花粉症と重労働(!)と闘いつつ、二月も終わりました。 自分で重労働といってちゃ、仕方ない。(笑) この時期は、ソフトウェアの新バージョンがリリースされるなので、業界人としては仕事があって嬉しいけれど、プライベートはふっとびます。 一日一万ワードの英文を処理するので、目がくたびれてかなわない。 おまけに、花粉症で体力は蚕食されつつある。 この2月〜3月をなんとか乗り切る! これが、業界人のサバイバルです。 何度も書いたことだけど、忙しいほうが本は読める。 なにせ、本を読むことほど、いつでもどこでもできるものはない。 TV・ビデオ・映画はTV画面やスクリーンがなければだめ。 他のアクティブな趣味も、フィールドへ行かなければ不可能。 その点、本などは電車の中であれ、オフィスであれ、立ち読みであれ、どこでも出来る。 この利便性に勝てる娯楽が――他にあるんでしょうか? おかげで、忙しいながら、毎日ほぼ一冊の割合で読みました。 それについては、時間があったら書くことにします。 いよいよ明日から三月。 俳句の季語で「三月尽」(さんがつじん)というのがあります。 三月が終わるというだけの意味ですが、風情があって好きな言葉です。 だいたいこの時期で梅の開花が終わるので、次のサクラを予感させるからかもしれない。 わたしの散歩コースの新宿御苑でも、梅が満開です。 鼻水をすすりながら、梅見物をするなんて――他人からみればアホくさいでしょうが、国民病なんだから仕方ない。 それをいうなら、花粉症のクスリを飲んでおきながら、サクラ見物にかこつけて美味い日本酒を飲むのは止められない。 「三月尽」をめざして、体力を温存しつつ、サクラ大戦に備えることにします。 |
「人国記・新人国記」(岩波文庫)を読みました。 これは戦国時代以前にできた「人国記」と江戸時代初期の「新・人国記」をあわせたもの。 「人国記」の著者は不明ですが、北条時頼という説もあります。 ただし、これは伝説にすぎないようです。 この本に書かれているのは、蝦夷と琉球をのぞく日本全国の旧国ごとの人情・風俗です。とくに武士の士風に注目していて、勇敢か約束を守るかどうかについて多くの筆を費やしている。 武田信玄は、この本を愛読して、天下統一のデータとしていました。 家臣たちに重要な国については、抜書きを作らせて覚えこませていました。 さすがは信玄。 幹部教育もしっかりしている。(笑) 「人国記」の著者は、信濃の人らしく、信濃には点が高く、中国の山陰・山陽地方はぼろぼろです。 くわえて、陸奥・出羽の評価が高い。 総じて、純朴で正直な人が多い地方が好きなようで、早くから開けていて、商工業が盛んな土地は好まれない。 いってみれば、価値観の違いということでしょう。 兵士の勇敢さ、裏を書かない誠実さに重点を置いているわけだから。 「当国の風俗は、武士の風、天下一なり」 という言葉が本書の内容を端的にあらわしている。 となりの美濃も評価が高い。 「当国の風俗は人の意地綺麗にして水晶の如し」 長野県と岐阜県の人だけは、この本を読んで愉快になるでしょう。 他のいくつかの県を除くと、日本全国油断のならないうそつきや、ろくでなしばかりのようにも思える。 この本は軍政学の必須参考書だったので、人をみたら泥棒と思えという思想が根底にある。他国人といかに付き合うか、調略するか。占領したのち支配するにはどうするかを考える基礎資料なのです。 だから、日本全国の警戒すべき相手を調べている。 面白いのは、「千万人に一人二人は国風を忘れたる人もあり。口伝。」 という文章があるところ。 人の悪い、油断のならない土地で信頼できる人間を見つける方法は、軍政学の秘伝だったので、本を読んだだけでは分からない。 軍学者について勉強しなさいというあたり、商売が上手い! でも、風土や文化によって、人の気質は同じ日本人であっても、こんなに違う。 だとしたら、地球村ではどれだけ違うだろう。 国際交流や民間外交のレベルをこえて、地球村で共生してゆくには、奇麗事の旅行記や海外体験記なんかよりも、しっかりとした人の悪い観察者の「人国記」があってほしい。 その書き手は、実社会の担い手ではない大学の教員とか、観光誘致が目的の出版人・メディア人はふさわしくない。 実際に仕事を手がけたプロの仕事師が望ましい。 営利目的や国際公務員の仕事だけでなく、現場で汗を流したNPOやNGO関係者も良い。 そう考えてみれば、現代版「人国記」は身近にある。 インターネットそのものが、わたしたちの「人国記」なんですね。 |
思い立って、歴史散歩に出かました。 ご存知のとおり、このところ柴田宵曲の本をずっと読んでいました。 元禄や天明の頃の俳諧を読んでいるうちに、なんとなく江戸と俳諧に興味が湧きました。 そして、先週の木曜日。 やっとのことで、永井荷風の『下谷叢話』を読了。 漢詩とカタカナ混じりの読み下し漢文を切り張りしたこの本はヘビーだった! 読むのに一週間以上もかかってしまった。 自称・鉄人読書家も看板を下ろそうか。 このHPも閉鎖しようか――と迷うほどつらかった。 はっきりいって、面白くなかった。 荷風という人には、評伝を書くのは無理だったんですね。 評伝というのは、対照に自分の存在そのままをぶつけていくところが生命。 だから、相手が横綱角力して受けてたつだけの器量がないと、電子顕微鏡をミジンコの観察日記に使うようなもの。 荷風が狙った大沼枕山とか、外祖父の鷲津毅堂は、荷風本人と比べてさえ、魅力ある人間とはおもえない。 しかも荷風はいつもとおりに、物好きな傍観者の立場を堅持している。 これで面白い――わけがない。 とはいえ、荷風の筆力なんでしょうね、いつのまにか江戸の漢詩人の世界に引き込まれた。そうなると、自分の足で江戸の跡を歩いてみたくなる。 ただし、荷風の『下谷叢話』の世界はとっくにビル街に埋もれて、旧跡などはなにもない。 話は変わるけれど、鴎外の家・観潮楼のある本本郷のあたりからは昔は海が見えたらしい。 いまじゃあ透視能力でもないかぎり無理でしょう、あそこから海を見るのは。 それほど変わり果てている。 戦略を変えて選んだのが、芭蕉を訪ねる小ツアー。 ちょうど岩波文庫の『蕉門名歌句選』(上下)と『俳家奇人伝・続俳家奇人伝』を手に入れたことでもあり、芭蕉がちょっとしたマイブームになりつつあったのです。 まず出かけたのは、有楽町線の護国寺駅。 ここから歩いて、「関口芭蕉庵」へ出かけた。 椿山荘の裏にある小さな庭園で、句会を開く建物があるだけでした。 ただし、散歩のお供のガイドブックには、書いていなかったけれど、ここは0時半からしか入れない。 正午くらいに着いたので、時間つぶしに近くにある永青文庫にいってきました。 ここは日本新党を作った<お殿様>の祖父か曽祖父にあたる細川護貞氏が作った美術館。 建物は、なんと細川侯爵家の執事の事務所だったそうです。 ちょうど明清時代の文人たちの書画を展示していました。 清朝の高宗(乾隆帝)の素人ばなれした文人画を見ることができました。 こういう中国の書画を一生懸命、荷風の祖父たちは勉強していたんだなと、あらためて納得しました。妙なところで、『下谷叢話』の仇をとられた。 永青文庫で、江戸の中国趣味を満喫してから、関口芭蕉庵へ行きました。 愛想も何もない引き戸から、中へ入って見学です。 緋鯉が泳ぐ古池があって、その周囲をぐるりと歩くだけ。 たくみに樹木や石が配置してあって、狭いくせにみごとなまでに小宇宙ができあがっている。時おり聞こえる車の音さえ気にしなければ、江戸時代にタイムスリップしたみたいです。 しかし、ここに芭蕉が植えてあったのには、少し苦笑い。 なぜなら、芭蕉がここに住んでいたときは、「桃青」という名前だったはず。 芭蕉というのは、深川に移って、庵に芭蕉を植えてからの名前なのです。 いやいや、そんなことをいうと、マニアックになるからよしましょう。 どういう風に管理しているのかわからないけれど、個人がそっと見学する分にはかまわないようです。 なんとなく、立ち去り難くて、しばらく竹筒の遣り水が注ぎ込む泥池の側にたたずんでいました。 池には緋鯉がいて、餌でも欲しいのか口をぱくぱくさせていました。 わたしは鯉という魚がなんとなく好きです。 あれをみていると、時間を忘れます。 しかし、本日のツアーはこれだけでは終われない。 次の目的地は深川だ! めざすは、芭蕉庵。 関口芭蕉庵を下りて、神田川沿いの江戸川橋公園を通って有楽町線江戸川橋駅まで歩きました。 史跡指定らしい公園の立て札をみていると、芭蕉がなぜここに庵を立てていたかがわかりました。 芭蕉は若い頃、当時江戸川といったこのあたりの神田川の河川工事で技術者として働いていたいたらしい。 江戸川橋公園は若き芭蕉の職場だったのです。 江戸川橋駅からは地下鉄をのりついで、都営新宿線の森下駅へ。 ここから歩いて10分もしない場所に芭蕉記念館がある。 記念館は芭蕉が住んでいた深川芭蕉庵ではないようですが、とにかく資料を見学しようといってみた。 ただし、残念ながら芭蕉にまつわるものはほとんどなくて、明治以降の文学者の短冊や掛け軸が多い。 江戸のものとしては、与謝蕪村が屏風に書いた奥の細道の絵と書くらいでしょうか。 記念館には長居をせずに、もとの芭蕉庵へ直行しました。 ここも五分とかからなかったように思います。 小さなビルに挟まれた狭い稲荷神社がそれ。 「芭蕉稲荷神社」と赤い幟がいくつもたっている。 狭すぎて古池などがあるスペースはない。 総じていえば、関口芭蕉庵のほうが、史実ではないにせよ、よっぽど芭蕉くさい! ホントなら、ここに記念館を建てたかったのでしょうが、江東区の用地買収がうまくいかなかったらしく、現記念館の場所に建設したようです。 ただし、区の意地もみせてもらいました。 この稲荷からほんの数分の川沿いに、「芭蕉記念館分館」として「芭蕉庵史跡展望公園」というのがある。 東京のガイドブックなんかで、正座姿のブロンズ芭蕉翁が隅田河を見晴らしている写真がありますが、あれはここを撮影したもの。 ここの埋め込み式パネルの方が、芭蕉記念館本館の展示よりも芭蕉庵について詳しいのが不思議でした。 芭蕉庵が深川に三度建てられたこと。 そして、その故地は現在ではまるでわからないこと。 さらに、現在「芭蕉稲荷神社」がある場所は、芭蕉が愛玩したカエルの石像らしきものが出土したという理由だけで史跡指定がされたこと。 こういうことがずんとわかりました。 出土したカエルの石像は「芭蕉記念館」に展示されています。 あまり上出来とはいえないつくりなんで、わざわざ見るだけの価値があるかどうか。 でも、しばらくブロンズ製の芭蕉さんの顔を眺めながら、隅田川の川風に吹かれて日向ぼっこしました。 目の前を水上バスが通って行く。 これも風情がありますね。 コンクリート製の公園には浅い小さな池があって、赤い金魚が泳いでいる。 しかも、小さな芭蕉まで植えてあった! こんなところにまで、古池に芭蕉か……。 通俗は偉大です。 ここで記念館でもらったパンフレットを眺めていると、またお役所仕事の偉大な発明を発見しました。 記念館にはものすごく狭い庭があって、狭苦しい通路を回遊できる。 ほとんど形ばかりといった方が正確ですけど。 そこに祠みたいなものがあったので、稲荷神社でもあるのかなと思っていました。 しかし、それは大間違いだったのです。 祠は「ほこら」でも、芭蕉庵をモデルにしたものだった。 ふつう、だれも気がつかないでしょうけれど。 これこそ、お役所的な創意工夫! よくやるなあと、本気で感心してしまった。 いろいろ歩いてみたけれど、関口芭蕉庵がいちばん江戸時代っぽい。 深川で芭蕉を探るのは、史跡にたったら、ありありと往時をビジュアル化できる想像力の持ち主じゃないと難しいかもしれない。残っているのは、ビルの谷間の祠と碑しかないからです。 帰り道は、隅田川沿いの道を北上して森下駅へ行きました。 川沿いの道と、展望公園はいいですよ。 ぽかぽかと暖かい日の散歩には絶好。 ビールでも飲んで、川風に吹かれてみたい。 しかし花粉があるあいだは、無理だなあ。 永青文庫にはじまって、隅田川沿いで終わった今回の歴史散歩。 たいした距離でもないけれど、たっぷりと江戸を堪能した気分です。 歴史散歩に必要なのは、あくまでも好奇心と、味気ない現代を過去にタイムスリップさせる能力。 こればっかりは超能力じゃなくて、本を読まなくちゃ身につかない。 本というコミュニケーション手段があるおかげで、人間はタイムトラベラーになることができるのです。 |
本日の読書日記は、『知られざる渥美清』(大下英治)。 俳句と「寅さん」シリーズにはまっているうちに、ひょいと入った本屋の棚でみつけた本です。 その日は休みだったけれど、風邪を引いていたので、外出する気はなかった。 だのに、なんだか急に散歩したくなって、ついでにこれを見つけた。 この本を買うためにだけ、風邪をおして外出した――結果的にはそうなった。 こういうのを「本に呼ばれた」とわたしは素直に信じています。 渥美清という人は、「フーテンの寅さん」とはまったくの別人ですね。 『知られざる渥美清』というけれど、渥美清という人について、だれが何を知っているのか。 本人が「車寅次郎」という虚構に殉じて、他のTV番組・映画にはまず出なかった。 出たのは、山田洋次監督に義理立てしたときだけだったらしい。 「車寅次郎」がなくなったら――と考えていた節もあるけれど、そこまで生命が続かなかった。 わたしたちがささやかに知っている渥美清とは、「フーテンの寅さん」になる前の喜劇役者にすぎない。 私生活はもちろん役者人生だって、ろくに知らない。 田所康雄という渥美清の実人生は、ごく親しい友人だって知らなかった。 ストリップ小屋時代から親友だった関敬六や谷勘一でさえ、渥美の自宅の玄関に入れてもらったことはなかったそうです。 家まで送っていっても、玄関前で追い出される。 この二人が渥美の奥さんに会ったのは、結婚式のときが最初で最後だったらしい。 徹底してますね。 渥美は若いときにはテキヤになろうとして、香具師の一家で世話になっていた。 寅さんと違って、渥美があの小さい目に凶暴な光を浮かべてにらみつけると、ヤクザも震え上がる。役者や大道具係なんぞはひとたまりもない。 田所康雄の血管には、凶暴な「荒ぶる」血が滾っていた。 羽仁進監督の映画ロケでアフリカにいったとき、現地人は渥美がいちばん偉いと思い込んで、羽仁監督そっちのけで渥美にペコペコする。 羽仁監督がいくらいちばん偉いのは自分だといっても、現地人はにこにこ笑うばかりの渥美がいちばん偉いといいはる。 渥美という人は、古代や中世のカリスマ的な酋長がいちばんふさわしい。 『知られざる〜』で紹介されたエピソードを読み進むうちに、いつのまにか渥美清という人がこっけいで哀しげな寅さんじゃなくて、松田雄作になってしまった。 この人は、『一夢庵風流記』の前田慶次郎なんです。 「かぶき者」で「いくさ人」。 漢(おとこ)の哀しさ・美しさの体現者であると同時に、したたかで己さえ冷徹な戦略の道具にする「いくさ人」。そして、自分が「死人」(しびと)であることを覚悟した本物の戦士(いくさ人)。 車寅次郎というドロップアウターの魅力は、この人より下はないと誰もを安心させる地面のような力強さだけれど、もしも優しいだけの善人だったら、観ていられなかったはず。 それどころか役者として、たちまち潰される。潰すのは、悪意じゃなくて、無神経であつかましい好意です。 渥美清は実人生で地獄をみていた。 生活破綻者だった父親。肺病で死んだ兄。 自分も肺結核で片肺を削除して、死の淵から生還した。 売れないコント役者時代に同棲していたストリップ嬢が、結核の闘病生活をしているあいだに、渥美を裏切った。そして渥美は自殺まで考えた。 そんな地獄をくぐりぬけているがゆえに、渥美の演技のそこにはいつも地獄がのぞいている。 だからこそ、大地そのものの車寅次郎は、この人しかできない。 人は大地がなければ立つことさえできないのに、大地に痰を吐きかけ、糞便をかける。大地はじっとそれを受け入れる。 そのくせ、人間は知っている。ある日大地がくしゃみをしただけで、大勢の人間がひとたまりもなく死ぬことを。 人間が大地におごそかなものを感じるのは、畏れが根底にあるからです。 車寅次郎とその世界が懐かしいのは、そうした「おごそかなもの」をなんとなく感じるせいかもしれない。 古い日本の自然や風物が魅力の「寅さんシリーズ」には、「おごそかなもの」への渇きがある――わたしにはそう思えてならないのです。 ところで、渥美清は、朝日新聞社の雑誌『AERA』が主催する「アエラ句会」の常連だったそうです。 俳号は「フーテンの寅」からとったらしく、「風天」という。 「赤とんぼじっとしたまま明日どうする」 ――なんて句を書いている。 その渥美が最後に出席した句会で作ったがこれ。 「お遍路が一列に行く虹の中」 あの人の小さな目は、この世を死人(しびと)として見据えていたんですね。 |
本日、2月12日は司馬遼太郎さんの命日です。 司馬ファンのわたしですが、そのことをすっかり忘れていました。 それを思い出させてくれたのは、一冊の本でした。 昼間、ダイエットのためにウォーキングでもと外へ出たときに、なんとなく本屋に入ってしまった。 そして、なんとなく、文庫版のコーナーへ行った。 すると目の前に『新聞記者 司馬遼太郎』(産経新聞社)という文庫本がある。 出版社はフジサンケイ・グループの扶桑社。 いつもなら、岩波文庫と中公文庫しか目もくれないのに、なぜか扶桑社文庫の棚の前にいる。 (講談社学術文庫とちくま学術文庫も好きだけど――置いてある本屋は少ない……) これもどういう風の吹き回しか、中身もみないでレジにもっていった。 仕事のつれづれに読みきったのですが、じつはそのときも命日だとは知らなかった。 最後に、最初のページをみたら、産経新聞の記事のコピーがあって、じつは今日が命日だとしった次第。 他人からみたら「なんだ、つまらない!」と他愛もない話ですが、わたし的には感動してしまった。 まるで本が呼んでくれたような気がします。 本が呼ぶなんて言い出すあたり、友達のいない孤独なやつだと思われそうだけど、蔵書数が一万冊を超えると、本が本を呼ぶ超常現象がばんばん起きるのです。 必要な本、読みたい本は絶対に手に入るようになる! 散歩の途中で冷やかしに入った本屋や古本屋で、長年探していた本を見つけるなんて、珍しくもない。 今度も、この本が司馬さんの命日を教えてくれたんだなあと、しみじみしてしまった。 ただ中身はどうも感心しない。 悪いけれど。 新聞記者・福田定一(司馬遼太郎さんの本名)という人があんまり見えてこない。 この本を執筆した新聞社の方は、ほりさげが浅い。 ちなみに、福田定一氏は小説家として生計を立てる前は、産経新聞の文化部次長でした。 このくらいの内容では、司馬さん人気に便乗した本といわれても仕方がない。 ただ、これだけは分かりました。 司馬遼太郎さんは生涯新聞記者としての、矜持と使命を持ち続けた人であること。 新聞記者・福田定一がどういう人か知りたかったら、司馬さんの紀行ものや、『街道をゆく』を読めばいい。 いや、小説だって、たとえば『坂の上の雲』は文学畑の作家じゃ書けない。 あれは、新聞記者の視線がないと。 バルチック艦隊の司令長官や、正岡子規を、英雄秋山真之と同じ次元で俯瞰するなんて発想は、時代をみすえた大ジャーナリストのもの。 けっきょく司馬遼太郎という人を知るには、あの作品群を読むのがいちばんです! ところで、この本のお手柄は、司馬さん31歳の頃の新聞コラムを掲載していること。 多少、文言が古めかしいけれど、博覧強記で切れ味抜群のコラムニストであることは一読すればすぐわかる。 さすがに後年からみれば、稚ない感じがするが、いまどきの新聞のコラムよりはよっぽど気が利いている。 そして、何より品がいい。文章で品が良いってのは、すばらしいことです。 文章の品性を決めるのは、書き手の志の高さだからです。 やっぱり、司馬さんはすごかった。 |
本日も『古句を観る』(柴田宵曲)の続きです。 柴田宵曲という人の、もうひとつの側面を、ぜひ知ってもらいたいと、本日も書いてしまいました。 話は変わりますが、渥美清という人は「寅さん」シリーズを除くと、晩年は他の映画やTVにはあまり出なかった。「寅さん」の仕事がないときは、俳句をひねっていたそうです。 それを知って「寅さんシリーズ」を見ていると、渥美清という人の孤独がいっそう感じられる。 このあいだ見た「寅次郎恋やつれ」で、夜花火を見ながら縁側でたたずむ寅次郎の姿に、『古句を観る』の一句を連想してしまった。 「年々のもたれ柱や星迎」(白雪) この句の作者も孤独な性格だったんでしょうね。家族がいても、友達がいても、どうしようもなく孤独を感じる性格ってのがあります。 だからこそ、人一倍やさしかったりする。 人のこころがわかりすぎるからでしょうか? 星迎(ほしむかえ)とは、もちろん七夕のことで、ふつうは星の恋人たちの方が主題になるけれど、この作者は毎年自分がもたれて夜空をみあげる柱の方に気持ちがいっている。 まだ若いマドンナ吉永小百合に気持ちを伝えるすべもなく、自分に愛する資格がないと思い定めて、夜空をぼんやり見上げる寅次郎。 妹さくらに、自分の幸せだけを考えて、マドンナ小百合を引きとめてはいけないといわれた言葉が、頭のなかでぐるぐるしている。 ぜんぜん脈絡もない話だけど、なんとなくこの句から、作者が寅次郎とだぶってみえる。 いや、もっといえば、柴田宵曲という人がなんとなく、渥美清ではない「車寅次郎」のように見える。 理屈ぬきで、こうとしか思えなくなるから――俳句は怖い。 ところで、柴田宵曲からの引用に【鑑賞】というジャンルを作るってことを、この連作読書日記(笑)の最初の方で書きました。 ほんとうは簡単に一日分で全部あっさり書くつもりが、どうも切りが悪いので、こんな形になってしまいました。 今日扱う句は、もちろん全部【鑑賞】編です。 「藻の花に雲の白みや峯の池」(濫吹) これは、なんでもない句です。 山の上の池に、藻が生えていて花が咲いている。池の水面に白い雲が映っている。 ただ、それだけ。 ところが柴田宵曲は、この句に不気味なものを感じている。「山の池はなんとなく恐ろしい感じのするものである」と。 また山の池で泳ぐほど気味が悪いことはないという話を聞いたとも。 どうやら柴田宵曲の頭には、鏡花の「夜叉が池」とか大蛇や妖怪が主として住む妖怪伝説が浮かんでいるらしい。 理性では、この句にそんな影がないことは宵曲自身が断言している。 しかし、宵曲は青空を移した山上の池に不気味なものの存在を感知しないではいられない。 こういう地霊(デーモン)を感知する感性をそなえた芸術家はステキだ。 「田へかゝる風のにほひや天の川」(河菱) これもなんということがない句です。 夜道が田んぼにさしかかって、水の匂いがする。それだけのこと。 いっそさわやかな夏の夜と思うでしょう。 ところが、宵曲はみょうなものを連想する。夏目漱石の夢を描いた連作「夢十夜」の一編です。 漱石は盲目の子を背負って夜道を歩く夢をみる。その子が「おとっつぁん、田にさしかかったね」という。そのとき、ウグイスが鳴く。 これだけでも、不気味な話だけど、その先を知っていると、もっと怖い。 これは因果は巡るという怨霊譚なのです。 興味があれば、ぜひ漱石の「夢十夜」を読んでみてください。わたしは怖くて、もうこれ以上書けません……(笑) 似た話が小泉八雲の「日本の面影」と「怪談」にもありますね。 こちらは妻の産んだ子を次々と間引いた冷酷な百姓の話。最後に生まれた子がどういうわけか、可愛くなってとうとう育てることにした。 育てるほどに愛情がまして、目に入れても痛くなくなった子を片時も自分の側から離せなくなる。 ある月夜、用事ができた百姓はまだ口もきけない赤ん坊を背負ったまま、外出する。 滝のところまで来て、百姓は「きれいな月だ」とつぶやいた。 すると、口のきけないはずの赤ん坊が大人の声でこう言った。 「おとっつあんが最後に私を殺したのは、こんな月夜の晩でしたね」と。 この滝というのが、百姓が間引く赤ん坊を水に漬けて殺した場所だったのです。 八雲も霊にシンパシーがあった。柴田宵曲は、八雲が好んだ「美しいニッポンジン」だったのでしょう。さもなければ、こんな連想が働くはずがない。。 「精霊もござるか今の風の音」(桃妖) 精霊と書いて「しょうりょう」と読みます。お盆に帰ってくる死者の魂のことです。 これはお盆の迎え火をたいているとき、ものすさまじい感じの風が吹いて、異界を感じたおののきを句にしたもの。 「ショウリョウもござるか」という愛嬌めいた言葉使いにかえって、異界への恐れがうかがえる。 同じようなテーマを子規、虚子、鳴雪が扱っていて、それぞれ佳句です。 これに比べると、桃妖の言葉はたしかに幼稚です。 しかし、だからこそ、異界と接触するおののきは桃妖のほうが上だと看破する感覚はただものじゃない。 もしかして、柴田宵曲という人には異界の住人がみえていたんじゃないでしょうか。 異界をみるというのは、文学者ではそれほど珍しくない。 その偉大な例が、宮沢賢治であることはもちろんです。 |
本日も『古句を観る』(柴田宵曲)の続き。 どうにも面白くてやめられない。今日も孫引きオンパレードです!(笑)
俳句の面白いのは、瞑想体験にも似た生命との一体化だけではありません。
【心理】 |
本日の読書日記は『古句を観る』(柴田宵曲)の続きです。 これは、虚子の同時代人だった柴田宵曲が、元禄・天明のころの俳諧を集めたエッセーです。 さすがに俳句革新運動を起こした正岡子規の後の世代だから、古句をみても江戸情緒にひたる愚はおかさない。 その中のいくつかを抜き出して、紹介したいと思います。 勝手ですが、風物・心理・鑑賞と分類してみました。 【風物1】 蝙蝠や日は今入りて雲の紅 一彳(いってき) 木犀のしづかに匂う夜寒かな 買路 澄み切りて鳶舞う空や秋うらゝ 正己 このグループは、自然をそのまま描いている。そして一部の隙もない。 どの言葉も動かせない。俳諧と俳句を問わず、十七文字詩形式の絶品です。 こういうのを結晶化させて、子規は下卑たうがちに落ち込んだ「俳諧」から「俳句」を誕生させたかったんでしょう。 【風物2】 時雨るゝや古き軒端の唐辛子 炉柴 これなどは、子規のめざした世界そのものじゃないですか。 「時雨」と「古き軒下」という陳腐な取り合わせに、原色の赤の唐辛子を配す。 江戸の美意識では黒とか鼠色とか茶とか地味なのが「粋」とされた。ただし、そこに思いっきり派手な赤を使うと、さらに良い。そうみれば、炉柴の作品は江戸の美意識そのものといえるけれど、宵曲の近代的な意識にもがつんと衝突した。 李氏朝鮮の下層民が作った井戸茶碗が、日本で国宝になったのと同じ鑑賞の革新です。 両班(リャンパン)の子孫の韓国国民がそれをどう思おうと全くどーでも良いこと。 芸術においては、鑑賞もまた創造です。 俳諧から俳句が受け継いだ遺産は、事物・心理に対する深い観察・洞察力です。 わたしは和歌のことはよくわからないけれど、俳句はとにかく観察が大事です。人と同じ見方しかできないようだと、そもそも俳句が楽しくない。 俳句というジャンルを好むのは、常夏の国マリネラの某国王殿下みたいな人かもしれません。(笑) 【風物3】 張声や籠のうづらの力足 山店 葉の太る一夜々々や煙艸苗 釣壷 山店の句は、籠で飼われているウヅラ(鶉)が一声鳴くたびに、足を踏ん張っている様子を描いている。 だれも気にしないようなところを、俳人はじっと観ています。 こういう生命をいとおしむようなところが、俳人という人種のいいところ。 ただし、俳句が上手いのに限って人間的に困ったちゃんが多いのはなぜなんでしょう?(笑) 煙艸(たばこ)は専売制度ができるまでは、かってに庭に植えたり、畑で作ることができました。 自作のタバコの葉を包丁で刻んで、キセルに詰めて喫っても全然オッケーだったのです。 柴田宵曲によると、タバコの花はとても綺麗だそうです。そして、この草は生長がとても早い。 毎日ぐんぐん伸びてゆくらしい。 それをまたじっと観ているヒマな俳人・釣壷がいる。(笑) しかし、そういう小さな生き物の営みを大宇宙(マクロ・コスモス)にまで拡大して、マインド・トリップするのも、俳句のすごいところ。これが宗教的大天才でなくてもできるところに、俳句のすごさがある。 【風物4】 かたばみの花の盛りや蟻の道 如此 鳶尾の葉はみなぬれにけり初しぐれ 鼠弾 如此は、「よく見ればなづな花咲く垣根かな」という芭蕉の句に通じる宇宙意識がある。 カタバミというのは、指の先よりも小さい黄色い花をつけた雑草。コンクリートの割れ目からも生え出ているので、アスファルトとコンクリート・ジャングルでも見つけることができます。 その小さな花が咲いていて、その下を蟻が行列している。 ちいさなちいさなミクロ・コスモス。 ただし、それをみている俳人如此の目は、マクロな大宇宙にシンクロしている。 これを面白く思えない人には、俳句なんぞ地獄の退屈でしかない。 鼠弾の句に出てくる「鳶尾」はシャガと読むとのこと。 シャガは日陰のようなところで群生しているカキツバタの仲間。花の色合いはラッパ水仙にすこし似ている。清楚な感じで、わたしは好きですが、ここに出てくるのは花ではなく、冬に枯れずにいるシャガの葉のこと。 青々とした緑の葉に冷たい時雨が降りかかる。 この写実が、かえってシャガの生命を強く印象付けている。 あえていえば、これもコスモス感覚でしょうか。 |
キンカンも食べたし、読書日記の間違いも訂正できた! 気分よく、本日も読書日記が書けます。 『大阪学』を読んでから、ナショナリズムが芽生えたらしく、どうも東京の悪口ばかり言うようになっています。 大阪に比べれば、東京の方がはるかに江戸を残しているのですが、東京はわたし同様に田舎から押しかけてきたハカイダーたちにずたずたにされてしまった。 じっさい東京という都市は大したものなのです。 自然を例にとっても、大名屋敷の跡が庭園になっている東京のほうが大阪よりもはるかに豊富です。 大都市のど真中に平安時代以前の自然が残っているなんて、奇蹟としかいえないのに。(千代田のお城のことです……) それに、新宿御苑のように、江戸時代の自然のタイムカプセルまである。ここには、世界でここにしかいないモグラくんまでいるんですよ! 公園の多さでも、東京は大阪に勝っている。 なのに――。 東京は、そこに住む田舎モンとその子孫のハカイダーどもに良いようにぶち壊されている。いや、正確にいえば、ハカイダーたちは埼玉や千葉から毎日うじゃうじゃ這い出して、東京を汚しにやって来る。 わたしもその一人――。 あの永井荷風センセーが愛した江戸も東京はもうない。 文豪鴎外の住んでいた観潮楼は図書館になり、維持費が切り詰められて存亡の危機にあるらしい。 漱石の住んでいた猫の家は、遠く離れた明治村にある。 この街に文化を残すことは不可能のようです。 こんなハカイダーたちの住むところが――好きになれますか? 古いニッポンなんて、『男はつらいよ』シリーズの中にしかないのかもしれない。 TV東京で「わたしの寅さん」をみていて、つくづくそう思いました。 ところで、話は変わりますが、目下『古句を観る』(柴田宵曲)という本を読んでいます。 柴田宵曲については、以前この読書日記でも紹介したことがあります。 俳諧研究家ですが、あの江戸研究の神さま三田村鳶魚の筆記者という方が有名な篤学者です。 この人は高浜虚子の弟子だったのに、貧乏な俳人・寒川鼠骨翁の徳をしたって、虚子の門を去り、翁の弟子となって終生仕えた。 俳壇の帝王だった虚子を袖にしたわけだから、俳句の世界では身を立てることができなかったのですが、そういうことでたじろぐような人ではない。 日本橋生まれの、本物の江戸ッ子のくせに、骨がある。 (ちなみに、新宿や渋谷で産湯を使っても、江戸ッ子といっちゃあいけない。あそこは、江戸じゃないんだから。馬糞くさい(内藤)新宿、肥えの臭いがきつい渋谷。それが明治までのイメージ。もちろん、山手線よりも外の地域は立派な田舎でした。 埼玉や千葉なんぞ、平成人にとっての北朝鮮や中国みたいなものです。 ちょっと比喩がちょっとマズすぎるかな――) また脱線したところから話を戻すと、『古句を観る』という古句というのが半端じゃない。元禄時代や天明時代というからすごい。 だったら、どんな名句を掘り出したかというと、これが――芭蕉や一茶はもちろん蕪村の駄作にも及ばないような句だったりするのです。 芭蕉の句集や七部集、奥の細道を制覇して、蕪村俳句集もやっつけたわたしでも……読むのがつらかったです。最初のうちは。 ところが、俳句というジャンルのせいでしょうか、句としての芸術点は高くないけれど、写実というものがある。 さすがに正岡子規の孫弟子にもあたるわけだから、柴田宵曲はリアリティを結晶化していない句は選んでいない。 俳句は和歌と違って、「ものそれ自体」、カント哲学でいうところの「ディング・アン・ズィッヒ」をとらえないと、成立しがたいものなんです。 これが感情の発露にとどまると、川柳になる。 リアリティの根幹、生命そのものをがっちりと掴み取らないと、詩情がなりたたない。 そう意味で言うと、かなり厳しいジャンルではあります。 俳句といえば、「かな」や「や」という切れ字。 元禄や天明の俳句はこればっかり。 でも、現代俳句では切れ字はあまり使いません。 本当に使い方が難しいので、下手に使うとインパクトがなくなり、句が救いようがないほど凡庸になる。 だから、切れ字がある句はなんとなく古臭く思える。 そういう目で元禄時代の俳句をみれば、そりゃあ古臭くてかなわない。 しかし、柴田宵曲氏の解説を読みながら、古句を読んでいくと、次第に「ものそのもの」「生命そのもの」という世界に引き込まれますね。 柴田宵曲という人の、世界を見る眼差しそのものに、一体化して、優しく世界を見つめ直すことができるようになる。 陳腐な言葉でいえば、荒んだ心が「癒される」のです。 「花の雨 鯛に塩するゆふべかな」 (仙花) 「寺の菜の 喰のこされて咲きにけり」 (亀洞) どうということのない現実そのものを歌っているけれど、大きな生命の輪廻、宇宙のリズムを感じますね。 サクラの咲く頃に、鯛に塩している。それがどうした――。 お寺の大根か菜っ葉だのが、冬に収穫しそこなって、春を迎えて小さな花を咲かしている。それがどうした――。 この「それがどうした!」の次に来る沈黙に、生命の輝きがある。それに撃たれるから、人は沈黙する。 それがいいんです。 柴田宵曲という人は、静かに生命の営みをみつめ、人のこころに深く共感できたんですね。 こういう懐かしい人に出会うことは――人生の宝だ。 わたしはそう思います。 |
『日本唱歌集』(岩波文庫:堀内敬三・井上武士編)を読みました。 この編者のひとり、井上武士という人は、あの「ウミハヒロイナ オオキイナ」とか「お馬の親子は仲良しこよし……」の作曲家でもあります。 柄にもなく、唱歌なんかを読んでみたのは、疲れやすめにネットサーフィンをしていているときに唱歌をほとんどカバーしているサイトを見つけたのがきっかけです。 じつはわたしは唱歌をあまり知らない! 年をごまかしているんじゃなくて、どうもわたしよりも二歳上くらいで文部省の指導要綱が変わったらしく、義務教育で教わっている内容が前の世代と違うのです。 大学時代の同級生で二浪・三浪しているのとは、どうも話がかみあわなかった。理由はそこにあったらしいと、後で知りました。 だから、ここに載っている唱歌には知らないものが多い。 さすがに「敵は幾万ありとても」「川中島」「青葉繁れる」なんてのは、いくらなんでも戦後世代は知らないのが当たり前でしょう。 しかし、この文句はいろんなところで目にしてきました。 「青葉繁れる」なんて、井上ひさしの小説にあるくらい。 『日本唱歌集』を読んでみると、「昨日の敵は今日の友」なんていうのが、日露戦争の乃木大将とステッセル将軍の会見をうたった「水師宮の会見」の歌詞だったとわかって、ちょっとびっくり。 戦後の週刊誌や大衆小説の決り文句は、ほとんど文部省唱歌だったのです。 こちらは、それを知らないでアホのように口移しで使っていた。 こういうのが、大衆文化というやつなんですよ。 それにしても、文語調の歌詞がなんとなく良い感じです。 日本語本来のリズムがありますね。 今日びのロック調の日本語歌詞が、リズムに虐待されて気の毒におもえる。 わたしはロックにのれないせいか、謡曲の死にそうに眠い曲が好きです。 どこが面白いとよく人に笑われます。 聞きながら居眠りしているから、ますます笑われる。 ところが、なんとなくハッピーなんですね、これが。 親戚に邦楽・日本舞踊のプロがいたりするせいかも? でも、連中はロックもこなせるから――あんまり関係ないか!(笑) ところで、このボキャブラリーというやつはバカにならない。 言葉というものを使いこなすには、古い言葉を知らないとダメ。 古今東西、いや現代日本だって、すぐれた作家は、学歴とは無関係にこと、言葉だけは独学で古典まできわめちゃいますね。 勉強が大嫌いでも、言葉を知ることだけは好きなんですね、作家という人種は。 いや、全部がそうというわけじゃありません、もちろん。 「すぐれた!」という形容詞がつかない書き手もいっぱいいるわけでして……。 古臭い漢語・古語であっても、それを知ることは発想を豊かにする――。 これを現代教育が忘れているとしたら、哀しいことです。 でも、もっと哀しいのは、唱歌という形でこの国の歴史にふれることがなくなったこと。 そりゃあ、文部省唱歌の「青葉繁る」は楠木正成が後醍醐天皇に忠節を尽くして死ぬというストーリーだし、他の歴史ものの唱歌には、「君のため」(恋人じゃなくて天皇のこと)という歌詞がやたら出る。 しかし、それにしても、かつてこの国にいた人たちを歌いあげてもいいじゃありませんか? 歌詞が嫌だったら、そこだけ変えるとか。 わたしは三波春夫先生の「高田屋嘉兵衛はおとこでござる!」っていうのも好きなんで、ついそう思ってしまう。 戦後歴史教育が学界のマルクス主義偏重にひきずられて、この国の先人を忘れる方向に走っているのは、グローバル化しつつある世界ではホントにまずいと思います。 明治の頃には、イギリス民謡「アニー・ロリー」のメロディーで紫式部と清少納言を歌った「才女」という唱歌がありました。 たしか「アニー・ロリー」はもっと有名な唱歌にも使われているから、きっとみんなメロディーは知っているはず。 岩波文庫には楽譜があるけれど、わたしには読めないでのなんともいえません。 あーっ、音楽の時間なんてだいっ嫌いだ! ――と、小中学校時代の悪夢が蘇る。(涙) をっと、いけない。 話を元に戻すと、この国の歴史を歌いつぐことは、外国の人と鼻つき合わせて暮らす今の子どもたちには絶対必要だと思うのです。 音符が読めて、子どもがいる人(または将来持つ予定の人)は、ぜひこの文部省唱歌を子どもたちに教えてやってほしい。 ――音符も読めないわたしは、そう思います。 ♪もしも、ピアノが弾けたなら♪ |
読書日記を一日じゅう書いていたせいで、読書がほとんど出来なかった! うそみたいな話ですが、ほんとうなんです。(涙) でも、『大阪学』(大谷晃一)を読みました。 晩酌をしながら一気読みでした。 ここでひとつ分ったのは――大阪と東京では「きつね」と「たぬき」が違う。 もちろん動物の話じゃありません。 うどんとそばです。 わたしは北海道の田舎者で、生涯東京人(=トーキョーに染まった田舎出身のカス!というほどの意味。この場合「田舎」は決して悪い意味ではない。わたし的に差別用語なのは……の方です)にはならないぞと決意しているものですが、それでもやっぱり東京しか知らない哀しい存在だと思い知りました。 大阪の「たぬき」が、油揚げをのっけた「そば」だったとは知らなかった! 天カスをのっけただけのそば・うどんには、名前などないというじゃありませんか。 追記: あとで調べてわかったのですが――。 大阪では天カスをのせたそば・うどんを「ハイカラうどん」、「ハイカラそば」と呼ぶこともあるそうです。 そして、東京で天ぷらを揚げた残りをのっけることで値段を差別化しているのに、大阪ではそば・うどんに天カスをのっけて金をとる店などないとは! 牛丼屋のベニショーガみたいに、ただでかけ放題だそうじゃありませんか。 なんなんだ、東京の貧しさは。 しかし、よく読むと、東京者が進出しているせいか、このごろでは大阪でも天カスでお金をとる店が増えているとか。 しっかりしてくれ、大阪人。東京モンなんぞに負けるな! もうひとつ勉強になったのは、吉本興業の大阪弁。 あれは、京都以西の田舎出身者が河内弁を真似して作った人造言語なんですね。 そういやあ、(吉本じゃなかったかもしれないけれど)桂文珍は丹波笹山、さんまは奈良だし、桂三枝は京都でしたね。 きっすいの大阪人じゃあないんでした。 吉本ってのは、大阪の傭兵部隊だったんですね。 なるほど凄腕なわけだ。 船場あたりの上品な言葉や、神戸に近いあたりの大阪弁に比べると、吉本版大阪弁は異次元世界のヤプール人あたりの言葉と同じといえるかもしれない。 なるほどなあ。 東映極道路線の広島弁といい、吉本の大阪弁といい、わたしら純真な田舎もんはけっこういいようにコケにされておったのね。(笑) |
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