先週アップしなかった本について書きます。 『「まあ、ええがな」のこころ』(森村泰昌) 『へたも絵のうち』(熊谷守一) 『英国パブストーリー』(吉岡宏) 『縄文発見の旅』(信濃毎日新聞社編集局編) 『わたしの浄土真宗』(藤田徹文) 自分の女装写真をアートにしてしまった芸術家森村泰昌のエッセイ集『「まあ、ええがな」のこころ』は面白かった。 表題の「まあ、ええがな」はお茶を商う著者の父親の口癖。 両親と三人暮らしの森村一家は、正月に大阪をぐるりとめぐる神社参拝ツアーが年中行事。そのコースの由来は何かと聞いたら、父親は近所のおっちゃんが決めたと平然としていう。 森村が由緒正しい行事と思っていた神社参りは、近所の一家と森村一家だけの行事だった。 絶句する森村に父親が「まあ、ええがな」といつもの口調で答える。 神社参りの好きな父親は、散歩に息子を連れ出してとにかく神社に手を合わせる。 散歩コースの定番にある小さな祠はなんだろうと息子が聞いてもしらない。 「まあ、ええがな」と手を合わせる。 後日、森村がそばにあった碑に気づいて読んでみると、そこはある企業の従業員の作業中の無事を祈願するものだった。手を合わせたところで、なんのご利益もない。 そのことを父に伝えると、「まあ、ええがな。」 父は相変わらず祠に手を合わせている。 森村はこの「まあ、ええがな」に感動する。 感動といっては大げさかもしれないが、とにかくたいしたものだと思う。 言葉にすると重苦しい「自由人」とは、「まあ、ええがな」を連発するこの父ではないか。 権威におもねらず、好きなことを好きなようにやる。 自由とは、「まあ、ええがな」であった! また別のエッセイで、森村は考える。 デッサンが苦手だった森村は、絵を捨てて自分の写真をアートにしてしまった。 結局何かの技法を身につけることは、だれかの手本を真似ることに他ならない。 でも、自分が自分の手本になったっていいわけじゃないか。 ますますアートに自信を深める森村だった。 この子にして、この父あり。 大阪人ではないけれど、「まあ、ええがな」のこころはいいですね。 ゲージュツ家はとにかく面白い。 洋画家熊谷守一は、芸大を主席で卒業後深刻なスランプの陥り、故郷の長野で材木流しのとび職みたいなことまでした。 その後、貧苦の果てに子どもをなくし、その絶望をへて十数年後に独自の画風を確立して洋画界の巨人となった。 熊谷の文集である「へたも絵のうち」は、低迷時代の苦衷とシンプルな描線で描く技法を確立したあとの自然の交歓をのびやかに語る。 これもまた素晴らしい芸術家からのプレゼントである。 英国マニアはライターにとって定番のジャンルとなった。 『英国パブストーリー』もそんな一冊。この人の場合は、英国のパブである。 しかし、この種の本を読む場合、どこか無理にはまろうとしている苦衷がにじんでいる。 ほんとうはそうじゃないかもしれないが、無垢な愛情ではなく、苦味がある。雑味がある。 パブにいってエールやビールばかり飲むというのも、正しいかもしれないが、酒飲みとしてはいまいち不審がある。 英国のウイスキーが海外輸出用でパブなんぞではろくな酒が飲めないそうだが、ビール(エール)の他に地酒がないというのはヘンだと思う。 この著者はほんとは酒が好きではないのではないか。 などと疑いを抱いてしまいました。 「縄文は世界に誇る日本の至宝である!」 そのような思いを抱く人は多いはず。 『縄文発見の旅』は、そうした縄文の世界への格好の入門書。 縄文時代の人は農耕をしたり、漆を世界に先駆けて発明したことがわかっている現代。いよいよ縄文への夢はふくらむ。 この時代は、ものづくりニッポンの原点だ。 ところで、酒にばかりこだわってはまずいようだが、縄文人は現代人よりも酒が強かった。 日本人で酒を飲めない人はシベリアで発生して朝鮮半島経由で日本へ渡来した遺伝子のせいであるらしい。この遺伝子はアルコール分解能力を疎外するのだという。 だから、その遺伝子が突然変異で生じる以前に、日本列島へやってきた人々が混血してできた縄文人はやたらと酒が強かった。 こんな人たちが蒸留酒のない時代で、女人の口で唾液をこねて穀物や果実を醗酵させた比較的弱い醸造酒をどれほど飲んだかということを想像して、肌に粟を生じるのはわたしだけではないはず。(笑) わたしたちはどれほど仏教について知っているだろう。 葬式仏教の無力がいわれて久しいけれど、葬式仏教ではない仏教について何を知っているだろうか。 修行といえば、禅。 オカルトがかると、新興宗教で密教もどきを学ぶ。 すこし頭があると、サンスクリットやパーリー語を学んで、ゴータマ・シッダルタの思想を探る。 しかし−−それだけが仏教なのか。 親鸞といえば、「歎異抄」ですべて分かった! でも、「そんなのでは駄目だ」と思う。 現役の宗教家は、仏教をどう生活のなかに生かそうと考えているのかという興味で、手にしたのが『わたしの浄土真宗』。 たしかにいいことは書いてある。 だが、思い返してみてあまり記憶に残らない。 このあたりに、問題が潜んでいる。 宗教の難しさは教義やその理解だけでは値打ちがないことだ。 ゲージュツと同じで、結果に意味がある。 芸術では作品であり、宗教は心情であろう。 あえて行為とはいわない。心情は人の行為にすべてに浸透するものだから。 仏教というものは本当はないではないか。 しかし「法」(ダルマ)というものが宇宙創生のときから存在し、個人の生涯によって実現される。 この発想が仏教という言葉で呼ばれる思想の本質だ。 仏教がカテキズム(教理問答集)で限定されるキリスト教やイスラム教と違うのはそこだと思う。 本質が多様に実現されるからこそ、唯一無二のルールブックはいらない。 その代わりとして、ラーニング(=トレーニング)・テキスト(お経)がいっぱいある。 そういうことなのではないかと、あらためて思いました。 |
本日のお題は『対談 美酒について』(開高健・吉行淳之介)。 四十代の男性が二十代の女の子と結婚するということで、過日飲み会に行きました。 ほんとに偉いなあと感じるのは、年上志向の女の子ではなく、男性のほう。 いけ面で若々しいので若い子と楽しくつきあえるタイプ。少し前の石田純一を渋めにした感じだから、別に二十代の子とつきあっても違和感はない。 わたしはといえば、二十代の女の子と会話するのは苦手です。 SFマニアといういまわしい過去と、書籍収集という現在の業病にたたられて、「女の子」という生き物とは接点がない。あえていえば興味がない。 飲み会は楽しかったけれど、うざったくもありました。 酒の席でも男とばかり話している。そっちの方が可愛げ気があるせいでもあります。 ゲイの趣味はないけれど、女という生き物は三十歳をすぎなければ面白くならないのです。 古い書物が好きなへんくつなおじさんは、若い子よりももののわかった年増が好きです。 知人の男性は「へんくつ」な部分がないので幸せになれたのですね。 ところで、女の子ばかりがいる酒の席がなぜ痛烈につまらないのか。 飲み会にいく前々日に読んだ『対談 美酒について』を取り出して、納得しました。 酒飲み名人は「危うき」に遊ぶ。 買った男娼の起きぬけ顔の無精ヒゲを語る吉行名人と、アヘン服用後の眠りと少年時代のフィンガー・テクニックを語る開高名人の対話には、ぞくぞくする危険な感じがあります。 中年には総じて危険な隠し技がある。実は今回結婚する男性も女の子にはみせない秘密の裏技があってわたしは好きなんですね。 女の子は論外だけど、若い男はこれからどんな技に進むかいろいろ予想できて楽しい。 とはいえ、おっさん、おばさん、じいさん、ばあさんが秘めているブツに比べれば、あんまり面白いものじゃない。 『対談 酒について』には「人はなぜ酒を語るのか」という副題があります。 酒を語るという行為に人が求めるのは、ワインの銘柄のうんちく、世界のスピリッツのうんちく、日本酒・焼酎のうんちくじゃありません。 語り手の秘める人生の、ほのぐらい秘部です。 酒のつまみは、人生が匂い立つキャラクターの飲み仲間に尽きます。 |
大法輪平成十五年十二月号の特集記事を読みました。 特集は「親鸞の<正信>入門」というもの。 「正信偈」とは親鸞の主著『教行信証』(正確には『顕浄土真実教行証文類』という)にある漢文の賛歌。 うちは真言宗なのでよくわかりませんが、まじめな真宗信徒は毎朝唱えるものらしい。 門徒でも教学者でない限り、手にとる人もいない『教行信証』の一説を和賛として広めたのがあの蓮如です。 「正信偈」には親鸞の思想的エッセンスがつまっている。 これを見抜いたあたり、蓮如をただの政治的プロバガンダの達人とみることはできません。 蓮如は政治的天才と宗教的天才をかねそなえた怪物だったのです。 『教行信証』は念仏とは何かを知的に探求して書物です。 一読したかぎり、中国と日本の高僧の著作物からの抜き出しを集めたものしかみえません。 じじつそのとおりです。 だから、日本の浄土思想の非独創性を、中国人が笑ったりするわけです。 「正信偈」においても、インドの竜樹、世親から中国の善導、道綽のおかげで浄土の正しい教えがあったのだと感謝を捧げています。 ただ世親や善導の書いたものを読んでみると、親鸞の考えとは少し違うように思えます。世親はトランスパーソナル心理学の祖といっていい思想家で、善導の念仏には死の臭いがある。誤伝ではあるけれど善導本人は浄土往生を求めて飛び降り自殺したと信じられていました。法然も親鸞もそう信じていた。善導の信徒には実際に自死したものもいる。 先入観と後世の浄土宗教学の呪縛から逃れて、法然の著作や手紙を素直に読むと、ずいぶん親鸞と似ています。 法然の思想というのは、親鸞に比べて未熟であったというような言われ方をしますが、最近では親鸞の独創といわれたものが多くを法然によっているとわかってきています。 この子弟はまぎれもなく独創的な天才でした。 日本の浄土教はこの二人が作り上げたオリジナルだといっていい。 ところが、この国では独創性はカルトとして闇に封印される宿命にある。 日本ではオリジナリティは罪悪なのです。 法然はその独創性をあえて隠すために、自分の思想を日中の高僧の著作のコラージュとして発表した。 これはオリジナルではない。海外のえらい人の意見を真似ているだけだと。 日本国において、真に独創的な人がよくやる手法です。 親鸞もその手法を師匠にならったのです。 親鸞といえば「歎異抄」となるけれど、それは短絡すぎる。 あれはどちらかといえば、あまり頭の良くない筆記者の程度に合わせた水割りです。 親鸞の本音は『教行信証』にある。そして「正信偈」はそのエッセンスです。 法然の天才は禅の悟りにも似て、わかりづらい。 理屈がなければどうにもならない現代人には、親鸞の導きがなければ、法然の進んだ道は難しい。信と行につきるけれど、それをできないのが末法の世に生きる現代人の定め。 「正信偈」の冒頭の言葉、 「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」 とは、「南無阿弥陀仏」という名号の意味を解説したものです。 要約すると、「人間の思い量りには限りがある。光のように終わりもなく果てもなく、どこにもあり、すべてを照らす人間をこえた智恵にわたしの魂、肉体、心のすべてをゆだねます」となる。 これが法然と親鸞の思想のアルファとオメガなのです。 「ゆだねて生きる」 この言葉をこれから幾度も味わうことにあるでしょうね、きっと。 |
読んだ本を三冊ほど。 『ユング』(A・ストー)。 最近ユングの錬金術と心理学の研究が面白くなりました。 集合的無意識という便利なキャッチフレーズはどうでもよく、「個性化」の過程と中年以降の生き方の問題に興味があります。 手際はいいけれど、ストーのまとめ方は発想を豊かにしてくれるものではない。ついでにいえば、訳もあまり読みやすいとはいえない。 精神分析派のメラニー・クラインの対象関係論や、フェアバーンの人格説をもってくるあたり目配りがきいていると評価してあげなければいけないのかもしれませんが...... そちらの方はフロイト絡みでいろいろ調べたので、特にどうということはありませんでした。 手元にユングの『パラケルスス論』と『錬金術と無意識の心理学』があるので、そのうち読んでみようと思っています。 『日韓いがみあいの精神分析』(岸田秀・金両基)。 岸田秀の本は、精神衛生上よくない−−今回も例外ではありませんでした。 なんでも精神分析で説明できる岸田秀に分析不能な問題はない。 トロウマ学説をふりかざす岸田秀の、朝鮮史に対する無知ぶりにあきれつつ、金両基氏の反論から発言の真意をあれこれ推量するという、とても不健康な読書でした。 日本の対北朝鮮政策と北朝鮮体制への反感では、意見が一致しているのはご愛嬌です。 朝鮮という国に興味があるのですが、この分野ではなかなか良書にめぐりあわない。 呉善花氏は、例外中の例外でした。 『漂蕩の自由』(檀一雄)。 最近はずれが多い読書となっています。 しかし、これはジンクスをくずす大当たり。 檀は戦前朝鮮半島に住んでいて、朝鮮人の恋人がいました。 そのせいか、檀が書く朝鮮は美しくて、楽しい。 どうも不細工な顔をしている男が朝鮮について書くとつまらないようです。 理由はよくわかりませんが..... これから朝鮮半島について本を読むときは、男なら女性にもてそうな、女なら美人の著者近影がある本だけを買うことにします。 日本全国、中国、朝鮮、ヨーロッパを放浪した不良老年檀一雄のエッセイにはロマンが満ちている。 飲んだくれて、行きくれる生き方が爽快です。 こんな気分のいい男はめったにいない。 「とにかく読め!」と声を大にして言いたい。 ところで、巻末に息子の檀太郎がエッセイを書いています。 太郎の小学生時代、檀一家は西武池袋線の石神井公園に住んでいて、夏休みになると飯能にでかけた。名栗川という川で水浴するのが楽しみだったという。 そうか、この沿線にいたのかと思わず嬉しくなりました。 (わたしもそうなので) 飯能といえば、電車を乗り過ごしてよくお世話になる駅でもあり、駅の改札口とタクシー乗り場だけはなじみがある。 暖かくなったら、檀一家が泳いだスポットを探しにゆくつもりです。 |
『ヨーロッパ・二つの窓』(堀田善衛・加藤周一)を読みました。 これはなかなか面白かった。 物知りで筋が通った知識人の対談は面白い。 実際に住んだパリ、バルセロナ、ベネツィア、ウィーンなどの体験をもとに、ヨーロッパ文化について語る対談は格好の暇つぶしです。 やっぱり堀田は作品を読んだ方がいい。 対談でしか光らない文化人はいっぱいいるけれど、堀田はその偉大なる反対例。 まだこの人の『ゴヤ』も『城砦の人』も読んでいない。 簡単に味見しようなんて、われながらつまらない了見でした。 |
読んだ本について軽く書きます。 『魚籃観音記』(筒井康隆)。 筒井流狂気もあまりピンとこなくなりましたね。 狂気で笑いをとるのが寒くて、ホラー小説仕立てがなんとかいける。 谷間に住む不思議な一族の話「谷間の豪族」や、奇妙な味の物語「虚に住む人」と「作中の死」がまあまあ。 ポルノ版西遊記「魚籃観音記」はあおりに反して大して面白くない。 『デスデモーナの不貞』(逢坂剛)。 これもはずれ。 女性バーテンダーまりえのバーに出没する怪しい客たちがからむミステリーですが、さっぱり登場人物に魅力が感じられない。 少しは酒のうんちくを期待したけれど、「れもんはーと」にきっぱり負けてますね。 この二つ以外にも、この週読んだ本ははずれが多かった。 大家の名前で買うのはよそうと思いました。 |
© 工藤龍大