お気楽読書日記: 9月

作成 工藤龍大

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9月

9月28日

『読書力をつける』(阿部謹也)と『古書を旅する』(山下武)を読みました。

どちらもテーマに惹かれて読み始め、あっというまに読み終えてしまいました。
阿部氏の方は主張をストレートに出さず、該博な知識を説明しながら、読者に「悟れ」という書きかたで、品格と目のつけどころは買うものの、なんとなく食いたりない。

率直にいえば、身振りという固有文化を失い、ヨーロッパから輸入した「教養主義」もなくなった若い人々に、「生きる知恵を身につけるには自分の頭で考えなさい」と諭しているのだから、一歩踏み込んだ知恵を授けてくれるわけではない。
頭の良い子はわかりなさいというさりげないスタンスを魅力的と思うか、気取りすぎと思うかは主観の問題です。
このあたりが網野善彦氏や石井進氏のような日本史の熱血派にくらべて、西洋史がぱっとしない理由です。

山下氏のほうは、古書の薀蓄をひろうしてくれる、ちょっと意地悪なじいさんの魅力。

博文館(!)の海外推理小説雑誌、東京の神楽坂の文人たち、白系ロシア人作家ニコライ・バイコフ(名作『偉大なる王』の作者)の消息、ソビエトで行方不明の大庭柯公の最期など、数寄者にはよだれがでそうな話がいっぱいでありながら、いっぽうで売れている古本作家某氏(だれかはすぐわかります)に対する毒舌や、世の中にのさばるものへの老人力的な反骨が鼻につく。

面白いけれど、癖がつよい。
こういうのは珍味と呼ぶしかありません。
でも、毒にも薬にもならないのはよりはずっとよい。

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9月23日

『重耳』(宮城谷昌光)を再読しています。

なぜかこの本を読みにくかった。
一読したが、なぜか腑に落ちない。
しばし時間をおいて再挑戦しました。

珍しくノートをとりながら、読みました。
重耳とは、もちろん春秋の覇者、晋の文公のことです。
春秋の超大国、晋は戦国時代に韓、魏、趙の三国に分裂します。
戦国時代の韓、魏、趙については、他の宮城谷作品にもよく登場します。
この三国は晋の重臣たちが国をのっとって、分割したものです。その重臣たちの先祖は文公の時代に活躍したものたち。
つまり、重耳の股肱の臣たちです。

それを知っているから、安心して読めなかったともいえる。
つまり、晋の文公の子孫が、家臣の子孫にいためつけられるのを知っているから。

ひるがえってみれば、晋という国は重耳の祖父が分家の身でありながら、宗家を滅ぼして統一した国でした。
その国が最後には家臣に奪われる。

国家や家系に禍福をもたらす「徳」をいかにみにつけるか−−宮城谷さんの春秋戦国ものは「王道」政治(マキャベリズムとは対極にある)の理想をみすえようとしていると思います。

しかし、『重耳』に関しては、重耳の「王道」がみえてこない。
『孟嘗君』や『晏子』、さらには『楽毅』のようにすんなりと入り込めない。

むしろ脇役の秦の穆公(任好)のほうが大器にみえる。

再読してみても、まだ重耳という人はわかりません。
主人公よりも、わずかにしか登場しない賤臣の介子推の心術に、魅力を感じます。
これについては、子推がタイトル・ロールの小説があるので、そちらを読んでみるつもりです。

「かんたんにわかる人間はだめだ」という、重耳の師、卜偃の言葉を慰めとしながら。

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9月21日

『生きがいについて』(神谷美恵子)を読みました。

津田塾を出て、ハーバード大学院で古代ギリシア語を専攻し、医師・精神科医となったこの人の本を読んだのは今回が初めて。

この人の訳業には岩波文庫の『自省録』(マルクス・アウレリウス)もある。
あまりの才媛ぶりに、ひるんでいたのは確かです。

他の本をひもとくと、この人はフランス語でものを考え、日本語よりもフランス語の書物を読みこなした海外帰国子女だと分かりました。
とはいえ、ギリシア語、ラテン語をこなし、アメリカの大学で医師、精神科医となるのは尋常ではない。

ただし、率直な感想をいえば、二十代に読んでおけば良かったと思います。
引用された西洋哲学者や西洋文学者、そしてらい病患者の人々の言葉からうかがえる「命あるものは存在しているだけで尊ばれるべきもの」という神谷さんの思想は、東洋や日本の心性(宗教的信条)そのもの。
そういってしまえば身も蓋もないけれど、神谷さんの『生きがいについて』は東洋にシンパシーをもつ西洋人が書いた本のような印象があります。
文章も、上質の翻訳という感じがある。発想に外国語があって、それを日本語に直しているとでもいったような。

わたしは外国語を日本語にする仕事をしているので、神谷さんの文章にそういう過程をへた微香を嗅ぎ取れるのです。

この人はフランス語、英語、ギリシア語、ラテン語の印欧語の世界と、日本語の二つの世界を生きていたと思います。
二つの世界に引き裂かれながら、普遍を求める生き方。
神谷さんはそのような生をみごとに生き抜いた先達です。

これは何も外国語と日本語という枠組みに限らない。
成長しようとするいのちは、かならず押しとどめようとする障害にあう。
障害というか、壁というか、避けようもないそうしたものを破る「普遍」的なちからはあるのだと神谷さんはいう。

この人の他の本を読んでみたいと思います。

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9月15日

14日の日記の補足を。

「古今和歌集」の仮名序(漢文ではない序文)では、和歌の父母という歌が二首紹介されています。

一つは、仁徳天皇が皇太子時代に、王仁(日本に漢字を伝えた人)が読んだという「難波津」のうた。

「難波津に咲くやこの花、冬ごもり今は春べと、
         咲くや この花」

渡来人の王仁が和歌を読んだとは−−
しかも、これが日本の和歌の父と呼ばれている......

朝鮮半島が日本文化の故郷というより、半島と日本列島が異文化とはいえひとつの「世界」だったというイメージがいよいよ強くなります。

現代の日本とアメリカを考えてみればいい。互いに影響しあって、いまでは英語と日本語という異なる言語で分かれているとはいえ、価値観まで似てきた。
これと同じことが、古代でおきていた証拠です。

和歌(やまとうた)の母というのが、采女(うねめ)という女官に属する女性が詠んだうた。残念ながら、この女性の名前は伝わっていません。

「安積山影さえ見ゆる山の井の
          浅き心をわが思わなくに」

奈良、平安時代にはどちらの歌も常識で、知らない人はいないことになっている。
難波津の歌は、前にも書いたように、「いろは歌」が広まる前はこれで文字を覚えたそうです。

仁徳天皇は、応神天皇の子どもで兄弟の菟道稚郎子と大王位を譲り合い、応神天皇の死後、三年近く空位が続き、ついに菟道稚郎子が位を譲るために自殺する。
その翌年、仁徳天皇が即位します。

一説では、応神天皇は実在の人物ではなく、河内王朝と呼ばれる仁徳以降の大王家の祖先神だったという説もある。
十六代天皇の仁徳が実在の最初の大王(あえて天皇とはいわないけれど)で、皇太子時代が長かったという伝説は王朝創業の苦難を暗示しているのかもしれません。

河内王朝は倭の五王として中国南朝と交流した政権なので、朝鮮半島人(当時は日本民族が未成立だったように、朝鮮民族も成立していないので、このように呼びます)や中国系のブレーンも相当数かかえていたはず。

それを考えれば、日本に漢字を伝えた王仁が即位をすすめて歌を詠んだというのは、最初に書いた文化的交流の証拠といより、隠された歴史を伝える稗史(口碑)と考えるべきかもしれません。

河内王朝は武烈天皇で断絶し、いまの天皇家につながる継体天皇の越前王朝が大王となったのだから、河内王朝の歴史は口碑でしか残らなかった−−と思います。

安積山の歌は、葛城王(かづらきのおおきみ)という王族が、陸奥の国へいったとき、国司の接待にへそをまげた。
そこで、もと大和朝廷に女官(采女)として仕えて、いまは陸奥にいる女性がこの歌を詠んで王族の機嫌をとりむすんだ。

采女という女官は地方豪族の子女が天皇の身の回りの世話と夜伽をするために差し出されたので、この女性は陸奥の出身で国司の身内だったに違いない。
当時の国司は地方豪族がそのまま任じられていたので、たぶん間違いないでしょう。

「みやびたる娘子」という美女が、(采女は天皇の喜び組なので美形でないとつとまらないのです)左手に杯をささげ、右手に水をもち、葛城王の膝をたたいて、この歌を詠んだ。すると、葛城王は機嫌をなおして、終日酒を楽しんだそうです。

「うた」の効用というものですね。
それとも「接待道」の基本というべきか。

やまと歌は、日本の謎そのものです。

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9月14日

こむずかしい内容がかけないのが、最近の読書日記の傾向です。
健康と時間の二重苦ではさすがの鉄人読書家もへこたれます。
読むのがやっとで、キーボードに打ち込むのは骨です。

このごろ何を読んでいるかというと、「唯識思想」という仏教思想の解説書です。ユングの深層心理学よりははるかに深遠で、トランスパーソナル心理学よりも込み入っている。読みこなすだけで荷が重く、これをねたに読書日記なんていよいよ無理な感じです。

いつかネタにしようと思った考古学関係にニュースさえ書く根気がない。
今日はざっと簡単に書くことにします。

一件は、奈良時代の土器に万葉かなの練習に使われた和歌(難波津の歌)が筆ならしに書いてあったというもの。
奈良時代は、中国文化の輸入時代で少なくとも平城京の官人の生活は、同時代の中国の役人と似ていて、なんとなくイメージしやすい。
平安京の役人は貴族のほうがわかるけれど、役人の仕事振りはイメージしにくいうらみがあります。

現代のサラリーマンにしてみれば、平城京のほうが親しみやすいようです。
この難波津の歌とは、「難波津に咲くやこの花冬こもり今は春べと咲くやこの花」というもの。
万葉仮名では、「奈尓皮ツ尓佐久矢己乃波奈泊留己母利異真波ゝ留部止佐久矢己乃波奈」と書くようです。

二件目は、朝日新聞の「転換古代史・新たな弥生像」。
弥生時代の開始期が通説から500年さかのぼった新発見で、渡来人が大挙、日本列島に侵入し、縄文人を駆逐したという従来の説があやしくなったとか。

どうやら渡来人から平和的に稲作文化を吸収して、縄文人がゆるやかに混血を繰り返して弥生人になったらしい。

いままでの人骨の復元図をみると、縄文人はアイヌ民族、弥生人は朝鮮民族そのものです。
いまの平均的な日本人の顔は古墳時代から出現してきます。

縄文人と渡来人(これは朝鮮半島人と朝鮮半島に移住した中国系住民)が弥生人となり、古墳時代人になるには、戦乱よりも平和的な遷移を考えた方がよいとわかって、少しだけ驚くと同時に大いにほっとしました。

いままでのイメージだと、渡来人=インベーダーの弥生人と、縄文人が血まみれの戦争をやって、勝ったインベーダーが縄文人の女を強姦して、日本人ができたということでしたから。

渡来人たちも、中国の戦国時代の戦乱をのがれ、朝鮮半島や日本列島にやってきた。それはいいけれど、戦争馴れしているかれらは、移住地で捨てたはずの武器を洗練させて、朝鮮半島や日本列島原住民を殺し、奴隷にして、女を犯したという、日本人だけでなく、朝鮮半島人にも不名誉な歴史があったとされてきました。

専門家ではまだそちらの侵略・強姦説の勇ましさのほうが人気があるようですが、違うんだという意見もでてきて、わたしとしてはうれしい。

戦争だけが歴史の進歩のあかしという悲史は、いいかげんこの世紀で終わりしたいですね。

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9月13日

本日のお題は、『音読・暗唱 愛と夢の英詩集』(出口保夫+斎藤貴子)。

その前に余談を少しばかり。
英米では、聖書やシェークスピアが若者たちに敬遠されています。
日本の若い世代の「日本語デバイド」みたいな現象が、アメリカやイギリスでは英語で起きています。

頭が良い若者は、イスラムの修行者(スーフィー)の語録などを読んでいる。
いまさらシェークスピアや聖書でもない。

そんな時代に、18世紀や19世紀の英語の詩を読むことに何の意味があるだろう。
いや、そもそも外国人が英語聖書やシェークスピアを読む必要があるのだろうか。

−−という疑問は当然であり、古い海外文学に興味をもつ人がいなくなり、実用英語だけが花盛りの昨今となっています。
「教養」という言葉が死語になりつつあるせいでもある。

しかし−−言語、文学、歴史からなる「教養」なるものが、社会倫理の土台だという事実は無視できません。
「倫理」は法律からではなく、心情から生まれるもので、母胎である心情は陶冶されない限り、頽廃する一方になる。現代商業文明では、目の前にある享楽に没入するだけで消耗してゆく人生がまっている。
そのいい例が、電車でマナー喪失状態の五十代、六十代。
明治、大正の世代が社会の表舞台から消えたあとに残ったノン・ルールの戦中、戦後世代の高齢者です。

たとえ、アメリカ人やイギリス人の若者が、18世紀の英詩に興味を失ったとしても、外国人であるがゆえに、わたしたち日本の英語学習者はそれを知るに越したことはない。

異文化に対する敬意なくしては、外国語を学ぶことが条件反射のみで生き、浅薄で思考力の欠損した人間を作ることになる。

言語、文学を「学ぶ」ということは、本来大きな楽しみです。
いやいやはじめたはずの勉強が「楽しみ」に変わらない限り、外国語は習得できない。なによりも楽しみことが大切です。

『英語達人列伝』に登場する英語の神さまたちも、何よりも英語を楽しんでいる。
同書には登場しなかったけれど、評論家の吉田健一も英語達人(この人はフランス語も達人)の一人だった。吉田はわずかな英国留学の期間をのぞけば国内でおびただしい英書に親しんだおかげで、達人となった。

「英語の達人」とは、実用英語の教育者というわけではないようです。
英語という言葉を使って、人を感動させ、動かすことができた人。つまり、英語の言霊を使いこなせた人をさすらしい。

言霊の本質は、「詩」です。
日本語の言霊が、和歌や詩に結晶されているように、英語の言霊も”poem”です。
Time やNewsWeek のような一般的週刊誌であっても、英詩の常識を知らないと見出しの面白さはわかりません。

それにしても、音読と暗誦を目的として集められた『愛と夢の英詩集』という文庫版のアンソロジーにはすてきな言霊が詰まっています。

"O my love's like a red, red rose"
(愛しい人は赤い薔薇の花)

こういう句は、洒落や冗談でいくらも使えそう。たとえ英語版親父ギャグでもいいじゃないか。駄洒落は、言葉遊びの基本です。これさえつきあえないと頭は死にます。

"And I will love thee still, my dear,
Till a' the see gang dry."
(ずっと君を愛しているよ、海が涸れ世界が終わるそのときまで)

これなんかも、応用範囲がひろそう。(笑)
"And I will love thee still, my dear,
While the sand o' life run."
(砂時計をこぼれてゆく命の限り)

これなんか下みたいに書き換えるとどうでしょう。
"And I will be consumed by the comnapy, "
While the sand o' life run."

ロマン派の名詩をねたに、英語でしょうもないフレーズを考えています。
これがもしかしたら、文学の効用なのかもしれませんね。

おしまいは、シェークスピアの詩から引用をひとつ。
"So long as men can breathe,or eyes can see,
So long lives this, and this gives life to thee."

(人の息がつづく限り、人の目がみえるかぎり
この詩歌はいき続け、あなたに生命を与えてくれよう。)

追記:
この詩は、シェークスピアが経済的保護者だった若き伯爵にささげたものです。
あなた(thee)と呼ばれているのが、青年伯爵だったあたりにただならぬものを感じます。

「わたしはあなたを夏の日と比べようか
あなたはもっと愛らしく、穏やかだ」

「あなたの永遠の夏はおとろえることなく
あなたはその美しさを失うことはない」

−−という詩句を、青年貴族に捧げる沙翁は、やっぱり「まるほ」の人だったのかも。

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9月 7日

『古代史の真相』(黒岩重吾)を読んでいます。

病気療養という名目で早く帰れるようになったはずが、最近ごたごた続きでまた帰りが遅くなっています。

プライベートではなくて、社内の諸問題というやつです。

おかげで、本を読む時間がとれなくて困っています。
いまでは、通勤電車でAFNのラジオ放送を聞きながら、英語版ニューズウィークを読むのが唯一の娯楽。そもそもテレビをみる時間がないので、衛星放送もいれていない。

英語で社内のごたごたから逃避してます。

それにしても、四十代になってからというもの家でテレビをみるなんて、ほとんどなし。
情報はネットでとるから別に困ったことはないけれど、芸能関係はうとくなりました。

話が脱線してしまいました。(笑)

黒岩重吾の古代ものはいつか読もうと思っているうちに、ご本人が物故してしまった。
それが心残りです。

本書は、つれづれに手にとったエッセイですが、古代への薀蓄と思いがあふれ、なかなか読み応えがあります。

古代史は考古学的発見でたちまち塗り変わるために、情報の劣化がすさまじい。
ドッグ・イヤーのIT関係なみです。
一時代を画した松本清張の本はいまや読めなくなりました。

黒岩古代史も、あと数年で劣化してしまう恐れがある。
著者の物故が惜しいと思うのは、それを本人が軌道修正する可能性がなくなったためです。

まだほんの少ししか読んでいませんが、大和朝廷には古代朝鮮との人的交流が色濃く影を落としている事実を、記紀から引いてくるあたりは興味深い。

日本書紀には古代朝鮮半島情勢がわずらわしいほどでてきます。
これは、日本が朝鮮から文化を教わったというより、朝鮮半島と日本列島が政治権力闘争の世界では、ひとつのフィールドだったためです。
現代の民族主義、国境主義で、朝鮮半島と日本列島を考えるのは、大きな錯誤でしょう。

「日本とは何か」を考えるうえで、古代ははずせない。それには、隣国の感情的な民族主義に染まらないように、息を整えてかからないといけない−−というのが、素直な感想です。

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9月 6日

『アレクサンドロス大王と東西文明の交流』展へ行ってきました。

今回の展示は、ギリシア美術に表現された神々がガンダーラ地方をへて、日本の仏像に変化した−−という田辺勝美氏の学説に沿ったものでした。

図像的になるほどと思うことは多いけれど、もともとパキスタンのあたりは印欧語族に属する民族がいて、神話学的には同系統のギリシアと関係がある。
だから、ヘレニズムを取り入れたとはいえ、ガンダーラ美術をすべてギリシアの派生物みたいに説明されると釈然としません。

ひるがえっていえば、ギリシア美術の造形が、アナトリアやエジプトを源流としていることは一目瞭然なので、こうした地方を包含するペルシア帝国の旧領土へギリシア文化が流入したのは逆輸入なのではないかと思います。

考えれば考えるほど、ニワトリが先か卵が先かという議論に迷い込みそうなテーマであることは逆説的に輸入と逆輸入がメビウスの輪状態になっている実態を証明しているとさえいえるでしょう。

本展示のテーマとは違うのですが、個人的に興味深かったのは、大乗仏教はガンダーラあたりで発生したことがますますはっきりしてきたことです。

この数年、倶舎、唯識、中観、華厳、天台、浄土と仏教の思想を調べています。
大乗仏教には「商業の思想」とでもいうべきものがあるような気がしてきました。

大乗経典というのはどこか似ている。あえて共通項を挙げると、集会、討論、対話、契約、法、交換、旅、財物、寄付、数の計算、数の比喩というようなメタファーが思い浮かびます。

これをよくよく考えてみれば、遠隔地交易が連想されます。

ガンダーラ地方で、大乗仏教の檀那(経済的パトロン)となったのは、遊牧民族のクシャン人でした。かれらはもともと遊牧民だったのが、アレクサンドロス大王が築いた植民都市の文化に影響されて、都市を作り、商業民族となりました。

もともと南伝の小乗仏教に近かった仏教は、クシャン人に受容されることで大乗仏教へ変化したようです。

商業は人間の働きを良くします。
それだけでなく、人と人の信頼を育み、約束、契約といった観念を発達させる。さらに並行して倫理的な反省力も発達する。

商業民族となった元の遊牧民は、旧来の略奪者、侵略者でとどまることができなくなった−−と思われます。
もともとは敵を皆殺しにすることになんの倫理的拘束もなかったのに、なまじ貨幣をもち、数を計算し、契約して信頼関係を築きはじめるにつけ、殺戮に良心がとがめ、未来に不安をもつようになってしまった。つまり、豊かになり、人間らしくなったので、倫理と魂の平安が必要になった。

そこへ入っていったのが、心理分析と倫理規範にすぐれ、民族・種族をこえた超越者をもつ仏教だった。

当時そこにいた仏教者には、いまでは名前がつたわらない天才たちが出現しました。
かれらは現地の神格を受容し、仏教の護法神に変え、ついには宗教専門家だけではなく、俗人のまま魂の平安にいたる道を考え出した。

似たようなことは、原始キリスト教団や原始イスラム教でも起きました。
やがては専門化至上主義になるとはいえ、世界宗教と呼ばれる三宗教が同じ俗人主義から出発するのは、「商業」の発達と無関係ではないようです。

世界宗教があらわれる前の古代宗教は、同じ先祖をもつ氏族だけの神を尊ぶので、万人の神というものはないのです。

貨幣という普遍性が世界史に登場した場所でこそ、普遍宗教が誕生したといえます。

それにしても、大量殺戮者、侵略者だった遊牧民が仏教を受け入れるまでに、どれだけの苦痛を味わわねばなかなかったことか。
かれらの苦痛こそが、大乗仏教の慈悲の思想へと変容したのではないか。

ヘレニズムの意匠をとりいれた中央アジアの神々が、ブッダをとりかこむガンダーラ美術の造形をみるにつけ、クシャン人の絶望と希望が生々しいものとして感じられました。

「贖(あがな)い」とは、こういうことなんでしょうね。

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