歴史の散歩道


ローマ人の名前

 
ローマ人には、一般に三つの名前があった。
  • 個人名(praenomen)
  • 氏族名(nomen gentile)
  • 姓または家名(cognomen)
ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)は、
Gaius Julius Caesar
となる。
個人名が「Gaius」で氏族名「Julius」、家名が「Caesar」となる。

ときに、尊称や、養子となった家の家名がつけ加えられることもある。
英雄スキピオ・アフリカヌスの場合が良い例だ。
P. Cornerius Scipio Aemilianus Africanus
この場合、Aemilianus は、Aemilius家から養子に来たことをしめし、
Afiricanus はアフリカを征服したという意味の尊称となる。

女には個人名はなかった。
共和制時代には、氏族名だけ。
帝政時代には、家名も付け加えられた。

カエサルの同時代人で有名な文人政治家キケローを例にとってみよう。
キケローの名前はこうだ。
Marcus Tulius Cicero
キケローの妻の名前はテレンティア(Terentia)という。
これは、Terentius家出身の女という意味だ。

キケロー自身の娘の名前は、トゥッリア(Tullia)となる。
これは父キケローがトゥッリウス家(Tullius)の男だからである。

次女はどうなるかというと、「二番目」(secunda) または 「年下」(minor)という
単語をつけて区別する。
だから、次のようになる。
Tullia secunda (または minor)

では、他家の妻や娘をどうやって区別するかというと、
夫か父の名前で判別する。
例えば、Caecilia Metelli という名前があった場合には、
それが「メッテルスの娘カエキリア」ということが多いが、
「メッテルスの妻カエキリア」である可能性も高い。
その判別は、文脈によるしかない。

出典:
新ラテン文法(松平千秋・国原吉之助):南江堂


ギボンの恋人

 

いまでこそ、塩野七生さんの「ローマ人の歴史」が読まれているが、ついこのあいだまでローマの歴史というと、18世紀に書かれた「ローマ帝国衰亡史」がいちばん読まれていたのではないか。
とにかく、共和制時代のローマから、東ローマ帝国の滅亡まで描き出すスケールの大きさは、余人の真似られるものではなかった。
しかも、ローマだけではなく、民族大移動のゲルマン人部族や、もっと後のハンガリー人、ブルガリア人。イスラムの勃興、シャルルマーニュの戴冠から、十字軍、オスマン・トルコにいたるまで、とてつもないヨーロッパ文明史の一大絵巻を書くなどということは、専門分化の度合いが増した19世紀にはもう不可能だった。
だから、20世紀の今日でも、その視野の広さはまだまだ値打ちがある。
こんな離れ業ができたのも、ギボンにはラテン語の巨人的な素養があったからだ。
21歳で、ギボンは当時手に出来たローマ古典をすべて読破していた。
さらに、「碑銘研究所紀要」という、ローマ時代に作成された碑文についての研究論文集全二十巻を購入して、丹念に読み込んだ。
おかげで、ギボンの碑文やローマ社会への理解力は専門学者と遜色なくなった。
さらに、ギボンは東ローマ帝国を描くにあたっては、ギリシア語まで独学した。
ご存知のように、東ローマ帝国の公用語はラテン語ではなく、ギリシア語だったからだ。

こうしてみると、研究ばかりしていたようにみえるギボンだが、父親の地盤を継いで国会議員になったり、軍務についたり、けっこう世俗にまみれた生活もおくっている。
ギボンの家系は、ジェントリーという郷士階級で、実業家、高級官僚、政治家を送り出している。むしろ、そうした生活こそ、父親や一族が望んだものだった。

ところで、ギボンは生涯独身だったらしい。
(手元に資料がないので、そのへんは後日、確認することにする。)
その理由は、べつに「研究が恋人」だったというだけでもないらしい。

ギボンは16歳でオックスフォード大学を退学して、フランスのローザンヌで過ごした。退学の理由は、英国国教会の信仰を捨ててカトリックに改宗したからだ。王党派政治家だった父には、カトリック教徒は不倶戴天の仇敵だから、息子がそんなものになったことを激怒するとともに心配した。そこで、国外に追い払って、頭を冷やそうとした。
それが利いたのか、あっさりとカトリックから英国国教会に戻っている。
ギボンにとっては、父親にフランスへやられて時期に、後年の大事業の基盤となるラテン語の素養を身につけたのだから、これほど見事な運命の配剤というものはない。

ローザンヌには、ギボンにとってもうひとつ、大切な思い出がある。
ここで、学究肌の秀才青年は、生涯で一度だけの恋をした。晩年に書いた自伝でも、意外なほど激しい感情を顕わにして、この恋を語っている。
相手は、貧しい田舎牧師の娘だった。
しかし、信仰心があつく知的だった父母の薫陶をうけて、誰もが認め、賞賛する学殖・才知・性格の持ち主だった。さらにいえば、美貌も、ひとの注目するところだった。
ギボン青年は会うとたちまち恋に落ちた。
ただし、結果はあっけないものだった。
21歳で英国へ戻ると、結婚の許可を父親に求めたが、野心ある政治家の父は貧乏な田舎牧師の娘など身分違いだとして、許さない。
自分では就職するあてもないギボン青年は、しかたなく諦めた。
しかし、生涯結婚はしなかった。身体が弱かったせいでもあるし、研究生活に没頭したのも一因だろう。
ほんとうのところは、別れた恋人をどうしても忘れられなかったのではないか。
恋人に優る女性には、ついに巡り合えなかった。だから結婚なんて。
センチメンタルなところを大量にもっているギボンの人柄を考えると、こんな月並みな推測が案外いちばん的をいているような気がする。

ところで、田舎牧師の娘は、まもなく父に死に別れて、スイスのジュネーブにもどり、家塾をひらいて、なんとか母との二人暮らしをささえた。
だが、貧窮のどん底にあっても、才知と美貌は人々の賞賛の的だった。
ある銀行家が結婚を申し込んだ。娘はプロポーズを受け入れた。

これだけの話であれば、よくあることだから、だれも興味をもつひとはいないだろう。
ただ補足をいえば、その銀行家はネッケルといった。
ルイ16世の財務総監となって、フランス革命の立役者ともなった人物だ。
ネッケル夫人は、パリでサロンを開いて、ディドロー、ダランベール、ビュフォンら当時フランス最高の知性を周囲に集めた。おそらく彼女のサロンの客たちは、当時の世界では第一等の頭脳集団だったろう。
ネッケル夫妻の娘が、フランス・ロマン主義の先駆者スタール夫人だ。このひとは、フランス文学史において、輝かしい位置をしめる。

恋人の活躍を、政客とも付合いが深いギボンはよく仄聞していたに違いない。
自叙伝はギボンが五十二歳のときに執筆された。
おりしも、その年はフランス革命が勃発した年でもある。
ネッケルは、革命初期の希望の星だった。

じつは、これより以前にネッケル夫妻は英国を訪問した。夫人とギボンは交友をあたためた。
それが縁となって、翌年ギボンはネッケル夫妻をパリに訪れている。
当時、ネッケルはルイ16世の財務総監の地位についていた。
ギボンは、夫人のサロンでも暖かく歓迎された。

この恋は、ギボンにとって、ただひとつの青春の思い出だった。
だからこそ、誇らしくぬけぬけとそれを筆にした。ちなみに、この自叙伝は生前出版するつもりはなかったから、恋人への思いはギボンの本音に違いない。
(「自叙伝」が発表されたのは、ギボンの死後三十年近く経ってからのことだ。)
なんだか、いい話だとおもう。

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鑑真和上が日本の恩人である理由(完結編)

 
以前に2月11日の読書日記で書き始めたものですが、ついに翌月になってしまいました。
もう憶えている人もいないだろうけれど、どうしても書いておきたいのです。

できれば都合がついたら、ぜひ鑑真和上のお顔を見に行ってください。
東京都美術館の「国宝 鑑真和上展」は3月25日までですが、奈良へ行って唐招提寺で見るという手もある。
なにも急ぐことはありません。
生きているうちにいつか見ればいい。

さて、鑑真和上が命がけで日本に来てくれたおかげで、日本人がその当時(東アジア)世界のすべてであった中華文明の参加者となる資格をもてたことは、読書日記でも紹介しました。
いわゆる戒壇院の設立です。

このことだけでも、どのくらい日本人は鑑真和上に感謝しても足りない。
後世の留学僧たちは、みんなそのおかげを蒙りました。

道元でさえ、その例外ではない。
厳密にいえば、道元は東大寺戒壇院での受戒を受けていない。
比叡山延暦寺の大乗戒律は受けています。
しかし、これは最澄が独自に作った受戒システムなので唐や宋では認められない。
国内でしか通用しないのです。
ところが、道元を連れて入宋した師匠・明全は東大寺戒壇院で受戒して、のちの延暦寺の大乗戒律を受けた人。
この人の弟子だったおかげで、二十四歳の道元は学問僧(大学院生?)として修学する資格を得たわけです。

こういった例をあげると、きりがないからやめます。
全部書いていくと、日本仏教の通史になってしまう。
そこまですることはないでしょう。

鑑真和上は686年に生まれ、763年に亡くなっています。
その死の前に、下野国薬師寺・筑紫観世音寺に戒壇が建てられました。
鑑真和上のおかげで、東大寺以外にも国際ライセンスを発行する場所が二箇所できたのです。

東大寺とあわせて「(天下)三戒壇」といいます。
これはつまらないようだけれど、大変なことです。
日本という国は、鎌倉時代まで三つの文化的セクターから構成されていました。
逆にいえば、三つの国からなる連邦みたいなものだったのです。
それが東国であり、中国・近畿地方(=西国ともいう)であり、九州です。
「三戒壇」の成立によって、日本「連邦」国家すべてに僧侶の国際ライセンス支給所ができた。
このことは後に大きな意味を持ってきます。

たとえば、東国ですね。
ここは長い間文化的後進地帯、征服された劣等民族(!)蝦夷の本拠地と考えられてきました。しかし、昨今の新しい日本史学者たちは縄文以来の列島固有文化と後発の朝鮮文化(高句麗・新羅系の人々)が融合した地域だと考えています。
(ちなみに、西国の担い手は、百済・任那系の人々との濃厚な混血した人々です)。
ついでにいえば、九州は人種的には東国と似ていますが、地理的な関係で中国江南地域と濃厚な文化的交流がある。

奈良盆地の政権が貿易を独占化しつつあった状況の中で、そうした異なった文化圏に、中国文明をダイレクトに輸入する道を開いたのがこの下野薬師寺と筑紫観世音寺の戒壇です。

最澄の最大の論敵であり、隠れた東国の宗教的天才だった徳一という僧侶は、東国の戒壇で受戒した人です。徳一の法系は決して消滅したわけではありません。
異彩をはなつ東国の宗教者はこの人の法系に属していました。
ただ、そうした人々はやがて天台宗に溶け込んでゆきます。
その最大の例が、最澄の意志を継いで、天台宗の教義の大成と密教化をやってのけた円仁でしょう。
山形出身の円仁が同郷の聖者であった徳一と無関係なはずがない。
現に徳一系の寺院を、次々と天台宗に改宗させた張本人は円仁ですから。

九州でいえばあまり例を知らないのですが、たとえば浄土宗の大成者・聖光房弁長という人がいる。
鑑真和上の死から400年後に生まれた人です。この人は法然の弟子で、いまの浄土宗の実質的な開祖です。この人も筑紫で受戒しています。
この人がこっそり宋へ留学したのではないかと考える学者もいます。
もしそうでないとしても、この人がいなければ浄土教を理論化することはできなかった。
こんな風に言うと、ただアカデミックなだけに聞こえますが、法然在世中から浄土教の倫理的無道ぶりはひどかった。
歯止めが必要だったのです。
その歯止めの役割をしたのが、弁長とその後継者たちです。

そういう歴史的意味合いだけでなく、法然の教えを後世にきちんと伝える礎を作った点においても弁長というのは重要な人です。

こういう人たちが出てこれたのも、その師匠筋に当たる東国と九州の人が大陸に直接勉強して学んでくる道を開いてくれた戒壇の設立のおかげです。

このことだけでも、いくら感謝しても足りないけれど、鑑真和上の贈り物はこれだけではありません。

鑑真和上が艱難辛苦の末に持ってきた経典にも、日本人は多くの恩恵を受けています。
そのことには、ふたりの宗教的巨人がかかわっています。
最澄と空海です。

空海については、簡単に触れておきましょう。
この大天才が真言密教の経典に触れたのは、東大寺でした。
経蔵に納められていた密教経典を独学で読破したのが、空海のブレークスルーでした。
もしも東大寺にこの経典がなかったら、はたして唐へ留学したからといってすんなり密教第七祖の恵果阿闍梨に伝法潅頂されたかどうか。
この経典をもたらしたのは、おそらく鑑真和上でありましょう。

そして最澄。
最澄もまた東大寺の経蔵である経典と運命的な出会いをしました。
それは天台智という中国天台思想の大成者の論文です。
その思想に、万人が救われる道を発見した最澄は、日本天台宗の祖となります。
この経典をもたらしたのは、鑑真和上です。これは間違いない。

なぜこのことがそれほどありがたいかといえば、鑑真和上が生きていた頃すでに天台智の天台宗は時代遅れになりつつありました。
天台智は隋のころの人なので、唐代のこのころは密教がそろそろ全盛を迎えようとしていました。
なぜか鑑真和上はちょっと古びてきたかなという思想の経典を持ってきたのです。

ところが、これが日本人にとっては意外な結果となりました。
この天台思想は最澄とその思想的後継者たちによって、日本仏教の根幹となったからです。
水がどこにも浸透するように、中世以降の日本人のものの考え方の根本になってしまいました。
以前、ここの読書日記で書いた「天台本覚論」というのがそれです。

「天台本覚論」についていえば、その内容を知りたいなら別に本を読む必要はありません。
がちがちの一神教徒(キリスト教・イスラム教・ユダヤ教)でないかぎり、たとえキリスト教徒であろうが、無神論者であろうが、日本人がぼんやりと神仏についてイメージしているもの。
たとえ、それが傍から見てどんな陳腐に見えようとも、それが「天台本覚論」。
日本人であれば、アタマと心に染み付いていて、抜けられないのです。

山本七平さんのいう「日本教」の正体はこれですね。

空気や水のように当たり前すぎて、日本人であればそれをはっきり認識できないほど、どっぷりとその影響にひたっているのです。

これほど日本人にぴたりとくるものを、再発見した最澄は紛れもない宗教的天才です。
でも、鑑真和上が日本にこなければ、それを発見できたかどうかはわからない。
そうした意味でも、間接的ではありますが、鑑真和上の恩を深く感じるわけです。

そして、まあここまで書いてくれば、ほとんど種明かしが終わっているようなものだけど、最後にひとつ。

最澄と天台哲学がなければ、もうひとりの宗教的巨人・法然の誕生はない。
あんまり学者も文学者もいわないけれど、法然の浄土教思想は中国のものじゃない。
この日本で、日本人の霊性でなければ絶対に誕生しなかったであろう独創的なものです。

法然は中国でできあがったものを日本へ輸入しただけだと言っていますが、これはそういわなければ舶来品礼拝主義の日本人が相手にしなかったから。
ほんとうは世界に類をみない独創的な思想なのです。

法然・親鸞が日本人に与えてくれた恩恵については、書くまでもないでしょう。
これもまたあまりにも深く日本人の心性に食い込んでいる。

そうした全てのことに対して、わたしたち日本人は鑑真和上の生涯に負うところが大きい。
たしかに、最澄、空海、法然、親鸞は世界史的にみても偉い天才だけれど、空中からいきなり降って涌いたわけじゃない。
みんなが連環のように、手を携えて、ものごとを達成した。
そのことを否定するわけじゃありません。

しかし、その先頭のほうにいたひとりの男の生涯が、決定的な役割を負っている。
そのこともまた決して否定するわけにはいかない。
だから、わたしたち日本人はその人の生涯に対していくら頭をさげ、感謝をしても足りないと思うのです。

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