お気楽読書日記:1月

作成 工藤龍大

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1月

1月30日

『日本とはなんだろう』(司馬遼太郎、加藤英俊、ヨゼフ・ピタウ)を読みました。

これは講演をまとめたものです。
加藤英俊さんが「雑種文化」なんてことを云っていたのを久しぶりに思い出しました。

すでに時代遅れとされいえる加藤、ヨゼフ・ピタウ(元上智大学学長のイタリア人神父さん)の言葉はさておき、司馬さんが斉藤道三をとりあげた講演も今となっては「?」という気分があります。

日蓮宗がうんだ強烈な個性が「楽市楽座」を作り上げ、悪党道三をカリスマにしたという司馬史観(?)は「国盗り物語」という傑作に結実したけれど、ほんとうにそうなのかという疑問がどうしても湧いてくる。

人は利だけで人を蕩らし、国を盗れるものだろうか。
そういう例にはことかかない−−と歴史通はいうでしょう。
わたしも、いっぱしの歴史通として最近までそう信じてきました。

しかし−−そんなことはありえないのではないか。
しょせんは、虚偽の上に立った権威と権力は痕跡さえ否定されて消滅するのではないか。そういう思いがこのごろ強くなっています。
息子に殺された道三の最後に、司馬さんは因果応報をみていますが、もっと根底的にそのありようは否定されるのではないか。

『英国貴族に出会う旅』(津野志摩子)という本を読んで、なんとなく自分が考えていたことが本当だったように思えてきました。

英国在住の観光ライターが書いた本は、マナー・ハウスを訪ねる旅を通じて、歴史に名をとどめた英国貴族の末裔たちの今を教えてくれます。

サンドイッチ伯爵(同名の食べ物の元祖としても有名)、ウェリントン公爵(ナポレオンを敗北させた)、コーンウォール公爵(=チャールズ皇太子)、モールバラ公爵(チャーチルの祖父)、スペンサー伯爵(ダイアナ元王妃の実家)、セイ男爵、エクセター公爵(いまは爵位剥奪)、サマセット公爵、グレイ伯爵(アール・グレイ紅茶で有名な貴族)といった貴族(元貴族)とその館マナー・ハウスをめぐる旅は、英国史を知る人間には感慨深いものがあります。

英国貴族とはいえ、いまは相続税と館の維持費に追われ、サラリーマンであったり、子女が労働者階級と結婚するなど、階級社会も壊れつつあるようです。なかにはアジア人の血を継ぐ孫もいたりして、じきにアジア系の英国貴族も増えてゆく雲行きです。

涙ぐましい遺産維持費用の捻出として、サンドイッチ伯爵家ではその名を冠したサンドイッチを弁当として売っているとか。

映画撮影に場所を提供するというのもかなり人気のある商売で、おかげで「恋に落ちたシェークスピア」とか「日々の名残り」で、本物の貴族の館をスクリーンでみることができます。

やはりやり手の先祖だけでは、家は反映しない−−というのが、正直な感想ですね。
先祖がロンドン塔で首を斬られても、存続できて、しかも繁栄している家がある。

そうした家系は離婚も少なくて、なんとなく奥ゆかしい雰囲気です。
ギリシアの「徳」(アレテー)という言葉は現代の西洋語の対応語としては人気がありませんが、すくなくとも中世までは必須とされていました。
近代思想には無縁ですが、(とはいえモンテスキューくらいまでは結構人気があります)「徳」を大事にしないと人間の幸せはつかめないですね。

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1月29日

このところ、『古代ユダヤ教』(M・ウェーバー)を読んでいます。

自分では旧約聖書はかなり読み込んだつもりだったけれど、ウェーバーの本を読んでいるうちに、呆然となりました。
いったい、何を読んできたんだろう。

まだ三分冊の上巻ですが、旧約聖書がまったく違った書物にみえてきました。
一言でいえば、モーゼ五書ですら、歴史的産物だったことを改めて認識したのです。

旧約聖書はそもそもいつできたのか。
常識的にいえば、紀元前5世紀に、アケメネス朝ペルシアが支配したバビロンで文字としてまとめられたものが、いわゆるモーゼ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)。
のちの各書物は、紀元後1世紀までに徐々にまとめられました。
だから、イエス・キリストはたとえヘブライ語を読めたとしても、私たちが知っている旧約聖書を知らないのです。

またユダヤ教の法律書でもある申命記はバビロン捕囚(紀元前586〜538)の前に、滅亡寸前のユダ王国のヨシュア王の時代に、祭司エレミアが率いる集団が創作した文書です。

そうした事情を考えると、申命記や民数記に書かれたユダヤ十支族の姿は後代の反映と考えるべきです。

ある支族はモーゼ(が仮にいたとして)の時代に、ヤハウェを崇拝する宗教集団(つまりユダヤ民族)に参加していなかった−−というウェーバーの指摘には、脳天をどやされた思いです。なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。

そうすると、旧約聖書はまったく別の書物として読めてくる。
事実を素朴に記した書物(=歴史)ではなく、「過去がこうであったらよかった」ことを書いた本、つまり言葉の本当の意味でイデオロギーの書なんですね。

すると自分の知っていた旧約聖書がまったく別の意味をもってくる。
世界がひっくりかえるような思いで読み進めています。

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1月23日

イギリスとケルトに関連して、こんな本を読みました。
『図説 ケルトの歴史』(鶴岡真弓・松村一男)
『イギリスの古都と街道』(上)(紅山雪夫)

『図説 ケルトの歴史』は、美術史と宗教史の専門家による共著。
考古学、神話学、美術史の観点から、古代と中世のケルト文化を手際よくまとめています。
知識の整理にはよい本でした。

ケルトとはなんなのか。さらに一歩進んで、アイルランドや、スコットランドについて深く知りたいと思うなら、もっと専門的な本を読むほかありません。

ところで、この本で意外な事実を知りました。
現代日本にも飛び火している「ケルト愛好ブーム」は、19世紀にまでさかのぼります。
その火付け役となったのが、あるフランス人とイギリス人でした。
フランス人とは、聖書研究で有名なルナン。彼がヨーロッパ大陸に第一次ケルト・ブームを引き起こします。そして、イギリスでは教育家として有名なマシュー・アーノルドがその役目を果たします。
「神秘的なケルト」という現代のわたしたちが抱くイメージを確立したのは、この二人だったそうです。

『イギリスの古都と街道』は、旅行案内をかねたイギリスの古都や街道沿いの遺跡を教えてくれる本です。
ロンドン塔や、ウェストミンスター、ウィンチェスター、カンタベリー、バース、ストーンヘンジ、ストラットフォード・エイボンといった名所について親切な案内になっています。
冒頭で、ノルマン征服以前の歴史をまとめてくれているのは便利です。

ところで、さすがにイギリス人だなと感心したエピソードがありました。
ご存知のように、イギリス南部には白亜(チョーク)の地盤を利用して、草と表土を剥ぎ取って岩盤を露出させて図像を描く先史時代の遺跡がいくつかあります。
白馬や巨人像が有名で、特に有名なのが「アッフィントンの白馬」と「サーン・アッバスの巨人」。

こうした図像は構造上、表土が流れ込むと埋没してしまう。
そこで数年ごとに、近隣の住民が総出で土を掻き出して、図像を修復するそうです。

そうして行事は、ナショナル・トラスト運動が発生する以前、はるか中世から行われていました。

国民性というのは、あるもんなんですね。

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1月16日

しばらく「街道を行く」のアイルランド編『愛蘭土紀行 I・II』(司馬遼太郎)を読んでいました。

『愛蘭土紀行 I』は、話題のほとんどがアイルランドに渡る前の英国での体験です。おかげで、愛蘭土(アイルランド)紀行というより、英国紀行になっている。

アイルランドとイギリスの二国を司馬さんがとう見たか知ることができて得した気分になります。
イギリスは司馬さんにとって、文明のお手本のような国。
階級制度という問題点はあったとしても点数は高い。
ところで、司馬さんのようなリアリストにとって、アイルランドはどう見えたのか。
気分として理解でき、共感もあったには違いないけれど、痛々しさに口ごもっている印象があります。
「近代」を頂点とする考え方では、アイルランドは落ちこぼれとしかいえない。
敗者の栄光を語るとき、司馬さんの口調は重くなる。

アイルランドのつらさは「近代」に適応しなかった国のつらさです。
東アジアでみれば、それは中国と朝鮮半島にあたる。
戦中派の司馬さんは二国については「日本人はそのつらさを察せよ」と、読者に暗に求めているところがあります。
アイルランドにおいても、同じ感触です。

考え見れば、アイルランド好きという人種は、決して「近代至上主義者」ではありませんね。
「古代好きのロマンチスト」や「中世好きな」、これまたロマンチスト。あとは妖怪好き、妖精好き......どうにも司馬遼太郎的な作品世界ではあまり活躍しないタイプです。

司馬さんの作品では、妖怪好き、幻想好きな要素がかなりあるけれど、「国民作家司馬遼太郎」として認知される作品群には希薄です。
『愛蘭土紀行』でも妖精博士、井村君江教授がすこしだけ登場するけれど、全体的なトーンは「妖精度」が低い。

「妖精」がアイルランド人を理解するキーワードであることは、さすがに分かっているけれど、古代ケルト文明の世界観にまで共感することは難しかったのではないか。

アイルランド人のユニークさを、イギリス人地主の圧制に由来するものと決め付けたとき、もっと大事な何かが見失われたのではないか。

さすがに邦語文献にはぬかりなく目配りしてあります。
スパイ小説にまで目を通しているのには苦笑してしまいました。
しかし、それも結論ありきで、文献を渉猟している弱点ではないか。

『愛蘭土紀行 II』の末尾で、このような趣旨の文章がありました。
アイルランドは文学を読めばそれでわかってしまう。わざわざ行く必要はない、と。

司馬さんほどの人であっても、体質にあわないものは理解できないのだなと改めて思いました。

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1月 2日

新年の挨拶ですが、実際に書いているのは1月23日。(汗)
風邪をひいたり、忙しかったりで更新ペースはぜんぜん悪いです。
もらった年賀状には、友人から「お前さんのHPを読む時間がとれないよ」というのがあって、なるほどなあと思ってしまいました。

どうもわたしたちの年代は、やたらすることがあって、見聞というか、インプットの時間がとれませんね。

ヲジさん、ヲバさんは本を読まないのには理由があった!
−−とやっと実感しています。
しかし、もっとこわいボケと老眼は待ってくれない。

ここで意地でも本読みをつづけないと、先が続かない。
九十歳くらいまで現役でいる気力、体力がないと、21世紀は乗りきれない!

ということを肝に銘じて、しぶとく本とインターネットに取り組もうと思っています。

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1月 1日

新年おめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

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