お気楽読書日記:4月

作成 工藤龍大


4月

4月8日

いろいろとくたびれているので、「ですます」体はお休みして、常体(だ・である)で書きます。
「ほんともうっ、大変なんすから〜」(わかる人だけ藁ってね)

アマゾンから、『吸血妖魅考』(モンタギュー・サマーズ)『サバト怪異帖』(日夏こう之介)『怪獣大戦争』(黒沼健、吉田誠、小林晋一郎)が届く(こうは耳に火)。

ちくま学芸文庫は、絶版になった良書・奇書が読めるのがうれしい。
英文学者日夏の弟子・井村君枝(妖精学の泰斗)さんが編んだ日夏の翻訳と文集である『吸血妖魅考』と『サバト怪異帖』は怪奇趣味、隠秘学趣味が横溢したマニア垂涎のしろもの。これが文庫で読めるとは。

いまさならながら、筑摩書房の編集者さんたちは素敵だと思う。

古いといわれようと、モンタギュー・サマーズは幻想文学を生き甲斐とするマニアには、アイドルだ。澁澤龍彦さんの著書で頭に刻まれた名前だから、消えるわけがない。

井村さんの絶妙な配慮で旧漢字と新仮名つかいをとりあわせた文章は、日夏ワールド参入への敷居を思いっきりさげてくれた。
日夏は旧漢字・旧仮名使いの文章を終生とおしたので、読んでいる内に眼がつかれてくる。年のせいか、困っことではある。

サマーズの本を読んでいると、吸血鬼とはエロスの別名であり、エロスはタナトスと分かちがたく結合していることに改めて気づく。

この種の近親相姦的エロスが具現化した妖魔としては、柳田国男の『遠野物語』の父の亡霊を連想する。
死んだばかりの父が死者の姿でよみがえり、娘の寝室の天井に張り付いて「いっしょにたべ」と夜ごとに誘う。
「たべ」とは方言で「行く」という意味である。

娘はついに衰弱死して父の土饅頭の横に葬られた。
佐々木喜善が語った民話を、タナトスの香りづけした近親愛に昇華させた柳田は、自然主義文学の隠れたオピニオン・リーダーであった過去をもつだけに(のちに離反して終生敵対する)、そうとうな文学的才能の持ち主であった。

乱暴にいってしまえば、サマーズの「吸血鬼」は異常性愛の愛の物語として解読できる。
だからこそ、おもしろい。

腐女子がボーイズ・ラブを喜ぶようなものだ。
くだらないといえばそのとおりだが、愉悦をしってしまうと止まらない。
「ペアリング」に強烈な興味をもつ社会をつくったサル。それが人間という生き物の実体なのだから。

『サバト怪異帖』は題名を裏切って、泰西隠秘学の開設ではなく、国文学と英文学を渉猟した文学関連の論述がほとんど。

コアでディープな幻想文学愛好者(そもそもコアでディープでない幻想文学ファンが存在するのかという疑問はおいておく)でなければ、歯が立たず、かるく脳挫傷をおこすこと間違いなし。

「上田秋成の煎茶」ときいて、京都文人派と売茶翁をすぐに思い浮かべてにたりとするイヤミな幻想文学上級者でなければ「つまらない」という世迷い言をほざくだけである。

つまらないのは、日夏ではなく、それがわからないアンポンタンであるのは自明だ。

『怪獣大戦争』は、東宝怪獣映画の原作とノベライズを集めたもの。
『空の大怪獣ラドン(ラドンの誕生)』(原作は黒沼健)。
『大怪獣モスラ』のノベライズ。脚本第一稿を吉田誠という人物がノベライズした。
この吉田誠氏については詳細がわからないそうだ。

『ゴジラVSビオランテ』(小林晋一郎)は原作の原稿。映画化されたストーリーとはまるで違うように思う。
怪獣オタクだった小林晋一郎氏の本業は、鎌倉の歯科医だ。
キャスティングに早見優、佐藤浩市をあてているが、もちろん本編では三田村邦彦、沢口靖子、小高惠美である。

『ラドン』も『モスラ』も映画版とはストーリーが違う。
大筋は似ているが、早い段階の脚本をノベライズしたためだ。

ところで「ラドン」が目覚めた理由は地球温暖化である。
高度経済成長時代の文明批評であった怪獣映画が、地球温暖化をすでにテーマにしていたのはさすがだ。

モスラの覚醒と怒りは、ロリシカという資本主義国のグローバリズム(というより地域文化と弱小民族の消滅化)に向けられたもの。

企画・原作を担当した中村真一郎・堀田義衛・福永武彦の先見性はみごとというほかない。
共産主義運動をみてきた堀田にしてみれば、後期資本主義の結末などお見通しだったのだろう。

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4月1日

先月の反省をひとしきり。
3月中にPerlをマスターしようと思ったが、時間不足で未達でした。
ITセキュリティ業界の情報収集に時間をさいたせいだから、やむをえないか。

また、JavaScriptも復習できました。
テキストは、『改訂第3版 JavaScriptポケットリファレンス Pocket reference』(古籏 一浩 )。

『PCJapan』四月号の付録、PCJapan Dictionary2006にも眼を通しました。
こちらはページ数にして、500ページ弱。
なんとも読み応えがありました。

他には、下記を読了。
『京都の不思議』(黒田正子)。
『キャラクター小説の作り方』(大塚英志)
『”It”と呼ばれた子 幼年編』(ディブ・ペルザー)
『フロイスの見た戦国日本』(川崎桃太)

『京都の不思議』は、京都在住のコピーライターさんの著作。
過去から現代に至る京都の不思議七十七話を集めています。

ところで、「ほっこりする」という言葉は京都発だと思っていたが、京都人にいわせるといま流用している意味はまちがいだそうです。
黒田さんもほんとうは愛媛県人なので、ニュアンスの難しさに閉口している。

「ほっとする」というのが現代の京都在住者の認める語義です。
しかし、古くからの京都住民にいわせると、この意味は間違い。

疲れたときに「ほっこり」するのだそうな。
「疲れて」「いやになって」というニュアンスで、お茶を一服すると「ほっこり」する。

孫引きだが、黒田さんによると、「いやになる」「疲れる」「がっかりする」のが「ほっこりする」の本来の用法です。
「せんど歩いたさかい、ほっこりした」(『京ことばの知恵』河野仁昭)とつかうらしい。

つまりは、「ほっとする」ときに「ほっこりする」のは誤用になります。

方言は生活にねざしているからなかなか難しい。
ところで、このあいだ錦小路をあるいていたら、「ぶぶ漬け用」として佃煮が売られていました。
「すわっ、京都のぶぶ漬けか!」と以後、眼を光らせて、店先をのぞいたが、ぶぶ漬けという名前があったのは、その一軒だけでした。
京都人は全国に鳴り響いた「ぶぶ漬け」は用心してつかわないのだろうか。
京の都のなぞをふかめた「ぶぶ漬け」でした。

ところで、錦小路では青いままの山椒の佃煮をかいました。
こちらは酸っぱい味がナイスです。
弁当の副食として活躍中です。

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