お気楽読書日記:5月

作成 工藤龍大

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5月

5月29日

『ながい坂』(山本周五郎)を再読。

この本は、わたしにとって人生を決めた一冊です。

物語は、主人公、三浦主水正が城代家老となり、いよいよ子どもの頃からの夢(人が差別されない社会)を実現しようとするところで終る。
このとき、主水正は37歳。

人生の厚みに、思わずため息がでます。

解説によると、山本周五郎は明智光秀、徳川家康をそれぞれ主人公にした長編を構想していたけれど、体力的な理由で断念。周五郎版・小説徳川家康のかわりに書いたのが『ながい坂』だとあります。

そのせいか、この小説では繰り返し「辛抱」という言葉が出る。
藩の老臣たちの陰謀そのものだけでなく、周囲の悪意やねたみ、無理解にも「待ちの哲学」で主水正は戦ってゆく。

一気呵成にたたきつぶす機略をもちながら、才におぼれずに、一歩一歩進んでゆく。
時にはあえて回り道とみえる生き方を選ぶ。

この小説は周五郎の最後の長編で、なくなる年の一月に完結。
なくなったのが2月14日。
(余談ながら司馬遼太郎さんの命日は、2月12日です。)

『ながい坂』は文字通り、周五郎の人生観をはっきりと吐露した作品だといえます。

それだけでなく、周五郎作品のさまざまな技法が円熟したかたちでみられる。
改めて読み返して、山本周五郎作品の奥深さがよくわかりました。

こういう小説が、わたしの理想です。

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5月28日

『行人』(夏目漱石)を読了。

なかなかのれずに、時間がかかってしまった。

友人と関西旅行にでかけた男が主人公と思いきや、ただの話してで事実上の主人公はノイローゼのその兄−−という展開にのれませんでした。

兄の妄想が昂じて、まるで弟と妻を不倫に追い込んでいくような二人の関係も情痴に落ち込まずに、うやむやなセクシャリティに落ち着いている。
このあたり、漱石の描写に凄みを感じます。

家族というセクシャリティのタブーは、漱石の小説世界のコアです。
江藤淳が義姉(兄の妻)に漱石が恋愛感情を持っていたとかんぐるのは、作品を事実とうけとる素朴主義いがいの何者でもないと思いますが、それだけの迫力はあります。
義姉の言動には弟への恋愛感情が感じとれますから。

くわえて兄の頭痛や心労、うつ状態の描写がすごい。
精神病質者をかかせたら、漱石にかなう作家はほとんどいない。
他でもないご本人がそのものということで、ドストエフスキーと通じるものがあります。

この小説が、それまでほとんど小説に登場していない同僚の大学教授の手紙で結ばれるという構成も不思議な感じでした。

『行人』という小説は、日本の文学者たちに大きな謎を投げかけています。
極端な表現をすれば、日本語で小説を書くという行為は『行人』に対する創作家の回答にほかならない−−
少なくとも、わたしはそう信じています。
これは、だれもが登るべき山なのです。

ところで、やっと文庫版の『夏子の酒』(尾瀬あきら)を完読。
夢の酒「康龍」誕生で、兄の夢を実現した夏子。
21世紀になったいま、夏子はどんな酒を作っているんだろう。

このごろ日本酒をのむとき、ついこんな夢想をしてしまいます。

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5月15日

自分の部屋にいて、いやになるのが本の山ですね。

ちょっとさわったとたんに、さらさらと本の山が崩れてくる。
まるで蟻地獄におちたアリの心境です。
触れただけで本が棚から落ちる、山が崩れる。

恐山の賽の河原にいったことがある人なら分かるだろうけれど、あそこには立っているのが奇跡みたいな小石の石積みがあります。
わたしの自室というか、本の物置もそんな状態で本が積み重ねてある。
触ったら、砂が崩れるように崩壊するのは当たり前なのです。

この二週間ほどに読んだ『イスラーム巡礼』(坂本勉)や『傭兵の二千年』(菊池 良生)について書こうとしても、本そのものが書物のデューン(砂丘)に埋もれて発掘できない。我が家で本を探すのは新疆ウイグル自治区で楼蘭の遺跡を探すくらい難しい。しかも、ここでは衛星写真というハイテクもつかえない。地磁気異常も役立たず。

ああ、どうやって読んだ本の記録をとったらいいのだろう。

まじめに本の話を書こうと思ったけれど、本探しに疲れてしまいました。
今日は内容について書くのはヤメです。(苦笑)

読書は現代において「戦い」です。
のんびりとできるような趣味の世界ではない。

自分の尊厳をかけて、世間のみならず(通勤時間でさえビジネス書いがいの読書が困難になりつつあることを含めて)、時間と空間(たまりたまった「積ん読本」を読むことはおろか、探すこともむずかしい)とも戦わなければならない。

こんな思いをして読書しているやつがいるか!
−−とは思いません。現代においてなけなしのお金を読書に費やして、知的生活をまもろうとしている人はみんな同じことを経験しています。

だから、あなたも生き抜いて−−というのが、わたしの本音です。
触ったとたんに手の中から逃げ出す本といえども、ねじ伏せて読んでやる。
We will rock you! We will rock you! We will rock you!
気分は戦争ですね、まったく。

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5月14日

朝日新聞のコラム「花おりおり」の切抜きをしています。
小さな花の写真と、コンパクトにまとまった記事が気に入っています。

どうやらこの欄は、大岡信の「折々のうた」が連載休止したときの埋草記事らしく思われます。

調べてみたら、執筆者の湯浅浩史氏は、2002年からこのコラムを書いているのでした。

1940年生まれの農学博士で、東京農業大学教授などをしておられる専門家です。

中高年と主婦(といっても、中高年だろうけれど)から「圧倒的な人気!」のコラムとアマゾンの宣伝文句にありました。ヲジさんとヲバさんは植物が好きなんですよね。(わたしもそうだけど)。

ついでに、朝日新聞の一面から気になる本の広告を切り抜いておきました。
それにつけても、わが家の本はふえるいっぽう。
「書庫だけの一軒家か、立花隆の猫ビルみたいなものがほしい!」

いまや古書業界は書籍の健全なリサイクル回路ではなくなっている。
だから、自分にとって値打ちのある本は古書店に引き取ってもらうわけにもいかず(買ってもらえない、それどころかゴミに出すよう勧められる)、ひたすらたくわえるほかない。

本を在庫としてもっていると課税されるから裁断せざるをえない出版社、古紙再生さえパンクしているリサイクル業界、過剰な出版点数による店頭販売期間の短縮。

紙の本については、国と経済システムそのものが消滅を後押ししているようにさえ思えます。
日本農業と同じ構図です。

文庫新装版の「夏子の酒」(尾瀬あきら)を読むにつけ、ほんとにこの国はだいじょうぶだろうかと暗澹とします。

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5月8日

昨日はビデオで「スパイ・ゾルゲ」を観ました。

昭和史をスクリーン上に再現した篠田正浩監督の映像はすばらしかった。
セットで組んだ上海にはタイムスリップしたようなリアルさを感じます。

この監督は、内面を描くのではなく、第三者にみえたであろう「現実」を観客が共有して自分の中で内面化することを要求します。それができる観客にとっては琴線に触れる映画となり、そうでない観客には映像美をねらっただけの駄作にみえる。

劇中でほとんど語られない尾崎秀美(元木雅弘)とリヒャルト・ゾルゲ(イアン・グレン)の内面は画面から想像するほかありません。登場人物たちの内面を、役者の科白ではなく、表情と動きでくみ取らないと、この映画は楽しめません。

上映時間が長かったり(3時間をこえる)、ドイツ大使館のスタッフやクレムリンの情報機関員の話す言葉が英語だったりとか、いろいろ気になるところはあるけれど、篠田監督の最後の作品ということで、納得しました。

スターリンがゾルゲの情報を信じて、シベリアの兵力を引き上げて対独戦に使ったということが本当だとすれば、ゾルゲの働きは歴史を変えたといえる。
いっぽうで半世紀後にソビエト連邦が崩壊した歴史も考え合わせると、大きなタイムスパンでみれば、ゾルゲや尾崎のスパイ行為もさほどの事件ではないともいえます。
大きな歴史の流れのなかで人はどう生きるのか。
ゾルゲや尾崎が投げかける問いを真摯に受け止めたいと思います。

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5月7日

しばらく『隋唐演義』(安能務)を読んでいました。
隋の煬帝の後宮生活と、秦叔宝ら唐王朝創業の臣の活躍を描き分ける前半と、則天武后と玄宗の生涯を描く後半はまるで違った作品を綴じあわせたような感じがします。

しいていえば、煬帝、則天武后、玄宗の後宮生活はどこか痴情小説のようでもあり、陰謀あふれるハーレクイン・ロマンスのようでもあり、秦叔宝・単雄信(ぜんゆうしん)といった英雄たちの活躍は友情あふれる男のロマン、中国風熱血アクション小説です。

「秦大哥(ちんターコー)」「単二哥(たんアルコー)」と、兄貴分の二人を呼ぶ漢たちの世界は、清時代の秘密結社の世界いや武侠小説そのまま。
あつくるしいまでに漢(をとこ)たちの世界です。

ひげ面の漢(をとこ)どもが、兄貴・秦叔宝の高齢な母(彼らにとって義兄弟の母は自分にとっても母親)にささげる孝行は、日本の任侠映画でいえば、高倉健をしたう別の暴力団の構成員が高倉健の所属する組の親分(往々にしてほとんど棺おけに片足という状態)に対する礼儀よりも、濃厚かつ真摯で、そのうえ即物的(お祝いの金の分担が露骨になされるあたり)です。

ゼニ勘定こみの友情という「異文化」が、後頭部にかるい衝撃を与えます。

これにくわえて、歴史上の登場人物のほかに、想像上の仙人が登場するので、いよいよショックは大きく、茫洋とした物語世界はどこからが史実でどこからが幻想かきりわけるのがむなしくなる。
すなおに、仙人といっしょに月世界へ昇天したり、地獄へいって楊貴妃にあうのが、「隋唐演義」の常識。野暮なことを考えてはいけません。

安能務さんの作品には、戦前の中国にあった秘密結社・パンフェや中国伝統の役人社会(宦海)がたくみに織り込まれて、現実的なあまりにも現実的な中華的リアリティが横溢していて、読み手を楽しませてくれます。
人肉嗜好の権力者に、その友人が毒づいてあっけなく料理され食卓にのせられる描写をさらりと描くのは芸のきわみ。
人間を二脚羊と呼んで舌なめずりする人間が、ごく普通に登場する小説はこの国では考えにくい。

中国であれば、なんでもありと思うのが無知の仕業ではなく、あちらの歴史・文化をしるほどにますます虚実の皮膜が薄くなっていく−−これが中国という文化の面白さであり、難しさです。

安能さんがなくなったことで、こうした中華魔術の巨匠に出会うことは難しくなりました。
ただ幸運なことに、安能版「三国演義」が残っている。
こんどは、そちらで道教思想にのっとった桃園の誓い、三顧の礼を堪能する予定です。

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5月7日(マイナス1)

* この日記を実際に書いているのは5月8日です。

大事な友人S君が亡くなったのが、先月23日。
お通夜、告別式までは気がはっていたけれど、その後はいいしれない寂しさにまいっています。

しばらく読書日記を更新する気力がありませんでした。

今日からまたぼちぼちと書いてゆくことにします。
もうこの世で読んでもらうことはできないけれど、S君にあてて手紙を書くような気持ちで書き続けていきます。

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