お気楽読書日記: 9月

作成 工藤龍大

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9月

9月29日

いまさらですが、『千と千尋の神隠し』を観てきました。
夏休みなどは恐ろしくていけませんね。
『もののけ姫』を見に行ったときには、夏休みでもなかったけれど1時間以上並びましたから。

飽きっぽい世間さまのことだから、そろそろ大丈夫かなと思ったけれど、やっぱり45分は並びました。
でも、子供連れじゃなくてカップルが多かったから、まだ救われていたんでしょう。
このごろ面白そうなところへ行くと、行列するのは避けられません。

映画の方は、圧倒的な「絵」のちからに押しまくられて、どうもピンと来なかった。
少なくとも、こちらが大人である分だけ、宮崎駿監督のメッセージが直截には伝わらなかったように思います。

この映画が話しかけたい相手は、大人社会の食い物になっている子供たちですね。
子供たちに「幸せに生きたいと願えば、かならずそうなるから、怖がらないで。きっと大丈夫だよ」と、親切なおじさんが優しく言い聞かせてくれている感じがしました。

そんなもんじゃないだろう。世の中はもっときびしいんだ。
――という声も自分の中では聞こえてくるのですが、そんなことは当の子供たちの方がもっとよく知っている。そして、絶望している。自分を含めて、ありとあらゆるものに。

この国が元気をなくした最大の理由は、「希望を捨てて、物質的な安楽を追い求める」ように、大人たちが子供たちを訓練してきたことでしょう。
そうして育った子供たちが、もう四十代になっている。
子供らしい夢を捨てた分だけ、この国はエネルギーを失ってしまった。

なんの取り柄がなくても、生きてゆける。
「いっしょうけんめい」でさえあれば、必ず自分を助けてくれる人は現れる。
自分が気づかなくても(忘れていても)、誰か自分を大切に思ってくれる人は必ずいる。


宮崎監督が言いたいことは、この三つに要約できるような気がします。
でも、いまの大人は逆のことを教えている。

取り柄(資格・才能)がなければ生きられない。
一生懸命には、なんの価値もない。金がなければ死んでいるのも同じ。
人を支配する立場にない人間は大切にされる価値がない……と。

出版・TVその他を含めたマスメディアが、朝から晩まで喚き散らしているのは、この考え方ですね。
そして、それにいちばん汚染されているのが、子供たちの親であり、祖父母。

こんな世の中だからこそ、『千と千尋の神隠し』はああしたストーリにしかなりえないのだと思います。人は成長しない限り、幸せにはなれないのだけれど、宮崎アニメは「成長」を認めない。
じつは、そこに宮崎アニメがこの時代のこの国で圧倒的に支持される理由があるような気もします。
成長は痛みをともなう喪失の過程であるけれど、それを認めず、結果だけが出る。
『ナウシカ』にはじまる宮崎アニメの主人公たちは、ある意味では超人なんですね。
むしろ「神さま」の一種といっていい。
本当の「力」を、何かのきっかけで発現する超人であり、「神さま」たち。

宮崎アニメは主人公が傷つき成長する英雄物語(叙事詩)ではなく、神話なんです。

超能力少女ナウシカではじまった宮崎作品が、平凡な子供の顔をしているけれど、神さまさえ助ける力を発揮する少女・千で終幕するのは、必然なのかもしれない。
――などということを、ぼんやり考えながらラストシーンを観ていました。

誤解して欲しくはないのですが、宮崎駿作品を否定しているわけじゃないのです。
それほどまでに、この国の人々は傷つき、互いを否定しあい、自分を蔑みながら生きてきたんだなと改めて思い知ったのです。
「あなたはあなたであるだけで良いんだ」と誰かに云ってもらわなければ、生きられないほどに。

それは個人レベルの話だけじゃない。
少なくとも、製作者である宮崎監督はそう考えているようです。

「ボーダーレスの時代、よって立つ場所を持たない人間は、もっとも軽んぜられるだろう。場所は過去であり、歴史である。歴史を持たない人間、過去を忘れた民族はまたかげろうのように消えるか、ニワトリになって喰らわれるまで玉子を産みつづけるしかなくなるのだと思う」

映画パンフレットに書いてある宮崎駿監督の言葉です。
最後の言葉のメタファーは、映画をみないとわからないかもしれませんが、字面とおりに解釈しても重いですね。
ニワトリになって食肉として潰されるまで、奴隷同然の労働をするというのは南の開発途上国がいま陥っている運命ですから。

つまりは、今を生きる大人たちが自分たちの「拠り所」をもてない現状こそ、子供たちを危機に追いやる原因だと宮崎監督は云っている。

歴史という蓄積を否定する「おぼつかなさ」がある限り、倫理も生命力も出てこない。

では、そのような日本という国は、「あやふや」でどうしようないものなのか。
いや、違う! ――と宮崎監督は子供たちにきっぱり伝えている。

この国の文化や歴史には、胸を張って自慢できるものがあるんだ!
そうしたことを、はじめてマス(大衆)に語ってくれたのは、宮崎駿監督が大好きな司馬遼太郎さんでした。
従来の文化人・知識人・政財界人(つまり、この国の支配層)は、西洋崇拝という病気にかかっていて、自己否定の精神疾患を引き起こしていた。
日本という国の足腰の弱さは、自分のよって立つ場所を捨ててかかった自傷行為のせいです。

グローバリゼーションの波が押し寄せ、世界がボーダーレスになった現代はもうそんなわけにはいかない。
積極的に自分を肯定し、自分のよって立つ場所を大切にしなければ駄目。やっていけません。

宮崎自身さんがパンフレットの解説で書いているように、少女・千尋の迷い込んだ異世界の意匠が昭和二十年代頃をもとにしていることに、深いメッセージがある。

あの和洋折衷の「擬洋式」という建築要素は、世界文化を取り入れてたくましく成長してきた日本という国の本質なんですね。
夜の闇に浮かぶ謎の街の美しさは、この国の本当の美を現している。

このことを含めて、この映画には一度や二度観たくらいでは組み尽くせない仕掛けがあるんでしょうね。

とにかく『千と千尋の神隠し』は大人のためであるよりは、この後の未来を託する子供たちへの贈り物なんですね。
大人たちは千尋の両親たちのように変わることはできないのではないか。
そんな苦々しさも伝わってくる。

「親はあっても、子は育つ」
宮崎駿監督の苦微笑が目に浮かびそうじゃありませんか。

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9月28日

このごろ読書日記をご無沙汰してますね。
忙しいのがなんといっても最大の理由ですが、どうもそれだけじゃないような気もします。

最近なんだか読む本のジャンルが変わったきました。
軽く読めるくらいの本なら、むしろ読まないですませるにこしたことがない。
横着といえばそれまでですが、本を読む時間を作るためには絶対に必要な覚悟です。

ときどき考えるのですが、マンガの立ち読みはいまだに熱心なのに小説の立ち読みなんて全然しないのはなぜか?
答えは、わかりきっています。
読むに値する小説は立ち読みなどできるレベルじゃないし、一、ニページくらい眺めて作者のココロの程度がみてとれる作品なんてどうしようもない。

なんとなく悩みを謳いあげるだけの作品には共感できないんですね。
小林秀雄がいいことを云っています。

「活字から直接に感動に達する通路は全くない。活字は精神に、知性に訴えるものです。」(「喋ることと書くこと」)

悩みのただ中で悲痛な声ですすり泣くのは、「詩」ではあるけれど、なんの解決にもならない。こういう世の中ですから、そういう退嬰的なことは止めたいと思うのです。

本を読むということを、時間つぶしの現実逃避ではなく、時空を越えて他者と対話する方法――ソクラテスの「対話術」の発展的形態としたいと思えば、おのずと読む本も選別されてくるのは仕方ありませんね。
永遠に生きられるわけじゃないから。
「あれか、これか」
生きるってことは、決断することです。

そういうことをぼんやり考えているせいか、少々手強い本を読むことが多くなりました。手強いというのは体裁じゃありません。文章は易しくても、手ごたえがあるという意味です。
この頃は学者・文化人の方が手ごたえのない本を書いていますからね。

それについて考える時間が増えたために、読書日記を書くことまで手が回らなくなったというわけです。
本を読むペースはまったく同じなんですが……。

そして、もうひとつ理由があります。
最近、比重が大きくなっているのが日本の古典であるということ。
もうひとつ言えば、日本古典を読む解くには中国古典も読まなければいけない。

この国の文化を築いてきた人々には、閉鎖的な鎖国状況でもの作りをした例がほとんどないのです。

あの国風文化や徳川期の文化でさえ、外国との交流や消化して骨肉化した異文化の蓄積の上でなりたっている。
一例をあげると、江戸時代の商家に特徴的な紅殻格子に使われた顔料「紅殻(べにがら)」とは、インドのベンガル地方の特産品なのです。

紫式部や清少納言が当時の女性としては珍しく、漢文の読み書き能力を持っていたことはご存知のとおり。

日本古典を読むことは、古くはインド・中国を読むことであり、近世にいたってはこれに東南アジア・欧羅巴を読みとることなのです。(最近では、媒介としての朝鮮半島を無視することはできなくなりました。)

日本を知ることは、世界を知ることでもあります。
少なくとも、著者の方にそれだけの素養があるのですから、それを日本国内の伝統のみ視野に入れて読むことは、ある意味で誤読といっても言い過ぎではない。

そういう相手を読むわけだから、一冊を気楽に読む解くことができない。
この年になって、本の読み方を一からやり直しているような毎日です。

古語辞典を眺めるだけで面白く、漢和辞典でも十分に楽しめる。
いってみれば、字の書けなかった人が生まれてはじめて夜間小学校にいって、そこの勉強を楽しんでいるような精神状態にある。

「子供返り」したような不思議な気分です。

これまで、わたしは西洋の本を原書で読むことに熱中してきたのですが、そろそろそこで培った眼をもって、この国の宝物を掘り起こす時期が来たような気がします。

いまは「蛹」になって、この時期を乗り切ろうと思っています。

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9月23日

長いあいだ読書日記もお休みしていましたね。
いそがしかったせいで更新できず、土日も書く気力が出なかったのです。

今週からまたぼちぼちと書いてゆくつもりです。

本だけは読んでいたのですが、リアルタイムで読書日記に出来なかったので、いつか再読したときにでも書くことにします。

ところで、そんな本の中でも、特に心に残ったものがあります。
本日はそれについて書きます。

それは、『智恵子抄』(高村光太郎)です。

高村光太郎という人について、これまであまり興味がなかったことは白状しておかなければなりません。
あの「僕の前に道はない 僕の後に道はできる」というので有名な『道程』は別として、その他のものには心の琴線に触れるものがなかったのです。

どちらかというと、北原白秋や萩原朔太郎のような音楽的、イメージ的な詩が好きなもので、高村光太郎のような道徳哲学的あるいは生活実感的なものには面白さを感じなかったのです。

ただし、このごろは高村光太郎のような詩が好きですね。
宮沢賢治の『春と修羅 第一集』よりも、『第三集』の方が好きになったことと関係がありそうです。
現実というやつが、幻想と同じ心象の産物だというインド仏教の唯識派の意見に、傾くようになったせいでしょう。
一念三千ともいう仏教哲学の思考が、このごろどうにも動かせない事実のように思えてなりません。

わかりやすくいえば、自分が生きている世界を形づくっているのは、自分自身のものの考え方に他ならないというものです。

そのように考えるようになって、高村光太郎の詩を読んだとき、はじめて『智恵子抄』や他の詩の意味がわかってきたと思うのです。

高村智恵子という精神分裂症を病み、肺結核で死んだ女性について、わたしは教科書の文学史的な知識以上のものを知りません。
今回読んだ新潮文庫の解説や、高村光太郎の書いた「智恵子の半生」という短文で、もっと詳しいことを知りました。

それまでのイメージといえば、「東京には空がない」という、田舎育ちの人間にはまことに実感のこもった言葉を吐いた東北女性――といっても過言ではありません。

ただ、光太郎や解説を書いた詩人の草野心平の言葉を読む限り、智恵子という人は平凡な女性とは言い難い。
油彩画家をめざして挫折したとは、どの本にも書いてあります。
光太郎の短文にもそうあるので、事実そのとおりなのでしょう。

しかし、この人はおそらく職業的な芸術家には絶対なれないタイプだと思います。
なぜなら、この人の眼は内面を向いている。

この種のタイプが芸術家になると、作品をひとつ仕上げるだけで大仕事です。
しかも、同時代の同業者には絶対に評価されない。
それが言いすぎだとしても、評価するのは同時代の天才だけなのです。

天才と書きましたが、つまりは職業的技能者である芸術家には値打ちがわからないのです。なぜなら、内面を志向する人は付加価値を売るのではなく、価値そのものを作る出さざるを得ないからです。

新しい価値を作ることに成功した人を、世の中では天才と呼びますね。
だから、天才でないかぎり、内面志向型の芸術家の意図を理解することはできません。

世の中が経済活動に取り込めた才能でないかぎり、それを切り売りして生活することはできない。
夫の光太郎はそのような幸福人ではありましたが、智恵子さんはそうではなかった。
内面志向型がいちばん陥りやすい有り様は、挫折した芸術家です。
智恵子さんもその例外ではない。

「智恵子の半生」を通して窺われるのは、智恵子さんのそのような有り様です。
このタイプとしては、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが有名でしょう。
智恵子さんは、凶暴性のないゴッホとでもいえる。
後年の心の病と、自殺未遂は、光太郎のいうように必然だったと考える他はありません。

ところが、このように不幸を運命づけられている魂が、他の人間の魂を救う役割を果たした。
高村光太郎という人が今日私たちの知っている人になるには、智恵子さんとの出会いがなければなかった。

こういうことはいえるかもしれません。
智恵子さんは、光太郎を媒介にして後の世に生きるものたちに何事かを伝えてくれたのではなかったかと。

ややこしい構図ではありますが、光太郎は智恵子さんを媒介にして何かある大きなものに触れることができた。
光太郎はそれを私たちに伝えた――どうにもそう思えて仕方がない。

それが何なのか。
大きすぎて見えないのか。それとも、こちらの眼が小さすぎて分らないのか。
そのあたりは微妙なところです。

もう少し考えてから書くことにします。

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9月 8日

本日は『西洋紀聞』について書きます。

この書物は短いものですが、上下三巻から構成されています。
そのうちわけは、上巻が宣教師シドッチの日本上陸からその死までを紹介したもの。
中巻が当時の世界地理とヨーロッパ情勢。下巻がキリスト教の紹介となっています。

新井白石は漢文がそうとうに出来たので、漢文の本(漢籍)から世界知識をある程度予備知識としてもってました。
だからこそ、シドッチとの対話から多くの知見を引き出せたのです。

一を聞いて十を知る。 シッドチは日本語を話せたのですが、それは近畿以西の方言が入り混じって理解し難かった。通じない部分をシドッチがラテン語で話し、オランダ通辞がそれをオランダ語の知識で理解して、白石に伝える。
それを白石が膨大な漢学の知識で類推して理解する。

一見おぼつかないコミュニケーションに思えるけれど、入力(インプット)側と出力(オウトプット)側がずばぬけた知識人だったので、高度の情報伝達が可能だったのです。

白石はもちろん日本史上でも稀に見る大学者です。
実務政治家としての資質はなかったようですが、江戸時代においてこれほどの大学者は他にいません。

それに比べて、シドッチという人はどうかといえば、わたしの不勉強もありますが、それほど有名な知識人というわけではありません。
手元の日本史辞典を開いてみても、イタリアのシチリア島生まれの人としかわからない。

ただし、その知識・見識は一流の知識人といっていい。
歴史に名前が残るというのはアクシデントみたいなものですから、歴史上の無名人でもすごい人はいくらもいるのです。

片言の日本語方言と、オランダ語を仲介したラテン語と日本語の会話で、キリスト教教理・歴史を的確に伝えることができたのは、白石が頭脳優秀だったばかりではなく、情報源のシドッチの見識に負う所が大きいと考えざるをえません。

この人が日本布教を決意したのはローマにいた時でした。
キリシタン信徒の少年たちが、ローマを訪問した天正遣欧使節(1582年)の記憶に惹かれて、シドッチは当時鎖国してキリシタンが禁教とされていた日本への布教を思い立った。
シドッチが日本へ来たのは、1708年ですから、ほぼ百年後ですね。

ローマで資金を用意して、船でアジアに向かい、フィリピンに落ち着いた。
ここには鎖国で日本から追放された日本人キリシタンの村があって、シッドチはそこで日本語と日本の風俗を学び、日本へやってきたのです。
そのときの服装は、日本の着物をまとったずい分怪しげなものだったと、『西洋紀聞』の「付録」に書いてありました。

シドッチとしては、まず宣教師の自分が乗り込み、信徒を獲得して、教会を設立する。ゆくゆくは、イタリアから司教・枢機卿を呼ぼうという意気込みでした。
もちろん日本の為政者に逮捕されるのは覚悟の上で、尋問場で護教を論じて、為政者を調伏・改宗するという聖人伝を絵に描いたようなプランを抱いていたようです。
ただし、これは『西洋紀聞』を読んだ印象なので、シドッチが本当にそんなヒロイックで夢想的な計画を抱いていたかどうか。

ところが、日本の役人たちはいっこうに興味を示さず、シドッチは長崎で取調べを受けた後に、江戸の「キリシタン屋敷」に押し込められる。
ここは改宗した外国人宣教師(いわゆる『転びバテレン』)を軟禁する場所でした。

その昔、そこには黒川壽庵(ふらんしすこ・ちうあん)という「転びバテレン」が住んでいて、隠れキリシタンの尋問・摘発をやっていました。

白石の尋問を受けたあと、シドッチは屋敷の牢屋で飼い殺しに近い状態であるけれども、安穏に暮らしてはいたのです。
牢には入れられていたけれども、棄教を迫られて拷問を受けていたわけでもない。
壁に赤い紙で十字架を描いて日々礼拝を怠らなかった。

これだって十分精神的な苦痛があるけれど、直接身体を痛めつけられるわけではありません。

ところが、その後数年して妙なことが起きた。
キリシタン屋敷の雑用係りをしていた老夫婦が、自分たちはキリシタンに改宗したから処罰してくれと上役の武士に訴えたのです。

この老夫婦は屋敷から出られない特殊な身分の人たちでした。
「奴隷」(孥)だったのです。
(孥は、『ど』と読みます。)

江戸時代には、この国でも奴隷がいました。
犯罪を犯した人の妻子や、心中事件の生き残りがこの身分に落とされます。
一生只働きで主人に仕え、他所への移住・婚姻の自由は認められない。
徳川時代の陰湿な刑罰です。本人ではなく、その親族に犯罪の連帯責任を負わせる連座制を適用したものです。

この夫婦はそれぞれの父親の犯罪によって、子供の頃から「孥=奴隷」の身分に落とされました。
そして、転びバテレン黒川壽庵を主人としていたのです。

思えば、これほど悲惨な人生もない。
主人壽庵は日本人との接触を禁じられている。だから、奴隷のふたりも生涯他の日本人から隔離されたまま、キリシタン屋敷から一歩も出られない。
そして、役所の命令で夫婦になった。
キリシタン屋敷の中でしか生きられない奴隷として、老夫婦は子供の頃から生きてきたのです。

そのつらさ、情けなさは想像するだけで、暗澹とする他はありません。
二人はどうやってヒトとしての尊厳を奪い尽くされた生を生きてきたのか。

驚いたことに、「転びバテレン」の黒川壽庵が彼らをキリスト教の信仰へ導いていたのです。
壽庵は外国人神父(バテレン)でありながら、キリスト教を捨て、幕府に協力して隠れキリシタンを摘発した人物です。しかもキリスト教を批判する書物までたくさん書いている。

それなのに、自分の奴隷にだけキリスト教の教えを説いている。
人間とはつくづく不思議なものという他はありません。

その夫婦にとって、シドッチの存在は奇蹟のようなものでした。
自分たちが聞いたこともないローマという土地から、伝道のために生命を賭してやってきて、幽閉されたまま生涯を終えることになる。
そのような境遇でありながら、日々祈りを欠かさず生活している。
かつて黒川壽庵が語ったキリストの生涯を、二人は思い起こしてしまった。

そこで、隠れキリシタンである自分たちの正体をシドッチに明かして、改めて洗礼を受けた。さらには、上役に禁制のキリシタンであることを自首した。

常識として考えれば、これほど割の合わない話もない。
生涯黙って信仰を続ければ、だれにも迷惑はかからないはずですから。

この自首のせいで、上役は老夫婦を牢屋に入れ、シドッチを地下牢獄に移さざるをえなかった。

単純に言えば、信仰による狂気とさえ思える。
夫婦は別れて牢に入れられ、自首した翌年に夫は病死。シドッチもその二週間後に病死しています。
老夫婦の自首は結局、だれのためにもならなかった――ように見えます。
でも、ほんとうにそうなのか?

夫の没年齢は五十五歳。シドッチは四十七歳。どちらも当時としては、老年といってよい年齢です。現代からみれば早すぎるけれど、十八世紀に生まれた二人にとって、死を意識せざるをえない年齢であることは間違いない。

だからといって、この人たちが死に急いだわけではないでしょう。
老年になると「生命根性が汚くなる」といって、若者よりも生命を大事にする。あっさり死ねるのはガキの証拠です。

しかも、老夫婦は若い頃から信仰を隠して、半世紀近く生きてきた。それだけ生命が惜しかったのです。人間だから当然でしょう。
かれらの師である黒川壽庵もそうやって生きてきた。棄教したようにみせながら、信仰を護ってきた。
ただし、他の信者は犠牲にしてきたけれど……。
そういう意味で、日本人にはとっても分り易いといえないこともない。

その欺瞞はもしかしたら、長助とはるという二人の奴隷を苦しめてきたのかもしれません。
でも、外界との接触を許されない二人は、すがるようにして信仰をしてきた。
師である壽庵が死んだあとはいっそう互いに寄り添うようにして。

世界からまったく見捨てられた存在である二人は、そのようにして生を紡ぐしかなかった。この二人の生涯については語られることはありません。
子供がいたのかいなかったのか?
夫婦が若い頃子供が生まれても不思議はない。もし生まれたとしたら、その子はどうなったのか。

このごろでは、江戸時代は特別優しい時代であったということになっていますが、それはあくまでも支配する側の恩恵(つまり押し付け)であって、人間の尊厳を認めたものではありません。
そのことを誤解すると、江戸時代の被圧迫者の気持ちは永久にわかりません。

長助とはるの老夫婦は、万里の海を越えてやってきたシドッチの姿に、自分たちの欺瞞を思い知ったのだと思います。
それは、自分たちを生涯「奴隷」として生きながらの墓に葬った「世の中」そのものへの怒りに変わった。
二人の行動は、「奴隷」から「人間」になるための死への跳躍でした。
罪人となり処罰されることで、「奴隷」は人間となれたのです。

そこまで駆り立てた怒りと情けなさは、現代の日本人にはわからないでしょう。
シドッチの監視役で世話係の奴隷から、同格の囚人になることは、二人にとっては「人間」へ戻る最後の手段だった。

もちろんもはや五十四歳の長助にしてみれば、キリスト教徒として堕地獄の恐怖は抱えていた。隠れキリシタンでありつづけることは、「いんへるの」(地獄)への片道切符ではないのかと。

長助にとって、別の天体にも等しいローマという外国から、教えを伝えに来たシドッチは、キリストの降臨そのものだった――と、わたしは思います。

シドッチとともに罰せられることは、キリストとともに生きることを思い定めた。
もはや、牢死は覚悟の上でした。

このことを宗教的狂気と哀れむのは簡単ですが、長助の身にしてみれば、そんなものではない。
虫けら同然の生涯を生きるように幕府権力から期待され、そのように生きてきた「奴隷」から、「神の王国」の一員になったのだから。
人の世が見捨てた長助の魂を救ったのは、知性と勇気と真情にあふれた外国人だった。
そのことはキリスト教信仰を受け入れるかどうかは別にして、だれの目にも明らかだと思います。

シドッチという人の生涯をみれば、この頃流行りの業績評価という点で言えば、ひどいものです。
ローマからアジアへやってきて、フィリピンで日本語を学習。その後、日本へ密航するもたちまち捕えられて、幽閉牢死。
余命幾ばくもない老人二人を改宗させたが、一人は改宗後一年もたたないうちに牢病死。
けっきょく、何をしに日本へ来たのか。
物質的事実の収支を計算すれば、そんなことにしかならない。

しかし、長助とはる夫婦にしてみれば、そんな計算は論外です。
そして「一粒の麦死なずば」という聖句を知っているシドッチにとっても。

こういう運命的な出会いを、仏教では「感応道交」(かんのうどうこう)といいますね。
救いを求める人がいる。救いを伝えたい人がいる。そういう人々は必ず出会うようになっていると。

禅の公案に「達磨東漸」(だるまとうぜん)という言葉があります。
わかりやすくいうと、インド生まれの禅宗の開祖ダルマ大師はなぜ東の中国へ行ったのか――。
「その理由を答えよ」という禅問答の命題です。

座禅なんてやったこともないので、答えはわかりません。
どうぜ公案なんで、まともな答えを期待されているわけでもないでしょう。

ただ、シドッチの人生を振り返ってみると、この言葉が思い浮かぶ。
「ダルマはなぜ東へ行ったのか」
その答えは、たれの胸の中にもはっきり書いてある。
わたしはそう思います。

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9月 5日

本日の読書日記のお題は、『西洋紀聞』の続きではなく、月刊「しにか」八月号。
「中国の怖いはなし」というテーマの特集でした。

わたしは中国古典の妖怪話が大好きなもので『聊斎志異』はもちろん『捜神記』『剪灯新話』などめぼしいものはほとんど頭に入っている。
つくづくマニアックなやつです。

だから、この本で紹介されている古典はどこかで読んだことがあるなあと、既視感を覚えただけ。マニアなんて、そんなもんです。

どうも書物による恐怖というやつに対して、不感症になっているらしい。
いや、肉体的な恐怖だけかな。いま感じることができるのは。

高所恐怖症なんで高いところがほんとに怖い。あれは理屈抜きですね。
バンジージャンプなんてするやつの気が知れない。(笑)

ただ精神的な恐怖というものは、常時感じているのでかえって鈍感になっている。
考えてもみてください。
痛勤電車(誤字ではありません!)で、席を詰めてもらえば楽に座れることがわかっていても、わが西武池袋線でそんなことを頼む勇気はありません。
ここは、席を詰めてくれといった会社員が、同い年くらいの若者にラリアートで殴り殺された路線ですからね。

混雑した新宿駅のホームを歩いていたら、いつ突き飛ばされて線路で轢死するかわかったもんじゃない。
いまの東京なんかじゃ、ほんとはいつ殺されるかわかったもんじゃないです。

恐怖を感じるメンタリティなんて、よっぽどストレスのない環境にいる人だけじゃないですか、持っているのは。
つまり、ひま人。

「しにか」の特集号に紹介されていたストーリーのなかで、いちばん不気味だったのは、互いに仲間の人肉を食い合う架空の国の兵士たちの日常を坦々と描いた現代の短編小説でした。

運ひとつで、虐殺され、仲間に食い殺される。
しかし、兵隊たちは明日はわが身とは考えない。
何がおころうと自分だけは絶対に塀の向こうには落ちないと根拠の無い自信を抱いて、不運な仲間が虐殺され、肉片に解体されるのを笑いながら楽しんでいる。

しかし――このストーリーに恐怖できる人なんて、いるんでしょうか。
逆説でもなんでもなくて、正直な感想です。

これは現代日本に生きるわたしたちの姿そのままじゃありませんか。
ニュースや世間話で知る他人の不幸。それを自分だけは大丈夫と思いながら、楽しんでいる。
仲間の人肉を食っている兵士とどこが違うのか?

もしかすると恐怖とはある種の「正義」に対する信頼があってこそ、生まれるものかもしれない。
どこかに正しい秩序があると期待するからこそ、生まれる感情だともいえる。

人の世に「正義」はなく、正しい秩序は幻想でさえありえないと思うようになっては、恐怖さえ消えはてるしかない。

考えてみれば、そんな現代日本人のわたしたちこそ、厭わしく恐怖に満ちた存在なのかもしれない。どんな妖怪や、悪魔よりも。

暗澹とした気分になりました。
それにくらべると、『聊斎志異』の妖怪たちの優しく人間的なこと。
『ゲゲゲの鬼太郎』の妖怪たちもそうだけど、わたしたち現代日本人よりもずっと心優しくニンゲンらしい。

人間に絶望しているぶん、妖怪が懐かしい。そんなことはありませんか。

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9月 4日

やっと脳細胞がクールダウンしたので、読書ができるようになりました。
ただいま『西洋紀聞』(新井白石)を読んでいます。

宝永五年(1708年)に、屋久島にジョバンニ・シドッチというイタリア人宣教師が密入国しました。たちまち捕えられて、江戸に護送されて幽閉生活に入ります。
牢にいること、五年で死亡しました。

江戸に護送された翌年、このシドッチを尋問したのが、新井白石です。
当時、新井白石は同年五月に将軍になったばかりの家宣のもとで幕政改革に乗り出していました。
いわば当時のトップ政治家が、シドッチを相手に世界情勢を探ろうとしたのです。

もちろん博学な白石でも、イタリア語が話せるわけがない。
長崎のオランダ語通訳を呼び寄せて、シドッチの話すラテン語をオランダ語の知識で通訳させたのです。

そのときの記録をもとに、後に執筆したのがこの『西洋紀聞』です。

しかし、読んでいると、驚きましたね。
互いに通じる外国語の知識がないにもかかわらず、新井白石は実に的確に西洋の地理や歴史を捉えている。

ちょっとした勘違いはありますが(例えば北をさす単語「ノルド」と、南をさす「ソルデ」を取り違えている)、それを除けば現代の大学生よりも西洋史には通じている。
当時の神聖ローマ帝国が君主諸侯たちの連邦国家だったことを知っているだけでなく、イスパニアとポルトガルが同君連合を行い、のちにそれを解消した事情まで知っている。
特に、最後のことを聞かれて答えられるようでは、今の日本じゃまともな社会人とはいえませんね。(笑)

新井白石という人が、とにかく頭の良い人だったことはこれでもよく分る。
『西洋紀聞』を読んでいると、当時ヨーロッパでハプスブルク家とフランスのルイ十四世が戦ったスペイン継承戦争(1701-1714)のことも生き生きと書いてあります。
もちろん西暦1714年に終結する戦争の結末をシドッチも知るよしはないのですが、後に新井白石はオランダ人商館長が幕府に提出する報告書からその結末を知って『西洋紀聞』に記述している。
つくづく知的好奇心の強い人なんですね。

当時最新のヨーロッパ知識を、江戸時代最高の知性・新井白石がどう見たのか。
ひさしぶりにわくわくする読書を楽しんでいます。

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9月 2日

予告通り、本日はギリシアの名画『日曜はダメよ』。
ただし、これは厳密に言えば、ハリウッド映画ですね。
監督&主演のジュールス・ダッシンという人はアメリカ人で、ハリウッドの監督さん。
戦後アメリカで吹き荒れた「赤狩り」(レッド・パージ)に嫌気がさして、ギリシアに住みついて作ったのが、この作品です。

ついでに、主演のメリナ・メリクーリを奥さんにしてしまった。

ところで、わたしはギリシアがめったやたらに好きです。
監督さんが扮した「学者でもないもの書きでもない得体の知れないギリシアおたく」ってのが、まるで自分みたいだと思いました。

いや、そういう奴は日本人でこそ少ないけれど、アメリカ人やドイツ人には時々います。ギリシアに行ったとき、目をぎょろぎょろさせながら、街を歩く眼鏡のアメリカ野郎やドイツ野郎をみたとき、「うーん、お仲間。お仲間」と呟いてしまいました。
絶対に女の子には関心をもたれそうもない連中の姿に、胸が熱くなりました。(笑)
(それは自分だっちゅーの)。

それはさておき、ギリシア人というのは、別に哲学を語りあったり、深遠な思考に魂を飛ばすなんて、インド人みたいなことはしてません。
インド人は乞食でも、なあーんも考えたことがない人でも哲人にみえるトクな顔をしていますね。その点、現代ギリシア人は酒と女のことしか考えたことがないような感じがして実にわかりやすい。

連中は飯屋や居酒屋なんかで、ウーゾというぶどう酒の蒸留酒にアニキス(ウイキョウ)で風味をつけたおっそろしく強い酒を水割りにして、なんだか怒鳴りあうように話をしています。
どうも議論をするのが趣味のようです。
ネタは哲学じゃなくて、政治とか世間話とか、とにかくなんでも怒鳴りあうのが大切なコミュニケーションです。

ただ見ようによっては、今にも殺し合いが始まりそうな雰囲気です。
実際にそういう場面を飯屋(タベルナといってあげたほうがいいのかな)で見たことがあります。
さすがに危ないかなと思って店を出て行こうとすると、あれは友達同士だから心配するなと親父さんとお上さんが宥めるようにいう。
ギリシア語で怒鳴りあっている男たちはどうみても殺気をはらんでいるのですが、店にいる連中はにやにやしている。なんだか恐ろしくもあり、好奇心もありでしばらく様子をみていました。

じきに男たちは肩を抱き合いながら、店をでていきました。
別に決闘をしにいったわけでもなさそうです。

ギリシアの酔っ払いというのも面白いですよ。
興がのると指をぱちんぱちんと鳴らしながら、いかにもギリシア風でありながら、じつはその辺のよっぱらいオヤジの出鱈目ダンスとも見える踊りをはじめたりする。

『日曜はダメよ』にもそんなシーンがあって、思わず笑えた。

こうなってくると、ストーリーよりもジュールス・ダッシン監督の目になりきって、ギリシア人を観察するほうが楽しくなる。
この作品は何よりも現代文明に冒されたアメリカに対する皮肉なんです。
おばかさんばっかりのギリシア人のほうがよっぽど人間っぽいという書き方です。

昨今の日本人が、この国のありとあらゆるものに嫌気が差して、アジアを嗜好するようなものといえなくもない。

なかでも、良いのがメリナ・メルクーリ演じる娼婦イリヤ。
どことなく財前直見に似てますね。とくにデビューしたての綺麗な頃に。

メルクーリの方が歳はずっと上だけど、色っぽくて可愛い。

地中海人種の女性ってのは、顔そのものは北欧系よりもごついけれど、なんとなくニンゲン的なイロっぽさと愛敬にあふれてますね。
だれがみても美人な北欧系のステロタイプな退屈さに比べれると、地中海美人はいいなあ。
ソフィア・ローレンみたい濃いラテン系が好きですね、わたしは。

とりとめもないことばかり書いてしまいました。
どうもことギリシアとなると、理性が吹っ飛ぶので、仕方がない。
我が家のCDは日曜からずっとギリシアの民族音楽ブズキを流しっぱなしです。

「男の音楽よ、ブズキは」
なんてイリヤ(=メルクーリ)も言ってました。

で、男の酒は何かといえば、「ウーゾ」。
透明だけど水で割ったら、カルピスみたいに白濁するあの酒かあ。
まあ、イリヤちゃんがそこまで言うなら、男としては試してみなけるばなるまい。
――と、とんでもないところで男気に目覚めたところで、本日はお開き。

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9月 1日

読書のつもりが、ビデオ鑑賞デイになってしまいました。
それも古い洋画ばかりで、『戦艦ポチョムキン』と『日曜はダメよ』。

最初のほうはサイレントの古典ですね。
ソビエトの巨匠エイゼンシュタインの監督ですが、退屈なことでは定評がある。

もう一本は、ギリシアが生んだ女優メリナ・メルクーリの代表作。
テロップでみると、カンヌ国際映画祭で賞をとったようです。
映画には詳しくないので、他のことはよくわかりません。(笑)

メリナ・メルクーリは以前にギリシアの文化相になりました。
あの国で言えば、世界の三船・黒澤といったヒトなんです。

ところで、本日は『戦艦ポチョムキン』を見ながら、考えたよしなしごとを書こうと思います。

わたしはロシアという国にはちょっとした思い入れがあります。
語学の才能がゼロなのにもかかわらず、ロシア語をかじったのもそのせい。

『戦艦ポチョムキン』を眺めていると、字幕のロシア語が出てきます。なんといっても、サイレンとですからね。
最初は読めなかったけれど、途中から字幕と日本語字幕を見比べて大体分るようになりました。ロシアの文字(キリル文字)も画面上が読みとれるようになりました。
まあ、その程度はロシア語を勉強したのです。(笑)

うちの母親はサハリン(樺太)で生まれ育ちました。
といっても、ロシア人などではさらさらなく、当時サハリン南部は大日本帝国の領土だったのです。

やがて、太平洋戦争の末期にソ連軍が南下してきますが、母親の一家はそれほどひどいことにはならなかったそうです。
というのも、まだ十代の少年だった伯父(母の兄)がすばらしく頭の良い人で、ロシア語を独学して通訳になったからです。
母親の一家は終戦後一、二年して引き上げたのですが、それまでは特にひどいこともなく平和に暮らしていました。
それもこれもロシア語通訳になった伯父のおかげです。

この伯父はもうとっくに定年退職していますが、再就職し昔覚えたロシア語を仕事で使うこともあるそうです。
伯父のことやら、子供時代をすごした母親の思い出話を聞くたびに、ロシアという国とその言葉に興味をかきたてられたのです。

ところで、中国東北部(旧満州)と違って、サハリンの領有は樺太千島交換条約(1875年=明治7年)で平和裡に決まったものです。
国際法上からはケチのつけようがない。
ただし、千島の原住民である千島アイヌの人の頭越しにロシア帝国と大日本帝国が勝手にやったという問題はある。それについては、日本とロシアがもっと大人の国になったときじゃないと、改めてとりあげることはできないでしょう。

1980年に、アメリカ最高裁判所はネイティブ・アメリカンのスー族に対して、1億2250万ドル支払うよう連邦政府に判決を下しました。
これは、スー族とのあいだに1866年に結ばれたララミー条約を無視して、アメリカ人がスー族の土地を不法に奪ったことに対する賠償金です。
アメリカというのは、こうした点ではほんとうにすごいもんですね。
日本国とロシアにそんなことを望むのは、ゴビ砂漠のど真ん中でトロコテンを探すようなもんでしょうな。つまり(婉曲にいってはいるけど)、できっこない。(笑)

いやいや笑い事じゃない。失礼しました。(汗)

話がずれてしまったけれど、サハリンではそんな事情からロシア人と日本人などが平和的に混住していたのです。
だから、太平洋戦争の末期、ソビエト軍がサハリンに侵攻してきても、満州ほどひどいことにならなかった場所もあるようです。(全部とは言いませんが。)

第二次世界大戦のソビエト軍の掠奪暴行の凄まじさは、ドイツ東欧や満州ではよく知られています。
まるで人間業とは思えないくらいで、ドイツ軍の方がまだマシとさえ言われる。
野獣のような殺戮と強姦を繰り返してきた。

あれでソビエトの衛星国だった東欧の旧社会主義国からもずいぶん恨まれた。

なぜソ連兵士はそれほどひどいことをしたのか。
理由は、ソ連の兵士訓練システムにあったようです。

当時のソ連兵士は農村から駆り出された純朴で、もうひとつ付け加えれば機械文明とは縁遠いお百姓さんの若者たち。
旧式の先込め銃とかおんぼろ馬車しか知らない若者たちに、近代戦争のノウハウをごく短時間で仕込む必要があった。

そこで、ソ連軍は彼らに射撃訓練のいらない短機関銃(サブマシンガン)を支給し、数週間程度の訓練で最前線に送り出した。
移動は戦車の上。

戦車に乗っかって移動し、敵と遭遇すると、飛び降りてマシンガンを連射しながら突撃する。
ピストル弾を使うサブマシンガンは射程距離が短い。敵の目と鼻の先で放り出されて、撃ちまくる。もちろん死傷率はすさまじい。(もちろんソ連兵士の)
完全に使い捨ての消耗品だったわけです。
農村の男手をおしげもなく消耗して、戦争に勝つというロシア帝国時代からの発想でした。

消耗品にされた兵士たちは、生きる希望を失い自暴自棄となり、いつしか野獣以下の存在に成り下がってしまう。

旧日本軍の体験談を読むと、日本兵士も殺人経験(=戦闘体験)を重ねるうちに、真面目な市民だった人が従軍慰安婦のもとに平気で通えるようになるそうです。

人間を人間として認識できるうちは、人は殺せない。
人間を人間として認識する能力を失わせることによって、初めて人が殺せるようになる。そうなれば、強姦やそれに等しい買春もできるようになる。

『戦艦ポチョムキン』は、ロシア革命の火付け役となったロシア海軍の反乱事件を題材にしたものなのですが、意外なことに殺し合いのシーンはかなり少ない。
もちろん「オデッサの階段」という有名な虐殺シーンはあります。
ただそれ以外の殺人シーンは、広い意味での戦争映画のはずなのにごく少ない。

ラストシーンは反乱戦艦ポチョムキンと、それを追尾するロシア海軍との艦隊戦。
しかし、追跡者のロシア艦隊でも水兵たちが反乱を起こして、ポチョムキンに合流する。
艦隊の旗艦にするすると革命の白旗があがったところで、ポチョムキンの反乱兵士たちの歓喜のうちにフィルムが暗転して終了するという、なんともあっさりしたものです。

これを見る限り、兵士による戦闘はあまり重視されていない。
むしろポチョムキンの艦長以下、士官たちの非道ぶりや、虐殺するコサック兵を克明に描写している。

コサック兵というのはロシア帝国陸軍の主力ではあったけれど、厳密にはロシア人ではありません。
コサックとは、単純にいえば、ロシア人の無法者がステップ地帯に逃げ出して、そこのタタール人と混血してできた民族です。

異民族・異人種だから、「敵」として描きやすかったのでしょう。
だから、虐殺の主体としても画面に直接出せた。

こうした描写の裏には、同じ人種ではないものは敵だから、何をするかわからない。言葉も通じないけれど、情も通じないという暗示がこもっている。
傷ついた子を抱き助けを乞う若い母親を、コサック兵が撃ち殺すシーンなどはそのよい例です。
きっと映画を見たソ連の良い子たちは外国兵士を殺すのは正しいことだと「学習」したでしょうね。

もっともプロパガンダでいくら敵を殺すことは正しいといっても、実際にはなかなかできない。
ポチョムキンの反乱シーンでも、士官殺しは個人的な復讐にしてある。
あるいは仲間を殺された復讐とか。
観念的な怒りだけで、一度や二度ならまだしも恒常的に殺人ができる人がいたとしたら、平和な社会にいるときは連続殺人犯(シリアル・キラー)になっているはず。

『戦艦ポチョムキン』を見ながらつくづく考えたのは、「人が人を殺す」ように国民に教育するプロパガンダ映画であってさえ、真面目な作り手がそれを表現しようとするのはほとんど不可能ではないかということです。

エイゼンシュタインほどの才能がなければ、そういう映画を作るのは簡単。
ただし、観客は間違いなく全員居眠りしているだろうから、感化される奴はいない。(笑)

人をヒトでなくするには、ヒトとしての尊厳を奪い(=ゴミ同然の消耗品扱いする)、自暴自棄にさせるのが一番だ!
――なんてことを、世界一有名なソ連映画を見ながら考えていました。

ロシア語の美しい響きと、旧ソ連軍の蛮行のギャップを思うにつけ、この考えがますます正しいような気がします。
自分の力で考えることができる人が増えれば増えるほど、人をヒト扱いしない者たちのパワーは相対的に弱まってゆく。

あんまり教条主義的すぎますか?(笑)
まあ、真実ってのはいつでも当たり前のところに落ち着くもんです。

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