理小説がループを描くように戦前の勃興と衰退の歴史を繰り返しているように見えたのです。 土屋氏が本を書いた当時、日本の推理小説といえば、旅行会社の回し者のようなトラベル・ミステリーの全盛時代。 その中身は「安っぽい風俗小説やポルノ小説に、殺人だの誘拐事件で味つけしただけの、ひどくつまらない読み物」でした。 当時、その風潮に対して「トリックの奇抜さを競い、人間性も日常性も喪失した荒唐無稽な物語。コケおどし的な文句を連ねて、『全身の血が凍り、背筋がゾッと寒くなるような怪事件』を『明敏冷徹、神のごとき名探偵』が解決してみせる『探偵小説』」を待ち望む声があがっていました。 その要望通りの作品がずいぶん登場してきたのは、皆さんもご存知のとおり。 『探偵小説』のかわりに、ミステリーとか、ホラーとか呼ばれていますけれど。 土屋氏は今日のホラー全盛を予期してはいなかったでしょうが、この道が行き止まりの袋小路だと考えています。 戦前の推理小説は、この方向性に走って衰退してしまったのです。 芥川賞作家・松本清張氏が推理小説を書いたのには、「推理小説を『お化屋敷』の掛け小屋からリアリズムの外に出したかった」という松本氏の志があったということです。 意外なことに、そういう方向性の大家と目される横溝正史氏は、晩年本格的な推理小説を書くために懸命に執筆を続けていたそうです。 「どん栗の落ちて虚しきアスファルト」 これは、横溝氏の辞世の句です。 決して根を張ることの出来ないアスファルトという死の空間に転がるどん栗に、本格推理小説の未来を重ね合わせた絶望の句と、土屋氏は解釈しています。 そんな風潮のなかでも、土屋氏は横溝正史のような、本格推理小説を守る牙城となりたいと願って、「推理小説作法」という本を書いた。 いい本を読んだと思います。 わたしは、志のあるジイさん、バアさんが大好きなのです。 泣けました。 |
昨日の続きです。 第二の疑問、つまり「明智光秀の有名な連歌『天が下しる〜』は、反逆を知らせる暗号だったのか」ということについて、連歌研究家の田中隆裕氏の説を紹介します。 ご存知のように、光秀は京都市右京区にある愛宕神社で天正十二年(1582年)五月二十八日に連歌を催し、六月二日未明に本能寺で信長を襲撃する。 ただ田中氏によると、連歌を実際に行ったのは、五月二十四日らしい。現在伝わる写本の多くに記載されているのはその日付だ。 二十八日に連歌を行ったとあるのは、有名な「信長公記」の記事によるもの。 連歌を始めたのが二十四日で、神社に奉納したのが二十八日ではないかと、田中氏は考えている。 連歌というのは有名な割にはどうやってやるのか知らない人が多いと思う。 わたしもそうなので、勝手に結論して、田中氏の紹介するやり方を書いておく。 まず五月に行われた連歌は、愛宕神社の祭神「勝軍地蔵菩薩」(しょうぐん じぞうぼさつ)に戦勝祈願するためのものだった。 光秀は織田信長に命じられて、豊臣秀吉の毛利征伐に援軍として出発することになっている。 そのための戦勝祈願である。 だから、連歌を行う前に、愛宕神社に一晩中参篭して祈らなければならない。 その翌日から連歌をおこなう。 連歌はもちろん一人ではできないから、仲間がいる。 そのうちわけは、光秀、その子光慶(みつよし)、家臣東行澄(あずまゆきずみ)と、愛宕山の僧侶たち、プロの連歌師・里村紹巴(じょうは)とその弟子の連歌師たちだ。 僧侶がなぜいるかというと、明治維新の前には神仏合祀が当たり前だったので、どんな神社にも寺が付属していたからだ。神社の管理者は、特殊な事情がない限り、その寺の仏僧がおこなっていた。 仏教と、神道を厳密にわけるのは、明治の廃仏毀釈令が発布されてからのことだ。 連歌は最初の句を発句(ほっく)、それに続く句を付け合い(つけあい)といい、最後に挙句(あげく)という句でしめくくる。 発句の文字数は五・七・五で、挙句は七・七となる。 真中の句は、五・七・五の長句と、七・七の短句を参加者が交互につける。 真中の句には専門的ないろいろ呼び名があるようだが、基本的には「前句」と「付句(つけく)」を交互に繰り返すと考えていい。 歌としてみると、五・七・五の部分と、七・七の部分でひとまとまりになるが、発想と意識の流れは途切れることなく、綿々と続いてゆく。 連歌をいくつ詠んで終わりとするかというのも問題で、終わりとする数でいろいろな呼び方がある。 光秀の例では、100句を詠んで終わりとしたので、通称「愛宕百韻」(あたご ひゃくいん)と呼ぶ。 戦勝祈願として、連歌を神社に奉納するというのは、今から考えるとばかばかしいようにも思えるが、神仏は和歌を喜ぶとする民俗的・宗教的な伝統があった。 しかも連歌を行うことは一種の祝い事の面もあったので、奉納や布施も別にたっぷり捧げるので、お神酒やお賽銭を捧げるのとは比べ物にならないほど金がかかる。 神仏だけでなく、寺や神社も大いに喜んだ。 さて、戦勝を祈る場合には、最初の発句は出撃軍の司令官となる人物が詠まなければならない。 神仏が感応してくれるように、いかにも厳かに、そして目出度く詠まなければならない。 「ときは今 天(あめ)が下知(したし)る 五月(さつき)かな」 ――というのが、有名な光秀の発句である。 この句にある「天が下知る」を「天下を支配する」と解釈し、「ときは今」という言葉に土岐源氏出身とする光秀の出自をからめて「土岐源氏が今こそ決起する」という意見がある。 この発句にこそ、光秀の決意が現れているとみるわけである。 連歌研究家の田中氏は、この意見に反対だ。 理由としては、祈祷連歌という「愛宕百韻」の性格からみて、この句はそれほど特殊な意味ではないと判断できるからだ。 毛利征伐に赴く武将としては、「毛利を平定すれば天下は平和になる」といわざるをえないし、神仏の助勢を願いたい。 その二重の意味をかけて詠んだのが、「天が下知る」という句であった。 「ときは今」は、「光秀の意気込みであり……(中略)……祈願成就の熱意がほとばしる」(田中隆弘氏)表現だ。 田中氏は連歌という面からみて、「発句には光秀の暗号はなかった」と考える。 だが、「愛宕百韻」がただの祈祷連歌であったとは、田中氏も考えていない。 田中氏は光秀が呼んだ句だけを拾って読んでみた。 すると、そこには光秀の意思表示がみてとれるという。 ・朝廷と信長のどちらにつくか悩んだ。 ・有力者のところに相談にいったが、決心がつかない。 ・横暴に耐えかねて、妻を離別して決心した。 ・朝廷と話もついたから、急いで軍勢を集めて出撃の準備をした。 ・敵の油断をついて出撃だ! これは、田中氏が光秀の詠んだ句だけを拾って、抽出したストーリーだ。 まるで企てを知らない参加者がいる集団芸術・連歌のなかで、最初からこうした構成を狙って、作句することは、どんな歌人でもできるものではない。 連歌として表現されたのは、光秀の意思表示だと田中氏は考える。 光秀の決断を、京都の朝廷に伝える役割を果たしたのが、連歌師・里村紹巴だったのではないか…… 結局のところ、連歌全体が暗号だったというわけだ。 しかも、前句と付句で構成される連歌の付句だけを読むという方法だから、絶対に気づかれない。 …… この論理はどうもいただけない。 裏読みすれば、なんでも疑わしくなる――ということだけではないか。 田中氏の引用する光秀の句を眺めていても、それだけではただの句にしかみえず、田中氏の奔放すぎる想像力の説明で、そんなものかなという気になる。 とにかく疑えば切りがない迷路みたいなものだ。 この「愛宕百韻」にこだわるのは、袋小路に入るようなものだと思う。 ただ、昨日と今日読んだエッセイのおかげで、わかったことがある。 それは、和歌(連歌も含む)という一文芸ジャンルが、使う人によってはひどく実践的かつ政治的なものでありうるということだ。 たとえば、細川幽斎(藤孝と書いたほうが良かったかな……)が和歌を学ぼうとしたのは戦場で部下から古い和歌を教えられたのがきっかけだ。 和歌を学ぶことで身につく心理洞察や博物学的な知識が、戦場や政治の修羅場で役に立つと開眼したからである。 この国の名将と呼ばれる人物たちが、和歌に親しんだのは、戦場における心理洞察と、千変万変する自然状況のもとで戦闘を繰り広げるために、博物学的な(人文地理も含む)教養を身に付けるためだった。 名将たちが合戦という「ゲームの達人」になるための心得として、和歌は必要とされたのである。 戦場で突撃して死ぬだけのイノシシ武者には無用の長物だが、一軍の将たる人間に必要な資質を磨くツールとして、和歌があった。 このことは忘れてはならないとおもう。 すると、武将にして、この国の和歌の王者となった細川幽斎はどういうことになるだろう。 その身は徳川幕藩体制の一大名にすぎないとはいえ、「我こそは日本一の武将」という誇りが胸のなかに渦巻いていたのではないか。 光秀の暗号よりも、そのことのほうが、わたしにも面白く思える。 |
先月号の「歴史読本」を読んでいます。 特集は「細川幽斎と明智光秀 新視点・本能寺の変」とあります。 ただ、新・視点などはありません。 この時代のファンなら、知っていることをいやがうえにも繰り返しているだけです。 人気小説家鈴木輝一郎氏が書いたエッセイ「人物評伝――幽斎と光秀をめぐる人々」というのが一般ピーブルのための「売り」でしょうが、この雑誌を読むくらいの人にはどうなんでしょうね……というところ。 思いつきで歴史上の人物を斬って、読者にサービスしたつもり……あんまり感心しませんね。もっと人間をみて書いて欲しいものです。 そんなことを云いながら、この雑誌を買ったのはある疑問を解くためでした。 疑問は二つあります。 「細川幽斎が伝えた『古今伝授』とは何か」 「明智光秀の有名な連歌『天が下しる〜』は、反逆を知らせる暗号だったのか」 どちらも、古今伝授の研究者と、連歌の専門家が執筆しているので楽しみにしていました。 古今伝授を研究する小高道子(中京大学教養部教授)さんの書いたものは読み応えがありました。 さすがに紙面が限られているので、古今伝授の内容にまでは触れることはできなかったようです。でも、その儀式でどんなことが行われていたかはよくわかりました。 古今伝授は「古今和歌集」の奥義を伝授するという、いまからみれば馬鹿馬鹿しい限りのものです。 ただ当時は印刷術もないので、まず「古今和歌集」を筆写することから始めなければならない。 しかも、あの書道がとんでもないしろもので、見栄えを大事にするので、かな文字に濁点を打たないこともある。 ということは、華麗な和とじ本に書き写された「古今和歌集」は、そのままでは正しい読み方がわからないのです。 とうぜん、正しい日本語として知るためには読み方から勉強しなければならない。 岩波文庫で「古今和歌集」が読める現代はすばらしい!……です。 戦国時代以前に「古今和歌集」をきちんと読もうと思ったら、試験を受けた上に、高い入学金を払って芸大へ入り、そのうえ有名教授に高額レッスン料を払って稽古してもらうくらいの手間がかかる。 もちろん、欠損や写し間違いの多い写本を読んで、素人が楽しむ分にはその限りではありませんけど。 歌人がプロとして素人からお金をひっぱりだすシステムとして、現代のお稽古事に通じるものが出来上がりつつあったわけです。 「古今伝授」も、没落東国武士出身の東常縁(とうのつねより)が15世紀後半に始めたもの。それを応仁の乱で食いっぱぐれた武士崩れの連歌師・飯尾宗祇に伝えて、さらにそれから公家・連歌師・武家(上流武士)の三流に伝わる。 連歌師は室町幕府に関係して、応仁の乱で没落した人が多いようです。 食いっぱぐれた貧乏公家、没落武士層がプロ化して、まだ金のある地方の上流武士にカルチャーを売る――という構図がみてとれます。 運命のいたずらか、向学心のなせる業か、細川幽斎は三派にわかれた「古今伝授」を統合することになります。 その後、幽斎の「古今伝授」は、本人の運動と後陽成天皇の希望で、八条宮・智仁(ともひと)親王に伝わります。 この八条宮は、後陽成天皇の最愛の息子でした。 数奇な運命をたどった人で、一時は豊臣秀吉の養子となりました。ところが、秀吉に実子が生まれたので、皇族に戻って八条宮(はちじょうのみや)家を創設します。 後陽成天皇が病気になったときには皇位を譲られる寸前までいったのですが、徳川家康の横槍で阻まれました。 以後は、「古今伝授」は皇族を中心に行われることになります。 細川幽斎は、ある意味では和歌という文化面で、天皇をこえる王者となったわけです。 幽斎は、天下を取ったとひそかに自負したでしょうね。 かつての盟友・光秀とは違ったやり方で、おのれの天下取りに成功したわけですから。 それにしても、「古今伝授」は気になります。 いつか、小高さんのご本を探して読んでみようと思います。 さて、第二の疑問はどうか。 それについては、また明日。 |
山川菊栄さんの「わが住む村」を読んでいます。 中身が濃い本なので、「です・ます」では冗長になりそう。 いつもと雰囲気を変えて、エッセイ風に書きます。 山川菊栄は、戦前から活躍した社会主義者、婦人運動家ということになっている。 夫の山川均(1880-58)は、日本社会主義の大物で、戦前は共産党の理論的指導者だった。戦後は社会党左派の理論的指導者となった。 山川菊栄も、婦人運動の先覚者として有名だ。 戦後には、労働省婦人少年局の初代局長となった。 そういう人がなぜ神奈川県の旧・村岡村の農村について本を書いたのか不思議な感じがする。 きっかけはひどく即物的なものだった。 戦前の警察から要注意人物としてマークされていた山川夫妻は、生活のために養鶏場を経営していた。 正確にいうと、飼っていたのはニワトリではなくウズラだったから、養鶏場という言い方は不適当だろう。 文化人として本を書いたり、講演することではお金が取れなかった。 だから、他の生活手段を求めざるをえない。 山川均は鎌倉稲村ヶ崎にあった自宅で、ウズラの飼育をはじめた。 夫婦ともに理論家の二人には、意外な才能があったらしく、ウズラ飼育業は軌道にのった。 そこで、もっと手広く商売するために村岡村に引っ越したのである。 社会主義者の一家といえば、戦前ではオウム真理教の信者以上に嫌われていた。退役軍人が組織する地方の在郷軍人会にもいろいろ嫌がらせや圧力をかけられた。 村岡村はよほど人気がよかったのか、社会主義者一家を受け入れてくれた。 山川夫婦はウズラの飼育用禽舎を二棟、育雛用の建物を一棟持つまでになった。 菊栄46歳、夫・均は56歳のことである。 ふたりには振作という息子がいて、両親と同居していた。写真でみるかぎり、息子は20代から30代前半くらいらしい。 一家は、「湘南うずら園」という看板をかかげて、いっかいの「鳥屋」として仕事に励んだ。 ところが、翌年、夫・均は「人民戦線事件」という政府の思想弾圧事件で警察に検挙される。 山川菊栄は夫が留置生活を送る長い年月のあいだ、女手ひとつで「うずら園」を守りつづけた。 おりしも日中戦争が勃発して、国民生活がいよいよ窮乏してゆく時代である。 「わが住む村」は、ただの「鳥屋の女房」として生活を守っていた頃の、山川菊栄の労作だ。 農家の主婦や、老人から聞き書きした内容を骨子にして、いろいろ具体的な数字をあげて江戸時代から当時(この本の刊行は1943年)までの、農村の変遷を書いていく。 山川菊栄という人の、ドキュメンタリー作家としての能力には凄みさえ感じる。 現象面だけにとらわれることなく、その裏にある社会情勢・経済状況の仕組みもしっかりと分析している。 本物の知性とは、こういうふうに活動するものだとまざまざと教えてくれる。 「農業は誰が継ぐ」「戦時下の農村」という章を読むと、現代農業の病理がすでに日中戦争勃発のこの時点に胚胎していたことがわかる。 現代の農業が直面した農業人口の老齢化、後継者不足、行政のノー政(農政?)は、すでにこの頃から農業従事者にとっては深刻な問題となっていた。 ただ、それを問題視するだけの余力が、総力戦を遂行しつつある全体主義国家・日本帝国にはなかったというだけだ。 ただ山川菊栄はただの批判者ではない。 「耕地は蘇る」という章では、営々として土地改良に努力してきた農村の努力をきちんと評価して、具体的なデータをあげながら、それを記述してゆく。 すぐれた知性の仕事は、とにかく気持ちがいい。 山川菊栄という人のすばらしさは、優秀な頭脳の分析力が、生活者としての観察力、活動力とむすびついていることにある。 往々にして、こういう人は男であれ女であれ、ただの優秀なビジネス・パーソンになりがちだ。 ここでいうビジネス・パーソンは、ただの商売人というほどの意味である。 そうはならない公共への熱情を持つ人――そんな人は、サムライとでも呼ぶべきだろう。 時代遅れな言い方だけど。 山川菊栄という人には、サムライの志がある。 昨今のこの国の人間にはいないタイプである。 |
暑い日が続いています。 寝ていてもエアコンを使っています。そうしないと夜中に起きてしまう。 すると寝不足で昼間は使い物にならない。 チューネンの悲哀でしょうか? 地球環境にはやさしくない生活を送っています。地球さん……ごめんなさい。 ところで、昨日書いていました読売新聞掲載の紀田順一郎さんのエッセイ。 タイトルは「ほんの紙魚」でした。 紙魚という昆虫は、本好きの代名詞みたいですが、わたしは嫌いです。 古い本ばかり溜め込んでいるうちの本棚には、こいつらがやたらいて、ときどき開いたページの上をのそのそ歩いています。 酸性紙の有害性が叫ばれる前に作られた80年代以前の本はいまや端から黄ばんできて、昭和30年代以前の文庫本など端から崩壊しつつあります。 そのような状態で、読書家に紙魚を愛せよといっても無理だと思いません? 心やさしい園芸家も、鉢植えについた毛虫や害虫はなんのためらいもなく駆除する。 読書家も、紙魚についてはそうするしかない。 世の中は厳しいものです……(笑) 話をエッセイのほうへ戻します。 7月31日の最終回は「アナログ・デバイド」というタイトルでした。 これは紀田さんの造語で、デジタル・デバイド(ネットワークによる情報格差)をもじったもの。 沖縄サミットでも、「デジタル・デバイド」の是正をどうみてもデジタル音痴みたいな首相が言っていました。 それだけ「デジタル・デバイド」は先進国において深刻だということです。 ただ、紀田さんが憂慮するのは日本語において情報格差がすごい勢いで進行している事態です。 べつに若者たちだけでなく、熟年世代もそれ以前の世代に比べれば、日本語の語彙や運用能力は落ちています。 日本語なんかできなくても、インターネットの共通語・英語ができれば十分ではないかという意見もありますが、言語学・大脳生理学的な理由でそういう意見は却下します。(笑) 母国語の運用能力を超える外国語の運用能力を持つことは不可能なのです。 幼児に早期から英語教育をほどこしたところで、あたまの足りない英語使用者を作るのが落ちでしょう。 生涯に接する英語の量がネイティブとはけた違いなわけですから。 「ことばの教養」と、紀田さんは読んでいますが、奇麗事の「教養」という言葉で表現するからどうでもいいことのように見過ごされてしまうのではないか。 はっきりいって、トータルな日本語情報処理能力が世代ごとに破壊的に減ってきているだけのことです。 だからといって、英語の運用能力が爆発的に伸びているか? 疑問ですね。 TOEICのような実務英語の運用能力テストの平均点は、こと一部ビジネスマンにおいては上がっているかもしれません。 でも、あの試験を日本語でやってみたらどうでしょうか? ビジネスの現場といっても、なんだか馬鹿馬鹿しいような気がします。 広告や、飛行機のアナウンスの内容でひっかけ問題があるだけですから…… 昇進・移動のために、どうしてもある点数が必要という人でないと、こんなことに時間を費やすのはもったいない……てのは云いすぎですかね。 ろくに勉強しないで、TOEICの800点前後をとれる人が、同テストで900点以上を目指すのは時間の無駄かもしれない。 ただ、TOEICでさえ英語そのものを知らないアナログ敗者じゃ高得点は無理。 英語使用者でアナログ・デバイドの敗者であれば、これはもうどうしようもない。 そういう人はほっておくのが、競争社会の正しいあり方。 だから仕方ないのかもしれません。 ただアメリカであれば人口が多いので、情報敗者が多くても、人材には困りません。世界中から、野心的でタフで、頭脳優秀な人々がやってくるからです。 アメリカという舞台を、かれらに提供していれば、経済の面は大丈夫。あちらの文化はもともと、そういう混交状態を前提にしているから、英語のアナログ・デバイドは問題にならない。 ビジネス・チャンスの少ない文化面など、どうでもよろしいというところでしょうか。 翻って、日本の状況を考えてみると、1980年代に資産形成に成功した階層と、そうでない階層の二極分化が進んでいます。 それ以前は明治時代以来、「がんばればどうにかなる日本」という看板で国民にハッパをかけつづけてきた。 80年代以後は「がんばっても、どうにもならない日本」であることを国民が思い知らされた。 その20年間の失意の蓄積が、「ブック・センス」の喪失であり、「アナログ・デバイド」であったということです。 横綱貴乃花が「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」という言葉を横綱推挙の口上で使いましたね。 あれは、本人の言葉では「本を見て勉強した」そうです。 本を見て、勉強したらいいことがあるぞという世代の勢いがまだ貴乃花にはあったのです。 紀田さんも「読書の習慣が日本語の水準を支えてきた」と云っています。 ただ、世の中は資産形成に成功した階層さえも安閑とできなくなっています。 いまは「がんばっても、どうにもならない日本」ではありません。 「とにかく、がんばらなきゃ、どうにもならない日本」です。 きっと、こういう時代にふさわしい本や書き手は必ず出てくる。 そういう書き手を求める人だって、増えている。 さんざん悲観的なことを書いてきましたが、わたしはそう信じています。 どうも、長くなりすぎたので、本の話題はまた明日。 「一日一冊の鉄人的読書」って、看板はいまのところ誇大広告ですね。(笑) JARO(広告審査機構)に訴えられても、仕方ありません。(冗談) |
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