今週もいそがしかった。 週末は骨休めと執筆でつぶれました。 速読法で『旧約聖書物語』(画ギュスターブ・ドレ 訳谷口江里也)を読んだのが、娯楽といえるかな。30分くらいでよみあげたけれど、楽しんで読めるスピードはこのくらいかな。 これ以上早くすると、記憶の定着と楽しみがゼロになってしまう。 それにしても、旧約聖書の預言書以前の部分は、あまりにもアンモラルなので笑いたくなる。 旧約聖書をまじめに読んでいると、ユダヤ民族が嫌いになりかねない。 聖書そのものが、反ユダヤ主義の宣伝文書にみえてきました。 仏教や神道、道教と比べると、一神教は酷薄にすぎるように思えます。 このごろエジプト宗教やヒエログリフの本をひもとくことが多いけれど、古代エジプト人のものの考え方は、ユダヤ人に比べれば日本人に似ています。 どうして、このような一神教が誕生したのか。 最近の一神教(の成立を考える)ブームも無理からぬことという気がしますね。 一神教の起源を、エジプト第十八王朝のイクナートン(アクエンアテン、アメンホテップ四世)に求める議論がありますが(詳細ははぶくけれど)、前後の時代状況をかんがえるとむげに否定できませんね。 |
相変わらず忙しく、更新する時間もない。 土曜日は寝て暮らしました。 ドイツ語で「ラインの黄金」(ワーグナー)を読んだが、はかばかしくない。 ずいぶんドイツ語から離れているので勘をとりもどすのが大変です。 時間がなければ、速読しかない。 最近、速読法の本をいろいろ探しています。 『[栗田式]超スピード勉強法トレーニング』(栗田昌裕)という薄いハンドブックを読みました。 これはなかなかいけそうです。 速読法は、わたしが自分でみつけたシステムと似ています。 これを読むことで、自分のシステムを保管できそうな予感がします。 この人の著作はたくさんあるけれど、ほとんどどれも同じ内容みたいですね。 二、三冊読めば、あとは応用できそうです。 ああ、それにつけても時間がほしい。 体力はもっとほしいけれど。 |
『フロイスの見た戦国日本』(川崎桃太)を読んでいます。 著者は中公文庫の『完訳フロイス日本史』全十二巻の共訳者。 全編を読み通したわけではなく、ところどころ拾い読みしています。 秀吉と伴天連たちとの交渉が面白かったので、そのあたりを読みました。 「人蕩らし」という司馬遼太郎得意の言葉が、いろんなところで一人歩きしていますが、この形容の第一人者秀吉は、フロイスら伴天連からみれば悪魔顔負けの極悪人です。 「人蕩らし」なんてひとは、やっぱり腹の中は真っ黒なのでしょうね。 だれでも知っている己の出自を恥じてか、母大政所が産んだ私生児の弟・妹をだましておび寄せ、惨殺させたとフロイスは書いています。 姉の日秀(とも、秀次の母)を別にして、異父弟妹の小一郎(秀長)や朝日姫のほかにも、大政所は他の男とのあいだに子どもがいたのでしょうか? そういえば、秀吉はどちらかの手の指が六本あるとか。 このことは前田利家の記録にも残っているそうです。 これを読み上げたら、『完訳フロイス日本史』に挑戦する予定です。 ところで、最近読み直した本で面白いと思った感想をひとつ。 岩波文庫の『夢十夜 他二編』(夏目漱石)におさめられた「永日小品」の一編に、「金」という短編があります。 自然主義小説にうんざりした筆者は、暇人の市井の哲学者「空谷子」なる人物に会いに行く。 この空谷子はもちろん架空の人物。 空谷子は小さな角火鉢を火箸でつつきながら、考え事をしている。 筆者の顔を見るなり、「金は魔物だ」といい、「金の色分説」なるものをとなえ始める。 「色分説」とは、貨幣を地域限定にして流通経路をオープンではなく、クローズドな領域でしかつかえないようにすること。 A地域の赤色通貨は、B地域では使えない。逆もまた同じ。 空谷子いわく、金は労力の代価だが、労力そのものは質的に同じといえない。 たとえば機械で露天掘りした石炭に要する労力は単純労働の所産だから、もっと複雑な作業をへて複雑な製品をつくる過程の労力とは質的に同じではない。 質的に価値の違う労力が、「金」を仲介することによって、悪平等ともいえる交換の対象となる。 極端に言えば、金でひとを転ばせることができる。 近代資本主義経済をなさしめた金銭による価値一元化をくいとめないと、世界は立ちいかないと空谷子は考えた。 もちろん筆者(漱石)と空谷子は同一人物だから、筆者もこの意見には大賛成。「金」というやつにすこし思い知らせてやれと気炎をあげる。 この小品では、自分自身の怪気炎にへきえきした漱石が、空谷子を茶化しておしまいとなるわけだが、このあたり江戸っ子漱石の文明論がへなへなと腰砕けになっているのがたまらなく可笑しい。 期せずして笑ってしまった。わたしには空谷子のお仲間的要素がたっぷりあるのだろう。 ただ、地域限定通貨と無利子融資を社会倫理と結びつけるアイデアがなんとなく新時代っぽいような気がした。 これが19世紀以前のユートピア的社会主義や、戦前の農本主義くさいことは重々わかってはいるのだが、後期資本主義の狂態をみるにつけ、イスラム経済や仏教経済学といった考え方にシンパシーを感じてしまう。 いまの時代は古いことが新しく、新しいことが古くさい−−そんな時代かもしれない。 20世紀生まれの人間には戦争と破壊、病と死がよく似合う。 今世紀に生まれた子どもたちが、20世紀の社会経済を野蛮だと笑えるような、新しい思考が出てきて欲しい。 |
© 工藤龍大