お気楽読書日記: 7月

作成 工藤龍大

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7月

7月15日

昨日は日記をアップしておりません!
久しぶりに床屋に行ったのですが、話好きなご亭主のおかげで帰ってきた頃にはもう夕方でした。
たしか、2時に出かけたのに、終わったのが5時過ぎ。

べつに順番を待っていたわけではありません。
いったら、すぐに取り掛かってもらって、これです。
どうなってるんでしょうか。タヌキに馬鹿されたような気持ちです。

この床屋さんはご亭主の母親も散髪しているのですが、この人にやってもらったら、一時間で還って来れたはずです。
やでやで……です。
それから、夕食をとったら、あっという間に夜中でした。
もう、あきらめてアップするのをやめました。

本日は、両国の江戸博物館へ出かけようと思います。
だから、これは土曜日の夜中に書いています。
いっしゅの「未来日記」でしょうか?(爆笑)
脚本が優香でないのが残念です。

そういえば、優香はチェキっ娘をやっていたころよりも、色黒になったような気がします。
ぜんぜん関係ない話でした……すいません。

さて、床屋の亭主の話は、ご町内の不況の噂です。
さいきん大型店舗出店規制法が改正されましたよね。
おかげで、うちの前の大型スーパー・チェーン「ライフ」も深夜まで営業できるようになりました。
そのため、近所にあった個人営業のスーパーが閉店したのです。そこのオーナーは、マンションを建てたり、スナックや蕎麦屋をやっているそうですが、マンションの建設費用で2億4000万円の借金があるとか。
スナックはダメだし、蕎麦屋は店主がガンで死亡。なかなか厳しいようです。

法改正のおかげで、「ライフ」では酒類の販売もはじめました。
たぶん、このあたりの酒屋さんは全滅だろうとのことです。

聞けば、床屋のご近所の酒屋さんは土地持ちの小金持ちだったそうです。しかし、売上が伸びずに、店舗の上をマンションに改築したものだから、土地を手放して今では青息吐息。
そこへ「ライフ」で酒まで売り始めたから、厳しい!

これも別の酒屋さんですが、自宅と店舗を立派に改築したら、皮肉にもその頃から売上が激減してしまい、ついに店をサラ金に取られた例もあります。
中小の酒屋さんは、量販店にお客をとられてやっていけないそうです。

話をきいていると、このあたりの商店街の栄枯盛衰の構図がみてとれました。

1)先祖伝来農業をやってきた家が、土地を切り売りしはじめる。
2)マンションを建て、小売業に乗り出す。
3)バブルの時代に高い借金をして自宅や店舗を改築するか、新しいマンションを建てる。
4)借金を払いきれなくなり、土地を手放す。
5)店を辞めて、自宅を手放す。

いまどき大都市近郊なら、どこにでも転がっている話です。
これに、経営者のガン病死という要因が加わります。おかげで、このあたりの蕎麦屋なんかの食い物屋は次々と空家になっています。

バブルの負債と、高齢社会の到来が、こんなところまで影響しているのかと、あらためて思いますね。

どこを向いてもいい話はないです――なんて、床屋の亭主もお決まりの科白でため息をつく。
だからといって、床屋でずっとそんな暗い話を聞かされるのも、どんなものでしょうか?

椅子にしばりつけられるような気分になるので、床屋と歯医者ははっきりいって、好きではありません。
でも、せめて剃刀をあてている間くらいは、ぐーぐー昼寝したいものだと思います。

ただ、床屋の亭主にしてみれば、身の回りの商店街という馴れ親しんで来た小宇宙が少しずつ消滅している悲哀をだれかに話したいのでしょうね。
この人は、西武線の駅の向こう側の情勢は、ほとんど把握していないようでした。
自営の小型スーパーが、安売りのドラッグストアに変身していることも知らなかったのですから。
駅のすぐ近くにあるので、通勤・通学する人なら気がつかないわけがない。
やっぱり、このあたりの小さな小さな「商店街」を、唯一の宇宙として暮らしてきたのですね、きっと。

ご亭主にしてみれば、自分にとって唯ひとつでかけがえのない宇宙が何者かの「力」によって滅ぼされようとしていると、漠然とした危機感を抱いているわけです。

こういう感覚は、高度経済成長以降だれしも感じたわけだけど、あの頃は物質的には豊かになるという確信があった。
今は、「宇宙の熱死」にも似た崩壊感覚になっている。

世の中の底が抜けた――ということでしょうね。

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7月14日

昨日、散歩していたら、吸い寄せられるように古本屋に入ってしまいました。
こんなときは、必ず本がわたしを呼んでいるのです。
店内をうろうろしていたら、やっぱりありました。

ここ一、二ヶ月ほど欲しかった本が!

平氏全盛時代と鎌倉初期にいた女流歌人・建礼門院右京大夫という人がいます。
この人の歌集が、岩波文庫に入っていて、それを読みたいと思っていたのです。
女流の和歌に興味があるのではなく、この文庫に入っている「平家公達草紙」という絵物語が読みたかったのです。

つまり、「平家物語」の関連文献として、探していたというわけです。

本の名前は「建礼門院右京大夫集」というのですが、これについてはまた日を改めて書くことにします。

ところで、本日はまた「古事記」と「日本書紀」を眺めて、妄想にふけっていました。
ネタは、天皇の名前です。
歴史学では、10代「祟神天皇」から実在していたと考えられています。
16代「仁徳天皇」以前はみんな神話だとする意見もあります。

今回の妄想では、前提として、「古事記」と「日本書紀」はみな実在の話だったということにしています。
神代の神話や、神武天皇から継体天皇以前の天皇の記事は、みんな天武天皇系統の天皇家の正統性を訴えるために作文したという意見もありますが、今回はあえて娯楽のためにとりません。
しかし、娯楽とはいえ、この立場にたつとずいぶん見えてくるものがあります。

いい例が天皇の名前です。
もちろん「神武・綏靖・安寧……」という中国式の名称ではありません。
これとは別の、天皇が生きていた頃に使っていた名前ですね。
たとえば、神武天皇なら、死後の尊称は「ひこほほでみ命」。生前は「若御毛沼命」または「豊御毛沼命」。幼名は「狭野命」(さぬのみこと)といいます。

こんな具合に眺めていくと、奇妙なことに気が付きます。

共通の名乗りを持つ天皇のグループがあるのです。
たとえば、7・8・9代に共通するのが「根子」(ねこ)という名前。
10・11代は「入彦五十」(いりひこやそ)という名前。
12・13・14代は「足彦」(たらしひこ)という名前です。これには、6代目の天皇・孝安天皇も含まれます。

妄想のタネは、これです。
共通の名前は、じつはこれらの天皇がそれぞれ別の王朝に属していた証拠じゃないかと思うのです。
そう考えると、みょうにつじつまが合うのが面白い。

7〜9代までの、「ネコ」王朝。
これを簒奪したのが、「いりひこやそ」王朝。
この王朝の初代・祟神天皇は「大田田根子」なる人物に、出雲系の神とされる三輪山の「大物主神」の祭祀を命じます。
祟神天皇の頃、「大物主神」の祟りで疾病が大流行したのです。それを鎮めたのが、「大田田根子」です。
なんか臭うでしょう。これだけの記述ですが、大勢の人間が戦乱で死んだような気がしてなりません。
古いネコ王朝の生き残りを取り込んで、政治的動揺を鎮めたのでしょうね。

この「大田田根子」の先祖、「やまととももそ姫」の墓が「箸墓」で、ここは最近の学説では「卑弥呼」の墳墓だとされています。
なんか、歴史作家としての妄想がむんむん沸いてきますよ、これは。

たぶん、このあたりの天皇家の事跡は、「ヤマト王権」が豪族の連合体だった頃の伝承をもとに書かれているのでしょうね。

ただ、「たらしひこ」王朝については、ちょっと一考の余地があるような気もします。
「たらしひこ」とは、このあいだ読んだ「隋書倭人伝」によれば、「天皇の称号」なのです。
しかも、このグループに属するのは、日本武尊の父・景行天皇、日本武尊の弟・成務天皇。さらに、日本武尊の息子・仲哀天皇です。 みんな日本武尊の縁者。征服戦争の推進者です。やたら、侵略戦争ばかりしています。
なんかヘンだと思いませんか?
しかも、仲哀天皇は「古事記」では「帯中日子(たらしなかつひこ)天皇」と呼ばれています。
「中日子(なかつひこ)」とは、皇太子のことです。
とにかく、この「たらしひこ」王朝はでっちあげの臭いがプンプンしますね。

仲哀天皇は、即位後すぐに神の祟りで死に、その皇后である「神功皇后」が朝鮮半島征服に出かけるのです。
しかも、「神功皇后」の名前は「気長足姫尊」(おきなが たらし ひめみこ)ときている。

もし「たらしひこ」王朝が実在したなら、天皇というか、首長は「気長足姫尊」という女性ではなかったのか?

常識的に考えてみれば、この時代の「たらしひこ」王朝とは、2世紀の「倭国内乱」を終了した頃の伝承か、持統天皇時代の女帝ラッシュを反映してでっちあげられたと見るほうが自然でしょうね。
2世紀の戦乱と、「古事記」「日本書紀」が編纂された8世紀初頭の政治的現実をこねまわして書かれたというわけです。

ただし、今回はあくまでも、そういう視点を捨てて、「日本書紀」はあくまでも実在の話として解釈するという立場にたっています。
いっしゅの、作業仮説です。
梅原猛大先生のひそみにならって、思考の冒険をやってみようというのが今回のテーマです。

そういうわけなので、ここで、かってな仮説をひとつたててみます。(笑)

この時代の王権は、母系を通じて継承された!
――ということを想像してみます。
たとえば、景行天皇には巫女王である妹・倭姫命がいた。
日本武尊の征服事業も、叔母である倭姫命を首長とする宗教帝国の仕事とみても、あながち見当はずれとは思えない。
つまり、祭祀と神事という内政面は女帝(巫女王)の仕事で、征服・外交は男性統治者の仕事という邪馬台国の政治的分業を重ね会わせてみるわけです。

こんなことも考えました。
実在する河内王朝の始祖・応神天皇は、「たらしひこ」王朝の最後の王「仲哀天皇」の未亡人「神功皇后」の子供ということになっています。
でも、鎌倉幕府の北条政子じゃないですけど、むしろ「神功皇后」を巫女王として祭り上げ、世俗的統治者として実権を握り、ヤマト王国をわがものにした実力者が応神天皇なのではないか。
……などと、いくらでも妄想はふくらむわけです。

そうやってみていくと、だんだん「日本書紀」を読んでいくのが面白くなりますね。
「偽史倭人伝」(笑)がするするとできてしまいます。

それというのも、3代目から9代目までの天皇の事跡がほとんどないからです。
常識的に読めば、このあたりの天皇は豪族たちを天皇家に結びつけるだけにでっちあげた架空の存在だと思えます。
たぶん、歴史的にみれば、そのとおりなのでしょう。

ただ、名前がどうにもひっかかります。
架空の天皇をでっちあげる際に、せめてもの抵抗として、奈良盆地周辺にいた古いヤマト旧政権の大王(これは、名誉職みたいなものだったとは思いますが)の名前をすべりこませたのではないか――と、わたしは想像しています。
ここまで来ると、日本古代史ファンも病膏盲に入ったというところでしょうか。(笑)
とにかく、なにもかも怪しく思えてくるから、楽しい。
もうビョーキですね、これは。

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7月13日

このくそ暑いのに、こむずかしい話が続く日記です。

わたしが参加している「日記猿人」というWeb日記のリンク集では、エッセイみたいな日記は「日記初心者」(笑)が書くものとされているようです。
互いの日常生活をそこはかとなく書いてコミュニケーションするのが、「Web日記」の正道だとか。

だから、わたしは「チョー日記初心者」というわけです。
でも、本人はこれで結構楽しいので、コミュニケーション日記書きにはなれそうにありません。
こんな調子ですが、これからもよろしく。

さて、昨日は「日本書紀」と平行して、また別の本に手を出してしまいました。
岩波文庫の「魏志倭人伝」です。

ほんとうは「中国正史日本伝(1)」というのですが、とおりがいいのでこう呼ばせてもらいます。

この本は、邪馬台国マニアの必携本ではありますが、わたしは邪馬台国には興味がありません。
というより、邪馬台国探しには興味がないのです。

ここ数年、邪馬台国は奈良盆地にあったと確信するようになりました。
純然たる大和説の信奉者です。
このごろの考古学上の発見をみると、九州説は苦しい……じゃないですか!
「機を見るに敏!」てな、わけではありません。

卑弥呼は奈良盆地にいたという観点でみると、新鮮ですね。
「魏志倭人伝」の記述は。

あの頃から、日本人は偉い人に向かっては、合掌して拍手を打ったそうです。
弓の持ち方も大陸と違って、弓の半分から下を持つ「弓道スタイル」
なんか、ぜんぜん変わっていませんね。

人民は酒好きで正直者ばかり。
しかも寿命は短くて7,80歳。長ければ、100歳くらい。

偉い連中は妻を4、5人持つのが当たり前。普通の人でも2、3人の妻がいる。
妻たちはおしとやかで、嫉妬はなし。
訴訟は少ないし、盗みを働くものもいない。
いいことばかりです。
こんな国に生まれたかった!(笑)

しかし現実はこんな甘いものではありません。

魏志の描く二世紀は中国でいえば「三国志」のまっただなか。
日本でも「倭国大乱」という激動の時代でした。
またまた妖怪<切り裂きジジイ>に登場願うと、7月13日付けの「読売新聞」によれば、この大内乱時代を証明する矢傷がついた人骨が島根県で見つかったそうです。

遺体には埋葬した形跡がなく、死亡推定年齢は十歳から四十歳。
矢じり、刃物、ヤスなんかで致命傷を受けた印のある人骨だったのです。

この内乱を収束するために登場したのが、巫女王卑弥呼です。
卑弥呼もずいぶん長い間、統治していたのですが、最晩年には隣国との戦争が勃発します。
どうやら、卑弥呼はその終末をみないで他界。
あとは、血縁の少女・壱与が巫女王となって、ようやく戦争は終結しました。
嫁さんをたくさん貰って、大酒食らってハッピーな生活というわけにはいかなかったようです。

邪馬台国の特産物は、真珠とヒスイだったようです。
真珠は体中に刺青をいれた漁民がとってきました。
ヒスイは、もちろん川原からとってきて、勾玉に加工しました。
壱与が魏に使いを出したときには、奴隷と一緒に真珠とヒスイの勾玉を献上していますね。

山からは酸化鉄(丹)をとってきて、顔や手足にペインティングしていたようです。
いまどきの少女とやっていることは変わりません。

この化粧法といい、ちまちました加工品を特産物とするあたりといい、現代日本とどこが違うのか。
唸ってしまいましたね。
三つ子の魂、百までも。雀、百まで踊り忘れず。腐っても鯛。

日本人って、1000年前から、変わっておらんのですね。

ところで、閑くさいやつとお思いでしょうが、「日本書紀」と「魏志倭人伝」の年代を比べてみました。
大昔から、たくさんの学者さんがやっていることを、わざわざまたやるあたり、わたしもバカですねぇー。(笑)

そうやってみると、卑弥呼が生きていた時代は、「日本書紀」では神功皇后の時代に相当しています。もっとも、この皇后さまは101歳まで生きたので、実在したかどうかはかなり疑問です。
ただ、この皇后さまが死んだことになっている年代と、卑弥呼の後継者壱与が最後に「魏志倭人伝」に登場した年代がほぼ同じであることが気になりますね。

朝鮮半島へ侵略に出かけた勇ましい神功皇后という女性統治者は、倭国の大乱時代の女帝たちを象徴しているように思えてなりません。
侵略したのは、朝鮮半島の新羅というもっと後代に誕生した国家とされています。
それは歴史的にはもちろん虚偽でしょう。
ただこんな空想をしています。
奈良盆地あたりを根拠とする女帝の征服軍が、北九州・朝鮮半島南部を縄張りとする小国家郡を征服したのではないかと。

この時代、朝鮮半島を制圧していた後漢以来の中国人統治機関「楽浪郡・帯方郡」がそろそろがたがたしてきたので、半島では中華文明の洗礼をうけた人々が自前の国家を作ろうと蠢いている時期です。
じつは、日本もそうした東アジア世界の動揺のなかから国家形成をはじめたお仲間のひとり。
だから、朝鮮半島南部は北九州や山陰地方を縄張りにする地方豪族の同族がいるわけで、国内統一を進めようとしたら、そっちまで手を伸ばしても不思議じゃない。

神功皇后の死後ほどなく、朝鮮半島から「百済人王仁」が日本へやってきます。この人は「論語」と「千字文」という漢字辞書を持ってきました。
他にも、後漢孝霊帝の末裔を名乗る「阿知使主」がその民を引き連れて日本へやってきます。
朝鮮半島が戦乱で住みづらくなったので、中国文化の担い手たちが平和を求めて、日本へ移住してきたのです。

倭国大乱を終えて、いちおうの平和を手にした大和朝廷は、彼らにとって安住の地となったのです。

こうして世界史年表と見比べながら、歴史を妄想するのは、何よりも面白いと、わたしは思います。
ビールを飲んで、ぼーっとしているよりもいい暑気払いです。

本日も、また「日本書紀」を読んで、暑気払い……(はははっ、サブいでしょう)……しちゃおっかな!
――と、思いますね。
夏の読書には、ビールよりも麦茶が美味い!

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7月12日

伊豆諸島では毎日何度も震度3以上の地震が起きています。
台風シーズンにも入ることだし、島の人たちはずいぶん不安な毎日なのだろうと思います。

地球物理学的にいえば、伊豆諸島は関東のすぐ近所。
とっても、他人事には思えません。
地震は伊豆諸島に頻発しているだけなので、杞憂かもしれませんが、あれが近づいているように思えてなりません。
関東地区の皆さんが恐れているあれです。

歴史地図をみると、千葉の南端と神奈川のほぼ半分が「烈震」です。
「烈震」というのは、理科年表によると「歩行はむずかしく、はわないと進めない」「家屋の倒壊は30パーセント以下。山崩れや地割れが起こる」そうです。
これで震度6です。

東京・埼玉だと江戸川河口と立川の少し前までを直径とする円の内部が、この震度でした。
地面が陥没する地域は、東京・埼玉・千葉・山梨・静岡まで広がります。
ほとんど首都圏は壊滅ですね。

地震報道をみるたびに、本物のゴジラが来襲してくれた方がましではないかという気がします。
いっそのこと、早く来いなんて、思ったりして……

夜遊びはやめて、夜間はなるべく埼玉県内にいたいと思います。
われながら、天下御免の小心者です!(笑)

ところで、まだ「日本書紀」を読んでいます。
「日本書紀に学ぶ人間学」なんて……さえないカルチャー・センター講師が考えつきそうなことにはまっています。
やっぱり、本を読みすぎてアタマが悪くなったんでしょうか?(笑)

古代史学者さんと違って、アマチュア歴史作家の身としてはいくらでも勝手な想像ができるところが楽しいですね。
今回は「出雲王朝簒奪劇」というのを空想して面白がっていました。

日本神話では、スサノオ尊と姉・アマテラス大神が近親結婚して子供をつくることになっています。
そこで男の子が5人、女の子が3人生まれることになります。
このうち女の子たちはスサノオ尊の子供とされて、九州の宗像神社に祭られる三女神になります。
男の子たちはアマテラス大神の子供とされて、その長子が天皇家の祖・アマノホシホホミミノ尊となり、次兄がアメノホノ尊です。
正確にいうと、アマノホシホホミミノ尊の子供であるニニギノ尊が日向の高千穂の峰に 天孫降臨するのです。
日向が九州かどうかは諸説あってわかりませんが、とにかくここから東征軍を起こして、初代天皇となるのがニニギノ尊の孫・神武天皇です。
ただ、そこまで話がすすむと、今回のテーマとはずれるので、天孫降臨の前に話を戻します。

宮城谷昌光さんではないけれど、神話を歴史だとおもって、空想してみました。
「神」という名前はついていますが、これをただの尊称だと思ってみると、生臭い人間のドラマが見えてきます。

(以下の神々の名前は、「日本書紀」で統一しています。「古事記」とはちょっと違うのです)

出雲王朝の王はとうぜん大国主神(おおくにぬしのかみ)ですね。
そこへ、天界からフツヌシノ神とタケミカズチノ神が使者としてやってきて、王国をアマテラス大神の子孫に引き渡すように命じました。
大国主神が後継者の事代主神(ことしろぬしのかみ)と交渉してくれと云うので、二神は事代主神に強談判に及びます。
すると、事代主神は承知して、ついでに自殺してしまいます。

これを聞いた大国主神は引退を決意して、あとは祭祀を専門とすることになりました。
その代償として、壮大な大宮殿を造営して、財源となる所領を安堵して、漁業権・海運権も与えることになります。
ところが、その管理をする人物がじつはアマテラス大神の第二子「アメノホノ尊」なのです。
これ、どう思います?

「アメノホノ尊」は、じつはフツヌシノ神やタケミカズチ神に先立って、領土引渡しの交渉に来ていたのですが、すっかり大国主神にとりこまれてしまっていたのです。
しかも、アメノホノ尊が頼りないので、その息子「大背飯三熊之大人」(おほせいひの みくまのうし)まで送ったのですが、これも父の二の舞です。

この一族は、どうやら天界で冷や飯食いだったらしく、大国主神の「人たらし」にすっかり参ってしまったのですね。
それにしても、大国主神の直系先祖でないほうに、在地の支配権がいくのはなっとくがいきませんね。

いっぽうで、事代主神の血筋は消えていません。
なんと、神武天皇の后となるのが、事代主神の娘なのです。

この人は二代・三代天皇の母です。
四代天皇の母は、事代主神のひ孫でした。
けっきょく、これだけ旧勢力をとりこまないと、やっていけなかった!

それだけでなく、大国主神は引退にあたって、その軍団をフツヌシノ神やタケミカズチ神に提供して、軍事征服の手伝いをさせました。
その軍団を率いていたのが、「大物主神」と「ことしろぬしの神」です。

ただ、こちらの「ことしろぬしの神」は「事代乃神」とあるので、別人かもしれません。

「大物主神」というのは、日本書紀では「大国主神」の別名とされています。
ただ、ここの記述では大国主神の引退と、出雲軍団の征討作戦がセットになっているので、同一人物と考えるのは無理ですね。
それについては、ひとつ考えがあります。機会があったら、書いてみます。

ところで、こちらの「大物主神」は征討作戦が終了すると天界に出雲の神々を率いて出向き、恭順の意を表します。
そこで、天界の最高神・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)のお声がかりで、その娘を妻に迎えることになります。
力ある子分は、自分の閨閥に組む込む――日本政治の大原則です!

このへんの政治の流れや、人間関係は、どうもどこかで見たことがある。
秀吉や家康みたいな、日本的な政治家のやり口そのものです。

いや、現代日本でも、そこここの企業や政治家なんぞで、よく見かける人間関係です。
二流週刊誌の記事は、あいかわらずこのセンスですね。

やっぱり、「日本書紀」は日本人を知るためのバイブルなんだと、しみじみ思いました。
最近、こればっかりです。(−−;

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7月11日

暑いですね。
梅雨明けは来週だそうです。太平洋上の高気圧が弱いので、梅雨前線はまだ停滞しているとか。
このごろ、天気予報が気になります。
傘をもっていないと、いつ雷雨に見舞われるかわかったものじゃない。

そういえば、近所に落雷があった日から、新聞受けに新聞がたまっているお家があります。
夏休みの季節でもないのに、どこかへお出かけしたのでしょうか?
小包まで家の玄関前に積んであります。
もしかして、一家心中?

――なんて不安な空想をしてしまいました。
この1、2年のあいだに近所でもずいぶん空家や売り家が増えました。
散歩していると、高そうな家に売り札がかかっています。
たぶんローンが払えなくなったのでしょう。

こうなると、賃貸のアパート暮らしも悪くないなと、思う……やはり貧乏人ですね。

それにしても、ご近所のお家はどうなったのだろう。近所付き合いがない家なので、余計に不安です。

さて、昨日わが家に妖怪<切り裂きジジイ>が現れました。
新聞がズタズタです。新聞を縛るビニール紐を奥さんがぶつぶつ云いながら縛りなおしています。

そうです。みんな、わたしが悪いのです。

2、3日前の新聞に切り抜きしたい記事があったのに、ほったらかしにしておきました。
それで、きれい好きのうちの奥さんが資源回収のために整理してしまったのです。
なのに、わたしがのこのこと紐を解いて、ばらしたのです。

気になる記事というのは、北九州で見つかった遺跡のニュースです。

6世紀ころに、福岡県のあたりに、「筑紫君磐井」という豪傑がいました。
いま読んでいる「日本書紀」にも関係がある人物です。
この人は、朝鮮半島にあった「新羅」という国と同盟を結んで、大和朝廷に反乱を起こしたことになっています。

でも、実際には北九州一円を支配する「王国」の大王でした。
朝鮮半島侵略をめざした大和朝廷が足がかりを作るために、かれの王国を征服したのです。

今回発見されたのは、「粕屋(かすや)の屯倉(みやけ)」という建物です。
「屯倉」というのは、大和朝廷が地方支配するための役所です。
県庁と税務署と裁判所に、警察と自衛隊駐屯地を合体させた施設ですね。
一言でいえば、大和朝廷の現地占領統治機関です。
「粕屋の屯倉」は、征服した筑紫君磐井の支配地を監視する大和朝廷の出先機関なのです。

現代と違って、古代では都道府県に県庁をひとつ置けば、それで広範な地域を押さえるということができなかったので、「屯倉」は全国各地の要所要所にばらけて存在していました。
朝鮮半島にもありました。

ところで「日本書紀」を読んでいると、これが「古事記」と同時代に書かれたとはちょっと思えないところがあります。
「古事記」はほとんど日本ローカルで話を済ませているのに、「日本書紀」では神話の時代から国際色豊かだからです。
もっとも、漢文の「日本書紀」を書いたのは渡来人やその血を引く連中ばかりなので、「古事記」みたいに「韓の国? それは、どこのこと?」なんて知らぱっくれるわけにはいかなかったというところでしょうが。

日本の国家誕生には、古代朝鮮や古代中国(とくに江南地方)の影が色濃く存在しています。
だからといって、文化の薫り高い朝鮮民族が無知蒙昧で愚かな日本民族を教え導いたわけではなく、あちらを見限った人々(百済・高句麗系の王族・貴族とその眷属)が日本へ来て、<日本人>になったのです。
そもそも大和朝廷そのものでさえ、朝鮮半島とつながりが深い。

ただ「日本書紀」を読んで日韓同祖論を抱くとしたら、それはかなりお粗末な論理の産物です。
実態は民族ともいえない血縁・地縁の共同体社会が東アジア全般にあっただけのことです。

それを統合して、「民族」にしてゆくのが、各国の統一王権の仕事だったわけです。
それ以前の歴史を、民族論的感情でみても、なんにもならないでしょう。

筑紫君磐井の征服は、そうした民族分化時代以前の歴史のひとこまです。
ところで、この「粕屋の屯倉」の成り立ちが面白い。
磐井との戦争は一年半で終わり、磐井は戦死しました。
その子・筑紫君葛子(くずこ)がこの「糟屋の屯倉」(日本書紀ではこうなっています)を献上して、死刑を免れようとしたのです。
どうやら、葛子は父と協力して戦ったのではなく、戦いを傍観していたようです。
筑紫君という地方王家も一枚岩ではなかったのです。

とにかく、この「粕屋の屯倉」を拠点にして、大和朝廷は朝鮮半島進出を行うのです。
筑紫君の王国は、大和朝廷の地方支配をささえる一地方権力になりさがって、生き延びることになりました。

話は変わりますが、今回「日本書紀」を読もうと思い立ったのが、日曜日(9日)でした。
そして、次の日の夕刊でこの記事を見たわけです。

ただの偶然なのでしょうが、なんだか不思議な暗合を感じました。
気のせいといえば、それだけなのでしょうが。
ただ、そういう偶然をメッセージと捕らえるか、ただの偶然と笑い飛ばすか。
健全な社会人は後者であるべきなのかもしれませんが、あいにくわたしは不健全な社会人なので、とっても気になります。
もっともっと気にして、生きていこうと思います。

ところで、同じ日の夕刊に故・皇太后の追号が決まったとの記事がありました。
「香淳(こうじゅん)皇后」というそうです。

追号とは亡くなった皇后・皇太后に送るお名前ですが、今までは中国の古典や漢詩から選ばれるものだとばかり思っていました。
ところが、故・皇太后の追号は、日本初の漢詩集「懐風藻」から選ばれたそうです。
記事にもありましたが、日本人の漢詩集から追号が選ばれるのは初めてだとか。

昔は、漢学(=中国古典)の偉い学者(というより、漢学を看板にした政治ゴロですな)がいっぱいいたので、こんなことは許さなかったはずです。
戦後教育のおかげで漢学が衰えて、政界でも「三国志と貞観政要に学ぶ帝王学」よりも、アイビー・リーグ仕込みのMBAのほうが幅をきかすようになった象徴ですね。
わたし個人としては、「懐風藻」大いにけっこうだと思います。

日本人臭い漢文だって、立派な日本の文化です。だれに遠慮することもない。
それと……
チョー個人的な理由ですが、「懐風藻」はせんだって苦労して読んだです……わたしは。

苦労して読んだ古典は友達になると、このあいだ書きました。
だから――なんだか友達が認められたみたいで、うれしいのです。
なんか、云っていることが変ですか?

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7月10日

どうしようもない暇人みたいですが、いま「日本書紀」を読み直しています。
「古典を読んだことを人に云うときは、初めて読んだとは云わずに、読み直したというものだ」という警句を、たしか三島由紀夫が書いていたような気がします。
わたしの場合は、初めて読んだときは正直にそう書きます。
べつに見栄を張る必要もないものですから……(笑)

前回読んだときは、かなりハイペースで必死でした。崖登りをしている気分です。
「人間辛抱だ!」なんて、ぶつぶつ云いながら。

古典のいいところは、辛抱して読むと一生の友達になってくれる情の深さです。
不思議なはなしですが、時間をかけて読んだ古典ほど懐かしいもの。
人生の戦友みたいです。

ひととの付き合いでも、ケンカ相手のほうが懐かしいということもありますね。
あれと似ていないこともない。

それと、いまどきの小説を読みたいという気があまり起きません。
本屋の小説の棚をみていると、元気になれそうにない題材ばかりが多くて、立ち読みしていても、食指が動きません。
もう少し元気なら、そういう本も楽しめるのでしょうが、今はそんな気分になれません。

わたしは「読んだら元気になる本」というのをコンセプトにしているので、こっちの元気を吸い取りそうな本は避けることにしています。

本は生き物です。
なかには、毒気を吐き出すのもいます。そして、それを楽しいと思う人も。

化学物質たっぷりのインスタント食品や、農薬まじりの野菜でないとダメという都会人もいる今日ですから、無理もありません。
満天の星空を美しいと思うよりも、スモッグ混じりの大気に輝くネオン・サインがいいという人も現実にいます。

ただ、わたしは毒気には魅力を感じない。転倒した価値観にはつきあえない。それだけのことです。

「古事記」をこの間読み返したばかりなので、「書紀」を読んでいると違いがわかってきて面白く思いました。
たとえば、「古事記」で日本武尊が出雲タケルをだまし討ちにする物語があります。
ところが、「書紀」ではこの物語はありません。ただ出雲の豪族たちが内紛して、殺し合いをする記事があり、そのやり方が「古事記」の日本武尊のそれと同じでした。
ただ「書紀」の記事では面白くもなんともない。
その点、「古事記」は文学ですね。きちんとした物語になっている。
これを書いた大安麻呂という人はなかなかの文学者ですね。

ところで、「書紀」はいろいろな資料を編纂して書いたために、「一書に曰く」とただし書きをしてたくさんの原資料から違った記事をやたらに引用しています。
日本神話の「神代編」では、ことにそれがはなはだしい。

これをみると、「古事記」の原資料もそのひとつだったことがわかります。

イザナギ尊が亡き妻イザナミ尊を死の国に訪問する神話は有名なので、知らない人はいないとおもいます。
腐乱した妻イザナミ尊の死体を見たおかげで、イザナギ尊は鬼女たちに追跡されますね。
その物語は、日本神道の「禊祓い」の根拠になっています。

ここで、面白いのは、鬼女たちを追い払うのに、イザナギ尊は次々と持ち物を放り投げます。これが、みんな神様になるのです。

杖を投げると「衝立船戸神」(つきたつふなどのかみ)。
帯を投げると「道之長乳歯神」(みちのながちはのかみ)。
袋を投げると「時量師神」(ときはかしのかみ)。
衣を投げると「わずらひのうしの神」
袴は「道俣神」(ちまたのかみ)。
冠は「あくぐひのうしの神」。

意味は上から、「ここから先へは来るな」「長い道を掌る磐:(道しるべ?)」「時間を計る?」「煩いを掌る」「分かれ道を掌る」「食いっぱぐれ」という具合でして、陸の道路交通・旅を象徴する神々です。
道標や、分かれ道の道しるべはもちろん、日時を測る・病気やトラブルを避ける・食事の心配など等と、現代のドライブ旅行にも通じる旅の常識ですね。
(注釈では語義未定のものもありますが、古語辞典を見ながら考えたら、こうじゃないかなと思いました!)

いっぽう、それだけでも足りずに、イザナギ尊は両手首にはめた飾りを放り投げるます。
これも神さまになるのですが、神さまの名前をいちいち紹介してもめんどくさいだけでしょうから、意味だけ紹介します。
神様は六柱でして、その名前の意味は「沖に遠ざかる」「沖のほうの海」「沖へとこぐ櫂」「岸辺に近づく」「岸辺に近い海」「岸辺へとこぐ櫂」という具合です。
つまり、こちらは手漕ぎ舟をイメージした船旅ですね。

(これも語義不詳の名称に当て推量してしまいました。本人としては大まじめなので、許してね!(笑))

こんな具合にして、イザナギ尊は鬼女の追跡をやっと逃れたのです。
その結果、陸路の神6柱と、海路の神6柱が、死と穢れの国「黄泉の国」から現世を隔てて防衛することになりました。

古代人の頭の中では、「罪」と「穢れ」は同じものでした。
この神話から分かるのは、「穢れ=罪」から清められるには、まず旅が必要だという古代人の倫理観念です。

そのあとで、イザナギ尊は筑紫国にある「日向の小門の橘のあはき原」(ひむかノおどノたちばなノあはきはら」という場所で、川に入って禊をして「穢れ=罪」を洗い流すことになります。

この神話を読み返して、あれっと思いました。
なんか、最近どこかで聞いたような……

そうです。金属バットで母親を殺して逃走した少年です。
はるばる自転車で野宿を重ねながら旅をして、北海道へ向かった。
結局、秋田でつかまりましたが、なぜあんなことをしたのか。

精神科医の町沢静夫教授がコメントされていたところでは、「行き場をなくした少年は自転車をこぐことで不安をまぎわらしていた」ということです。
もちろん少年の内面については、警察の綿密な取り調べや精神医学の診療が必要なので、一般論で片付けてはいけないとは承知しています。
ただ、罪を犯した心は、古代人も現代の17歳も同じじゃないかと思えて仕方がない部分もあります。

「犯罪を犯す」ことは、自分の居場所を失ってしまうこと。
それは、昔も今も変わらない。

下級生を襲い、母を撲殺した少年は、黄泉の国で「穢れ」を全身に浴びてしまった。
その心を宥めるには、空腹と苦難に満ちた旅が必要だった――

神話と現実はもちろん違いますが、民族の神話にはその民族の心性がはっきりと描かれています。
「黄泉の国」から還って来たイザナギ尊の気持ちを、あの少年は痛烈に味わっていると思います。

「古典」と呼ばれる本は、人間という生き物の真実を恐ろしいほど知っている。
ときとして、「古典」が怖くなります。

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7月 9日

先日の話の続きです。
妻と別れたスダナ太子がどうなったかというと、じつはどうにもならなかった!
冗談のような話ですが、そうなのです。

子供や妻を連れ去られるとき、大地が嘆きのあまり震えるほどなのですが、当の本人であるスダナ太子は少しも動揺しません。

これだけだと、ただの人非人みたいですね。

ただ、この場合は人に施しただけなので、ずいぶん太子が酷い人間のように思えますが、現実にはこんなことはよく起きるのではないでしょうか。
可愛い子供が大病にかかる。恋愛して結婚した相手と不仲になって、離婚する。
スダナ太子がやったことをよく見てみれば、仕事に失敗してリストラされる。財産をすべて騙しとられる。可愛い子供を亡くす。妻と別れる。
なんのことはない。人生で出会う苦難そのものです。
ちょっと見方を変えれば、わたしたちがいつなんどき遭遇してもおかしくない、ありふれた事件だといえます。

スダナ太子の態度は、見下げ果てた冷血漢ともいえますが、人生の苦難を達観していると云えなくもない。
ときにはジタバタしないで、耐えるしかないということもあります。

スダナ太子の物語は、そうしたことを教えてくれているような気がします。
生きていると、なんで自分ばかりこんな目に会うのだろうということがあります。
だからといって、自暴自棄になって破局を招くのはいけない。
もちろんそうする自由もありますが、そういうのは自分も不幸だし、周囲も不幸です。
抽象的にみえる哲学ですら、その根底には「人間はどうしたら幸せになれるか」という課題をすえている。
自棄になるのは、人間としてよくない!
そんな原理を、出発点にしないとなんにもなりません。

しかし、それでいて、どうにもならないことがある。
子供を連れていった老人が鬼のような姿形をしていたというのは、運命のようなどうしようもないことのメタファー(暗喩)だったような気がします。

ところで、それだけだとあんまりつらすぎる。
というより、「世の中、捨てる神あれば拾う神あり」ということは、ほんとうにあるものです。
世の中には妙な法則があって、「不幸のあとには大きな幸せが来る」ということはまんざらダボラではないようです。

歴史上の人物の一生を調べたりすると、大きな幸運がやって来る前には、必ず大きな不幸があるようです。
身の回りにいる人々だって、そうした例はよく目にします。
むしろ、大きな不幸を乗り越えた人にだけ、幸運の女神は微笑むのではないでしょうか。

たぶん、そのキーポイントは「勇気」と「忍耐」だと思います。
それを身に付けた人にだけ、大きな幸運は訪れるようです。
つまりは、その人が大きな幸運に値する人になるために、試練のときが必須になっているんじゃないかと思います。
運命の女神は意地悪なのではなく、幸運もそれを持つための「強さ」がいる荷物だということでしょう。

スダナ太子の身に起きたのは、まさにそれでした。

妻を連れ去った人は、じつは帝釈天という神様が化けていたのです。
太子の心を試そうとして、こんな芝居をうったわけです。太子の動じない態度に感動して、帝釈天は正体をあらわします。そして、お后の願いを聞いてあげることにします。

すると、お后は子供を救ってくれるように願います。
それも、老人の手からすぐにも取り戻してくれるようには祈りません。
老人が子供たちを太子の故国で奴隷として売る気になるようにしてほしいと願うのです。

帝釈天はこの願いを聞き届けます。鬼のような老人は子供たちをそれと知らずに太子の故国へ連れて行き、祖父の国王に売ることになります。
国王は孫たちからスダナ太子の居所を知り、迎えを出します。

うーんと唸ってしまいました。
このお后の、なんと思慮深いことか。
子供たちがスダナ太子のもとにすぐ戻ってきたところで、事態はなんにも変わらない。
祖父の王と会うことで、一家の運が開けることを見抜いたわけですから。
つくづく女の知恵は凄い!

それからは、とんとん拍子に物事がうまくいって、スダナ太子は故国に戻って、もとの皇太子の地位に就きます。
あんまりウソ臭いようですが、あながちそうでもないように思います。
というのも、太子が故国に戻ってきたとき、かつて太子に施しを求めた民衆が沿道に現れて、ありったけの財を太子一家にささげたのです。
そして、太子が追放される原因を作った隣国の王は、先に騙し取った白い象に宝物を満載して返しました。太子を欺いてから、隣国の王は心が休まるときがなかった。隣国の王はもう二度と領土侵犯はしないと誓います。
スダナ太子は元の地位についても、以前と変わらず貧しい人にはますます施しをするようになりました。

このあたりも、考え込みますね。
スダナ太子は歳月に鍛えられたとしても、本質は少しも変わっていない。
そして、生き方も変わっていない。

時勢というか、時代の流れというのは確かにあります。
しかし、それを超越した何かもまた確かにあるようです。

スダナ太子は時代に合わずに、地位を失い、財産を失った。
しかし、時勢に迎合せずに、善意とおのれの信念で耐え抜いた。
そして、太子の行為が思いもよらない良き実りをもたらしたのです。

戦国時代の殺し合いをビジネスの手本にしようという粗雑な内容の本がいっぱいあります。
でも、戦国時代の殺し合いの覇者たちによって、日本が繁栄したと考えるのはあさはかすぎます。
安土桃山時代の繁栄は、生産・経済・文化の面で蓄積をした民力の成果であって、べつに殺し合いのエリートのおかげではない――と、わたしは思っています。

スダナ太子の物語は、狭い日本社会の枠をこえて、人類の普遍的な知恵を教えてくれているのです。

そんなに長くもない物語ですが、大長編小説を読んだ時よりも心に残りました。
「三宝絵」は1000年も前の本ですが、読んでよかったと思います。

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7月 8日

久しぶりに、「三宝絵」を読みました。
カタカナと漢字ばかりなので、読みにくくて、なかなかはかどりません。
やっと上巻を読み終わりました。

この部分には、釈迦の前世物語(いわゆるジャータカ)が集められています。
17歳の皇女のために書かれた仏教入門書なので、難しい理屈はありません。
話の筋はどれも簡単なものです。

しかし、中身はというと、なかなかハードなものがあります。
すっかり考え込んでしまいました。

というのも、ひとつの物語がどうにも気にかかるのです。
それは、釈迦の前世のひとり、須太那(すだな)太子というインドの王子の物語です。

スダナ太子は情け深い人で、貧しい人に施しをするのが生きがいとしていました。
すると隣国の王が陰謀を企んで、家臣たちを乞食に変装させて、王家の白い象を貰ってくるように命じました。
象というのは、古代インドでは最大の兵器で、力が強いこの白象がいたおかげで、隣国の侵略を防いでいたのです。
ところが、スダナ太子は悩んだ挙句にこの象を乞食たちに施してしまいます。

あまりのことに怒った父王は、スダナ太子を国外に追放しました。
太子は妻子を連れて王宮を出ることになります。
道すがら施しを乞う人々に財物を与え、乗っていた馬車を与え、着ている物さえ与えて、無一物となって密林の奥の山の中に入って草庵を結んで暮らします。
近所に住む修行僧のもとへ弟子入りして、修行に励むのです。

これだけでも大変だとは思いますね。
しかし、もっと大変なことが待っています。

遠国に鬼のような醜い老人がいました。心も鬼のような人間です。
若い嫁をもらったのですが、召使が欲しいと云われます。貧乏なので、召使を雇うお金がないと云うと、嫁はスダナ太子から子どもを貰って来いと命じます。

来ましたね、この老人は。
スダナ太子の幼い子供たちはその姿を見て、恐怖のあまり泣き叫びます。
あまりにも図々しい老人の願いを、このスダナ太子はかなえてやるのですな。
このあたりがわからないところです。

泣き叫ぶ子供たちが逃げ出さないように、鬼のような老人は縄で縛るように頼みます。
太子は子供たちを縄で縛り上げて、老人に渡します。
子供たちはそれでも歩こうとしません。老人はムチで子供たちを殴りつけて、引っ張っていくのです。
子供たちの血がボタボタと地面に流れるのを見ても、太子はただ耐えるばかりです。

この出来事があったとき、太子のお后はちょうど外出していました。
帰ってきて、子供たちがいないことに驚いて、太子を問い詰めて事情を聞き出しました。

もちろん、お后は絶望のどん底に落ちました。
恨みごとひとつ云わずに、夫に従って、山奥に住み、川の水を飲み、木の実を食べて、修行したあげくのはてがこれですから、無理もありません。

すると、そこへまた別の見知らぬ人が現れて、「妻が欲しいので、あなたのお后をください」と云うのです。
このお后は美人でした。
太子はやはり泣き泣き、お后をこの見知らぬ人にあげてしまうのです。

こんな調子の話なので、すっかり気持ちが暗くなりました。
まるで、オウムに騙された信者みたいなスダナ太子。
これから、いったいどうなるのでしょう。
それについては、また明日。

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7月 7日

昨日はK−1 Japan GPを観てしまいました。
昼のTV特番もビデオにとって観たので、K−1漬けです。

特番を観ていたおかげで、武蔵選手のミドルキックがなぜああも簡単にヒットするのかよく分かりました。
ハイキックの要領で膝をあげておきながら、ミドルを狙う。
単純なようだけれど、打ち合いの最中にあれを出されたら、かわすのは苦しい。
どうしても、反射的にガードをあげてしまいますから。

武蔵選手は昔の異種格闘技戦のビデオを観て、モンスターマンがアントニオ猪木に放ったキックからこの技を思いついたそうです。

あの試合は、リアルタイムでTVで観ましたが、そんなキックがあるとは気づきませんでした。
実感としては、あまり面白い試合ではなかったように記憶しています。
やっぱり、目の付け所が違う――ということでしょうか?

しかし、日本では無敵の武蔵選手でも、世界の壁は厚い。
ヘビー級の選手層が薄いために、国内での揉まれ方が足りないせいでしょうか。

さて、昨日予告したとおり、「古事記」を再読しました。
もう何度読み返したでしょうか、この本は。
すっかり読みなれた気がします。

「古事記」という本をジャンル分けしたら、何になるんでしょう?
純粋な歴史書とはとても言えない部分も多いわけですし。
文学書といえば、そういえなくもないですね。

今回読んでいて気がついたのですが、この本には和歌の「書き方指導書」みたいな側面もあるようです。

ご存知のように、「古事記」にはやたらと和歌が引用されています。その終わりにぽんとこんな記述があります。

曰く、
「この歌は賛歌(よみうた)なり」
「この歌は志都歌(しつうた)なり」
「この歌は天田振り(あまたぶり)なり」
「この歌は夷振り(ひなぶり)なり」

とくに「古事記」下巻の「仁徳天皇」「雄略天皇」のあたりにこうした記述が多いようです。
「古事記」下巻は「仁徳天皇」から「推古天皇」までの天皇の列伝ですが、文学的にレベルが高いのは、「仁徳天皇」「履中天皇」「充恭天皇」「安康天皇」「雄略天皇」の伝記です。

この辺に書かれているのは、裏切りと謀略のドラマです。
恋愛もたっぷりあります。
なんだか、歴史小説みたいなところがあります。

有名な日本武尊(古事記では「倭建命」)の話がある「景行天皇」のくだりから、和歌がたびたび登場するようになります。
それ以前の部分は、説話みたいな物語が多いですね。

現代の人間には、和歌の部分が邪魔に思えますが、どうも「古事記」が編纂された頃の人々には歌の方が楽しかったようです。

あえて云えば、「古事記」はミュージカルであった!

とでも申しましょうか?

あんまり天皇の名前が連呼されたので、たぶん頭痛がしてきた人がいると思いますので、(じつは私もそうです!)簡単な系図を書いておきます。
(以下、敬称略……)(笑)

神武天皇(初代) →(10代略)
→景行天皇(12代)→日本武尊→(1代略)→仲哀天皇(14代)→応神天皇(15代)

仁徳天皇(16代)履中天皇(17代)
→反正天皇(18代)
 
 充恭天皇(19代)
安康天皇(20代)
雄略天皇(21代)


ちょっと分かりにくいかもしれませんが、履中天皇・反正天皇・充恭天皇は兄弟です(父は仁徳)。
同じように、安康天皇・雄略天皇の二人も兄弟です(父は充恭)。

なぜ、この人々のドラマだけがいやに詳しいのか?
その理由はド素人のわたしにもわかります。
仁徳天皇から雄略天皇の子供(22代清寧天皇)までの「河内王朝」と、23代顕宗天皇から25代武烈天皇までの「播磨王朝」はじつは血縁のない別の王朝でした。
万世一系という伝説を信じる人は別ですが、最近の歴史学ではこのように考えられています。

そして、26代継体天皇にはじまる現天皇家は、「越前王朝」と呼ばれていて、この二つの王朝とは系譜的な血縁関係はありません。

だから、「河内王朝」に属する王家の人々については、いくらでも好き勝手に面白おかしく物語ることができたわけです。

ただし「播磨王朝」については、そうはいきません。
なぜなら、「越前王朝」の祖・継体天皇は、「播磨王朝」の王・24代仁賢天皇の王女を娶ることで、天皇(というより、大和朝廷の「大王」)の位につく有資格者となったからです。

だから、「古事記」では24代仁賢天皇について、ずいぶん立派な人物として描きだしています。

権力にさしさわりがあることは書けない。歴史の常識です。(笑)

といっても、人間学として観ると、いちばん面白いのがこのあたりであることも確かです。
「古事記」を人間学の書として読むなんて、ヘンなことみたいに聞こえますが、どうしてなかなか勉強になります。
ことに仁徳天皇にはじまる「河内王朝」の物語は、日本人の行動パターンを知るために必要十分な気がします。
太古の昔から、日本人の人間関係って、このあたりの物語につきるといっても言い過ぎではない――なんてね。

もしも、日本人を知りたいと思う外国人のお友達がいたら、「五輪書」や「葉隠」という立派な人たちの本を薦めるよりも、英訳した「古事記」のこのあたりのほうが、実生活上では役立つでしょうね。
もちろん、現代の日本人にとっても。

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7月 6日

昨日の続きで、申し訳ないのですが、本日も「恐竜」のお話です。
また新聞ネタですが、鳥と恐竜が近縁であることを証明する化石が発見されました。

ゴビ砂漠で見つかった「ノミンギア・ゴビエンシス」という新種の小型肉食恐竜です。
体長は約二メートルで、小型肉食恐竜オビラプトルの一種だとか。

この「オビラプトル」というのは、「卵盗人」という意味です。
体長は同じくらいで、歯がありません。その代わり、口吻の先端が鋭い嘴になっていて、これで他の恐竜の卵を突いて食べたそうです。

体系はダチョウそのもので、羽根の代わりに腕があります。

今回発見された「ノミンギア・ゴビエンシス」の特徴は、その尻尾の骨です。
ここに今まで鳥にしかないとされた「尾端骨」が見つかりました。これは尾羽を動かすための骨でして、もちろん羽毛や羽根がなければ必要ないものです。
たぶん、この恐竜には羽毛や羽根があったのでしょう。だとしたら、嘴があって、羽根があるうえに、体型はダチョウそのもの。
やっぱり、ダチョウも恐竜なんだなとしみじみ思いました。
この化石が出てきたのは、約七千万年前の白亜紀末期ですから、もちろん鳥はすでに存在していました。
中生代の空の王者は翼竜でしたが、彼らは巨大なグライダーそのもので、中生代の穏やかな空でなければ飛べないらしいのです。ちょっと嵐になると、たちまち墜落です。
そのため、中生代末期の白亜紀になると大気の状態が以前よりも変動的になったので、空の支配者たちは鳥類に変わっていきました。

だから、「ノミンギア・ゴビエンシス」は鳥の先祖でもなんでもありません。
しかし、鳥と恐竜が近縁種であることはますますはっきりしたわけです。
将来研究が進めば、イラストレーターさんたちも、体長二メートルくらいの小型肉食恐竜を羽毛や羽根で覆われた姿として描くようになるでしょうね。
けばくて、「傾(かぶ)いた」羽毛の恐竜だらけのマルチメディア図鑑――ぜひ観てみたいもんだなぁ。

ところでネットで新聞を観ていたら、またまた面白い記事をみつけました。
「妖怪神社が観光名所」という記事です。

なんだろうと読んでみたら、なるほど。
漫画家水木しげる氏のふるさと、鳥取県境港市の商店街の話です。

ここには水木氏のキャラクター、ゲゲゲの鬼太郎やネズミ男たちのブロンズ像が並ぶ「水木しげるロード」というのがあります。
水木ファンで知らん人はいないでしょうね、あまりにも有名だから。

今年の一月に、この通りの真ん中に商店街の人たちが建てたのが、「妖怪神社」です。

ご神体は高さが四・五メートルで幅が二・五メートルの黒御影石だそうです。
鳥居が面白い。二本の自然木に妖怪「一反木綿」をかたどった木の板を渡した変わった形をしています。

記事では、「鳥居には、不気味な形をした自然の木を使い、今にも妖怪が出てきそうな、おどろおどろしい雰囲気」なんてありますけど、そんなことを思う人がいますかね。

「あっ、一反木綿だ!」
なんて、喜ぶだけのような気がします。

写真はhttp://www.mainichi.co.jp/eye/school/news/2000/07/06/p-01.htmlに載っています。(7月7日現在)
無断引用してはいけないとのことなので、アドレスだけ書いておきます。

しかし、世の中が不安になると、神様よりも妖怪を「福の神」にしてしまおうというのは、何も今に始まったことではありません。
幕末も有名な「大妖怪時代」でした。
もっとうるさいことをいえば、平安時代中期以降、鎌倉末期・南北朝時代というように、旧秩序ががらがら音をたてて崩れていく時代こそ、妖怪のパラダイスなんです。

そうした時代には、崩壊する秩序側にいる人は妖怪を恐れ、雑草型のたくましい生命力にあふれた人々は妖怪を友だちにしてしまう。
「疲れ」なんてことを口にして崩壊感覚に生きる人にとっての「妖怪」と、「どうせ、わしらは妖怪じゃけん」と居直る人の「妖怪」はずいぶん違うような気もしますが、しょせん同じものを別の立場から見ているだけのことです。
こういう二種類の妖怪像が交叉するのが、「大妖怪時代」と呼ぶ所以です!
(といっても、わたしが勝手に読んでいるだけですけど(^^))

境港市商店街の「妖怪神社」には、願い事を書いた絵馬が奉納されたり、観光客が賽銭を払って手を合わせているそうです。
これぞ、いまどきの「妖怪」に対する正しい交際法だと感服しました。

家庭でも学校でも、地域社会でも、子供にはまず「妖怪との正しい交際を教えるべき」だと思いますね。
人間との付き合い方も、妖怪が教えてくれるかも――と、わたしは思いますが、皆さんはいかが?

ところで、この記事は「毎日小学生ニュース」に載っていたので、ルビが変わっています。

ちょっと例をあげると、
人(にん)気(き)漫(まん)画(が)「ゲゲゲの鬼(き)太(た)郎(ろう)」
出(しゅっ)身(しん)地(ち)、鳥(とっ)取(とり)県(けん)境(さかい)港(みなと)市(し)
妖(よう)怪(かい)神(じん)社(じゃ)
という具合に、漢字一字ごとにルビがついています。
眼が眩みますね、これでは。

ルビというのは、日本文化の偉大な功績ではありますが、HTML文書では上手く表現できません。
これをWEB上で表現できるようにならないと、日本の子供たちの言語運用能力は大打撃を受けるのじゃないかと余計な心配をしてしまいました。

ところで、昨日(7月6日)は、「古事記」を久しぶりに再読しました。
そのことについては、また明日書くことにします。

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7月 5日

昨日は、日記をお休みしてしまいました。
前日の雷で短時間だけど停電したので、雷がなっているときはPCはつけないようにしています。
仕事道具なので、壊れると困る。
というのは、ただの言い訳ですけれど……(笑)

昨日は忙しくて、本を読む時間も取れませんでした。
くたびれたので、夜はアサヒ・スーパードライと缶チューハイを飲んで寝てしまいました。
喉が渇くと、ドライが美味い――普段はエビス・ビールか一番搾りばかりなのですが、暑いときは主旨変えです!

とにかくたまに飲んだせいで、頭が働きません。
そういうときは、新聞の切り抜きをすることにしています。

このところ、さぽっていたので、古紙回収でちょっと前までの新聞はなくなっていました。
ひとつ気になっていたのがあったので、残念です。
それは、鳥の先祖は滑空爬虫類ロンギスクアマだったという記事です。

恐竜ではないけれど、模型屋なんかでは恐竜の一種として分類される帆竜(エダフォサウルス)というのがいます。
背中の突起に帆のような背びれがある古代爬虫類です。
厳密にいうと、盤竜類といいます。
記事のイラストで見る限り、ロンギスクアマはそれにそっくりでした。

ただラッキーなことに、7月3日の読売新聞ではこの件について解説記事が掲載されていて、これに載っているイラストをみると帆竜というよりは、トビトカゲですね。これは。

ただミソは、背中の突起が昆虫カゲロウの二枚羽根みたいにパカッと左右に分かれて、それを使ってふわりと空中を滑空したんだそうです。
ますますトビトカゲです。(笑)

ただトカゲといってはダメだそうです。
たまたまインフォシークで検索して見つけた古生物学に詳しい方のHPをみると、「ロンギスクアマは主竜上目槽歯目、トカゲは鱗竜上目有鱗目で、全然違う」ということです。
厳しい意見ですね。

ただ読売の解説には、ちょっと首をかしげるところがありました。
記事のタイトルは「鳥の祖先は滑空爬虫類?」というもので、これを見る限り、鳥は恐竜から進化したものじゃないと思いますよね。
ところが、本文を読んだら、そうじゃない。

下の図は、読売が書いた鳥類の進化イラストを整理したものです。

<鳥類恐竜起源説>
原始主竜類  → ワニ
→ 恐竜 → 羽毛を持った恐竜 → 鳥


<鳥類ロンギスクアマ起源説>
原始主竜類 → ワニ
→ 恐竜(羽毛を持たないタイプ)
→ 羽毛を持った恐竜 → 鳥


羽毛を持った恐竜と、持たない恐竜が原始主竜類の次の段階で別れたということなのでしょうが、どっちにせよ、羽毛を持った恐竜から鳥類が誕生したわけです。
恐竜という分類にこだわれば、羽毛を持っていようと、持っていなかろうと生理的には違いはないんじゃないでしょうか。
やっぱり鳥の先祖は恐竜どころか、鳥は恐竜そのものだと云ってるのと同じじゃないですか!

論文を発表したオレゴン州立大学のJ・ルーベン教授は「羽毛のある恐竜は鳥とみなすべきだ」と考えているそうです。

ただ一つ、これだけははっきりわかりました。
鳥が恐竜の子孫だ、いや違うという二つの学者グループの論争があるにせよ、
どちらにしても、鳥は羽毛のある恐竜だと云っているんです。

つまり、ニワトリは恐竜である!

ところで、オレゴン州立大学のHPには「ロンギスクアマ」の情報が載っているようですけれど、なかなかたどりつけません。
今度は論文が掲載されたサイエンス誌のサイトを探してみます。

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7月 3日

昨日は偉そうなことを書きましたが、暑いせいでしょうか、あんまり小難しくない本を読みました。
それは「蘇る松田優作」(大下英治)という《ドキュメント小説》です。

大下英治氏は、ルポと小説を合体させたようなこのジャンルの創始者ということです。
ただ手法としては、柴田練三郎氏が実在の財界人をモデルにして書いた作品に似てますね。
そんなことはどうでもいいですけど……

松田優作という人は、昭和40年代後半から50年代半ばまでに少年時代をすごした男の子にとって、カルト的ヒーローです。
もう一人は、いわずと知れたカンフー俳優のブルース・リー。
とにかく、優作とブルース・リーとくれば、最近頭部後退ぎみでオールバックが似合ってきたおっちゃんたちも、いきなりガキに戻ってテンションがビリビリ上がってきます。
そうなると、誰にも止められない――(笑)
怪鳥音(例のアチョーというやつです……)を発したり、ヌンチャクを振り回す真似をしたり、《優作走り》をしたり……酒を飲んだ後がとにかく危なくていけない。

《優作走り》なんてわからない?
「太陽に吼えろ」か「蘇る金狼」のビデオを観れば一発でわかります!(^^)

大下英治氏の本は、松田優作の誕生から、その死までを小説仕立てで追ったものです。
いや、じつによく調べて書いてある。
優作が出演したCMのエピソードまで書いてあって、おもわず懐かしさにジンときました。
あの宇崎竜童、原田義雄と白いスーツ姿で出ていたあれ(!)です。
……そんなことを云っても、リアルタイムで観た人なんて、いまどきのWeb読みにはあんまりいないでしょうね。(泣)

松田優作という人は、かなりアブナい人で、やたら人を殴ったり喧嘩したりと大変でした。
ただ意外なことに、芸能界入りする前は酒を飲んでヤクザと喧嘩することもあったのですが、俳優として認められると酒の席では手は出さなかったそうです。
「太陽に吼えろ」の出演が終わったころ、ファンと暴力沙汰を起して逮捕されたせいかもしれません。

ただ映画の撮影中や、業界誌の取材のときなんかは、スタッフをよく殴っていたそうです。
理由は特にない。殴りたいから、殴る。
その殴り方がいい。
気軽に話しかけて、仲が良くなったのかなと思うと、親しげに肩に手を回す。
次の瞬間、相手は殴られている。

苛めたいから殴る――というよりは、一種のコミュニケーションなのです。
いまどきの若者には通じないでしょうけれど。

女の人にはちょっと理解しがたいかもしれないけれど、男には時としてこういうのがいます。どこか哀しい人間で、男のあいだでは妙に人気があります。
殴り屋のエピソードや、人と酒を飲んだりしているときの話を聞くと、松田優作はいい男ですね。惚れ惚れしてしまいます。

隆慶一郎さん描くところの前田慶次郎そのもの。
隆慶一郎作品の「傾き者」ですね。
日本神話でいえば、天上界を追われる須佐之男命。

野生と繊細な純情が同居していて、何よりも「哀しさ」がある。

女性のフェミニストたちはうすうす気づいていますが、男という生き物はどんな絶世の美女よりも、こういう男が好きなのです。
恋愛小説家の描くどんな「恋愛」も、男どもの「思い入れ」には敵いません。
ソウル・メイトと巡りあった女性だけが理解できる世界だ!と云っていいかも。

この本を読んで驚いたことがあります。
松田優作は極真会館黒帯の猛者で、鍛えぬいた強靭な肉体の持ち主でした。
「太陽に吼えろ」で初めて観たとき、犯人に二段蹴りを喰らわせたシーンが印象的だったので、すっかりそのイメージが定着していました。

しかし、松田優作は腎臓が半分つぶれていたそうです。
子供の頃、結核菌が腎臓に入って腎臓結核になり右側の腎臓が機能しなくなっていました。
その上、自転車で転んだときに、残った腎臓も痛めて、生涯血尿に悩まされていたのです。
生命取りとなった膀胱ガンの発見が遅れたのは、血尿に慣れっこになっていたせいです。身体の不調を訴えて病院へ行った時には、すぐにも膀胱を摘出する必要がありました。

「ブラック・レイン」の出演が決まっていた松田優作は、手術を断りました。
身体の外に人口膀胱をとりつけたのでは、役者生命が絶たれるからです。

不思議なことに「ブラック・レイン」撮影中はガンの進行が止まっていました。
意志のちからはガンさえ止めるのかと、治療にあたった医師は呆然としたといいます。

平成元年十一月六日午後六時四十五分。
松田優作は亡くなりました。

通夜に駆けつけた人々のなかには、仕事中に彼に殴られて仲たがいをしたはずの連中も大勢いたそうです。

ところで、松田優作の葬儀は三鷹市の禅林寺で行われました。
ここは森鴎外や太宰治のお墓があるので有名なお寺です。
むかし三鷹に住んでいたときに、お寺の前をたびたび散歩していました。

なんで、ここで葬式があったのだろうと、気になって地図を調べてみました。

松田優作の自宅は、杉並区にあります。
その住所を調べてみると、JR中央線の西荻窪駅からごく近くの東京女子大のあるあたりです。
この距離だと、三鷹の禅林寺はすぐ近くです。なるほどと合点がいきました。

客観的にみれば、どうでもいいことですが、わたしが以前、三鷹に住んでいました。ちょうどその頃に、松田優作は前夫人と離婚して、熊谷美由紀とここで住居を構えたことになります。
あの頃は西荻窪あたりまで、散歩でよく歩いていきました。
もしかしたら、それと知らずに松田優作の家の近所を歩いていたのかもしれません。
なんだか、じんときますね。一ファンとしては。

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7月 2日

暑くなりました。
読書家にとって、夏は大敵。頭が熱暴走するは、体力は消耗するは――なかなか大変です。

しかし、読書をもっぱら喫茶店でするという一派があります。
こちらの流派に属する人は、夏だろうとなんだろうと平気らしい。
もともとこのタイプの人は、恐ろしく数をこなす読書家です。夏に強いのも、多読する秘訣かもしれません。

わたしは小心者なので、喫茶店で長々と読書するのはどうも気が引けます。
貧乏なうちでも夏にはエアコンが必須です。
暑いと脳の機能が数十パーセントは低下するようで、エアコンなしだと難しい本は読めません。
その状態で読める程度の活字本は、なんとなく投資効率が悪いようです。
はっきり云って、読むだけ時間がもったいない。
むしろ眼を休憩させたほうが良いかもしれません。

それでも、やっと「孔子伝」(孔健)を読み終わりました。
やはり予想とおりの内容でした。

現在わかっている限りの孔子の事蹟を並べたら、誰が書いてもこうならざるをえない――というところです。

「論語」を読んでいると、そのなかの問答がいろいろ形を変えて使われているのがわかります。
注釈と、「論語」本文を組み合わせて書き上げた本ですね、これは。

著者は孔子の直系子孫ということで、もっと期待していたのです。でも、やはり伝統的な孔子観からはみ出るものではありません。

孔子については、まだ読んでいない白川静氏のものもあり、(あまり期待はしていないけれど)金谷治氏の本もあります。
今度はそちらにトライしてみます。

それにしても、夏の読書は難しい。
例えば、涼もうと思って冷えたビールを飲みます。
缶ビール一本くらいならいいんですが、二、三本飲むと、今度は暑くなる。
どっかと汗が出て、冷えるどころか、体温があがる。ぐったりする。本を読む気なんかなくなってしまう。
――という具合に、飲み物ひとつ考えても、なかなか難しい。

そういえば、喫茶店で本を読むのが好きという読書家で、アルコールが好きな人は少ないような気がします。
少なくとも、わたしの知っている限りではそのようです。

また喫茶店読書派で、小難しい本や理屈っぽい本が大好きという人も少ないような……

もしかしたら、喫茶店読書、ビール好き、小難しい本好きという三項目には、なんらかの相関関係があるかもしれない――と密かに睨んでいるのです。(笑)

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7月 1日

久しぶりに図書館へ行きました。
また古い本を借りてきました。
前回挫折した「三宝絵詞」です。
これは平安時代の仏教の入門書で、著者は源為憲という当時の大学者。

この本が出来るにあたっては、気の毒な話があります。
冷泉天皇の皇女に、尊子(そんし)内親王という人がいますが、この人は17歳で出家します。
その人は、祖父に藤原伊尹という大政治家がいたのですが、九歳にもならないうちに祖父が病死して、有力な貴族である叔父たちも後を追うように亡くなります。
それだけでなく、母親まで亡くなったので、面倒をみてくれる人がいなくなったのです。

この頃は、皇族の生活は母親の実家が面倒をみることになっているので、有力な後ろ盾をなくした皇族は大変です。
父親の天皇が生活の面倒をみることはありません。今から考えれば、変な話に思えるでしょうが。

尊子内親王には兄がいます。でも、その人は、軟弱な心根を藤原氏につけこまれて退位させられた花山天皇。これでは話になりません。

内親王は15歳で父の弟・円融天皇の女御として入内しますが、ごらんのように後ろ盾がないので、ずいぶん惨めなことでした。
しかも、入内すると、すぐに内裏に火事が起きます。おかげで「火の宮」というありがたくない仇名までつけられる。
天皇との仲もうまくゆかなかったようです。

けっきょく、15歳で入内したのに、17歳で出家することになります。
ただ一人面倒をみてくれた叔父が死んだために、将来になんの希望も持てなくなったからです。経済的後ろ盾がないまま、宮中にいることは、姫君と呼ばれた身分の女性にとっては耐えがたいことだったのです。
当時の女御といえば、藤原家主流の政争の道具ですから、その身分に留まる限り、暖かい手を差し伸べてくれる相手はいません。
親族がみんなライバルなのですから。

叔父の初七日の夜、尊子内親王は宮中を飛び出して髪を下ろしたのです。

「三宝絵詞」という本は、出家した尊子内親王のために書かれたものです。
まだ若い盛りでもあり、仏教はおろか、世の中のことも何も知らない姫君のために噛んで含めるように書いたとされています。

しかし、尊子内親王は出家した2年後に亡くなりました。
数えで二十歳という年齢です。
平安時代の婚姻制度や、貴族社会の浮沈は、運任せという一面があって、個人の努力ではどうにもならないものでした。
それが嫌な人は、貴族社会を飛び出して、仏教界に飛び込むしかありません。

ただし、よほど健康な人か、財力の後ろ盾がある人でないと、そこでも折り合いをつけてやってゆくことは難しいのです。

ところで、「三宝絵詞」には本来は絵がついていて、「三宝絵」というイラストつき仏教入門書というべきものです。
残念ながら、絵のほうは喪われていて、今に残るのは絵に添えられていた文章だけです。
たぶん、内親王は絵のほうを愉しんだのでしょうが、もはやそれを観ることはかないません。
源氏物語絵巻みたいな大傑作でも、欠本があるくらいですから、仕方がありませんね。

今度こそは、この本を読みきりたいと思っています。

ところで、尊子内親王の祖父・藤原伊尹は実弟の兼家、兼通(=道長の父)たちとは比べ物にならない美形だったそうです。
その子供や孫たちも、みな美男・美女でした。
だから、尊子内親王もかなりの美女だったのではないかと思います。

漢字とカタカナばかりの「三宝絵詞」ですが、これを読んでいたのは平安時代の美少女――
そんな風に想像すると、絶対読みきれるような気がします。(笑)
もしも読み切れたら、感想をアップします。乞う、ご期待。

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