論語を読む

使用するテキストは、中公文庫「論語」(貝塚茂樹訳注)

作成 工藤龍大

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4月21日

「夢に合う」

  このごろ孔子の言葉が気になっている。
「甚だしいかな。吾の衰えたるや。久しいかな、吾復(また)夢に周公
を見ざること。」(第七述而編 五)

  孔子晩年の言葉である。
  老いを嘆いたと解釈されている。そして聖人・周公旦(しゅうこうた
ん)に対する敬愛の念の強さがにじみ出ているとも。

  そう読むのが普通だろう。
  わたし自身もずっとそう思ってきた。

  ただ考えてみれば、不思議である。
  尊敬する古人を夢で見なくなるのが、なぜ老いた証拠なのか。
  見方を変えれば、孔子はこの言葉を発するまで、ずっと周公旦の夢を
見ていたことになる。
  こちらのほうが、異常だろう。

「孔子は大変なロマンチストだった」と、このエッセイで読んでい
る『論語』の注釈者・貝塚茂樹先生は書いている。
  そのように、かんたんに片付けていいものだろうか。

  どうも、そうは思えない。

  この「第七述而編」は、孔子の教育・修学・学問・人生観をあらわす
言葉を集めている部分だ。

  孔子という人がどうやって「学問」を身につけたのか、具体的な事実
はほとんどわからない。だが、想像はつく。
  塾を開いている学者のもとへ、幾らかの入門料と月謝を持って教わり
にゆく。
  孔子がのちにそうであったように、あるいは韓非子が荀子のもとで学
んだように、それが普通であったろう。

  ただし、頼んだからといって、誰もが教えてもらえるというわけでも
ない。
  貴族の子弟であれば、ことは簡単だ。貴族とは多少なりとも領地をも
っている財産家である。授業料をけちるようなことはない。土地の有力
者でもあるから、学者は喜んで弟子にとる。

  だが、孔子はそうではない。
  孔子の父親は「士」という階級に属する。「士」は軍事部門の下級貴
族である。
「士」はかろうじて貴族の部類ではあるが、領地はない。

  もっと古い時代には、支配階級=貴族と、非支配階級=庶人の二種類
の階層しかなかったのが、世の中が進み人口が増えたために、階層が細
分化した。
「士」はそうして生まれた支配階級の末端である。
  貴族の末席であるが、同時に庶人の一部が上昇した階層でもある。

  周の平王が都を洛陽に定めてから、秦の始皇帝が統一帝国を作るまで
を、春秋戦国時代(紀元前七七〇〜二二一年)とよぶが、大きく分けれ
ば「春秋」の世は貴族たちの時代であり、戦国時代は「士」が活躍する
時代である。

  孔子の生涯は、「士」の時代がようやく始まりかけた時代にあたる。
  ただし、それは孔子の晩年とみるべきだろう。
  その少年時代は、まだ貴族の世である。

「士」階級である孔子の親族は、孔子を一族とは認めなかった。
  孔子は母親の実家である「顔」という姓の一族のなかで育てられたら
しい。

「顔氏」一族は貴族ではなく、「士」ですらない。
  貧しい庶民だった。

  孔子は父の顔を知らず、父の一族からも相手にされない非嫡出児だっ
た。
  そのような子どもがどうやって学者の塾に入門し、教育を受けること
ができたのか。

  この「第七述而編」には印象的なエピソードが二つある。
  煩雑になるので、手短に意訳する。
「第七述而編 七」には、こうある。

「一束の乾し肉をもって入門を乞うものには、自分は絶対に入門を断っ
たことはない」

「一束の乾し肉」とは奇妙な表現だが、読み下し文では「束脩(そくし
ゅう)を行う」とある。
  貝塚先生の訳注では、これは生徒が塾の教師である学者にわたす入門
料である。
  生徒によっては、もっと高価な品物を贈る。
  学者が受け取る「一束の乾し肉」とは最低限の入門料というより、社
会的通念として格好をつけるだけの儀礼的なものと考えるべきだろう。
  ほんとうに「一束の乾し肉」しかもってくることができなければ、ほ
とんどの学者は入門を断るに違いない。

  また「第七述而編 二八」は、ある出来事を伝えている。

「互郷、与(とも)に言いがたし。童子見(まみ)ゆ。門人(まど)
惑えり」

  この「互郷」(ごきょう)とは、当時魯国にあった村である。
  貝塚先生の説明では、「互郷の村人たちは話が分からないので有名だ
った」ということだが、どうも後の文章を読むとそうとは思えない。

「与(とも)に言いがたし」とは、「対等な立場で口をきく階層ではな
い」という意味ではないか。あくまでも直感だが。

  ここに登場する「門人」はもちろん孔子の弟子である。
  かれらは「士」と庶民である。貴族はいない。その弟子たちが「言い
がたし」という相手はだれか。
  自由人である庶民よりもさらに下の階層、つまり賤民階層ではないか。

「見(まみ)ゆ」とは、童子(どうじ)が教えを乞うたのであろう。
  今と違って、学歴について修学年限の規定はないから、一度でも対面
して教えを受ければ、弟子と称してもかまわない。
  儒学徒の末流である科挙成立後の官僚たちは、有力な高級官僚に対面
して名刺を差し出して、その高級官僚の「弟子」と称した。これは官界
の派閥に入る儀礼だが、この習慣が形を変えて残ったものだ。
  とにかく、一度でも面談して、教えを乞うことができれば、弟子なの
である。

  したがって、この部分を、解釈してみると、こうなる。
  賤民部落から少年が孔子に学問を習いにきた。その少年に孔子はここ
ろよく教えてやった。つまり、授業をしたのである。
  そのことを、孔子の弟子たちは憤慨した。

  弟子たちの怒りの理由は、簡単に想像がつく。
「賤民などとと一緒にされてはかなわない」というのが、弟子たちの本
音であろう。
  孔子がそんなものを弟子にすれば、孔子先生の名声や格も落ちてしま
う。
  なによりも孔子の名声は、弟子たちの就職活動のタネだった。
  身も蓋もない表現をすれば、かれらは孔子という新興思想家の看板を
利用して、世に出ようとする野心家たちなのである。

  孔子はそんな弟子たちを叱っている。
「残酷なことをいうな。学ぼうとしてやって来るものは、わが友である。
真理を求めて来たものは、わが友である。経歴や出身など、何ほどのも
のでもない」と。

  この解釈は、他のどこにも書いていないわたしの勝手な解釈だ。
「賤民」という単語に不快感を感じる人もいるかもしれない。

  ただ付け加えれば、「賤民」という階層がこの惑星(ほし)から名目
上だけでもなくなるのは、身分制度を否定するヨーロッパ型近代国家制
度が出来てからである。
  歴史時代にそういうものがあったことは認めなければならない。あま
りにも無残な、そのような身分差別をなくすために、先人がどれほど苦
労したかということを忘れないためにも。

「第七述而編 七」と「第七述而編 二八」は、常識的にいえば少し極
端である。
  正論すぎると、偽善の臭いをかぎだした人間もいたはずだ。
「最低限のエチケットを守れば、自分の学問をすべて教える。」
「どんな経歴・出身の持ち主であろうと、学びたいとやって来るものに
は誰でも自分の学んだことを伝える。」
「学びたいと思うものを、階層や経歴、貧富で差別するのは残酷だ。」

  面と向かってこんなことをいう人がいれば、唇をゆがめて冷たい笑い
を向けられるのが落ちだろう。
  今なら、当たり前すぎる「正論」である。

  しかし、これが否定しようのない「正論」になるのは、人類の歴史と
いう時計でみれば、一分ほど前のことにすぎない。惑星的規模で正論と
されたのは数秒前である。厳密に言えば、まだ普遍的な原理となってい
るわけでもない。


  孔子が生きていた時代では、現実は正反対だったはずである。
  孔子自身が「儒」という賤民階層の一員であったという説もある。
  その孔子が学問に志したとき、どんな扱いをうけたか。

「第七述而編 二八」とは、まるで違う残酷な扱いであったに違いない。
  すべての教師がそうだったわけではないだろう。
  だが、ひとを出身・経歴で差別する教育者はたしかにいたはずだ。

  差別され、入門を断られた青年・孔子は、どのようにして学問を自得
したのか。
「第七述而編 二一」と「第七述而編 三一」は、その一端を現している。

「我、三人行(あゆ)めば必ず我が師を得(う)。」
とは、「第七述而編 二一」の有名な文章である。
「三人に人間と行動をともにすれば、必ず学ぶべきことを発見するとい
う意味だ。
  続けて孔子はいう。
「他の二人の行動をみて、その善い方を真似て、悪い方を避けるから
だ。」

  この部分は、なんとなく読み過ごせば常識的な「お説教」に思える。
  しかし、教師を持たない頭の良い少年が、世の中で働きながら物事を
学ぶには、この方法しかないではないか。
  これは究極の独学方法である。

「第七述而編 三一」には、孔子と音楽という意外な取り合わせがある。
  孔子は人といっしょに歌を歌っていて、いい曲があると、必ずもう一
度歌ってもらって、合唱したとある。
  これはただの音楽好きのエピソードのように読める。
  しかし、おそらくそうではない。

  「歌」というのは、孔子が探求した古王朝・周の時代では「神への訴
え」だった。
  孔子が学問として音楽を教授したのは、ギリシアのピタゴラス学派の
ように、音楽に神秘的な呪術性をみていたからである。古代人にとって、
音楽は娯楽であると同時に、神とのコミュニケーション手段だった。

 孔子は芸能界志向の子どものように、音楽に熱心だったのではなく、
あらゆる機会をとらえて、血縁・職能集団の秘密主義からこぼれ落ちた
知識・技能を収集しようとしたと考えるほうが理にかなっている。

  有名な師につくこともなく、そうやって独学を続けてきた孔子は、
「天、徳を予(われ)に生(な)せり」(「第七述而編 二二」)とい
う境地に達した。これは、「天がわたしに徳を与えてくれた」という意
味である。

  また「仁遠からんや、我仁を欲すれば、すなわち仁ここに至る」(
「第七述而編 二九」)とも、孔子はいう。
  こちらは、「仁は遠いものではない。わたしが、仁を求めれば、すぐ
にも仁はやってくる」と解釈できる。

  孔子はこの信念を抱いて、険しい独学の道を切り開いていったのであ
る。

  ここで、冒頭の引用を振りかえると、また違った解釈が生まれてくる。


「甚だしいかな。吾の衰えたるや。久しいかな、吾復(また)夢に周公
を見ざること。」(第七述而編 五)

  この言葉は、現実には師をもてない孔子が、周公旦を「こころの師」
としていた証拠であろう。
  聖人・周公旦に憧れつづけた孔子は、いつしか夢で周公に教えを受け
るようになっていたのである。

『論語』にはそんな記述はないが、「第七述而編 二二」と「二九」は
夢で周公に師事した孔子の自信がいわせた言葉だと、わたしは思う。

  自分が運命に選ばれたのだという秘めた確信を、
「天、徳を予(われ)に生(な)せり」
「仁遠からんや、我仁を欲すれば、すなわち仁ここに至る」
と表現したのだと、どうしても考えてしまう。

  非嫡出児として生まれ、「儒」という賤民から身を起こした孔子は、
「聖人の道を再興する」という天の意思を信じ続けることで、苦難に満
ちた生涯を歩きつづけた。

  孔子の嘆きは、この人の生涯を一言で言い尽くしているのではないか。
  志の高さと、それを目指す歳月の重さを。

  だが、それだけではない。
  孔子は周公と夢で会って話をして、「仁」がまぎれもなく存在するの
だという確信をえたはずだ。
  これを心理学的な分析でわかったつもりになったところで、なんにも
ならない。
  生きている人との出会いに比べてさえ、夢における周公との遭遇は、
孔子の人生にとって大きなものだったに違いない。

  この出会いの重さを実感できないことには、孔子という人の人生はわ
からないのではないか。
  そんな考えが、このごろ頭から離れない。

                                                 (終)

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上はメールマガジン「ドラゴニア通信」No.27 に載せたものです。



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