論語を読む

使用するテキストは、中公文庫「論語」(貝塚茂樹訳注)

作成 工藤龍大

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4月20日

「麟を獲る」

『春秋』という書物がある。
  中国の古い歴史書で、編纂者は孔子ということになっている。
『春秋』が扱う時代は、紀元前七二二年から紀元前四八一年。
  孔子の故国・魯の君主十二代の事跡を編年で記録したものだ。
  ここに記されている最後の君主が哀公。『春秋』では哀公の即位十四
年までが扱われている。孔子が死んだのは、哀公の即位十六年目だった。
  そのとき、孔子は七十四歳。

  七十代になってから、孔子の人生は悲しみの色が濃い。
  二人の最愛の弟子を無くしていたからだ。
  最初は、顔回の病死である。このとき顔回は四十一歳。孔子は七十一
歳だった。
  顔回について、孔子がどれほど期待していたか、『論語』を読んだこ
とがない人でも知っているだろう。
  顔回の父も孔子の古い弟子だった。親子二代の弟子だったことになる。
  それだけではない。顔回の父親は、孔子の母親の一族だった。親子二
代の弟子であったばかりか、かれらは孔子の親族だったのである。
  親子ほども年の離れた顔回は、孔子にとっては子供のような存在だっ
た。この二十年ほど前に、一人息子(鯉=り)を無くしているから、孔
子にとって一族の顔回はますます可愛く、また頼もしい後継者だった。

「子曰く、天予(われ)を喪(ほろ)ぼせリ、天予を喪ぼせり」
  これは顔回の死にあたって、孔子が叫んだ言葉だと伝えられている。

  さらに二年後の七十三歳のとき、最古参の弟子のひとりであり、孔子
がもっともその人柄を愛した弟子が死ぬ。
  子路である。
  この人は、『論語』では滑稽な道化役のようにかかれているが、僅か
に残った言葉や『史記』に伝えられた事跡をみると、とてもそのような
ひょうきん者とは思えない。

『三国志』でいえば、蜀の武将・張飛からその残酷さと短慮を取り去り、
関羽の度量と節操を加えた人物である。
  褒めすぎのように聞こえるだろうが、子路は中華民族が民族的理想と
する「侠」の部分を過剰なほど持ちあわせている漢(おとこ)だった。

  北方遊牧民族の支配を受けて、背骨がしゃんとしなくなった代わりに、
狡猾さを発達させた宋代以降の中国ではごく稀となったプロトタイプの
中国人である。

  孔子もまたそのような漢だった。
  もと無頼の侠客だった子路が、孔子の弟子となったのは魂の琴線で惹
かれるものがあったらしい。ようやく人に知られるようになった孔子が
気に食わず、その家に殴りこみ同然に押しかけた子路は、はじめて対面
した孔子に一目でほれ込んで、そのまま弟子になったと伝えられている。

  子路の死は凄惨なものだった。
  子路は衛という外国の高官となっていた。
  宮廷内の勢力争いに巻き込まれた子路は、孔子の教えに従って秩序を
回復しようとした。だが、敵対する側は子路を斬殺し、その屍体は切り
刻まれ、塩辛にされた。

  孔子が死んだのは、子路の死の翌年である。
  後世の史家は、子路の死の衝撃がその寿命を縮めたと伝えている。

  子路が死ぬ前年に、奇妙な事件が起きた。
  魯国の貴族たちが平原で大規模な巻き狩りを行った。
  そのとき、鹿に似た奇妙な獣が獲れた。
  誰にも名前のわからない獣の名を問うべく孔子が招かれた。

  孔子には、それが「麟」(りん)という獣だとわかった。
  いわゆる「麒麟」(きりん)である。
  姿を知りたければ、大手ビールメーカーのラベルや缶を見ればいい。
  つまりは、そこに印刷されているのが、この「麒麟」だ。
  漢和辞典によれば、この獣を雌雄で名前が違う。オスを「麒」という。
メスは「麟」である。孔子が認めたのは、メスの「麟」であった。

  伝説では、この動物が現れるのは、聖なる王が統治する時代だとされる。
  堯・舜(ぎょう・しゅん)のような、天の意を受けた聖帝王の時代に
出現する聖なる動物=瑞獣(ずいじゅう)である。

  孔子の嘆きは大きかった。
「なんすれぞ来たれるや、なんすれぞ来たれるや」
(何故こんな時代にやって来たんだ、何故こんな時代に来たんだ)

  当時は戦乱の続く乱世だった。聖なる帝王などどこにもいない。国中
が乱れに乱れ、例えば魯のような小君主国といえども、親子・兄弟が争
いあう時代だった。
  そんな時代に、なぜ瑞獣の「麟」が現れたのか。

  孔子にとって、この事件はあまりにも衝撃的だった。
  天はなぜ瑞獣を乱れた世に送ったのか。
  いまが聖帝王の治める平和な世だとは間違ってもいえない。

「わが道、窮せり」
  孔子は天を仰いで叫んだという。

『春秋』という書物は、もとは魯国の歴史記録係が残した記録にすぎな
い。
  孔子はその記録に筆を加え、新たに史書を編纂した。
  それが『春秋』である。
  孔子最晩年の大事業が、この史書の編纂だった。
  七十二歳の孔子は、何のために最後の力を振り絞るようにして、その
仕事に挑んだのか。

  前年に顔回を失い、『春秋』の執筆中に子路に先立たれている。
  後を託す後継者を失い、親友ともいうべき仲間を失っている。子路の
年齢は孔子と十年ほどしか違わない。
  孔子は己の理想を、生き残った弟子たちを通じて伝えるだけでは満足
できなくなっていた。己の志を後代に伝える。それがわずか三年の余命
しかない孔子が、生命を燃やした理由だった。

  形而上的な思考を好まない中国人は、歴史叙述という記録の形を借り
て、己の志を伝える癖がある。
  このために、青銅器文明の頃から、史官という役職をおいた。
『論語』のように、ある思想家の言葉を集めた書物が出来るのは、孔子
の頃よりもっと後の時代からである。
  孔子がおのれの信じる「道」、人として生きるべき道を後世に伝えた
いと願うならば、史書の形を取る他はなかった。
  このことを、忘れるわけにはいかない。

  孔子は天に答えたのである。
「麟」の出現は、天の問いかけかもしれない。
「道とはなんだ。仁とはなんだ。お前が生涯かけて追い求めた理想はな
んだったのか!」

  その答えを、天よりもむしろ後世に伝えることが、孔子の人生の総仕
上げだった。
  顔回の死も、子路の最期も、孔子に対する天の執拗な問いかけだった。
「おまえが求めたものは、なんだったのか」と。

『春秋』を完成した孔子は、それからしばらくして死ぬ。
  だが、その弟子たちは中華世界に押しとおって、文字言語が通じる世
界にその教えを広めた。わずか七十余名しかいなかった生前の弟子たち
が各地に作った儒教教団によって、その教えは中華世界の隅々まで浸透
した。
  孔子の没後、三百年近い時間をかけてそれがなされた。

  中国最初の大帝国秦を倒した漢王朝で、儒教は国教となった。
  この時代から、孔子は「素王」(そおう)と呼ばれるようになる。
これは「王となれなかった王」という意味である。
  古代社会においては生まれが絶対であり、神話時代の堯舜でもなけれ
ば庶民が国家の支配者「王」となることはありえなかった。
  それがやや崩れたのは、庶民上がりの劉邦という男が「天子」になっ
てからである。

  孔子は私生児であり、母方の一族は賤民だった。
  白川静氏によると、「儒教」の名の起こりとなった「儒」とは葬祭を
専門とする賤民だったらしい。
  孔子が弟子に言った「汝、小人の儒となるなかれ。大人の儒となれ」
という言葉は、この文脈で理解しなければならない。
  顔回が陋巷(ろうこう)で病死したというのも、これで納得できる。
  陋巷とは、スラム街である。

  古代氏族社会であれば、孔子のような人間はまずまともに扱われない。
孔子の悲惨な青年時代は、そのような境遇に由来する。

  だが、翻って考えれば、田舎ヤクザにすぎない劉邦さえ天の意を受け
れば中華世界の絶対者となれる世がきたのである。
  ならば、劉邦よりもはるかに立派な人物である孔子を、伝説の聖人で
あり、聖帝王である堯舜と同じ存在と見ることになんの不足がある。

  かくして「麟」を獲らえた話は、新しい聖人伝説となる。
  聖人はいたのだ。
  天は聖人の出現を祝って、瑞獣を送ったのだと。

  もちろん、その聖人とは父のない私生児であり、賤民の子たる孔子で
ある。


  この話は後世の儒者の創作である可能性が高い。
  だから、むきになって信じるべき史実ではないだろう。
  とはいえ、このあまりにも良くできたストーリーには、フィクション
の大きなちからを感じる。
  孔子が賤民の子であることは、漢王朝が出来る頃にはもう分らなくな
っていただろう。
  秦を強大な帝国にした行政機構を作ったのは、儒家の荀子の弟子たち
である「法家」と呼ばれる思想家グループである。
  人間の本来の性質を悪と断じた法家も、さすがに孔子の悪口はいわ
ない。
  漢王朝で力をつけた儒教学者たちにとって、孔子は聖人である。
  当然、新しい聖人伝説は歓迎された。

  しかし――それだけのことなのだろうか?
  何度でも繰り返すが、孔子が生まれた時代は親子・兄弟が血で血を洗
う乱世である。故国で寿命をまっとうできる君主ばかりではなかった。
「麟」が間違って世に出たのなら、乱世に秩序を説いて、だれにも認め
られず、それどころか何度も殺されかけた孔子こそ、まさに天が送った
瑞獣そのものではないか。

  孔子の人生を振り返ってみれば、「麟を獲る」という奇瑞そのもの
である。
  この世には、フィクションの形でしか語れない真実がある。

                                                 (終)

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上はメールマガジン「ドラゴニア通信」No.25 に載せたものです。



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