上野に出かけて「イタリア・ルネサンス 都市と宮廷の文化展」と「アール・ヌーヴォー展」を観てきました。 いや、疲れた。 しかし、なんですね。 「ルネサンス展」は、絵や彫刻はお馴染みのが結構あったように思います。 「あれ、また会ったね!」と、 再会を喜んだりしました。(笑) しかし、総じて大味な感じがしてしまった。 むしろ精密なミニチュア絵画のついた写本が良かった。 ミニチュアとかイルミネーションとか、今では英語でも別の意味で使われていますが、本来は筆写本についている色付き絵画を指していたのです。 今回はかなり凄い本を展示してありました。 レオナルド・ダ・ビンチのデッサンなんかより、こっちのほうが見ごたえがある。 ただし、長蛇の列で見るのに骨が折れるけれど。 中世写本を見て、思うのは、この文字がなんとかならんかなと云うことです。 あれは写本用の文字なんで、ラテン語が読めてもアルファベットは読めない! 一番上の見出しのところは今のアルファベットと同じで読めるのですが、本文はぜんぜん読めません。 強調して赤文字の部分だけは、今の活字と同じなので読めますが。 この日記を書いている当日(7月1日)、図書館で調べたところによると、ルネサンス以降の写本の文字は大きく分けて二種類あるようです。 ひとつは「人文主義者書体」。もう一つは「ブラック・レター」。 後者は現代のフォントと紛らわしいけれど、「ゴシック書体」ともいいます。 活版活字が出来てから、「人文主義者書体」からイタリック活字が生まれ、「ブラック・レター」からはゴシック活字が誕生したのです。 ルネサンス以前の書体についても調べてきたけれど、書くのは止めておきます。 退屈でしょう、そんな話は。(笑) 自己満足として、頭のなかにメモっておくことにします。(苦笑) しかし、なんだかほんとに疲れてしまいました。 最近、日本の仏像の展覧会に行くことが多いせいか、精神的なもの、スピリチュアルなものを芸術作品に求めるようになっています。 それがないと、ちーとも良いように思えない。 いっちゃあ、なんですが、ルネサンスには精神性やスピリチュアルなものはありませんよ。 ダ・ビンチにしろ、ラファエロにしろ、それは同じ。 かろうじて、マニエリスムに入るミケランジェロあたりでそれが出てくる。 正直言って、うんざりして展示室を出てきたのです。 己の欲望のためには、地球さえ水爆で破壊することを躊躇わない。 ルネサンスの本質をそのように考える人が、ヨーロッパの知識人には増えているそうです。 ほんとにそう思いました。 欲望を満たすためなら、人などいくら殺してもかまわない。 これを逞しいとみるか、ガキの獣性とみるかは、判断する人の精神年齢次第でしょうけれど。 ただ、わたしはへどがでそうになった。 それだけのことです。 どうしたことか、急に会場の国立近代美術館の常設展示に入ってみたくなりました。 入り口にはロダンの彫刻がある。 なんか、ほっとしましたね。 常設展示のウリは「松方コレクション」という元勲・松方正義の息子の絵画コレクションです。 そっちをみたら、目が飛び出そうになった! エル・グレコはある、ヴァン・ダイクはある! マニエリスム、バロック以降の名画がそれこそ怒涛のように並んでいる。 「これなんだよなあ。ヨーロッパの霊性は」 きざな科白が思わず口をついてしまった。 ルネサンスに欠如しているもの。 それは「霊性」です。 それはネーデルラントやドイツなどの北方ルネサンスを経て、マニエリスム、バロックの中で開花した。 宗教改革と反宗教改革は恒常的な戦争状態をもたらしたけれど、それが現代の人権思想の基盤であることは間違いない。 「ルネサンス展」で感じた魂の飢えを、常設展示が癒してくれた。 もしかしたら、絵画が呼んでくれたのかなと、勝手に解釈しています。 バロック以降の近代・現代絵画にも、目覚めたヨーロッパの霊性は脈々と生きていました。 ヴァン・ドンゲンの肖像画にさえも。 おかげで、とても幸せな気持ちで近代美術館を出ることができました。 ルネサンスだけでは殺伐とした気分にならずにはいられない。 ミラノ公国のルドヴィコ・イル・モーロ公みたいな大悪人の手書き写本なんか見たのだから無理もない。 このミラノ(当時は公国だった)の支配者は、愛人をくびり殺し、さまざまな陰謀と非道を重ねた大悪党です。 人類を月に送った現代文明の祖は、ルネサンスに始まるヨーロッパ文明です。 このことは間違いないけれど、その発展は倫理とは無縁の欲望の解放にあったことだけは忘れないほうがいいようです。 ちなみに、ルドヴィコ・イル・モーロのモットーが、<MERITO ET TEMPORE>(しかるべき意義としかるべき時)。 読んで字のごとく、利益になるならなんでもやれということ。 そして、ルドヴィコ公と争ったマントヴァの専制君主ゴンザーガ家の紋章には次の言葉が刻まれている。 ひとつは、<BIDER KRAFT>(正義の力)。 もうひとつは、<HIC FALSA>(この偽り)。 権謀術数という言葉は、ルネサンスの君主たちのためにある! ルネサンスの本質は、モンスーン気候に育った温和な日本人には縁遠いえらく世知辛い、酷薄なものでした。 追記: アール・ヌーヴォー展については、明日書くことにします。 |
TVで「おもいでぽろぽろ」を観てしまいました。 これは1991年制作のアニメーションだから、最初に観たのはもう十年も前。 あれから、何度見たかなあ。 毎年、少なくとも二回以上はみている。だから少なくとも、通算二十回以上観ているはず。いつ観ても泣けてきますね。 ここ数年前からちょっと見方も変わってきました。 あの無口で、威張っているガンコなお父さんの気持ちが分るようになった。 なんで、小学校五年生の「たえこ」ちゃんを平手打ちしたのか、昔は分らなかった。 でも、数年前からなんとなくわかるようになりました。 二十七歳の「岡島たえ子」さんには、まだわからないようですけど。 あのあたりのお父さんの心の動きは、高畑勲監督の実年齢に近くないと、理解するのが難しい。 例の平手打ちのシーンは、昔は不可解なところだったけれど、最近では泣ける場面になってしまいました。 お父さんがどれほど娘を愛しく思っているか、悲しいほどわかる。 いい場面なんですね、あれは。 高畑さんはやはり名監督だ。 ところで、アニメーションを見ていて気がつくと、主人公岡島たえ子さんは昭和三十年生まれ。 やがて結婚するであろう「トシオ」さんは二歳下の昭和三十二年生まれ。 げっ、トシオさんって、私のたった一つ上。遅生まれなら、同学年だ! ということは、たえ子さんが二十七歳のとき、わたしは二十四歳。 さらにいえば、いまたえ子さんは、四十六歳か四十五歳。 壊滅的に厳しい状況のなかで、トシオさんは「勇気の要る農業=有機農業」をやっているんだろうか? 田口ランディという人がメルマガで今の若い子たちに「こんな社会にしてごめんね」と謝りたいと書いたことがありました。 なんだか腹が立ちました。 「ふざけるな。 オレはやつらに謝るような真似はしてない!」 とそのときは思ったのです。 いや、今だってそれは同じ。 でもね。 これからはちょっと違うなと思います。 なぜなら、たえ子さんやトシオさんと同じ四十代になったからには、たとえ社会の第一線にいなくても、この社会の担い手であることは間違いない。 いままでの社会には責任がもてなかったことは仕方ないとしても、(だって上役だの、いろいろいてねぇー。若造にはなんにも出来ないんだもん)、これからの社会には俺らが責任を持たないといかんのだなあ。 ――ということを、たえ子さんとトシオさんを観ながら、思っていました。 二十代のガキどもに謝ったりはしないぞ! という思いはぜんぜん変わってないけれど、日々身の回りをまっとうにすることだけはやってゆきたいと思います。 しょせん、革命を起こして全体をすべて変えるなんて不可能なんですから。 尊敬をする作家、池波正太郎さんはいいことを言っています。 これから世の中は悪くなる一方だろう。 そんなとき、気がついた一人一人が、身の回りを簡素にして、生活を単純なものにしなければならない。 ――と、池波さんは「散歩のとき何かが食べたくなって」の中で書いてある。 池波さんの食べ物エッセイは、小説世界よりハードボイルドな男の美学に貫かれた「漢(ヲトコ)のバイブル」です。 預言者のように、己の言葉で人が変わる。世界が良くなる。 そんなことを池波さんは信じてもいないし、たとえキリストが再臨しても不可能だと知っている。 そういうリアリストが勧める実践(=実践的?)倫理には、耳を傾ける値打ちがあるのかもしれません。 全国の「たえ子」さん、「トシオ」さんに幸せのあらんことを。 May the Force be with you! |
本日の日記はつまらんです。 しばらく書いていないので、意地で更新しただけなんで。(苦笑) 時間も体力もないので、更新停止中に今週読んだ本について、さらっと書きます。 ただのメモみたいなものだけど、このくらいからリハビリしないと危ない感じがします。 「密教」(松長有慶)。 うーんと、歴史は事実の堆積ではなくつねに生成過程にあるということを教えられました。 あの空海が日本にもってきた密教の最高経典「金剛頂経」が、空海の師匠(恵果)のそのまた師匠の頃には、まだインドでさえ出来上がっていなかったなんて、信じられます? 宇宙の真理をホトケの言語で伝えるのが、密教のマントラ(真言)なのですが、それを集大成した経典さえ、巨視的にみれば、空海の時代からそれほど遠くない時代に出来たばかり。 歴史を知らないと、いろんなものに騙されるなと改めて思い知りました。 「悪と往生」(山折哲雄)。 親鸞は、日本どころか世界においてさえ例をみない思想の巨人だと、再認識しました。 「歎異鈔」を読んだだけで、親鸞を語る人を信用してはいけません。 山折氏が「歎異鈔」(歎異抄とも書く)から筆記者・唯円(ゆいえん)の歪曲を削り落とした後に現れる親鸞は、一個の英雄です。 ――というところで、もう力尽きた。(笑) ろくに文章にもなっていないが、ついに更新はしたぞ! 自己満足のうちに、本日の日記はお終いです。(笑) |
先週は後半から一気に忙しくなって、読書日記も更新できませんでした。 土曜日もその流れで、ダメでしたね。 まあ、しかたがないわな。 それでも、通勤の電車のなかで「密教」(松長有慶)を読みあげた! なんだか、自分を誉めてあげたい。(大笑い) わたしは中央公論が破綻する前の、「中公文庫解説目録1997年4月版」というのを、宝物にしています。 中公文庫というのは、知性派読書家にはほんとにありがたい文庫でした。 過去形というのが、つらいところです。 残念ながら、読売新聞に買収されて復活した中央公論新社は、中公文庫の貴重なコレクションを次々と廃刊にしています。 故・井筒俊彦氏の「ロシア的人間」も、小松茂美氏の「平家納経の世界」も、もうない。 両氏の全集には入っているのですが、近所の図書館にはないし、おいそれとは買えません。 ただ残念としか云いようがない。 文庫という形態が無理なら、電子本にでもしてほしいと、勝手に願っています。 二極分化が進行しているこの国では、岩波文庫や中公文庫の愛読者と、出版社がターゲットにする「はせせいしゅう」や「ばとるろわいやる」の読者は共存できませんやね。 これからは古本屋めぐりで、中公文庫をコレクションしようと思います。 古本屋さんだけが頼りだなと、覚悟を決めました。(笑) ところで、昨日病院へ行ってきました。 先週受けた血液検査の結果を聞くためです。 脂肪肝で肝機能の数値が悪化して、ここ四年くらいずっと通っているのです。 過激なダイエットをはじめたのも、そのせい。 今年始めには糖尿病の疑いさえ出たのです。 ダイエットをやらざるをえない状況でした。 「もう食べ物に楽しみを覚えるのを止めましょうよ」と、お医者さんに云われたくらいだから。 前回の検査では、数値が好転していたから、今回も少しは良くなっているかなと期待していたのです。 ところが、結果はそれどころじゃない。 数値が正常値に戻っていた! いやー、感動もんでしたね。 しかし、昨日は浮かれて、キムチ鍋をむさぼり食い、「下町のナポレオン」こと「いいちこ」をしこたま呑んでしまった。 おかげで、二日酔い気味で、体重も2.5キロ増えた。 本日は、久しぶりにウォーキングで身体を絞らなければ。 いまどきの三十代から四十代は、脂肪がいちばん怖い。 政府の調査じゃあ、三、四十代の肉体は、ぼろぼろというじゃありませんか。 もう酒を食らって、肉をむさぼっているときじゃない。 節食。 これからは、こいつがわたしのキーワード!――です。(笑) |
久しぶりに読書日記です。 読んだのは、「不老不死の血」(ジェームズ・E・ガン)。 ガンというのは、大学でSFを教えていたティーチャー作家のひとり。 SF界では知性派で通っています。 もうずいぶん前の本で、BookOFFに引き取って貰おうかと思ったけれど、すでに紙焼けが激しい。 処分されるのが落ちかなあと、眺めていたら、急に読みたくなって再読してしまいました。 記憶がおぼろだけど、この話はたぶんアメリカでTVドラマになったような気がします。 偶然、不老不死であることがわかった主人公が、その血液を狙う富豪や悪の組織から逃げ回って全米を旅する。 けっきょく、「逃亡者」の焼き直しみたいなドラマでした。 でも、なかなか面白かった。 話はずれるけれど、「ルーシー・ショー」とか「奥様は魔女」、「可愛い魔女ジニー」なんてものを観ていた世代なんですね、わたしって。 内藤洋子主演の「氷点」にはなんの記憶も思い入れもないけれど、アメリカ製TVドラマは妙に覚えている。 「奥様の名前はサマンサ。旦那様の名前はダーリン。ごく普通の二人は、ごく普通に恋をして、ごく普通の結婚をしました。でも、たった一つ違っていたのは――奥様は魔女だったのです」 ――なんて、ナレーションをおぼえている人は多いはず。 もっと古いと、「男(♂)、おんな(♀)……」と黒板に記号を書く「ベン・ケイシー」とか。(笑) ケイシー高峰がなんで、ケイシーなのか。 もう今の若い者には分らんでしょうね。(ふぉっほっほっ) 話をガンのSFに戻すと、臓器移植による延命術が後半のメインになってくる。 金持ちだけが不死になれる血清を独占し、貧乏人は連中の手先に掴まって、生きたまま、臓器や皮膚、手足を少しずつむしりとられる人体補填用材料になりさがる。 そういう世の中になるという警告です。 <脳死>を死として、生きた人体から合法的に臓器を取り出すというアイデアまでは、さすがのSF作家も思いつかなかった。 これを読みながら、思い出したのが、NHKのドキュメンタリーです。 アメリカの話です。 ハイティーンの男の子が事故で脳死となる。 なかなかハンサムな白人の子で、スポーツ万能の優等生だった。 親はコーディネーターと医師の説得で、脳死を受け入れ、臓器提供をしました。 被提供者の身元は明かさない規則なのですが、息子への思いを断ち切れない母親はついに相手とコンタクトすることに成功しました。 母親は被提供者のもとに出かけました。 そこでは、被提供者の全快と誕生日を祝うパーティーが行われていた。 被提供者は黒人でした。 母親は、そのことに驚きはしなかったでしょう。 しかし、相手が70歳ほどの老婆であったことに、なんの感情も抱かなかったとは思えません。 母親はハイティーンで死んだ息子の心臓が、未来ある若者に役立つと信じていたはずです。 若者であれば、それが男であれ、女であれ、黒人だろうと黄色人種だろうと、かまわない。これから何十年も生きて、恋愛し、結婚し、子どもを持つだろう。 平和な家庭を作って、老いて死ぬ。 息子がはたせなかった人生の夢をかなえてくれるはず。 そんな願いが臓器提供を決意させたように、ブラウン管からはうかがえました。 しかし、人の命の尊さは年齢とはかかわりないという建前は、母親の密かな願いは間違っていると叱り付けた。 どう考えたらいいか分らないと顔をゆがめる母親の表情が哀切でした。 被提供者の身元を明かさないのは、正しい選択ですね。 ことによったら、ドナーの遺族が相手を殺しかねませんから。 臓器移植をめぐる深刻な問題が、SFという手法だと、薄っぺらい文庫本の終わりの三分の一で、書きあげることができる。 今では、そんなことを書くには単行本三冊の大長編でも足りないでしょう。 この本が書かれた頃には、思考実験(スペキュレーション)というかたちで、いろいろな問題を作品化する余裕があった。 でも、いまは臓器移植だけでなく、地球温暖化ひとつを例にしても、すでに切実な問題となっている。 思考実験の余裕はなく、現実的課題として、そのことにどう解答を出すかが現実の急務として迫っている。 地球温暖化はただの国民には縁遠い話だけど、肉親が交通事故で脳死となったら、嫌でも臓器提供が現実問題となる。 ずいぶん遠くまで来てしまったものだなあ。 ――と、古いSF本を眺めながら、呆然としてしまいました。 |
リンク集にバットマンの海外ページを追加しました。 いわゆるアメコミ・ヒーローでは、バットマンがいちばん好きです。 バットマンには、the Caped Crusader (マントをつけた十字軍戦士)とか、the Dark Knight (闇の騎士)という別名があります。 ちなみに ロビンは the Boy Wonder (驚異の少年)。 わたしは、the Dark Knight というのが気に入っています。 90年代に入って、バットマンには悲しい事件がありました。 80年代に相棒のロビンと決別して、ロビンは Night Wing というスーパーヒーローになります。 その後、二代目ロビンが登場。 しかし、二代目が90年代になって死んでしまう。その後の展開はよく知りません。 無責任で済みませんが。(汗) 80年代は、アメコミ・ヒーロー受難の時代で、あのスーパーマンでさえ一度死んでしまった。 あのときは、四人のスーパーマン候補が現れて、だれが後継者となるかで揉めるました。 機械人間あり、サイボーグあり、クローンありでなかなか面白かったけれど、結局カル・エル(スーパーマンの本名。クラーク・ケントは地球人名)が復活。 若返ってスーパーマンにおさまる。 なんで、そんなことを知っているかというと、小説版(英語)でその事件のあらましを読んだからでした。 (究極の物好き?) 他にも、キャプテン・アメリカの相棒(バッキー)が死んだり、80年代はスーパーヒーロー受難の時代でした。 というのも、この頃からゲイ・レスビアン・ヒーローというとんでもないアメコミ・ヒーローたちが現れて、<ハードゲイ版やおい本>が出現した。 すると、バットマンとロビンとか、キャプテン・アメリカのように少年を相棒にしたスーパー・ヒーローは、同性愛的・児童ポルノ愛好者(または幼児性的虐待者)としてからかわれやすい。 もともと、アメコミのスーパーヒーローに対しては、スーパーマンを始めとしてハードゲイ的な臭いがあるとその趣味の方々からよく指摘される。 銃弾さえ跳ね返すスーツのくせに、どういうわけか筋肉が透けてみえる。 筋肉モリモリのマッチョな身体が、ハードゲイな人たちを痺れさせるというわけ。 ダーク・ナイトが古い相棒と離別して、新しいパートナーを亡くすのは、ある意味でゲイ疑惑を晴らすためかもしれない。 ただし、いっそうそっちの趣味の人たちの涙をさそって人気が高騰した? ゲイ疑惑と戦い続けるトム・クルーズみたい。 この戦いは、キッドマンと離婚したクルーズと同じで永遠に終わりませんね。 しかし、そう疑われても仕方がない。 映画版の<バットマン・フォーエヴァー>は、ノンケの私から見てさえゲイ・テイストが横溢している。(笑) なんだって、防弾・防刃スーツであるはずの、バットスーツに乳首があるんだ! 植物的な<やおい本>と違って、向こうのコミックはあくまでも哺乳類的です。(笑) ところで、アメリカ版Yahoo に<YAOI>というジャンルがあるのは、もうご存知かもしれません。 もちろん、意味は日本語のあれです。 60年代のクラッシクなTV版バットマンでさえ「やおい趣味」からは逃れられないようで、バットマンとロビンの他にもゲイ・レスビアン疑惑のある登場人物がいっぱいる。 その一人が、オハラ警察署長というのだから、やっぱりハードゲイの世界は……わからんです。 |
ちょっと不気味な話ですが、どうやらコンピュータ・ウイルス感染メールらしいものが届きました。 件名なしで、実行型ファイルだけがある。 間違いなく、ウイルスですね。 きっと感染した人のアドレス帳から無作為にウイルス感染メールが送信されたのでしょう。 このサイトにはあんまり読者がいるとも思えないから(笑)、思い当たる人がいたら雑誌の付録についている体験版で自分のコンピュータを検索してはいかが? 感染メールは、ocn.ne.jp のドメインから来ていました。 自分のメール・アドレスの最後が、ocn.ne.jp の人は要注意です。 ソッコーで調べないと、人様に迷惑がかかりますから。 とにかく用心、用心。 ネット時代の基本は、自己責任なのです。 ウイルスメールで出鼻を挫かれてしまいました。(笑) 帰ってきたのが遅かった上に、ウイルスチェックなんかもしたものだから。 いつもの読書日記はまた明日。 |
薄田泣菫の「茶話」を読み始めました。 これは、一言でいえば、明治時代のコラム記事ですね。 薄田は有名な詩人ではありますが、コラムニストとしてもなかなか大したものです。 しかし、時代を反映しているのか、読みようによっては凄い話もある。 明治くらいの人間は、アンモラルという点では金目当てで殺人をする平成の人間よりも凄かったりする。 おっと思ったのは、食屍鬼(グール)のような男の話。 といっても、死体をそのままかっ食らうわけじゃない。 日本の食屍鬼は、伯母の遺体を焼いた灰を水と一緒に飲み下すのでした。 もちろん、これくらいでは犯罪とはならない。 葬式をあげて、焼き場でお骨にした灰を食ったくらいですから。 でも、夫の行状を知った細君が震え上がって、逃げ出そうとする。 すると、男はにやにや笑いながら、細君の腕を掴んでこう云う。 お前がそう云うなら、お前が死ぬまで灰を食うのはやめようと。 もちろん、愛する妻のために、不気味な趣味をやめるというわけじゃない。 細君が死んだら、その遺体を焼いた灰を食べてしまおうという算段なのです。 ホラーだなあ。(笑) 事故で千切れかけた自分の耳を、外科病棟の待合室で待つあいだに、みずから引きちぎって、火鉢で焼いて食べた男とか、大詩人は<人を食う>話が好きらしい。 これからどうなるんだろうかと心配です。(笑) |
ブンガクついたわけじゃないけれど、そっち方面を読んでいます。 一冊は「文学評論」(夏目漱石)。 東大教授・夏目金之助氏のぼやき節がたまらない講義録です。 18世紀のイギリス哲学から政治運動までカバーする滅法面白い文学史でもあります。 しかし、なかなか鋭いことをずばずば書いているあたり、漱石という人は学者には向かなかったのでしょう。 アカデミシャンとは、素人からみれば、わかりきった結論を曲がりくねった(煩瑣な)論理でうだうだ書かないければ職業人としては成立し難い。 直感的に素人がうなるようなことを書いている人は、やっぱり作家になるしかない!(笑) 学者ってのは、本来あたまのいい人がやる商売じゃないような気がします。 ところで、もう一冊はNHK人間学講座のテキストで、作家・猪瀬直樹の「作家の誕生」。 これは、つまらない小説(または評論・文学史)を読むよりも、身も蓋もないくらいにあけすけに「日本ブンガク」の誕生と死の消息を伝えてくれます。 「ブンガク」というものは、1970年に三島が自決したときに死んでいた! 遅まきながら、この国のスルドい読書人たちが気づき始めている真実を、ブンガクが誕生した漱石の時代から、腑分けして鳥瞰してくれている。 芥川賞や直木賞が知的読者にとっては退屈至極であり、本がなぜ売れなくなっていくのか。 その辺の事情をすとんと納得してしまう。 もう少し猪瀬説を消化したら、紹介してみたいと思います。 「誰が本を殺すのか」というベストセラーがありますが、そうじゃなかったんだ。 本は、一般人にとって、とうの昔に死んでいたのでした。 「ニイ・イ・チン・ス・ラ」(お前はもう死んでいる!)―© 霞拳志郎 |
あいかわらず本は読まずに買ってばかり。 昨日も「十八世紀パリ生活誌―タブロー・ド・パリ―(上・下)」(メルシェ著)という岩波文庫を買ってしまった。 これは長いこと読みたかったのですが、しばらく品切れ状態が続いてちょっと前に重版再開されました。 しかし、いつのまにか書店で見かけなくなっていたので、焦っていました。 運良く見つかったので、ソッコーで購入。 これで一安心です。 この頃の本は足が早くてかなわない。 あっというまに本屋から姿を消しますからね。 岩波文庫はまだときどき重版再開してくれるからいいけれど、中公文庫や講談社学術文庫なんて古本屋しか頼れない。 本なんてもともと売れる商品ではないとはいえ、厳しいものです。 経済学のことはよくわからないけれど、本とかマンガとかゲームみたいなものを「経験財」と言うようです。 つまり一過性で体験したら、後は使い捨て―というのが、この種の商品の宿命。 本は一度読んだら、それっきり。読み直す人はまずいない。 たまに私みたいに繰り返し読む人もいるけれど、そういう人は精神的な障害者だと思われているんじゃないでしょうか?(笑) いまや大学の教員ですら本を再読する人はいないそうだから、いきおい使い捨てになるのも無理からぬことかもしれない。 一冊の本ができるあがるまでにかかった時間・費用ならびに、著者の蓄積を考えれば、本ほど安くて有り難いものはないけれど、空気や水と同じでほんとうに大切なものはありがたみがわからないものです。 大気が汚染しつくされ、水に有機水銀や環境ホルモンがしこたま混ざりこんでから、やっと有難味がわかる。 空気と水を汚す恐ろしさが本当にわかるのは、公害病で死んだ人だけかもしれない。 A good Indian is dead one. (意味は違うけれど、何をいいたいかは分ってもらえます?) 知的財産を共有できる仕組みは大切にしないと、いかんと思いますね。 もっとも、日本人が大量に本を所有し、かつそれを消費したのは、有史以来、高度経済成長時代が最初で最後かもしれない。 そのような現象は、日本に大衆社会が出現し、それが成熟した過程のなかにしかありえず、大衆社会が分衆化・群衆化のうちに消滅しようとする時代では望むべくもない。 このごろ、そう思えてならないのです。 紙を通じたメディアの替わりに、電子のメディアがもっと開かれたかたちでネットワークを作り上げる。 日本ではどうか知りませんが、グローバルな地球社会ではそうなるに決まっている! いまは紙の世界の遺産をせっせと電子ネットワークへ移植する大翻訳時代かもしれません。 たぶん、その担い手はそれで金銭的なメリットを享受するわけではなく、他の価値(観念)を創造する非営利的活動になるでしょう。 おおざっばにいえば、ボランティアですね。(笑) ネットで互いに読んだり書いたりしている貴方(貴女)も、わたしもボランティア。 肩肘張らずに、励みましょう。(笑) |
土曜日は、職能のブラッシュの日となってしまいました! 参考書を何冊も広げて、うだうだとお勉強です。
このところ、ヘルプ・ファイルをいじることが多いので、Help ファイルの技をブラッシュアップする必要に迫られています。 普段使うツールはもっぱらエディターです。 じつはホームページもエディターで作っていたりします。 ホームページ作成ソフトとか、HTML エディターを使うよりも、タグを手入力したほうが早かったりするものですから。(笑) ただし、さすがに Windows ヘルプはエディターでは作れない。 あれは Word じゃないと不可能なんです。 ショートカット・キーを使ったり、いろいろな小技を使っていますが、職人技じみたテクニックの必要を痛感しています。 「Wordの業師を目指す!」 というのも、あながちジョークじゃない。 Word の DTP 技術には自信があるのですが……。 入力や作成スピードのテクニックなんてものも、やっぱり要るみたいですね。 PCに強い人がみんな Office ソフトの達人というわけじゃないのは、ご存知のとおり。 知り合いのエンジニアさんは、Visual C++ のツールはばりばり使いこなしていますが、Word と Excel は苦手だとぼやいています。 なかなか Office ソフトも奥が深い。 ただし、MOUS レベルのお話じゃないですよ。 本屋で MOUS 試験問題集を立ち読みしたけれど、あんなものでも、資格になるんだ。 唖然としてしまった。 あれは、ほんとにPCが使えない中高年のためのものなんでしょうね。 ところで、このごろ Excel の VBA で遊んでいます。 VBA というのは、もっぱら Excel と Access のツール作りにしか使えないみたいですね。 業務用ツールを作る必要がないので、なんだかつまらない。 それにしても、不思議なのは Word にVBAがあること。 Word の VBA なんて……マクロウイルスを作る他に使い道があるんだろうか? Word の使い手じゃないんで、その辺はちょっとわかりません。(笑) やっぱり面白いのは、Java スクリプトですね。 わがサイトももう少し Dynamic HTML 化しようと思って、こそこそ実験中です。 別に難しい専門書を読まなくても、ちょっとしたことならWeb作成本で調べられるところが嬉しい。 でも、そのうちしっかりした本で勉強しなければいかんとは思っています。 というわけで、業務以外のことはお休みでした! 家人がはじめたPCやインターネットのインストラクターもしなけりゃいかんし、なかなか大変。 結局、高いだけのPCスクールへ行くよりも、初級くらいなら自分で教えた方がお金もかからないし、時間も短くて済む。 すでに Excel で表の作成と、簡単な計算式を使えるところまで来た。 二週間でここまで行くのは、PCスクールの説明で聞いたカリキュラムではまず無理みたいです。 曲がりなりにも、電子メールも使えるようにもなりました。 なかなか出来の良い生徒だと誉めてやらなくてはなりますまい。 この週末は、コンピュータ屋さんから離れられなかったなあ。 歴史については、また来週! |
仕事がたまったのと、風邪でパワーが出ないせいで読書にも身が入りません。 そんなわけで、読むものといえば「くずし字辞典」に英語版Newsweek。 そのかわりと云ってはなんですが、オールディズのポップスなんかを聞いています。 オールディズといっても、サイモンとガーファンクルとか、ピーター、ポール&マリーなので、ちょっと違うような気がしないでもない。 オールディズというと、<Stand by me>ぐらいを連想してしまう。 しょうがないな。「アタックNo1」をリアルタイムで見た世代だから。(笑) そういえば、この頃名門女子バレー部が次々と廃部になっていますね。 まさか「東洋の魔女」とまで云われた戦後日本復興のシンボル・女子バレーがこれほどまで凋落して、見る影もなくなるとは……。 いくらスポーツ嫌いのわたしでも、あのころ、そんなことは夢にも考えたことはなかった。 なにせ当時の女の子の憧れは、バレリーナと女子バレー選手だったもんなあ。 でも彼女たちの娘世代にとって、「クラブ活動」とは深夜の渋谷をうろつくこと。 まさか、自分の娘がパンツ丸出しの茶髪で、電車のなかで化粧をするようになるだろうとは。 あの頃のお嬢さんたちの、これまた夢にも思わなかっただろうけれど。 いや、いかん。 何をノスタルジックになっているんだ。(笑) それというのも、聴いているグループのせいでしょうね。 ベトナム戦争に公民権運動。 今から考えれば夢のように遠い世界かもしれないけれど、わたしが小学生だった頃にはれっきとした現実でした。 サイモンとガーファンクルにしろ、ピーター、ポール&マリーにしろ、まさにその時代の申し子。 ノスタルジックになるのも無理もない。 「花はどこにいった」とか「風に吹かれて」なんて、ベトナム戦争と公民権運動そのものの歌も、いまとなっては懐かしい。 でも、もっと気に入っているのが「パフ・ザ・マジック ドラゴン」 ♪Puff, the magic dragon lives by the sea, Collecting the Autumn mist ♪ って、やつです。 音楽関係には詳しくないので、邦題は知りません。 洋楽の邦題には興味がないので、どーだっていいことです。 これを聞いていると、なんだかほんわかしてきますね。 最近気づいたのですが、わたしにとってナツメロはニュー・ミュージックじゃないし、フォークソングですらない。 もちろん、演歌なんて問題外。 どーやら、当時ラジオからやたら流れていた洋楽らしい。 あのころの可愛い女の子は、サイモンとガーファンクルやカーペンターズのファンだった。 もちろんビートルズは生活必需品。 音楽嫌いだったので、当時はまるで興味がなくて曲名なんて全然覚えていない。 それがCMとか、20世紀を回顧する番組なんかで流れてくると、意外にメロディーや歌詞を覚えているから不思議です。 日本の歌手でいえば、美空ひばりくらいまでが懐かしく、それ以降はナツメロじゃないんだなあ。 アリスや、ユーミンはまだナツメロじゃない。 わたしにとっては今だに新鮮だったりします。 懐かしいんじゃなくて、夏空に浮かぶ白い雲みたいな……。 空気のよどんだカラオケで歌うよりも、自然を突っ切るハイウエーをドライブするときに鳴らしたい。 これこそ、若い世代からみればナツメロそのものかもしれない。(笑) 考えようによっては、こういう人生の同行者を持てたことは幸せと言えるんじゃないでしょうか。 安室や小室哲哉の歌なんて、聞く気にもならない。 話ははずれたけれど、洋楽はやっぱりナツメロだなあ。 ビリー・ジョエルでさえ、「ピアノマン」とか「オネスティ」「さよならハリウッド」(だったかな?)は、わたしには大事なナツメロだったりする。 このところ、本も読まないで、中高校生の頃に耳にしたポップスに浸ってます。 まあ、歳を食うのもいいもんだ。(笑) パーボンを嘗めながら、個人営業で「ブエノ・ビスタ・ソシアルクラブ」を開店中です。 このクラブは会員が独りきり(笑)で、しかも深夜のみ営業。 なかなか楽しい会員制クラブであります。 支部は誰が、いつでも、どこで開いてもオッケー。 許可はいりません。(当たり前だ!) ただし、年齢制限だけは……あるかもしれない。(笑) |
このところ連日、読書日記を更新しています。 これで「日刊」という看板も嘘じゃなくなった!(笑) しかし――まだ読書のスピードは戻らない。 ケンシロウと戦い傷ついたラオウの気分。 > こっちでも書いている…… (^^; 昨日はうっかり「文学評論」を持ってゆくのを忘れたので、電車でもオフィスでも読めなかったのです。 休憩時間に読み残した英語版<Newsweek>なんかを開いていました。 先週はやけに人相の悪いジャパニーズなにーちゃんが表紙から、こっちを睨んでいたので気分が悪かった。 先々週は、韓国のこりあん・びゅーちーなおネェちゃんだったのに。 このごろあの雑誌の表紙は、セレクションが悪いぞ! 先々週はよかったけど。(笑) でも、やっぱりハリウッド風の、アジア系アメリカンな厚化粧は……。 なんか似合わない感じでしたね。もっとあじあん・てぃすとの化粧をしてもらいたいもんです。 とくに、びゅーちふるな娘(こ)は。 タヌキを連想させる厚化粧なんて、もったいない。 ――などとくだらないことを考える読書家です。(笑) 家に帰ってから、英語版Newsweek を整理して、古新聞といっしょに出そうと考えました。 いつ床が抜けるか心配でたまらないと、言われるとね。さすがに、気にかかります。 さっと数冊を古新聞入れに放り込んだのはいいけれど、ふと開いたのが悪かった。 台湾の A-mei という女性シンガーの特集記事が目に入った。 なんか可愛いので、思わず再読してしまった。 古雑誌の整理は一瞬で終わり。 陳水扁(この漢字だったかな?)総統の就任セレモニーで歌ったおかげで、中国本土でCDが販売禁止になった女性歌手といえば、思い出す人もいるのでは。 この A-mei がその歌手。 てっきり中国人だと思っていたら、台湾原住民だそうです。 台湾でも原住民に対する差別はひどいもので、彼女も貧困のなかで育った。 彼女の前にも、歌手として成功した台湾原住民はいたけれど、みんな出身を隠していたそうです。 自分の出自をはっきり明かして、なおかつサクセスしたのは、A-mei が初めてだとか。 こういう話には、やたら弱くて、じーんとしながら読んでしまいました。 中国政府の嫌がらせに事実上休業していた A-mei ですが、2000年暮れから活動を再開したそうです。 アメリカ進出も計画中ということだから、もう今ごろは何か結果が出ているかもしれない。 アジアン・ポップスには全然疎い読書家には、わからんですけど。 とにかく美少女と根性(=人情)という二大秘孔を突かれて、脳細胞が死んでしまった。(大笑い) 「お前はすでに死んでいる!」(@拳志郎) |
夏目漱石の「文学評論」を読んでいます。 ただの文学論議じゃなくて、18世紀英国社会の社会史として読めるところが面白い。 本物の文学者というのは「泣き落としの小説屋」とは違うのだよ。 ――という思いを強くしました。 本屋で猪瀬直樹氏のNHK人間講座「作家の誕生」というTV講座のテキストを立ち読みしました。 いわゆる文芸誌の編集部が考える「ブンガク」というのが、三島由紀夫の自決事件を契機にしてとっくに死んでいたんだと、納得してしまいました。 いまも「あくたがー show」というものはあるのですが、猪瀬氏の思索に従えば、それは死児の歳を数えるようなもの。 腐乱死体を花で飾り立て、三度三度のご飯をあげているような……鬼気迫る情景といえないこともない。 「文学」が知でありえた時代はひょっとすると三島の死で終わったのではないか。 たしかに、日本文学で国際的に通用する人々はあの頃までに全員登場していた。 いまはその世代さえ死に絶えた不毛と虚無の時代かもしれない。 文学が知性と感性の武器であるためには、もはや小説という形態ではありえないのかもしれない。 そんなことを考えながら、夏目金之助教授のあまりにも楽しい講義録を読んでいます。 (「文学評論」は漱石が東大英文科で教えた講義録なのです。) |
まだ風邪がぬけないせいで、ろくに本も読めません。 電車通勤のあいだも、AFNのラジオを聞きながら、ぼーっと窓の外を眺めている――と書きたいところだけれど、混み合った電車でそんなことは無理。 眺めているのは、週刊誌の吊り革広告ばかりです。 しかし、あれは知らんでもいいことしか書いてませんね。 記事のセレクションはいっそ見事としか思えない。 梅宮アンナが妊娠して入籍してたって、いいじゃないか。 梅宮(辰夫)パパが妊娠して、羽賀健二と入籍したらそりゃあ驚くけれど。 こうやって茶化しながら、吊り革広告を見るのがいちばん賢いと、密かにうぬぼれていました。 でも、あくまでも、そんなのはうぬぼれに過ぎないように思います。 どーいうわけか、田中真紀子外相の顔を新聞やTVでみるたびに腹がたつ。 そんな経験をした人はいませんか? 実は、わたしがそうでして、ここ一、二週間が特にそう。 別に田中外相が嫌いなわけでもないのに、なぜかあの顔を見るとむっとする。 原因はまるでわからないけれど、腹が立つ。 ほんとうに不思議な気分です。 外務省のろくでなしと戦っている人を応援こそすれ、嫌いになるはずがないのに。 この得体の知れない怒りはなんなんだ? 恥ずかしながら、自分ではそういう状態に陥っていることに気がつかなかった。 「田中外相は外交の資質に欠ける」と口走って、人に笑われたおかげです。 自分の異常に気づいたのは。 「前に言っていたことと違う」と笑われたおかげで、はたと悟りました。 自分は誰かに思考をコントロールされているぞと。 気がついてみると、犯人はすぐわかった。 毎日、バカにしながらみていた電車の吊り革広告ですね。 それと、アホなおっさんたちが読む夕刊紙。 あれって、駅のキオスクに嘘八百の客引き文句を並べているでしょう。 そして、帰りの電車の乗っていると、混んだ車内で夕刊紙を器用に折りたたみながら読むおっさんたちがいる。どういうわけか、そういう人はみんな口臭がきついという共通項がありますね。 畳まれた夕刊紙の背面を見ていると、キオスクで見た活字が躍っている。 あれだなあ。 サブリミナル効果で、洗脳されていたんだと、しみじみ思いました。 低劣な商業主義と、既得権益擁護集団の悪あがき。悪の<結託>に、みごとしてやられていたわけです。 本を読む代わりに、洗脳されていた! 活字中毒者の哀しい性です。 本が読めないと、どんなくだらん活字でも追っかけてしまう。 しかも、そんなものに頭の中まで汚染されていようとは。 いかんなあ。 せっかく最近はTV中毒から解放されたというのに、電車(&駅構内)の中の吊り革広告ごときに魂を抜かれるとは、む、無念……。 これからは駅のキオスクからは目を背け、電車の社内では目をつぶって英語放送に集中しようっと。 まったく、油断も隙もあったもんじゃない。 この情報公害をなんとかする方法はないもんでしょうかね。 |