お気楽読書日記:12月

作成 工藤龍大

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12月

12月31日

一日遅れなもので、これが2001年最後の読書日記です。

さて、2001年最後の一週間はハプスブルグの皇妃エリーザベトが主人公の小説『皇妃エリザベート』と『ハプスブルクの涙』を読みました。
著者は、どちらもマリールイーゼ・フォン・インゲンハイム。

シシーというのは、ハプスブルク家通の人なら誰でも知っている「美貌の皇妃」エリーザベトの愛称です。この頃は日本でも彼女のファンはけっこういます。

ところで、「エリーザベト」と表記しているので、書名の「エリザベート」のタイプミスかと思われるかもしれません。
ドイツ語では、<Elizabeth>は「エリーザベト」のように発音するのです。
普通エリザベートとは言わない。

日本語でいうと、シロート(素人)とはいうけれど、シーロトはいわない――という具合です。

翻訳者もそのことは気にしているらしく、「エリザベート」としたのは版元の意向だと断っていました。

もう一言付け加えると、皇妃の愛称<Sissy>は標準ドイツ語では「ジシー」と読む。
でも、オーストリアのドイツ語ではシシーと読むのが普通。
オーストリア・ドイツ語と、標準ドイツ語はちょっと違うのです。だから、こっちは正解なのだけれど、翻訳者は几帳面な性格らしく、このことにも断りを入れている。

しかし、その割にはこの翻訳者はすごいことをやっています。
実は『皇妃〜』と『ハプスブルクの涙』は、全十二巻の大長編の一〜三巻のダイジェスト版だそうです。
一巻目のエピソードを翻訳者が取捨選択したのが『皇妃エリザベート』。
二巻と三巻をダイジェストして、翻訳者が執筆したエピローグをつけたのが『ハプスブルクの涙』。

翻訳を生業とするわたしとしては、なんとなく釈然としませんが、出版の世界にはままあること。文学作品を原書で読むのも、業界のことをほんの少し知っているので、翻訳書を信用できないからです。どこまできちんと翻訳しているのか、わかったもんじゃない。

それはともかく、直前に書いたこと矛盾しますが、中身はじつはそれほど大したものじゃない。こんな調子で全十二巻を読むのはかなりしんどい。

没落しつつあるハプスブルク帝国の最後の華・皇妃エリーザベトを主人公にした家庭小説なんですよ、これは。
歴史の大きなうねりは、表層の物語にはあまり関係ない。

ハンサムで優しい若き皇帝との恋愛結婚と、姑(じつは母の姉でもある)・大公妃との確執が第一巻目の内容であり、中年の夫との不和と、息子との断絶だけが第二巻目の内容。

「渡る世間は鬼ばかり」をハプスブルク宮廷でやっていると思えば、まず間違いない。

ただ不思議なことに、それが嫌でなく読めてしまうのです。
なぜなんだろうと、一冊目を読み上げて考えてしまった。

思い当たるのは、この本には皇妃エリーザベトに対して批判がましいことはまるで書いていない。

エリーザベトは絶世の美人ではあるけれど、政治的音痴だし、子供の教育にも熱心とはいえない。家庭生活を大事にするタイプでもないし、夫に内助の功をつくすわけでもなく、自分が面に立って難局を処理する女傑でもない。

皇妃としての任務と責任を放り出して、ヨーロッパ中を放浪していた気ままな美人。
いってみれば、フーテンの寅さんみたいな存在。
それでいて、いまだに愛されている不思議な人です。

この摩訶不思議な存在をそのまま肯定して描くと、なぜかすらすら読める。
ひとは心優しいフーテンが好きなのかもしれません。
訪問者(まれびと)・旅人として、異界から来るアウトサイダーが――好きなんですねぇ。

シシーは慈善をしたり、寄付をしたり、人助けをするとき、それとわかるような誇示的な方法は好まずに、妖精のようにそっと援助して、感謝される暇も与えず立ち去るのが常だったそうです。
そのやり方は、気まぐれな天使と言う他はない。

ヨーロッパ最大の帝国の一つの皇妃でありながら、数人のおつきだけを連れてヨーロッパを放浪した絶世の美女。ときどき妖精のように庶民の暮らしに紛れ込んでは、去って行く。

これで助さん・格さんを連れていたら、水戸黄門だ。(笑)

たしかに彼女の生涯は息子の自殺・従弟たちの狂死、そして自身の暗殺と悲劇に満ちている。
しかし、一般人の歴史的空想のなかでは、彼女は水戸黄門とフーテンの寅さんをあわせたような神話的アイドルとして今も生きている。
わたし自身も、シシー神話に浸る時間を共有した――つまりは、そういうことのようです。

追記:
皇妃エリーザベトは、映像・舞台でも格好の題材として大勢の人が演じています。
手元に数冊ある皇妃エリーザベト関連本では、どれもがある女優を最高の「エリーザベト女優」としてあげています。
その人の名は、ロミー・シュナイダー。

美貌と気品と知性と、同時に可愛らしさがないと、シシーのイメージではない。当然のように、そんな女優さんは滅多にいない。

ルキノ・ヴィスコンティの「ルートヴィヒ―神々の黄昏」のエリーザベト役は、わたしも観ていますが、この他に1950年代にエルンスト・マリシュカという監督が「プリンセス・シシー」という三部作で、彼女をシシーとして主演させている。

もう故人となったロミー・シュナイダーですが、当時のヨーロッパ映画界ではこの人をおいてシシー役は考えられなかったのですね。

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12月29日

面白いCDを買いました。
『仮面ライダー30周年記念盤 TV!サイズ 仮面ライダー全主題歌集』!
――です。

いまや家では、一日中ライダーの主題歌が鳴りっぱなし。(笑)

クウガはもちろんアギトから、初代まで、実際にTVで使われた主題歌を集めているから、懐かしく……。

おかげでクウガのエンディング・テーマをやっと覚えられました。
あの『青空になる』ってやつ。

もはや歴史となってしまった「BLACK」と「RX」のエンディングもいいですよ。
それぞれ阿木陽子(作曲宇崎竜童)、康珍化の作詞です。

「BLACK」以後の主題歌は詩がいいですね。
男の子が嬉しがるようにできている。
1980年代から、よっぽど女性化しているこの国には珍しい。

そういえば、TVでライダーが新番組として放映されたのは1988年の「RX」を最後にして、2000年のクウガまで途絶えていた。
特撮スタッフや、スーツアクター(ヒーローの変身姿を演じる人)さんたちは戦隊ものや機動刑事で技を磨いていたのです。

アギトのスーツアクター、高岩成二という人は、宇宙刑事なんかで腕を磨いたそうです。
足払いをかけるときや、間合いをとるときのセクシーな動きがなんともいえません。(笑)

新1号や仮面ライダーV3の洗練された動きは、大野剣友会の中屋敷鉄也氏。
あれを目に焼き付けると、ヒーローものから一生逃げられなくなるとか。

わたしは最近知ったのですが、初代1号のスーツアクターは大怪我して降板するまで、藤岡弘さんご本人だったのです。
顔の出る主役がそこまでやるとは……藤岡さん、あなたはやっぱり男だ!

ところで、歌に話を戻すと――
復活したクウガの主題歌の作詞者は、アギトの作詞者は同じ人。
藤林聖子という人ですが、知ってます?
わたしは歌の世界に暗くて知りませんでした。(笑)

こっちも男の子っぽい。
こうじゃないと、ライダーじゃない。

「おじゃ魔女ドレミ」は究極の女の子向け番組だけど、ライダーは究極の男の向け番組です。まだ保育所にいかない子供が興奮してみるもんなあ。

ところで、なんとなく「BLACK」「RX」と、クウガはテイストが似ているような気がする。
主題歌もなんとなく。

思うに、どっちも初代に原点回帰しているような気がします。
ライダーは孤独なアウトサイダー。フランケンシュタインの怪物と同じ異形と嫌悪を引き受けながら、愛の救世主でもある。

フランケンシュタインの怪物とはまさにそのとおりで、あれが好きな人はドラキュラは嫌いだと思います。
原作であれ、ハマーシュタイン(だったかな?)の映画であれ、はたまた和田慎二の「わが友フランケンシュタイン」であれ、男って生き物はあの怪物の優しさが好きなんですよ。
そうじゃないのは、あまり性質(たち)の良い奴じゃないので、そういうのとつきあっているオンナの人は即刻別れることをお勧めします。(余計なお世話?)

このCD集の最後には、ボーナストラックとして藤岡弘さんが「レッツゴー!!ライダーキック 2000 Ver.」を熱唱しています。
もちろんCDには初代で1話から13話まで使用していた藤岡弘さんの主題歌も入っているけれど、こちらは昨年録音したバージョン。

1946年生まれの藤岡さんが「せがたさんしろう」ばりに力をこめて歌っているのがすごい。

30年におよぶ仮面ライダーの歴史は、この人に託されたイメージの継承でもあったと改めて思います。
原作者、TVスタッフ、俳優さんたちの思いが、54歳の藤岡さんの歌にこもっているといっても言い過ぎではないでしょう。

関係者の中には芸能界を去った人、亡くなった人(撮影中の事故で亡くなった人もいるそうです)も多い。
それを知っているゆえに、仮面ライダーと距離を置きたかった藤岡さんが、そしてストロンガーの頃には変身ポーズをとるのさえ恥ずかしがった藤岡さんが、「大人は子どもの光たれ」(@ご本人のインタビュー)とばかりにライダーの歌を熱唱している。

聞いているうちに、胸が熱くなって涙がこぼれてしまった。
いや、それは聞きながら飲んでいた酒のせいかもしれないけれど。

あの「せがたさんしろう」のCMで、藤岡さんが「ありがとう、野茂君」といいながら涙を流していた姿さえ思い出してしまった。
いや、藤岡さん――。
「ありがとう」といわなければならないのは、わたしたち大昔の子どもたちのほうですよ。

「ありがとう、藤岡さん」

追記:
藤岡弘さんのオフィシャルページをみつけました。
「侍道―Samurai Do」 http://www.samurai-hiroshi.com/

あいかわらず、熱いですね。藤岡さんは。(^^)

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12月24日

普段、ビデオやTVが観られない生活をしているせいか、この休み中はビデオ浸りでした。読書は一冊のみ。

本の話題はさておき、怒涛のビデオ鑑賞日記です。(笑)

第一弾は、平成版「ガメラ」です。
ギャオスの人食いや共食いがかなりグロですが、遺伝子操作の究極兵器ギャオスの無気味さが際立って納得します。

ガメラって、悪役じゃなくて、地球の守り神だったのか!
ギャオスと戦うために、古代文明人が遺伝子操作で作った「最後の希望」ガメラ。
この作品は、旧大映ガメラの路線を忠実に継承しています。

それにしても、中山忍の台詞にあった「プルトニウムはギャオスと同じ」という言葉は意味深です。
ギャオスは地球環境が悪化するまで永久卵の形態で数万年を過ごした。
なるほど、半減期うん万年のプルトニウムと同じだなあと感心してしまいました。
ほんと、どうする気なんでしょう、わたしたちは。
プルトニウムを使った循環型の原子力発電なんて、ウランを燃やすだけの原子力発電よりも危険なしろもの。それを世界でこの国だけがやっている。
なかなか勇気ある国民性です。(笑ッ……っていいのかな?)

第二弾はTVドラマの再放送で、上川隆也主演の「陰の季節 (2)」。
上川が出ると、まわりの実力派俳優が活気づきますね。
原作者の横山秀雄は、新聞記者出身で最近とみに注目されている警察小説の書き手。
本も良かったんだろうけれど、上川が主演だからもっと見ごたえがありました。
本日12月24日も「陰の季節 (3)」があるから、観てしまおうッと♪

ところが、第三弾の「梟の城」を観て、上川伝説はわたしのなかでかなりダメージを受けた。
この作品の上川は全然良くないです。

そういえば、鶴田真由も良くない。
中井貴一だけが半世紀前の時代劇のニヒルな主人公を演ってさまになっている。

この人は、古い映画人のイメージする「すたあ」そのものなんだと改めて思いました。

司馬さんの作品でも、いちばん面白くない『梟の城』なんで、ストーリーは期待するだけ無駄。
人間は魅力的じゃないし、話はつまらない。
あんだけ実力派を脇役にそろえて、こんなつまらない映画に作るとは……。(呆然)

日本各地の名城・大刹をロケして、映像美を追求しているところだけは偉い。
篠田正浩という人は映像美しかないと思っていたけれど、やっぱりそうだった。
監督がそうだと、上川や鶴田みたいな良いのが出てきてもダメなんですね。

最後は、ウォン・カーウェィ(王家衛)の「花様年華」。
張曼玉って、誰かなと思っていたら、マギー・チャンだったんですね。
相手役はトニー・レオン。いや、そんなことぁ、皆さんご承知でしたね。(笑)

これはひたすら、マギー・チャンの美しさを撮りまくった作品。
でも、ちっとも飽きなかった。
やっぱり美女はいいはぁ。(恥)

マギー・チャンは普段はちょっと綺麗だけど、こわいお姐さん。
これが、笑うとめちゃくちゃ可愛い。(#^_^#)

まあ今の日本映画じゃ、こんな女優はいないし、いたとしても嫉妬深い若いオンナどもは観に来ないでしょう。(笑)
いまや美人女優は、中国と韓国に期待するのみ!
――という確信を植え付けられてしまいました。

さてと、今度は読書日記を書かなくちゃ。
看板に偽り――ありすぎですからね。(汗)

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12月23日

本日で、木野薫こと菊池隆則さんの出演は終わり。

「浩二、コーヒーをたのむ」
という言葉を最後に木野薫は絶命。

眠るように、ソファに座って逝ったその姿は……
「矢吹丈」だ!

菊池さん演じる木野薫は、わたしにとって記憶に残る Masked Rider の
一人となりました。

木野薫というキャラクターは、「過去」を象徴するアギト。
本来なら、葦原涼がその役割をはたす設定だったんだろうけれど、どうも若手には荷が勝ちすぎたようです。
木野の出現で、葦原のダーク・ヒーローの部分は食われたけれど、その分普通のヒーローへ移行できたので制作サイドとしては作りやすかったようにみえます。

情報がないのでわからないけれど、木野の登場は当初から計画されていたのでしょう。
アナザーアギトが登場しなければ、今回のアギトの作品世界は成立できない。

そういう意味でいえば、美味しい役どころだけれど、ここに魅力のない役者さんを使うとがたがたになる。難しい役ですね。
菊池さん演じる歴代最高齢の仮面ライダー(爆)は、良かったなあ。
葦原あんちゃんや、浩二ぼうやの憧れの人だったんですね。

それにしても、木野薫という名前には、葦原を補完するという意味合いがあるんでしょうね。
木と葦、野と原、薫と涼。
なんとなく、対応している感じがしませんか?

仮面ライダーというコンセプトは、孤独な異形のモンスターというフランケンシュタインにつながるダーク・ヒーローの要素が強い。
木野は葦原ライダーのその側面をさらに補完する仮面ライダー補完機構(!)そのものだった。

ところで、ダーク・ヒーローを支える勇気ある普通人というのもライダー世界では大事な要素。

なぜ、ストロンガーまで小林昭二氏が「おやっさん」として登場してきたのか。
ブレイクしたライダーに、滝和也、結城丈二、一条薫という相棒がいるのか。

村枝慎一氏の「仮面ライダー Spirits」で象徴的な場面がありました。
ニューヨークでコウモリ怪人と戦い、殺されかけた滝和也。
そこへ現れた本郷がいう。
「今夜は、俺とお前でダブル・ライダーだ」
二人は共闘して、コウモリ怪人を倒す。

「(仮面)ライダー」とは、漢(ヲトコ)のことなんですね。

本日放送された第46話で、またまた氷川誠が男をあげました。
「ぼくが命がけで戦っていれば、アギトは帰って来てくれる気がするんです」
眼が見えない原因不明の症状に悩みながら、言う科白が泣かせる。

事実、その通りになりました。
元デストロンの科学者結城丈二が仮面ライダー四号となったように、氷川誠はやっぱり仮面ライダーなんだなあ。
スーツを着ているとか、改造人間(?)じゃないとか、そういう問題じゃない。

超人じゃない立花藤兵衛や滝和也が、いつまでも記憶のなかに生きているのと同じことなんです。(たぶんクウガを見た子供たちには、一条薫がそうであるように。)

また話は戻るけれど、木野薫の最後は――やっぱり漢だなあ。
「燃え尽きたぜ」
――という科白をどうも連想してしまいます。

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12月15日

日本民藝館に行ってきました。
掲示板日記(汗!)で書いたように、12月17日から平成14年8月まで休館するというので、せっかく出会った柳宗悦の仕事を拝見するために大慌てで行って来ました。

あと八ヶ月も展示を見ることができないとわかれば、のんびりしているわけにはいきません。

公式HPはもちろん岩波文庫の『柳宗悦民藝紀行』でも写真が紹介されている日本民藝館の西館は、大谷石という栃木産の石で屋根が葺かれた珍しい建築物です。
しかし、すでに修理中で周囲に鉄骨が組まれ、カバーがかかっているので、外観をみることさえできません。
それは本館も同じで、ちょっとがっかりしました。

建物の老朽化が進んで、その修復のために今回の休館があるのだから、仕方ありません。もともと西館などは江戸時代のものを栃木から移築したのだから、無理もない。

本館は二階建ての洋館みたいなつくりです。外装は蔵に似ていないこともない。
そこで李朝の工芸品が「李朝の工芸」展として並べられていました。

『柳宗悦民藝紀行』で紹介されていた李氏朝鮮の「民画」「文字絵」というのを始めて見ました。
「文字絵」とは漢字と絵を組み合わせた図柄で、例えば「孝」という字を下の「子」を漢字にして上の冠の部分をサカナが交差する絵にしてある。
稚拙といえなくもないけれど、みょうに可愛い。
柳が大好きな朝鮮の民画の特徴をひとことでいえば「ブキミ可愛い」!

虎なんぞ虎というより昆虫の目をした四足の怪獣にしか見えないのですが、やたら可愛い。このかわゆさはなんなんだ。

陶器には詳しくないけれど、朝鮮陶器といえば高麗の青磁とばかり思っていました。
写真でみる限り、高麗の青磁はデザインもいいし、色も綺麗。それに比べると、李朝の白磁はどうも精彩がない。

骨董好きが珍重する李朝の白磁には、さっぱり魅力を感じませんでした。

今回もたくさん陳列してある李朝の白磁にはまるで興味がわかない。
ところが、民芸館二階の広からぬ各部屋に展示された李朝の陶器を何度も見ているうちに、みょうなもので白磁がかわゆく見えてきた。

ひとつには、白磁ではないけれど、素晴らしい井戸茶碗との出会いが眼を変えてくれたせいもあります。

井戸茶碗とは、李氏朝鮮で雑器として作られた飯盛り茶碗なんですが、室町時代の茶人が名品として愛好したために日本で宝物のように大切にされた陶器です。
実物をみると信じられないのですが、ただの茶碗が物凄い金額で取引された。

ただし、骨董の目利きでもないかぎり、その値打ちはわからんでしょう。
ともかく、わたしにはさっぱりわからない。

しかし今回展示されていた「山伏」という銘のある井戸茶碗には、なにか磁力のようなものを感じました。
どこがどうとはいえないけれど、家に持って帰りたいような可愛らしさ、魅力を強烈に感じたのです。

この「山伏」茶碗に見とれたあとで、李朝の工芸品をみると、はっきり以前とは違ってみえる。家にもって帰って、安心して一緒に暮らせる「安物」――貶めるような表現だけど、そのように言うことが決して侮蔑にはならない何ものがあるんです。

李朝の白磁の魅力は、井戸茶碗のそれと同じで、微妙ないびつさにあります。
これが単純に丸いだけではダメ。四角いだけではダメ。しかし、そのプロポーションにどこか気持ちの悪い不安定さがある。

李朝陶器で気に入ったものは底部(糸きり)のあたりが他のものに比べて、少し太いのでなんとなく落ち着いている。大多数は、その部分が細すぎて気持ちが悪いんです。

どこか可愛い。しかし、なんとなく薄汚れた安っぽさを感じざるをえない。
でも、手元に置いておきたいような魅力もある。
いったい、この矛盾した感覚はなんなんだろう。

そんなことを考えながら、ぐるぐると展示室を巡っていました。
すると、一室だけ民藝運動に参加した陶芸家たちの作品展示室があります。
そこに並んでいるのは、浜田庄司や河合寛次郎などの大物陶芸家の作品です。
もちろん全員、日本人です。

李朝陶器を見てきた目からすると、彼らがそれを大いに学んだことは歴然です。
ただ技術に関していえば、浜田や河合たちの方が確かかもしれない。

とにかく日本の近代作家の作品には破綻がない。
ゆがみすら、調和がとれていて安心できる。というより、茶器としてわざとつけたゆがみだから、ゆがみもこの場合は得点ポイントになる。
けちのつけようがない。

しかし――その代わり、李朝陶器の魅力もないのです。
均整がとれていて、きれいだけど、魅力的じゃない。
技術は高いけれど、かわゆくない。

不思議だなと思って、もういちど李朝の陶器を見直して2階の各展示室をまわってきました。
すると、今度は李朝の陶器に異様な圧迫感を覚えだしたのです。
とても、同居なんかできそうにないほどの圧力。
「安っぽい」という感じはまだ拭い去れないけれど、これは「安物」ではない。もっと別のものだという気がしてきました。

しつこく眺めているうちに、段々わかってきました。
李朝陶器の魅力は醜さと紙一重なんです。
「嫌だ!」と拒否したいすれすれのところが「ちから」となり、魅力となる。

朝鮮陶器の魅力と美は、平均的日本人が好むフォルムを逸脱した醜さにあると思います。

「安物っぽく」みえたのは、平均的日本人の感性では歪みやねじれ、変色は品質検査に落第した品物の特徴だからです。まさか、作者が意図しない歪みやねじれ、染みや変色としかみえないものが美になるとは――考えもつかなかった。

とにかく李朝陶器の歪みやねじれや色は作為的に作ろうとしても不可能です。
そんな具合にできているのです。

あたまではそういう趣味を好む人たちがいることは知っていたけれど、実感したのはこれが始めてでした。

柳宗悦は李朝の白磁の魅力をこの国で最初に紹介した先覚者です。文献をすべてあたったわけじゃないから、「おそらく」と留保をつけざるをえないけれど、とにかく大日本帝国が植民地化し、同化政策で朝鮮文化そのものを破壊しようとした時代に、朝鮮文化を愛し、その価値を世界に伝え、同時に朝鮮伝統工芸文化を保存しようとした。

その理想を支えた理念を、後に柳は仏教用語を借りて「無有好醜の願」と名づけました。

これは浄土教の経典にある阿弥陀仏の願(ホトケとしての達成目標)のひとつで、阿弥陀仏の西方極楽浄土ではすべての人が同じ姿・形・肌の色をしていて、美しい人(=好)や醜い人(=醜)の区別がないと、普通は訳されています。
すると、西方極楽浄土は住民がすべて同じ姿・形を強制されるファシズム国家(あるいは現代日本人?と同じ)ではないかという疑問が出ますね。
柳宗悦は、その解釈は違うというのです。

これは全員が同じ姿形をしているファシズムではなく、それぞれがそれぞれの個性を発揮したまま「美しい」。普通なら醜いとされるはずのものが、「美」であること。これが西方極楽浄土の本当のありかただというんですね。

つまり「個性」がそのまま「美」である世界。
それを、柳は「美の法門」と名づけた。

わたしにとって、李朝の白磁の魅力は、まさに柳宗悦の「無有好醜の願」そのもの。

日本的感性でがんじがらめになったわたしには、「美」とも「可愛い」ともみえなかった李朝の白磁が次第に「美」と「魅力」そのものになる。

たかが陶器をみることではありますが、わたしは李朝の陶器によって、ある迷妄から救われたといえます。

それは教養的な意味や、骨董屋のお得意さんになる素養を身につけたという意味ではなく、もっと応用範囲が広くて大切なことを教わったということです。

柳の『美の法門』は、いま岩波文庫に入っています。
同書所載の講演を聞いて、版画家棟方志功は「ありがたいことだ」と泣き出し、講演終了後、柳といっしょに抱き合って泣いたというエピソードがあるそうです。

わたしの記憶違いでなければ、おそらくエピソードの講演は「無有好醜の願」についてのもの。

たかが茶碗を見ただけのことですが、(自分の見る)世界がぐんと広がったような気がします。

日本民藝館の展示品をみているうちに、棟方志功の話や柳宗悦のいろんな本で紹介されたさまざまな人々(品物)のたエピソードが次々に浮かんできて、涙が滲んできました。

柳は昭和36年に亡くなっているので、メディアを通じても、その姿や声を知るよしもない。
しかし、著書と日本民藝館のおかげで、その魂に触れることができたような気がします。

民藝館を守っている人・本を出してくれた人。その人たちみんなに心からお礼を言いたい。
「ありがとうございます」と。

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12月09日

『沈まぬ太陽』(山崎豊子)を読みました。

評判の高い本だったので、かなり期待して読み始めたのですが、なんだか不思議な気分でした。
どうにも、主人公に感情移入できないのです。

ストーリーの骨子は、日本航空をモデルにしたらしい「国民航空」なる会社のエリート社員・恩地元が組合活動にがんばりすぎて、会社上層部と霞ヶ関・永田町から憎まれて、パキスタン、イラン、アフリカといった海外勤務を命じられるというもの。

山崎氏は、いかに海外勤務が大変か、単身赴任のために精神が荒廃する危険について丹念に書いているのですが、困ったことにさっぱり共感できない。

日本人が海外で暮らす大変さを共感できないことには、主人公の苦悩と日本型管理社会に対する怒りが湧いてこないのです。

むしろ主人公を苛める会社側の人々の方が、情けなくて哀れに見えて仕方ない。
この人たちを一言で表現すれば「社畜」という他ない。

戦前に転向した左翼上がりの陰謀家を除けば、みごとなまでに「社畜」ばかり。

もちろん、主人公とともに戦う組合員たちは、会社から陰湿ないじめを受けて、健気に立ち向かうので、雄々しい描かれています。
一方で会社側のあまりにも情けないイジメが、会社人間の「社畜」ぶりをいよいよ鮮やかに描き出す。そういう部分は、実に精彩がある。

ただし、主人公の苦労に涙できるかというと、そうでもない。
会社を首になるわけでもなく、アフリカ、中近東をたらいまわしにされるだけで、なぜそれほど苦しむのか。
どうも、このあたりが良くわからない。

子供たちが劣悪な教育環境を嫌って日本の進学校に入学したり、左遷されている父を恨んだりするのは、仕方ないと思います。
海外生活が長すぎて「日本人」になれなくなることを恐れる気持ちはわかるけれど、日本型の教育システムがそれほどありがたいのかなという素朴な疑問がわいてしまう。

べつに日本にこだわることもないような気がするんです。

アフリカで、語学留学したあげく、現地人の男に騙されて妊娠して捨てられた日本女性が登場します。
その女性は黒人との混血児を出産し、「日本人の面汚し」として現地日本人社会から爪弾きにされたうえに、スラム街でウェートレスをしながら双子の子供を暮らしている。
物乞いをする「乞食」同然の姿に、同情しつつも、主人公はぞっとする。
日本に帰らなくてはと強く願う。

しかし――異国で帰る場所もなく、たくましく暮らしている女性の方に、わたしは共感してしまいました。
黒人男の親族は、子供を連れて訪ねて来た女性を警察に突き出すような連中です。
良い人間など、ひとりもいない地獄のような世界です。しかし、この女性は、子供たちはアフリカ人だからここに住むのがいちばん良いと、故国に帰らず異国で生きている。

これからの日本人は、「乞食」として主人公の前に現れた女性の逞しさがないと生きていけないじゃないでしょうか。
パキスタンやイランの現地学校が嫌で登校拒否した主人公の子供(後でめでたく日本の進学校に行く。)酒を飲んでは、辺境の海外勤務の不満を爆発させる「国民航空」の社員たち。

こういう人たちは、今でもエリートなんだろうけれど、恐ろしく時代錯誤のような気がする。

主人公の苦悩をみるたびに連想するのは、平安時代の国司階級の貴族たちです。
都を思い、家族を思い、袖を涙でほとびらせ、和歌を読む。
朝廷の除目(じもく)で良い職が貰えないかと、有力者に賄賂を贈り、現地の人々には無関心。

えらく殿サマな平安貴族と、国民航空の社員たちがどうにも重なってみえる。

地方に無関心だった平安貴族に未来がなかったように、地球規模の発想と無縁で社内政治にしか興味がない国民航空社員にも未来はまったくないと思います。

要するに「のんびりして、いい時代だったなあ」と言うほかはない。
世の中は、もっと大変になっています。
「社畜」なひとも、霞ヶ関から天下りした会社トップも、安閑とはできない時代になりつつある。
日本型会社社会はつるべ落しに衰退へ向かっていると思うほかない。

『沈まぬ太陽』が日本株式会社(と官僚支配経済)に対する怒りの象徴だとすれば、もう戦う相手はかなり弱っている。
国もだめだし、大企業もだめ。
むしろこんな死にかけた恐竜はほっとくべきです。やがて自壊するでしょう。

この本を読んでいると、えらくピントのはずれた戦いを読まされている気がするのです。
三角ベースしか知らない子供が、大リーグ選手に挑むような……。

こういう本で感動できるような人は、めちゃくちゃ大変なこれからの時代を生き延びていけるんでしょうか。
少なくとも、主人公のような発想と行動では無理な気がします。

大勢の人が感動したというのに、わたしにはすでに絶滅した生き物の亡霊がすすり泣いているようにしか読めませんでした。

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12月08日

業界に詳しくないので、知らなかったのですが、岩波書店の本は「鈴木書店」という取次ぎ会社が一手に引き受けていたそうです。

「鈴木書店」は岩波書店の本を普及することを目的に、1947年に創業した会社とのこと。
その会社がつぶれると、岩波文庫などを書店に卸すことが難しくなるらしい。

鈴木書店の取引先は、岩波書店だけじゃなく、筑摩書房や有斐閣など硬いものを扱う出版社が多い。ということは、人文・社会系の本屋さんは軒並み影響をうける……。

専門書の取次ぎとして活躍しただけでなく、各大学生協の書籍部の創設にも、この鈴木書店は深くかかわっていたそうです。

大学生の活字離れが経営難の原因という論評もありました。
でも、本当にそうなんだろうか。
そもそも、知識が大学という場所に集積されるというあり方そのものが時代にそぐわなくなっている。だから、大学生には情報・知識が必要ないのかもしれない。
現代の大学生のレベルでは、マンガにでもして噛み砕かないかぎり、どんな知識も入らないのでは。

日本語・英語を使いこなして、ばりばりと学べるタイプと、そうでないタイプに、若者は二極分化している。「いまの若者」で世代的にくくるのは、もう通用しない。
世界を舞台にできるタイプと、中年以降の人生があやぶまれるタイプの開きはどんどん大きくなる一方だと思います。

だから、ものすごく立派でこっちの頭が下がるような子もいれば、「だめだ、こりゃ」というのもいる。これは少産少子化が進んだ先進諸国では避けられない現象――二極分化というやつだから仕方ない。

知識集積型は、できるタイプにのみ必要なものです。
このあいだの世界の高校生学力試験をみるかぎり、日本にはできるタイプが圧倒的に少ない。
活字離れや、大学生の書籍購入が減ったことは、構造的なものなんでしょう。

取次ぎのように生産場所(執筆者)と、集積場所(大学など)を結ぶ仕事は、今後生き残りは難しい。
生産場所と購入者を直結できる仕掛けを作ることが、いまの課題じゃないですか。
これは食料品で生産者(農家)− スーパー(流通業) − 消費者の仕組みができたときに、問屋がだめになった構図と似ていますね。

上の構図では、いまはスーパーも危ない。
個人的には、出版社そのものも危ないと思います。
だから、従来の取次ぎ会社に未来があるわけがない。

ただし、これからはますます知識集積の必要がある。
質の高い情報をパーソナルに収集・集積することが可能でないと、「よりよく生きる」ことがますます難しくなるからです。

そうである以上、生産の場からあがったものを、二次加工する仕組みがどうしてもいる。

鈴木書店のようなところで、そういう専門知識を培った人が、発想を変えて新しい商売を作るチャンスはかえってあるような気もします。
同じことは、出版社の側にもいえる。

こういう時代だから、頭がかたくなったらダメですね。
発想を柔軟にして、いままで身につけた技能や経験を徹底的に活かす。
こうでなくちゃ、中高年まで生きてきた甲斐がない。

わたしは、今回の鈴木書店の倒産で日本の出版界がだめになるとは思っていません。
もうとっくにダメになっているんだから、潰れるところは潰れるだけ。
良書を世に送り出したいと願う人は、かならずなんとかするはず。
「希望は失望に終わらない」という三浦綾子さんの言葉もありますしね。

世の中には、頭の良い人がいて、必要なものは必ず世の中に送り出すように知恵を働かせてくれる。

自分と自分が好きなものだけには、わたしは徹底的に楽観主義です。

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12月02日

世界の名著『バラモン経典・原始仏典』(中公バックス)を読みました。
この本に惹かれたのは、「ジャイナ教」の教義をまとめた「ジャイナ教綱要」があるからです。

実際に読み始めたら、原始仏典の方が面白くなってジャイナ教は後回しです。
原始仏典のひとつに『出家の功徳』というのがあって、そこでジャイナ教の教えがコンパクトに紹介されているのも、読まなかった理由のひとつです。

ゴータマ・ブッタやインドの仏教僧は、後代の日本仏教の坊さんよりは、古代アテネのソフィストに似ています。
いや、正確にいえば、ソクラテスというべきでしょう。

古代のアフガニスタンあたりの支配者メナンドロス王と、仏教僧ナーガセーナ長老の問答を記録した『ミリンダ王の問い』は、プラトンの対話編そっくりです。
小気味の良いメナンドロス王(ミリンダ王とは、メナンドロスというギリシア語名がなまったもの)の難問を、ナーガセーナ長老がみごとな論理で切り返す。
プラトンの初期対話編の愛読者には、たまらないシチュエーションです。

この経典が書かれたのは、紀元前1世紀半ばらしい。
インド文明とギリシア文明と接触したヘレニズムの時代の産物です。
異質なものが幸福な出会いをするときに、文化は生まれるという良い証拠。

アフガニスタンは、この頃世界の文明の中心のひとつだったんですね。

ところで、仏教の経典には有名な悪人が何人か登場します。
最大の悪人といえば、ブッダの従弟デーヴァダッタ。
かれはブッダを殺して、その教団をのっとろうとしたとされています。
もうひとりは、阿闍世コンプレックスで有名なアジャータサット王(=阿闍世王)。
デーヴァダッタにそそのかさされて、父王を餓死させた悪人です。

ところが、まだ凄いのがいます。

原始仏典の「強盗の帰依」の主人公、大殺人鬼アングリーマーラがそれ。
この名前は「指の首飾りを持つもの」という意味です。
殺した人間の指を切り取って、首飾りにしているからです。

その殺戮によって、村や町、地方までが寂れたとされる。アングリマーラが出没すると、何十人、何百人もの人が殺されるから、だれもが逃げ出すからです。

そのアングリマーラがブッダに出会って生まれて初めて畏れを抱き、殺しの道具を捨てて弟子となるのです。
おりしも、ひとりの王様が殺人鬼を退治しようとして、軍勢を引き連れてやって来た。

ブッダは、髪をそり、仏弟子のひとりとなったアングリマーラを引き合わせます。

殺人鬼の所業を恐れて殺そうとした王は、噂とは別人のようなアングリマーラに驚き、ブッダの教化のちからを称えて引き返しました。

ブッダのもとで修行を積んだアングリマーラは、難産で苦しむ妊婦を法力で助けるほどの高僧となりました。

すると、皮肉なもので、そのときはじめて人々はアングリマーラに土くれを投げ、棒を投げ、石を投げるようになった。
まだ殺人者の面差しが残っているときには、決してしなかったことを。

アングリマーラは血だるまになって、ブッダの前に出た。
すると、ブッダはいう。
「御身は忍耐せねばならない。以前の所業によって、これから何千年ものあいだ地獄で味わったであろう苦痛を、いまこの場で味わっているのだから」

アングリマーラは、この言葉を聞いて、一人離れた場所で歓喜します。

たったこれだけの短い話なのですが、はっとしますね。
仏教はただの宗教というには、はるかに深い人間洞察に満ちています。

べつに人を殺していなくても、日常生きているだけで、しょせん斬ったはったは避けられない。ごく普通に生きている人であっても、アングリマーラのようにどこかで他人を殺したり、傷つけているものです。
刃物や毒だけで人を殺すのではない。
言葉や眼差しでも、人は殺せる。

それを反省すると、かえって痛い目にあうのは誰もが知っているとおり。
「なまじっか仏心をだしたばかりに」と、よくいいますね。

でも、損するみたいな反省が、深い慶びに変わるのだとブッダは教えてくれている。
こういう苦労人なブッダが、好きですね、わたしは。

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12月01日

『物語 中東の歴史』(牟田口義郎)を読みました。
中公新書でさほど厚くなく、さらりとイスラムの歴史について読めました。

概説書としては、よく出来た本です。

分り易いだけに、かえって中近東の重層性がいよいよ明らかになる。

中近東の歴史は、シュメール人から始まります。
旧約聖書には、ユダヤ人の始祖アブラハム(=アブラム)がシュメールの都市国家ウルから荒野に旅立ったとある。
聖書に親しんだ欧米人にとって、歴史はシュメールから始まるのです。

アッシリアの暴君や、ネブカドネザル、ダリウスといった大帝国の帝王の事跡は、欧米人にとって常識です。
ちょうど日本の知識人にとって中国史が常識であるように。

しかし碩学牟田口氏でも、さすがにそこまで触れることは、新書のスペースではできなかった。
イスラム以前で、すでにそれだけの歴史があるのです。
ムハンマド(マホメット)は、聖徳太子の同時代人だから、紀元前三千年前に遡る中近東の歴史では新顔ですね。

これだけの膨大な歴史が背景にあって、イスラムが存在する。
有史時代から五千年。しかもイスラム暦も1379年もある。

イスラムの歴史といっても、すべてを触れることは不可能です。
十字軍と戦ったサラディンやバイパルスをメインに扱ったのは、手際良くまとめるためには良かったけれど、アラブ帝国(四大カリフの時代)やウマイヤ朝・アッバース朝、さらにはオスマン・トルコがさらりと流されているのはやはり物足りない。

中近東の歴史とは、それだけで世界史であったわけだし、イスラム世界の歴史を語ることは同時にユーラシア・アフリカ大陸の歴史そのもの。
これを「中東の歴史」として、くくることに無理があると、かえって分ってしまいます。

わたしたち日本人が「三国志」までの中国にはやたら詳しいくせに、その後のことはさっぱり興味がないのと同じで、欧米人も古代メソポタミア文明には興味があるけれど、イスラム史なんか全然興味がなかった。
文明交流史ともいえるイスラムの歴史の大切さが、やっと分ってきたんでしょうね。

いまアメリカの大学では、同時テロ事件後、中近東関連の学部がやたら人気となっているそうです。
アフガンが専門の地理学部を設置していた田舎の大学に、CIAがリクルート攻勢をかけているとか。

さすがは、プラグマティズムの国だと感心してしまいます。

人を知るには、その人が生きてきた過去を知るほかはない。
これは国や民族、地域でも同じこと。
中近東も、いまやこの国にとっては重要な場所となりつつある。

『物語 中東の歴史』では物足りない。
もっとイスラム世界を知りたいと、いよいよイスラム熱が昂じてしまいました。

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