お気楽読書日記: 7月

作成 工藤龍大

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7月

7月31日

金曜日に「パッション」、土曜日に「トロイ」をみて来ました。

イエス・キリストが刑死する12時間をリアルに描いたメル・ギブソン監督の「パッション」は、歴史に残る名作です。

鞭打たれ、十字架に釘付けにされるイエスの肉体の描写が凄まじい。
打撃に飛び散る血、床に流れた血、ただれたような全身がにじむ血。
おびただしい残酷場面で、痛みがリアルに伝わってくるのに画面から目が離せない。

ゴルゴダの丘まで担う十字架の重さ。
手足の骨を砕いて打ち込まれる巨大な釘。

まるで自分自身の身体に打ち込まれているような気さえしました。

おぞましいまでの残酷シーンの連続ですが、イエスの言葉がみるものに勇気を与える。
十字架の重さに倒れたわが子に駆け寄るマリアに、イエスは言います。
「ここからすべてが新しくなるのです」と。

イエスの死後、天地が暗くなり、地震が神殿を襲う描写がありますが、それよりも心打たれるのはイエスを苛んだローマ兵士のなかで死に行くイエスの前で信仰を得たものが出たこと。

そちらの方に、ギブソンの真意があることは言うまでもありません。

そして、あのラスト・シーン。
キリスト教徒だけではなく、イエスの関心がある人間にはぜひともみたかった奇跡の発現です。

新しい千年紀がはじまってまもないこの時期に、最新の映像技術を使って、イエスの奇跡を再現してくれたギブソンの勇気にひたすら感謝しました。

土曜日には「トロイ」をみて来ました。
こちらはセット・衣装には綿密な時代考証をしていたとのことですが、お話の中身はギリシア神話ともホメロスとも違うハリウッド・オリジナルです。

ブラッド・ピットのアキレスと、エリック・バナのヘクトルがひたすらよかった−−

この作品ではウォルフガンク・ペーターゼンの映像美とハリウッド活劇を堪能しました。

アキレスが暴力衝動に満ちた異常人であることはホメロスを読めばよくわかるけれど、その危なさを美に昇華できたのはブラッド・ピットの「仕事」です。

ところでギリシア悲劇の名科白を、ピット=アキレスにいわせたペーターゼンの演出がいい。
いわく、
「神々は人間を嫉妬している。それは人間には寿命があるからだ」と。

記憶がさだかではないけれど、この科白は悲劇「ヒッポリュトス」で女神アテネ(?)が愛する英雄(ヒッポリュトス)の死に際に云ったものだったように思います。

ホメロスでも似たような言葉があったような気もします。

出典はあやふやだけれど、はじめて読んだときには、ギリシア人の人生観を垣間見たような気がしてじーんときました。

神々は宇宙の法則そのものであるがゆえに、身動きがとれない。たとえ不老不死であろうとも、自分の役目をこえることはなにもできない。

ところが人間は死すべき運命にあるかわりに、世界を変えることができる。
神々さえも踏み込めない領域に飛び込んで、宇宙を救うことができるのは人間だけだという趣旨の言葉です。

一流の西洋人のものの考えには、一見正反対にみえるキリストの教えと、ギリシアの人生観がいりまじっている。

じつはどちらもおなじことを云っているのだから、当たり前なんですね。

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7月19日

『スカートの中の風』(呉善花)を読みました。

「日本在住をめざす韓国の女たち」という副題がついているこの本は、朝鮮半島はもちろん在日社会でもきわめて評判が悪い本だったそうです。

ここに書かれているのは、男尊女卑社会・韓国のダークサイトです。
平成二年に単行本として出版されたので、事情はそれほど違っていないと思います。

処女性が絶対視され、二十五歳をすぎた女性には働く場所がない社会。
容姿以外に女性の価値を認めない社会。
三十歳をすぎて子どもがいない女性にいる場所がない社会。

呉善花氏によれば、上にあげたネガティブ・ポイントを積み重ねた韓国女性が流れてくるのが日本だとか。

ひるがえって韓国男性にとっては、日本女性はどういう存在かというと、呉氏とは別の本によると、韓国人に比べ容姿が不自由で、どういうわけか韓国男性にあうと夫も家族も子どもも捨てて奴隷のように奉仕したくなる欲求不満の淫乱女ということになるらしい。

ヨン様に熱中する日本女性の姿をTVでみるたびに、韓国のお下劣男たちは呵呵大笑して、やにさがっているんだろうなと、暗澹とした気分になります。

話がずれてしまいましたが、呉善花さんの本を読んでいると、朝鮮半島で日本を利用して国家再建をめざした李朝末期の志士を連想します。
彼らは売国奴として歴史から抹殺されました。

そうした悲壮な志士たちと彼女の姿が重なるのは、戦う相手が似ているからです。

日本にわたって風俗産業に従事する女性たちは、兄弟の学資や生活費を送金することを当然の義務として両親から課せられます。韓国にいる場所はないくせに、男の兄弟の社会進出のためにはどんな犠牲でも払うのが当然だと韓国の伝統倫理・家庭倫理が命じるのです。

志士たちと同じように、李朝の伝統という亡霊が、呉善花氏の敵です。
この巨大すぎる敵に勝つには、ひょっとしたら呉善花氏の倫理に訴えるアプローチはむずかしいように思えます。

私見では、李朝の伝統を破壊できるのは、韓国でいよいよ力をましつつある拝金主義と個人主義、つまり末期的資本主義の毒素だけです。

ただし、そのような現実を知りながらも、偏狭な民族主義をこえて、社会の矛盾と対決しようとする呉善花氏はとても素敵です。

矛盾に引き裂かれながら、現実をみつめる知性のちからが呉善花氏の著作にはあふれています。この女性こそ、現代の志士といっていい。

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7月18日

『仮面ライダー spirits 受け継がれる魂 II』(小田克己編)を購入。

しばらく書店で探していたけれど近所で発見。早速入手しました。

「時代が望む時、仮面ライダーは必ず甦る−−」(石ノ森章太郎)
仮面ライダーの公式ガイドブックがムックで出ていますが、これはその企画よりも前に出た(現在進行形の)村枝賢一バージョン ZX に、TV 番組の撮影スタッフの秘話をからめた公式ファンブックの第二段。こちらは新書版です。

一号ライダー(藤岡弘)とスカイライダー(村上弘明)のセットでスタートしたムックの方は、四十代と三十代を押さえた手堅い戦略ですね。

ムックの方は、創刊準備号から買ってしまいました。(^^)

それにしても、新書版第一弾の『仮面ライダー spirits 受け継がれる魂』で語られる大野剣友会と東映生田スタジオのサムライたちの熱い魂は、時空をこえる。

ショッカーの戦闘員や怪人を演じたお兄さんたち(当時)は、主演の俳優よりもかっこいいサムライであったといまさらながら感じます。

みんな今では中年なんて軽くこえています。
なくなった方も多い。
熱い男たちは消えつつある。
だからこそ−−「受け継がれる魂」なんですね。

仮面ライダーというのは、数ある特撮ヒーローの中でも背中で魅せる稀な存在でした。

あれは故・中村文弥、中屋敷鉄也(現、哲也)といった人たちが作り上げた原型が継承されていったものだそうです。

『〜受け継がれる魂』の一巻目、二巻目ともに、生田スタジオの所長、内田有作(映画監督・内田吐夢の息子)のインタビューが読みどころです。
予算も時間のないなかで、若い情熱が作り上げたのが「仮面ライダー」だったことがよくわかります。

仮面ライダーのスタッフは、大野剣友会を含めてスポ根「柔道一直線」を作った人々でもある。二号ライダーを演じた佐々木剛が両方の番組に出演している理由も同じ。藤岡弘の事故で、主人公がいなくなったときに、すでに人気役者としてブレークしかけていた佐々木がピンチヒッターを引き受けた。

その後、藤岡が復帰すると、主役を譲ったのは有名な話。しかも、客演としてその後も出演しつづけたわけだから、実生活でもダブル・ライダーがかぶります。

佐々木の復活にも、ライダーと重なるちょっといい話があるのですが、ここでは割愛します。

仮面ライダーは「友情」を恥ずかしげもなく前面に押し出すヒーローでもあります。

オダギリジョーと葛山信吾が演じたクウガの友情物語は、ライダーの原点復帰でもある。

これは作り手たちの魂の実話が、フィクションに吸い込まれて、大きな実りを結んだからだとさまざまな資料を読んでわかりました。

それにしても−−こんな素敵な人たちが文字とおり命がけ(大怪我と背中合わせ)で作っていたアートに子どもとして出会えたとは、なんて幸運だったんだろう。

しみじみと嬉しくなりました。

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7月11日

『ボーダー』(狩撫麻礼原作・たなか亜希夫)復刻版を入手、再読しました。

この伝説の名作を知らない人はいないと思います。
狩撫麻礼がペンネームを捨て別人として作品を発表しているため、たなかとのコンビ作品はもう望めない(?)のが残念です。
しかし、たなかは『軍鶏』で復活。
親殺しの格闘家・成嶋亮の人気で、長く絶版だった『ボーダー』も復刻されたそうです。

オリジナル版では全14巻のうち九巻までしか入手できず、古本屋でも見つけられずにいたのがやっと読めました。

ついに最後まで名前がわからなかった蜂須賀の意外な大物ぶりがわかったり、「あちら側」の世界のモンスター、後関との壮絶な東京ドーム決戦(といってもレゲエー・コンサート)と見落としていた部分を堪能できたのが嬉しい。

後関は、80年代の日本を象徴する悪魔的なキャラでしたが、蜂須賀が実現した奇跡のおかげで物質万能主義の「あちら側」の崩壊を予見するかたちで敗北する。
これを狩撫麻礼が発表したのが、1986〜87年くらいだったはず。

あの頃、「あちら側」の崩壊を待望していた人間は時代に取り残されたボーダーみたいな奴しかいなかった。
わたしも間違いなくその一人でした。

『ボーダー』を二十年近く前に読んでいたボーダーが、やっと完結編を読むことができたわけです。

作中の蜂須賀は鉄筋工として建設現場で明るく社会復帰していました。
鉄筋工として就職した若いギャルたちの姿に狂喜しながら。

この国の未来はイメージ屋じゃなく、ガテン系のおねぇちゃんにあると狩撫麻礼は予言していたのです。
そして、その予言は間違っていなかった−−と思います。

たまにネクタイなんかしても、ボーダーはボーダーです。
蜂須賀や木村の破天荒にまぬけな苦行と珍行をみるにつけ、嬉しくなってきます。
なんとなく仲間にあっているような気になります。

誰ともコミュニケートできなくて、熱さをもてあましている中年−−
年齢からいえば、作品の蜂須賀(四一歳)より上になったおかげで、『ボーダー』がいよいよ懐かしくなりました。

若い頃はボーダーイコール貧乏と勘違いしていたけれど、それは大間違いだと分かりました。

ボーダーとは魂の位のほかには何ものも認めない過激なアナーキストのことなのです。
「あちら側」のひとは過剰なセンチメンタリストと呼びますが......


追記:
久しぶりにメルマガを出しました。
よかった、よかった。(自己満足♪)

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7月10日

奥多摩へはじめて行ってきました。
近いと思ったのに、車で3時間もかかってしまった。
道に慣れていないとはいえ、疲れました。

青梅の先の沢井で、小澤酒造直営の和食店「ままごと屋」で食事。
同じ蔵元の庭園と近くの寒山寺を見てきました。

寒山寺というのはお寺というより、お堂といったほうが正確です。
とはいえ、眼下に見る多摩川はなかなかものでした。

カヌー遊びや釣りをしている人がいて、いい感じです。
そういう人がいなければ、風雅な山水画の世界にもみえます。

ただし対岸は紛れもなく日本の地方都市の町並みでした。
それでも風情を感じました。

「ままごと屋」の近くには、蔵元が経営する笄かんざし博物館があります。
ここで江戸時代から明治大正昭和の笄やかんざしをみてきました。

大正時代のかんざしや櫛は、アールヌーボーやアールデコが逆輸入されていて、ラリックそっくりなデザインがあって驚きました。

素材として、アルミやセルロイドが使われていたのにも驚きました。
博物館に展示されるだけあって、銀細工や鼈甲に似ていないこともない。
言われなければ間違いてしまいそう。
素材の値段とはなんだろうと考えてしまいます。

奥多摩はなんとなく長野県に似ています。
温泉こそないけれど、親戚が住む戸隠に雰囲気が似ていました。
少し足を延ばせば、御犬信仰で有名な御岳神社や川合玉堂美術館へもいけたのですが、へばってしまって今回はここまで。

これに味をしめて、奥多摩や奥秩父を再訪してみるつもりです。

追記:
小澤酒造の純米大吟醸「梵」は旨かった。
利き酒コーナーで飲みました。利き酒すると、ぐい飲みをお土産にもらえます。

帰りに純米吟醸「吟の舞」を買いました。これも美味かった。
蔵元の湧き水をなめてみましたが、これがなんともいえない。

美酒は水から生まれると実感しました。

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7月 4日

『日本の敵』、『国まさに滅びんとす』『大英帝国衰亡史』(中西輝政)を立て続けに読みました。

京都大学教授の中西氏は保守陣営の期待の星とのこと。
昭和22年(1947)生まれの論客です。

『大英帝国衰亡史』は、1997年に山本七平賞・毎日出版文化賞を受賞したそうです。

英国病におちいったイギリスを、18世紀・19世紀からの必然の流れととられ分析する手際は国際政治学者の肩書きにふさわしいものでした。

第二次世界大戦後の労働党の福祉政策よりももっと深いレベルで、イギリスの退潮ははじまっていたのです。
詳細はつまびらかにしませんが、国家が衰亡するのはある意味必然であると納得する分析です。

現代日本を論じた『日本の敵』と『国まさに滅びんとす』に断片的に例証として引き合いに出されたイギリス政治史についてまとめて読めるのが、『大英帝国衰亡史』です。

中西氏の著作を読む限り、小泉改革が頓挫することは避けられないようです。
それは小泉首相の資質というよりは衰亡に向かう日本国民のメンタリティに原因があるのだから不可避なのです。

国家としての日本が再生するには、リスク管理能力にたけた指導者層の出現が必要と、サッチャー以降のイギリス再生を見届けた著者は考えるのですが、はたして現代日本にそんな人材が現れる余地があるでしょうか。

少なくとも、前掲の著書を見る限り、中西氏本人も懐疑的だとしか思えない。

ただし中西氏の論理の向こうには、国家主義的な統制があるようにもみえます。
クリーンな統制主義で、問題をのりきれるとは考えられない−−というのが、大多数の人ではないでしょうか。

この国が行き詰っていることはわかった。
その最大の理由が繁栄におぼれ、リスク回避する国民の体質にあることも。

では、国民はどうするべきか。
答えはわからないのですが、中西氏のいう国家優先主義にないことだけは確かだと思います。
では、どうしたらよいのか。

その回答はまだみつからない−−というのが本音です。
今回の参議院選挙にしても、中西氏のいう『国まさに滅びんとす』にまともに応えようとする政党は存在しない。

こんなときは死んだふりをして、状況の新展開を見守るというのが、責任あるイギリス有権者の戦術だ−−と中西氏の著作にありました。
むやみに走り出すのではなく、状況を観察しながら、決断の時をまつ。
この大人の戦略が、資源のない国イギリスを常に国際政治の舞台で活躍させる原動力だったそうです。

中西氏の著作にならって、イギリス風の大人の戦略を身につけるのが、今のわたしたちにいちばん必要なこと−−
いろいろ考えてみると、どうもこれしか手がなさそうです。
手詰まりの時には死んだふり。これが大人の知恵というものでしょう。

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