久しぶりに読書したという感じがします。 『名人は危うきに遊ぶ』『遊鬼』『白洲正子自伝』と三冊立て続けに読みました。 どれも白洲正子さんの本ですが、この人はたしかに面白い。 死後もアイドル的人気は静まらず、ますますファンが増えているのも道理です。 わたしもたちまちその仲間入りです。 白洲正子というと、度胸のよさ、武士の気概とか、「ものをみる眼」とかいうことになります。 まともな書き手は度胸と勇気と「自分の眼」で勝負すると思うので、白洲正子をもちあがる人々の意見にはあまり賛成できません。 白洲正子の魅力は、このひとがたぐいのない正直者だということじゃないかと思います。 白洲さんに比べると、小林秀雄でさえタヌキです。 あたまのある正直者というのは、往々にして世に隠れた「大隠」となる。 疾走感にあふれた白洲さんは、隠者になる趣味が無かったせいで、文化人どものアイドルになってしまったけれど、それはそれでよかったと思います。 おかげで、ずいぶんと白洲さんがみつけた「大隠」たちを紹介してもらえた。 文筆家としてみると、白洲さんは、骨とう品や伝統文化の大家というより、人間の発掘者です。 「ひと」を発見するということは、文学のいちばん大切な仕事だと、わたしは思います。 |
東京都立美術館で開かれている「飛鳥・藤原京展」に行ってきました。 さまざまな考古学的発見から、飛鳥地方の都が古代朝鮮のテクノロジーを導入して建設されたことはすでに国民的常識です。 そのせいでしょうか、飛鳥におかれた都には他の日本文化と異なる「石の文化」を感じます。 日本文化は縄文時代いらい、森との共生をめざした文化なので、「あすか」という穏やかな言葉の響きにはそぐわない「硬質」が、この時代の文化にはあります。 仏像も朝鮮系なせいか、印象が硬い。 金銅仏という素材や、アルカイックな様式と思っていましたが、なんとなく違うような気もします。 思想を石造彫刻や文字で表現できると信じる文化と、思想は言語では表現できないと確信する文化の違いというか、そんなものが端的にでていると思うのは、考えすぎかもしれないけれど、そのような感じが捨てきれません。 日本文化がどちらに傾いているかは、わざわざ言うまでもありません。 古代朝鮮から渡来した工人たちが作った飛鳥のみやこではありますが、この感性が古代朝鮮そのものと同じかというと、違うように思えます。 朝鮮の工芸品に比べると、なんとなく日本人好みになっているように、素人目にはみえます。 いぜん日本民藝館などでみた朝鮮の陶磁器や工芸品に感じた違和感は、感じませんでした。たしかに、作ったのは渡来した古代朝鮮の工人でしょうが、好みは「日本」なのでしょう。 いや、正確に言えば、縄文以来の感性と、弥生以後にやってきた渡来人の感性が融合して「日本」ができている。 わたしには違和感をもった仏像でさえ、懐かしさを感じる人がいても不思議ではない。 このような二重の感性こそが、日本文化の根底なんだろうという気がします。 ところで、古代朝鮮からの文化移植でできた飛鳥地方の都に比べて、藤原京は中国文化のコピーそのもの。 中国式の「皇帝」という仕組みを導入しようとした天武朝の努力の証といえるでしょう。 藤原京というのは、中国の律令制のコピーに取り組んだ天皇家の、最初の精華であり、平城京の雛型でもあります。 正確を期せば、明日香浄御原宮を引っ張り出さないといけないのでしょうが、中国をまねた官僚制度がそこそこ機能しはじめたのは、藤原京の十数年間でした。 当時は紙は貴重品なので、下っ端役人の書類には使えない。 木の札に文字を記した木簡に、円形の硯で文字をかき、書き損じは小刀でかんな屑のように薄くけずりとる。 当時の役人の執務状態が等身大の像で、再現されていたのが印象的でした。 いまも昔も日本人は変わっていない。 朝鮮を手本にしていたときは高松塚古墳の絵のように、古代朝鮮の装束をつけ、中国をまねるときは役人や貴族も中国風の衣装をつける。 支配階級は、お手本そっくりに真似します。 白洲正子さんの自伝を読むと、明治維新後の元勲たちが子供を海外へ留学させて、アメリカ・ヨーロッパの文化を身につけさせたことがよくわかります。 明治維新で同輩の首を叩き切った薩摩武士の息子が、臨終の床で意識もうろうとなったとき、口から出るのは英語のうわごとだけだったというエピソードがありました。 この国のリーダーたちは、そうやって必死になって、けなげにお手本の外国を身につけたのだなと、等身大の役人像や貴族一家の衣装像をみて、すこし感動しました。 やっていることがすべて良いわけではないけれど、この国の人々はいつも一生懸命だった。 そのことだけは大切にしたいと思うのは、学者や評論家にいわせると、結果よりもプロセスに情緒反応する日本文化の癖らしいのですが、それでいいんじゃないかと思います。 勝つこともあれば、負けることもある。 プロセスを大事にしないで、結果だけを評価する社会は古代でもありました。 15世紀まで存続したビザンツ帝国ですが、貧乏くじをあえてひく人間をあざ笑い、勝者が総取りするとてつもなく非人情な社会だったそうです。 あまり立派とは思えない遺跡があるだけの藤原京ですが、この国のありかたを改めて感じさせてもらいました。 |
久しぶりの読書日記です。 このごろの忙しさときたら、もうお話にもなりません。 わたしはもう死んでいる♪ 読書日記の更新どころじゃありません。 さて、本日取り上げるのは『沈黙のファイル−「瀬島龍三」とは何だったのか』です。 編著者は、共同通信社社会部。 平成八年に同社から出たのを新潮文庫が収録しました。 「瀬島龍三」とは何ものか。 元大本営参謀として、三十歳で対米戦争の頭脳的中枢となったエリート。 十一年間のシベリア抑留をへて、伊藤忠に入社。 インドネシアと韓国への賠償金を、商社としてビジネスに仕立て上げた中心人物。 第二次防衛力整備計画では、バッジ・システム売り込みに成功して伊藤忠に巨額な利益をもたらす。 十年で同社専務、二十年で会長。 中曽根政権以後の政界のフィクサー。 まるでマンガみたいな経歴だけど、嘘偽りのない現実です。 山崎豊子の『不毛地帯』のモデルという話も聞いたことがあります。 『沈黙のファイル』でも、韓国の財閥「三星グループ」総帥イ・ピョンチョル会長はそのように信じていてほれ込み、瀬島龍三が韓国で政財界のトップに接触する手助けをしたというエピソードを紹介しています。 この本の内容を紹介するのは、やめておきます。 戦後の疑獄事件や日韓政財界の癒着に新聞ダネほどのわずかな知識さえあれば、いろいろなことがどしどし分る仕掛けになっています。 瀬島龍三という人の歩いたあとを見回すと、対米参戦あたりからの日本軍の愚劣さ、終戦まぎわの軍人のイヤラシさ、戦時賠償を元手にアジアに進出した日本企業の手口、霞ヶ関と永田町のエラい人たちの生態がじわじわっとわかってくる。 いま壊れつつある戦後ニッポンを作ったのは、第二次世界大戦を指導した若きエリートたちだったのです。 そして、戦争から生還した人たちが、それと知らずに戦時中の大本営と官界のエリートたちに戦後も操られて企業戦士となった悲しい宿命さえ浮かび上がってくる。 瀬島龍三が七三一部隊の細菌兵器開発・生体実験を認可した大本営参謀のひとりだったという事実も、もっと大きな日本の悲劇に比べれば小さく思える。 シベリア抑留で苦労したと瀬島がTVインタビューで語る姿をみたことがあります。しかし、いっぽうで元大本営参謀として特別待遇を受けていたという証言もある。 共同通信社会部は、抑えた筆致ではありますが、瀬島が他人を徹底的に利用する「貴人」タイプの人間であることを描写しています。「貴人」に情無しというような側面が、たしかにあるようです。 だからといって、瀬島龍三なる個人を糾弾する意図はありません。 おそらく、共同通信社会部にもそんな気はないでしょう。 自己の行為に倫理的に責任をもたずに、有能であり続ける−−こういうタイプのエリートが活躍しつづける根強い土壌がこの国にあることを、この本は教えてくれています。 組織のロボットにすぎなかったと自己弁護したナチ・エリートを糾弾し、社会的に葬った西ドイツのような「自浄と再生の努力」を、この国は怠ってきました。 「瀬島龍三」とは何だったのか? その答えを出すことは、従来の日本社会でははばかられました。 無数のミニ「瀬島龍三」を守るために、政界がらみの収賄事件や疑獄事件では自殺者が出たのです。それが日本株式会社の仕組みだった。 戦後の日本の繁栄は、満州国と戦時統制経済で試運転済みの「日本型社会主義」(日本株式会社ともいう)の産物だったからです。 「日本型社会主義」の消滅が迫った今日、やっと「瀬島龍三」なる現象をわたしたちは問い直すことができるようになったと考えるべきでしょう。 「瀬島龍三」とは、わたしたちの嫌いな「だれも幸せにしないニッポンという仕組み」そのものなのです。 |
所用があって、京都へ行ってきました。 ついでに、山科まで足を伸ばして、紅葉と桜で有名な毘沙門堂に参詣しました。 ここのご本尊は、伝教大師最澄が手ずから彫ったという毘沙門天。 比叡山延暦寺の根本中堂にある薬師如来像の余材で作ったという伝承があります。 最澄という人は、仏像を彫るのが得意だったのか、いろんな場所に自作の仏像を残しています。 ただここの毘沙門天像もそうだけれど、お坊さんの余技とはとうてい思えない出来映えのものが多いので、個人的には少々疑っています。 もし伝承がすべて正しければ、最澄は彫刻の天才になっているはず。 あんまりそういう話も聞かないので、たぶん伝説でしょう。 ほんとうはプロの仏師の仕事だと思います。 ここのお寺の「売り」は、「晩翠園」という回遊式庭園と動く襖絵。 回遊式庭園は、TVで「癒しの庭」として取り上げられたとお寺の案内板にありました。 たしかに綺麗なお庭ではありますが、お寺の裏が運動場らしく子どもたちの嬌声が喧しい。ものさびた和清静寂の気分を味わえないのは残念でした。 門跡寺院だっただけに、品の良さが漂う山寺の雰囲気が良い。 なぜか弁天堂があり、その裏には行者さんが滝に打たれるみそぎの滝もある。 なるほど、天部をお祭りするお寺だけあって、設備が整っているなと妙に感心しました。 このお寺のもう一つの名物は、動く襖絵。 逆遠近法という手法を使って、一枚の絵がみる角度によって違ってみえる。 この手法は、日本画には伝統的に継承されているようです。 たとえば霊殿の天井の竜は、見る角度によって頭の向きが違う。 狩野派の絵師が書いた襖絵の机は、移動しながら見ると、正方形・長方形・ひし形に変形する。 丸山応挙が書いた鯉の扉絵は、絵の左右を動くとそれについて動くようにみえる。 ただぽかんと見ただけではなかなか分りません。 庫裏をせっせと雑巾掛けしていた年配のお坊さんが親切に教えてくれたおかげで、わかった次第。 もし教わらなかったら、何がなんだかわからなかったはずです。 お寺を拝観して嬉しいのは、寺宝に値打ちを教えてくれるお坊さんに出会うことですね。 御本尊の名前も知らない人にあうと、がっかりします。 山科の毘沙門堂は桜と紅葉のときは、知るひとぞしる場所らしいのですが、それを除くと物寂びたゆかしいお寺です。 前回は中に入れなかったけれど、外から立派な仁王門と勅使門を拝見して、うーんとうなってしまった。 ここもわたしのお気に入りのお寺です。 山科はこれで二度ほど行ったことになります。 一度目は、志賀直哉旧宅跡を探し、大石内蔵助ゆかりの和菓子屋で「義士餅」を買って食べました。 今度も、義士餅と良雄最中を買って自宅でむさぼり食べています。 良雄とはもちろん、大石内蔵助の名乗り(本名)です。 柚子餡と小豆餡を組み合わせたもの、小豆餡だけのものと二種類がセットです。 ちなみに、義士餅は普通の餅と黄粉をまぶしたもののセットです。 セット販売というのが、関西の商売の基本なんでしょうか。 ところで、今回も食べ物では運が良かった。 堀部安兵衛の子孫がやっているという蕎麦屋が、毘沙門堂のすぐ下にあり、そこで一献をかたむけつつ、天ぷらと手打ち蕎麦をやってきました。 「桃の滴」という辛口の純米吟醸酒が秀逸だったのが発見でした。 (あんまり気に入ったので、京都駅で土産にしてしまいました。ただし、だれに配るわけでもなくむさぼり飲んでしまったけれど)。 それよりも、素晴らしかったのは天ぷらですね。 天ぷらというのは、難しい料理で、銀座で有名なところでもあまり美味くない。 わたしなんぞが入れない高級店なら、きっと美味いところもあるんでしょうが。 このお店で食べた天ぷらほど美味いのにはあたったことがない。 味も火のとおりも、衣の薄さ、油の品の良さも絶品。 天ぷらの油と衣についてだけは、わたしは断然関西を指示します。 といっても、大阪じゃなくて京都ですけど。 山気漂うお蕎麦屋で、美酒を傾けつつ、池の鯉を眺めて天ぷらを齧りつつ、蕎麦を啜る。 どんどん堕落してますね、わたしは。 |
幕張メッセの「恐竜博 2002」に行ってきました。 夏休みが終わったから、少しは空いているかと思っていましたが、見通しは甘かった。 1時半についてみると、入場待ち時間は1時間半とアナウンスされていました。 メッセのドームの外まで行列が並び、来場者はみんな諦め顔。 せっかく来たのだから、引き返すわけにもいかず、じっと辛抱して並びました。 それでも、40分くらいで入場できました。 会場は広かったけれど、それ以上に来場者がいたので、冷房もきかない暑さ。 遅々として列はすすまず、いちおう展示物すべてをみるのに4時半くらいまでかかってしまった。 ただ、入場時間が午後4時半で終わりなので、それから後はのんびりと見物できました。 巨大画面のCG映像を、たった一人で見たりして、豪華な気分でした。 今回の目玉は、巨大恐竜「セイスモサウルス」。 四足歩行で、長い首の竜脚類が、全長35メートルの「セイスモサウルス」を筆頭に、ディプロドクス、ダトウサウルス、シュノサウルス、マメンチサウルス(アジア最大の恐竜)、クンミンゴサウルス、クラメリサウルスと並んでいる会場は圧巻でした。 アフリカの恐竜を集めたコーナーでは、巨大なジョバリア(全長21メートル)を始めとして、珍しいアフリカの大型恐竜が並んでいたのが嬉しい。 アフリカ産の肉食恐竜なんてなかなか見られるものじゃない。 北米産のティラノザウルスや、アロサウルスは見飽きるくらいですけれど。 さらに恐竜ファンに嬉しいのは、恐竜=鳥類説の証拠となる中国産の羽毛恐竜の化石と、復元モデル。 「中華竜鳥」「尾羽竜」「中国鳥竜」「孔子鳥」の実物化石を見た! −−といっても、恐竜に興味がないと「なんのこっちゃ」になってしまいますが、恐竜ファンにはくらくらきます。 かれらは、恐竜=鳥類説の重要証人(?)なのです。 復元モデルは、ほとんど飛べない鳥みたいな形態になっていたので、せんべい状の化石から「どうしてこうなるの?」という声があちこちであがっていました。 ただこちらとしては、無性に嬉しいだけなので、批判精神はゼロ。 ひたすら「ふーん」と感心するだけでした。 それにしても、人が多かった。 日本人以外にもいろいろな国の人がいましたね。 若いドイツ人のお父さんが幼い女の子を肩車していました。 聞くともなしに、親子のドイツ語会話を聞いていると、女の子は「まぁた、骨かあ」とふくれている。お父さんはその声には答えず、後ろで赤ん坊をだっこしている妻に「重くないかい」と聞く。 妻は諦めきった声で、「これくらいなんでもない。大丈夫、大丈夫」。 民族は変われど、だいたいこんな構図ですね。 中国の人も、アフリカの人もうきうきしているのは、お父さんと男の子。 あきらめきった表情のお母さんと、うんざりした娘たち。 小学生くらいだと、まれに嬉しそうな女の子もいるけれど、20歳をこえればダメみたいですね。 結局、どこの家でも楽しみにしているのは、お父さんなんでしょうね。 平均的なお父さんたちよりも年上のわたしは、閉館時間の5時半まで会場をうろうろしながら至福の時を過ごしました。 会場には、恐竜の叫び声かジャングルの阿鼻叫喚が木霊しています。 べつにコンピュータ合成した恐竜の唸り声などではなく、お父さん、お母さんが連れてきた「野獣」たちの咆哮です。 会場のところどころにすえつけられたモニター画面のCGよりも、ジュラ紀の森林をリアルに再現してくれました。 ニッポンのお父さん、お母さん。 おつかれさまでした。 |
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