お気楽読書日記:10月

作成 工藤龍大

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10月

10月27日

ずいぶん前に読書日記に書くことを予告していながら、書いていない本について、今日は書きます。
題名は、『失敗の本質−日本軍の組織論的研究』(戸部・寺本・鎌田・杉之尾・村井・野中 共著)。

以前、評判になった本が中公文庫になったので、遅まきながら読みました。

読んでから、ほんとうに暗澹とした気持ちになりました。
というのも、気鋭の政治・軍事史学者がつきとめた日本軍の組織は、じつは戦後の日本企業の風土そのものだとわかったからです。

日本軍の破滅は、司馬遼太郎さんが主張していたような日露戦後の軍人の「堕落」にあったわけではなかった。
むしろ、第一線の創意工夫、意外なほど下克上的かつ村型民主主義ともいうべき士官・下士官主導の権力構造など、戦後日本の行動成長をささえた「男たちのドラマ」的な匂いが濃厚なのです。

ノモンハン事件でいたわりあい、熱い友情を育んだ男たちが、この無謀な戦闘を引き起こした参謀と司令官という要職にありながら、なんの処罰もうけず、対米戦争という戦前の日本を破滅に追い込んだ戦争へ、ふたたび国家を導いてゆく不思議。
こんな熱い男たちがいっぱいがんばって、日本帝国は破滅した。

なのに、組織の中核にあった「男たち」は、戦後日本では政財界、官界のトップにのし上った。

このことは、エリートだった彼らだけで完結しない。

軍隊で上昇志向の強いなりあがりだけでなく、現場の創意工夫に上層部がひきずられた構図は、戦後日本の経済界のサクセス・ストーリーそのもの。

つまり、戦前と戦後の日本の成功も失敗も、同じコインの裏と表。
じつは、まったくおんなじものだった!

これはわたしの妄想ですが、司馬遼太郎さんが資料を集めながら、ついにノモンハン事件を小説化できなかったのは、同じ理由ではないでしょうか。
明治維新、日露戦争というサクセス・ストーリーを生んだのと同じ「日本社会の仕組み」が、ノモンハン事件や太平洋戦争を必然としてしまう。
国民作家という、考えてみれば気の毒な十字架を負わされた司馬さんには、その事実を暴露することは耐えられなかったのでは。

また、同じ「仕組み」が今度は土地投機による国土と人心の破壊を遂行しつつあるとき、司馬さんに出来たことは21世紀を生きる子どもたちに希望を語ることしかなかったのかもしれない。

日本型の組織は、外国にお手本がある変革期では非常なちからを発揮するけれど、自分で価値を創造することはまずできず、みずから安定期に突入するとすさまじい非効率と無能を発揮する。

自分で価値を作ることが非常に不得手な、安定志向の組織を、わたしたちは作りたがる傾向があるらしい。
逆に、自分で価値を作り出すひとには冷たい社会なんです。どこだって、人間の社会は同じだけれど、価値創造者にメリットを与えたほうが良いと気づいた社会は繁栄します。

そんなことができるのは、歴史的時間としても、ごく短いことは確かですが。
たとえば、ルネサンス時代のイタリアや、いまのアメリカとか。

とはいえ、自分の欠点を知ることは、欠点を克服する第一歩です。
新しい価値を見出すことが苦手な社会で、お手本なしの生き方を探さなければ生き残れない。
考えてみれば、いまのわたしたちは幸福な時代にいるのかもしれません。

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10月26日

一週間遅れですが、歌舞伎観劇記です。
みたのは、『仮名手本忠臣蔵』。

出演は、勘九郎、橋之助、吉衛門、玉三郎、団十郎という当代の人気役者たち。

忠臣蔵の哀話、お軽と勘平は玉三郎と勘九郎。
名場面「一力茶屋」では、吉衛門の大星由良助、玉三郎のお軽、お軽の兄が団十郎。
以外に、団十郎が面白かった。

あまりにも有名な話なので、ストーリーを書くのもはばかれますね。

ただし、荒俣宏が脚本を書いた歌舞伎「夢の仲蔵」のメイン・ストーリーにかかわる場面をはじめて舞台でみたことは一筆しておきたいと思います。
劇中で、勘平の女房お軽が祇園へ身売りした金を、お軽の実父が懐中にして山道を急ぐ。その父を斧定九郎という山賊浪人が切り殺して奪う。

この山賊定九郎は金を奪って得意満面で見栄をきったとたんに、鉄砲で射殺される。

それだけの役なのですが、江戸時代に中村仲蔵という下っ端役者が出番の短いこの役をふくらませて、一代の人気役者となった。
その工夫が200年のあとも継承されて、ひとつの形になっている。

ほんとに短い出番で、定九郎が出てくるのは後にも先にもここだけ。
やりがいのある役が多い『仮名手本忠臣蔵』では、数少ないつまらない役なのです。

仲蔵は、それを逆手にとって、世間と戦った。

定九郎の短い出番をみながら、江戸時代の役者の魂の戦いに思いをはせて、じーんとしました。

ただ、この舞台の定九郎はつまらない。
「芸」は、魂の高さだとつくづく思いますね。

これと同じことは、団十郎にもいえる。
この人の役は、こっけいな喜劇的人物なのですが、団十郎がいると玉三郎がじつに映える。玉三郎という役者は相手役がいいと、単独で出るときの数倍のパワーを発揮しますね。

勘九郎とからんだときは精彩がなかったけれど、吉衛門や団十郎とからむと、異次元の生き物めいた華やぎがある。

団十郎はあまり好きではないけれど、「芸」をささえる魂の位の高さを感じないわけにはいかない。
舞台の『アマデウス』をみたとき、サリエリ役の幸四郎にもそれを感じました。

まだ五本の指にも満たない歌舞伎鑑賞だけど、いいものを見せてもらった至福の一夜でした。

ところで、歌舞伎座へいった日は、銀座でパレードがありました。
岩手県の江刺市から来た鹿踊りの人たちが数十名で、踊りを披露していました。

銀座らしく高級クラシック・カーや、「江戸芸かっぽれ」、ブラスバンドなんかもあったけれど、わたしは鹿おどりに感動しました。

いつか本場・岩手で本物の祭りをみなければ。

歌舞伎はみたし、鹿踊りもみることができた。
とってもハッピーな一日でした。

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10月14日

『茶の文化史−喫茶のはじまりから煎茶へ』(小川後楽、NHK人間講座テキスト)を読みました。
著者は、煎茶道小川流の家元。

ずいぶん前に、この方の煎茶の本を読んだことがあります。
煎茶道というと、日常飲んでいるだけに、イメージがわきにくい。
葉っぱを急須にいれて、ポットのお湯をそそぐだけで、どうして芸事になるのか。

ところが、「煎茶」が新鮮なボキャブラリーとして語られた時代がありました。
江戸時代中期で、頼山陽や上田秋成が活躍した時代がそれ。
この時期、「煎茶」は京都在住文化人たちのネットワークのキーワードだったのです。

四角い引き出しつきの箱に入った煎茶道具一式をたずさえて、文化人たちは自宅で気軽に煎茶の会を催した。
ただし、この会はお茶を飲むだけでいけません。
その場で書画を書いたり、和歌を読んだり、詩をひねくりださなければならない。

バブル状態の値段がついた茶器をみせびらかす抹茶の世界に、貧乏ったれの文化人が反抗したわけです。

雨月物語の作者・上田秋成は先鋭な抹茶道批判者でもありました。

(上田秋成という人は、世の中すべてが気に入らなかったらしく、なんにでも噛み付いています。嫌いなものは、抹茶だけではなかったようです。同時代人の本居宣長も大嫌いでした。)

ところで、この「煎茶」というのが純粋に日本的といえないところが面白いのです。
前日も書いたように、日本の茶は中国の嗜好に影響されつつ進化しています。

中国では元の時代に抹茶はすたれ、明の時代は煎茶が愛好されています。
なんと本場中国で抹茶の存在が忘れたころに、日本では足利義満が金閣寺を作って茶の湯を日常生活で楽しみはじめた。
並行進化というより、そうとうなタイム・ラグがありますね。

小川後楽氏によると、明や清の時代の煎茶が、日本の「煎茶道」にそのまま反映しているわけではないようです。
小川氏の研究では、広東省・福建省・台湾で盛んな工夫茶という中国茶の飲み方が「煎茶道」に似ている。
小型の茶瓶から、多数の小さな茶碗にそそぐやり方が、日本の「煎茶道」にそっくりなのだそうです。

これから考えると、鎖国時代に日中貿易が盛んだった地域で好まれた喫茶の習慣を、文化人たちが取り入れたと考えるのが正しいようです。
もっとも、すぐに日本的に変貌をとげて、オリジナルとはかなり違ってしまったとは思いますが。

文化とは、異質なるものとの遭遇によってのみ誕生する。
普遍的な事実が、茶の飲み方ひとつにもあらわれているらしい。

「喫茶」という行為が国際的なのも、当たり前の話なんですね。

ところで、喫茶という習慣がある国に根付いたおかげで、大変なことが起きたこともあります。
イギリスという泰西の野蛮国が中国茶を輸入してお茶の味をおぼえたばかりに、インドが征服され植民地化された。
国際的であることは、反面とても危険なことなのかもしれません。

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10月13日

昨日は恥ずかしいタイポをしました。
「蔵書票」を「蔵書表」と入力していました。
風邪で集中力がなくなっているんでしょう。
とにかく恥をさらしつつ、修正しました。

さて、今週も NHK の日曜美術館について。
今週は実業家・小林一三(いちぞう)の美術館を取り上げていました。
ご存知の人も多いけれど、小林一三は宝塚歌劇の創始者です。
阪急鉄道の社長として、沿線に住宅地帯を作り、電車の始発と終点に客を誘致するために梅田デパートと宝塚少女歌劇を作った。
阪神の文化・経済界にたいへんな功績を残したわけです。

戦前の財閥系財界人の茶道ブームのスターの一人でもあり、茶器・美術品のコレクターとしても有名です。

正直いって、あまり面白そうな人ではない。
日曜美術館をみたのは惰性でした。

ところが予想に反して、小林一三はずいぶん面白い人でした。
たしかに高価な茶器を買ってコレクションしたけれど、茶会が一味も二味も変わっている。

ヨーロッパ旅行で買い求めたオランダ、ポーランドの花瓶なんかを水差しに使ったりするんですね。しゃれているのは、漆塗りの木蓋をつけて一見日本風にみせてしまうところ。

イタリア、ハンガリーの陶器を茶碗にして、お茶をたてたりする。

こんな「茶の湯」は見たことがありません。

小林一三の収集品を後悔する美術館は、もともと小林の自宅でした。
そこにあつらえた茶室がまたすごい。

お手前をする座敷をステージにみたてて、宗匠と対角線上にある二辺がギャラリーとなり、椅子席となっている。
客は椅子に座ったまま、ステージ代わりの畳をテーブルに茶と菓子をいただく。

思い切った美意識です。
表千家から入った茶の湯から、独自の世界に飛躍していますね。
ただし小林の美意識だけではなく、表千家の一流茶人が設計にたずさわっている。

コロンブスの卵というか、感動ものの建物です。

こういうことを思いつく人には、外柔内剛な剛毅な精神が宿っている。
こんな人がいたんだと、ただうなるばかりです。

考えてみれば、「茶の湯」とはもともと国際的なものです。
中国文化圏に発生して、各国で独自の発展をとげた。
『茶の文化史−喫茶のはじまりから煎茶へ』(小川後楽、NHK人間講座テキスト)をみると、後漢くらいに始まった中国の茶文化が以後、唐宋時代の大発展をへて日本に輸入された来歴がわかります。
お茶のたしなみ方も、煮食から喫茶へ、団茶(茶の葉をレンガ上にかためたもの。ただし、モンゴル・チベットと今日用いられる<せん茶>とはちがう)から抹茶、煎茶と変わってゆく。それにつれて楽しみ方もずいぶんちがってくる。

最澄や空海が飲んだお茶は、まだ団茶です。
飲み方についてはよくわからないけれど、茶葉の塊を削って土瓶に入れ煮汁を飲んだようです。
平安時代の飲み方はずっとこれでしたが、院政時代にはすでにすたれたようです。

鎌倉時代になると、栄西が中国から抹茶の方法を伝える。

以後、南北朝・室町時代をへて、中国抹茶文化を輸入しつつ「茶」は権力者の遊びとして発達する。
それが独自の精神文化になるのが、戦国時代の千利休あたり。

利休の茶の湯も国際的で、フィリピンのマニラ製の痰壷が名品に化けたり、朝鮮の百姓釜の雑器が天下の至宝「井戸茶碗」に化けた。

以上くだくだ書いたのは歴史の講釈が目的ではなく、日本における「茶」とはそこらにあるものに独自の美を見出すことだったという事情を要約したかったのです。

朝鮮民族がなんの価値も見出さなかった雑器を「井戸茶碗」として珍重した日本の宗匠たちは、半島の人々には滑稽におもえたとしても、美のジャンルを創造したことに違いない。
極端なことをいえば、「井戸茶碗」は日本の美ともいえる。

その証拠に、半島や日本の名人がいくらがんばっても「井戸茶碗」はできない。
名人ががんばればがんばるほどダメという、作為を拒否しぬいた偶然にしか「井戸茶碗」は誕生できないからです。

話はいつものように脱線しまくっていますが、本題に戻ると小林の見立ては利休とその師匠たちがめざした世界そのものだということをいいたいのです。
16世紀の朝鮮やフィリピンの飯盛り茶碗や痰壷に茶器としての美があるなら、20世紀のポーランドやハンガリー、イタリアの陶器にあっても不思議は無い。

小林の気概は、地球を呑んでいた。
そんな男がいたんだなあと、ただそれだけのことを書きたかったのです。

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10月11日

『世界古本探しの旅』(朝日新聞社刊)と『蔵書票の芸術−エクスリブリスの世界』(樋田直人、淡交社)を読みました。

わたしごとですが、今年の六月に引越して大量の本を処分しました。
そのとき、つくづく思い知らされたのですが、この国では「古本」という知的財産リサイクル・システムはとっくに崩壊しています。
古い本は商品にはなりえません。現代日本では、過去50年間に出版された99パーセントの書籍は家庭用ゴミにすぎません。

書籍の値打ちを知り、それに対価を払おうとするのは、マス・マーケットにはならない小数の人だけで、99パーセントの本は新聞紙以下のゴミとなっています。

本の内容とはまったく無関係な市場原理が働いているせいです。

学生でさえ年に本を一冊も読まない人が増えた現代日本においては、これは当然のことだから、いまさらどうこう言っても仕方ない。
しかし、わたしみたいな人間にとって、いくらインターネットで情報が簡単に入手できるからといって、本がない生活は耐えがたい。
「紙」の文化を捨てることは、やっぱりできないという自分も改めて確認しました。

ただし、本が消滅しつつある現実は否定できない。
先進国としての豊かさを獲得してしまった日本においては、現代中国や韓国のように一般人が旺盛な知識欲・上昇志向をもちえないという、歴史な流れがあります。
今後、本は情報社会における上級者クラスの人々の占有物となるでしょう。
「大衆」というレベルで、「書物」が語られることはますますまれになってゆくのではないか。
すでに、マンガにさえその兆候がみられるようです。

もはや、「書物」はマンガを含めて市場原理の敗者となりつつあるようです。

そう考えると、暗澹とした気持ちになります。
しかし、そのような事態がすでに起こったにもかかわらず、「廃棄される生産財」をなんとか流通存続させるリサイクル業界があることに最近気づきました。

それは「骨董」の世界です。
市場原理から排除された消費財が大手をふるって流通している世界。
いったんゴミとなった生産物が、あらたな価値をもちえる世界。それをあえて「骨董」というなら、書籍がいきる道は「骨董品」でしかないかもしれない。

もちろん希少性がいのちの骨董業界では、100万部売れた本には値打ちはない。
そのかわり、数百部しか出版されていない方が値打ちがある。

古書業界では、すでにそういうことは常識ですが、それを一歩進めて情報よりも「美」そのもので本を評価してしまおうというのが、「骨董」としての本というアイデアです。

中身や著者なんかどうでもいい。
棚に並べたり、机に置いて美であるかどうか。
また触ったり、匂いをかいで気持ちがよいかどうか。

白洲正子さんが骨董で教えてくれたように、お道具としての快感を与えてくれる本はないものか。

『世界古本探しの旅』は、池内紀、荻野アンナ、越川芳明、野谷文昭というお歴々がウィーン、パリ、アメリカ南部、マドリードの古書店を探訪しています。
池内、野田はさすが。
読んでいるうちに、眼がくらくらしてきます。
情報としてのメディアから解脱して、ついに「骨董」に成仏した書物の凄さに、頭に血がのぼってきます。
出るのは、ため息ばかりなり......というところでしょうか。

意外だったのは、荻野アンナのパリ古書店探訪記。
こちらも凄かった。
ただし、こちらは荻野の仏文学の師匠で、パリ在住の松原秀一教授のバックアップあってのこと。
松原教授の写真で掲載されていますが、本好きなら写真を見ただけで教授が只者ではありえないことがわかるはず。

たとえ名前も知らず街ですれ違っただけであっても、その場所が書店街だとしたら、本好きならこの人に警戒心を持たずにはいられない。

なんと表現していいのかわかりませんが、「本を買うことに賭けている人間」特有の雰囲気があるんですよね。

本は面構えで買うものだということが、年々歳々わかってきます。
乏しい財布で本を買ううちに、「数寄者」(すきしゃ)という顔が作られてゆくものなんですよ。

『世界の〜』を読んだ収穫はもう一つ。
イタリア文学者の和田忠彦という、もう一人の「数寄者」を発見したことでした。

フィレンツェ、ボローニャ、ミラノ、ローマで古書籍を漁る。「漁書家」冥利につきる和田氏も、まちがいなく冥府魔道の住人に違いない。

ところで、『蔵書票の世界−エクスリブリスの世界』も、「骨董」としての本を探る重要な手がかりです。
(エクスリブスとは、ラテン語で蔵書票のこと。)

蔵書票の歴史が長い西洋には、もう一つの知の体系「紋章学」をいかした発想と美が横溢しています。
文豪シェークスピアが家紋学のエキスパートで、その蔵書票にも文豪のアイデアがつまっていたとは意外でした。

自分の本に書き込みをしたり、蔵書票を貼るなんて悪趣味だと、わたしは考えていました。
でも、いまは違います。
もう情報メディアとしての本のリサイクルなんて、どうでもいいんです。
本は道具なのだから、思いっきり自分流に愛しちゃえば良いのです。

どしどし書き込みをしよう。
蔵書票だって、PCで自分流のを自作してべたべた貼ってしまえ。
それで良いのです。
青山二郎は、岩波や新潮の文庫本のカバーをとって、勝手に自分流の装丁をしていました。筆で彩色したり、色紙をはりつけたり、自分勝手な本にしてしまった。
創元双書の伝説的な装丁家と、わたしたちでは次元が違うかもしれないけれど、いいんです。
やっちゃいましょう。

本はもはや公共財ではなく、生活財なのだから。
(ただし、図書館の本は綺麗に使おうね。)

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10月 6日

NHK の教育テレビで「日曜美術館」というのがあります。
美声のアナウンサーが、現代アートや伝統芸術を紹介する番組で、わたしは毎週みています。

今日は、物故した現代前衛書家井上有一の特集でした。

「書が空間であることを証明するために
おれの命燃やし尽くすべし」

肝臓ガンを宣告された井上は、こういって晩年の仕事に励んだ。

書いている文字を繰り返し叫びながら、じゅうたんを下敷きに、ホウキみたいな筆で、バケツの墨汁を紙にたたきつける。
ときには、うーうーとうなりながら、命をそそぎこむように書いている。

棟方志功もそうでした。

この人の書は−−読めません。
「仏」(ほとけ)という漢字があります。
井上は一字書きという手法で、巨大な紙にたった一つの漢字を書きます。

この「仏」が読めない。
そのかわり、とてつもないエネルギーの流動、結節をみる。
まるで、エネルギーの流れが、宇宙線の軌跡さながらに、紙の上に刻み込まれています。

現代の書というのは、そういうことらしいのです。

井上は、小学校、中学校の教員をしながら、書に打ち込んだ。展覧会にも、書の世界の人脈にも背をむけて、ひたすらおのれの道を歩いた。
その結果、いつも貧乏があった。
井上は、「貧」という字をやたらたくさん書いています。

番組では、「貧」という字を六十四点集めた展覧会を紹介していました。
不思議なことに、この「貧」がいやしくない。
むしろ、いろんな人物を抽象したオブジェにみえるから面白い。

「貧」の字の「貝」の部分が、人の胴体と足。
上の「分」の部分が帽子をかぶった人の顔に見えたり、屋根の下にいる人の頭部にみえたりするのです。

大きな屋根の下を太った人物が走っているようであったり、帽子をかぶったやせた人がうつむいて歩いている姿にもみえる。

漢字という文字が自前の音素を捨てて、別の音をたずさえて、見るものの前に立ち現れてくる。自前の意味さえすてて、別次元の意味をもって、現象しているのです。

不適な面構えで、カメラの向こうから睨みつける井上のポートレートをみると、思わず背筋を正してしまいました。

「おれの命燃やし尽くすべし」

この言葉は、ただの抽象ではなかったのです。
井上は東京大空襲の罹災者で、勤務していた小学校のグラウンドで一千名の避難者とともに焼死しかけた体験があります。
この体験を1970年代に、井上は巨大な紙に文字で記しました。
判読不可能で、苦悩と悲惨とエネルギーだけが横溢している作品は、「凄絶」と評するほかありません。

「おかあちゃん、おとうちゃんと叫びながら」死んだ子供たちの声、焼夷弾の炎の中から聞こえる断末魔の親子の声。あれを終生忘れることは出来ないと井上は書いています。

井上は、物理的に燃え上がった無数の人体の塊の下から、九死に一生をえて救い出されたのです。戦火で白骨となった被災者の記憶がよみがえるにつけ、井上はいのちを燃やし尽くさねばとの思いを強くしたではないか。

「命燃やし尽くすべし」と念じる井上からみると、人間はせっぱつまっています。
井上本人が貧乏だったからというわけでなく、ぎりぎりの生を生きている人間のありようを「貧」ととらえた。
「貧」という作品群が羅漢像にも似た普遍的造形性をもつにいたった秘密は、これではないかと思います。

井上の命は、人間存在そのものを空間に彫り出した「貧」の一字書きを通じて燃やし尽くされたのです。

「貧」とは、井上にあっては、人間というエネルギー系そのものでした。
宇宙という大エネルギー系のなかで、寂しいながらも、さざめきあい共鳴しあう小さなエネルギー体として、人間がある。

井上の書には、結節しわだかまる奔放なエネルギーと、優しさがあります。
このひとは、言葉の本当の意味で、謙譲な人なのです。

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10月 5日

先週は、『西行』『いまなぜ青山二郎なのか』と白洲正子さんの本を読了しました。

いまなぜ白洲正子なのか。
ひとが見えない時代だから−−ではないでしょうか。

大学、知識人というギルドが崩壊して、カウンターカルチャーのパワーが消滅した時代。「なにを美とするか」もわからない。
若者文化にすりよろうにも、そもそもいまの若者に「わかもの文化」などあるのか。

よってたつ足場もなければ、反抗する壁になりそうなものもない。

その不毛な世界にあって、青山二郎や小林秀雄という「神様」の巫女が生きていた。

アニミズム的な神様が降臨する「憑り代」みたいな、ものかもしれません。
だからこそ、白洲正子さんはますます大事になってくるのでしょう。

なぜ、いま青山二郎なのか。
生涯アイディンティを確立できなかった(つまり、生涯なにものにもならなかった)青山二郎が、ひきこもりやフリーターに親近感をおぼえる人々の「あこがれ」になっているからではないのだろうかとも思えます。

なにものでもないがゆえに、尊敬される青山二郎のような個性が許される時代でもないことは、わかってはいても.......

そうやって考えてみると、『西行』(白洲正子)に描かれた西行は、じつは白洲正子ではありえない青山二郎的だという気がします。
あれは、白洲さんが師匠にあてたラブ・レターみたいなものかもしれません。ただ、わたし個人としては、西行はどうも違うタイプのひとのように思えます。

いろいろ書きましたが、まだ白洲正子さんにとらわれています。
とうぶん、読む続けるでしょうね、きっと。

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