お気楽読書日記: 9月

作成 工藤龍大

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9月

9月26日(その二)

このごろ「目標!一日一冊」ってのは、ほとんどウソの読書日記です。
というのも、ギルモアの「心臓を貫かれて」にはまったせい。
ほんとに、どつぼですわ、これ。

こんな重たい話はありませんせんね。
「村上春樹の翻訳ということで読みました!」
「トラウマて、ひどいっ……」
なんて、ミステリ好きな人たちのミーハーな感想をMLで読んでいたから、正直バカにしとったんです。
でも、密かに一目置いていたMLの常連さんが「アメリカ社会の闇を感じる」を書かれていたので、読んでみる気になりました。

わたしはやはりミステリ好きとはいいがたく、個人の生活史上のトラウマで片付けるなんて出来ません。この本には、構造的なとてつもない闇を感じました。

死刑囚となる著者ギルモアの家族の生活史は、もちろん事実ですが、まるでアメリカの一般家庭の醜悪なパロディです。
かつて日本人があこがれた60年代TVホームドラマの理想的アメリカン・ファミリーが、グロテスクに歪みねじくれた畸形化しているとでもいいましょうか。

これを夢中で読める人の気がしれない。
しつように繰り返されるささやかな絶望の連続に、ぱたりと本を閉じてため息をつく連続です。

べつに銃弾が飛び交うわけでなし、斧で頭蓋骨を叩き割るというシーンもないですが、日々の絶望が積み重なっているエピソードの連続です。発ガン性物質をこつことと摂取しているような気がします。
読んでいて、登場人物の心理を想像すると、いたたまれないですね。
わたしは頭痛がしてきました。

構造的な闇という変な言葉を使いましたが、その理由の一端はモルモン教(末日聖徒教会)にあります。
キリスト教のプロテスタントのひとつであるモルモン教は、信徒の離婚率も低く、アメリカでは珍しい伝統的なモラルを堅持した家庭を作るので有名です。
ただし、その創成時代にはひどく暴力的な集団だった。そのことを、著者ギルモアは家系の悲劇の遠因とみているので、そうした事情をずいぶん書き込んでいる。
その効果もあって、全体を救いようもないトーンが覆っています。
殺人犯となる兄の人生が、必然であったとでもいうように。

そして、両親それぞれに取り憑いた超自然的な悪霊を暗示することで、運命の力をいよいよ強くアピールする。

やっと上巻の半分ですが(これは文庫で上下二巻)、これからどうなりますか。
とにかく気力をふるって、読むことにします。
はーっ、草臥れる。

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9月26日

ルーマニアの女子体操選手アンドレア・ラドゥカンが、ドーピングで金メダルを剥奪されました。
あんまり可愛い美少女なので同情論も多いのですが、どんなものでしょうか。

検出された禁止薬物エフェドリンが基準値の4倍では、風邪薬の処方といっても信憑性が薄いような……
体操には薬物は有害無益だという意見もありますが、精神的プレッシャーで実力が発揮できない選手も多い。日本の塚原選手もそうでした。
だったら、体操で薬物を使う必要がないという論拠もなくなりますね。

そもそも、なんでドーピングをIOCがやっきになって根絶しようとするかといえば、皆さんご承知のとおり、選手と観客にそっぼをむかれるのが怖いから。
どんな大記録でも、薬品のおかげとしれば、だんだん見る人もいなくなる。TV放映権も売れないし、メーカーだってスポンサーになりたがらない。

「ドーピングしても大記録を出すならいいのでは」という考えの人もいるでしょうが、世界の圧倒的多数をしめる貧しい国と、先進国の貧困層は絶対に反対でしょうね。
そんなことになれば、クスリが買える選手しか勝てなくなりますから。そうなったら、スポーツで成り上がる夢はなくなる。オリンピック商業主義の顧客もいなくなる。

ただスポーツ商業主義をささえるには、記録がいる。
これは、確かです。

世界記録を塗り替えなければ、商売ネタにならない。
だから、跳んだり走ったり、泳いだりするスポーツは記録をどうにかして更新しようとする。
でも、人間は機械じゃないんだから、かんたんにモデル・チャンジできるはずがない。
自動車みたいにモデル・チャンジできるなら、毎年世界記録を更新するのも簡単ですけど。

飛躍してるとは思いますが、記録や数字で勝敗を争うのはもう無理なんじゃないでしょうか。
単純に走力・泳力を向上させるには、すでに生物としての限界に近づいている。あるいは、もう越えているのかもしれません。
だから遺伝子改造なんてことを真面目に考えるバカ学者まで出てくる。(笑)

陸上競技や水泳のトップ・アスリートたちはIOCの規定を守るよう努力はしていますが、そのトレーニングは言葉の広い意味では科学技術による肉体改造といっていい。
それが、ポイントで得失点を争う競技にさえ浸透しつつある。
そのことが明らかになったのが、今回のドーピング事件だといえます。

本来なら、記録よりも、だれが一着になったかで話が終わればすむ話です。
しょせん、かけっこ、泳ぎ比べなんですから。
しかし、それでは選手のスポンサーたちの商売がなりたたない。

そうなると、ドーピング問題はスポーツ商業主義が続く限り、ぜったいになくなりませんね。

もしも、ドーピング問題がなくなるとすれば、開発途上国や先進国の貧困層が豊かになって、スポーツを純粋に競技として自分で楽しむことができた時でしょう。
金持ち喧嘩せずで、わざわざドーピングやろうという気もなくなるし、かりにドーピングしようとする選手がいたらその選手を心から軽蔑するようになる。

けっきょく、ドーピング問題とは、南北問題ひいては先進国内部の南北問題(所得格差)にいきつく。
20世紀資本主義の数字優先・競争優先の歪みが生み出した鬼ッ子ですわ。

これを解消することは、20世紀的な野蛮な科学至上主義と弱肉強食の論理をなんとかしないと無理だって気がします。
そんなことを考え出す天才がはたして出現するのか?

大げさではありますが、たかがドーピングといっても根は深い。
オリンピックをみて、また憂鬱になってしまいました。

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9月25日(その二)

恐縮ながら、またお坊さんのはなしです。
ただし、現代のお坊さんではなく、親鸞について。

このところ、読売新聞で津本陽さんの新聞小説「弥陀の橋は」を愛読しています。

というより、いろいろとチェックを入れながら読んでいるというほうが正確ですね。
鎌倉時代と、当時の仏教について、津本さんはどう考えたのかが面白い。
津本さんが参考にしたであろう本を推理するのも、楽しみのひとつです。

ところで、この小説の主人公親鸞については、連載開始前からひとつ疑問がありました。
いったい、親鸞は生涯で何人の女性を妻にしたのか?

関白九条兼実の娘・玉日姫というのは、アウトです。
茨城県結城市には、この人のお墓があるそうですけれど。
親鸞が九条兼実の娘を妻にしたことだけは――まちがいのない誤伝です。

親鸞は法然の門下にはいって二年後に結婚したことは確かです。
もちろん、これが初婚。
ただし、相手はわからない。
記録がないですから。

津本さんは、前越後介三善為則の娘・筑前という女性を創作しました。
ここは自由に想像するしかないから、これでいい。

でも、前越後介三善為則の娘というのは、まずくはないか。
よけいな心配をしました。

というのも、親鸞のただ一人実名がわかっている妻・恵信尼の素性が、まさに前越後介三善為則の娘。
これだと、恵信尼と京都時代に結婚したことになる。

すると、ふたつほど面倒が持ち上がるのです。
ひとつは、親鸞が晩年勘当する息子・善鸞は京都時代に生まれたので、とうぜん筑前なる女性としなければならない。
ところが、恵信尼と善鸞は母子関係とは思えないほど仲が悪い。善鸞が関東へ移住して、親鸞と深刻な対立関係におちいったのには、なさぬ仲の恵信尼の存在が一役買っているらしい。

さらに、恵信尼が生んだ第一子は信蓮であって、善鸞ではない。
善鸞は親鸞三十二歳の子であり、信蓮は37歳の子のはずなのです。

他の証拠からみて、善鸞は1207年に父が流罪になってから、28年後に京都へもどっているまで一緒に生活した様子がない。ずっと京都にいたようです。
親鸞が流罪になったとき、善鸞は満で3歳だったはず。まさか、そんな子を京へ置いて、母だけが越後へ帰るなんてことがあるのか。

津本さんは、その後やはり筑前が恵信尼だとしました。
すると、いよいよ変なことになる。
たしか流人は妻子を配流先には連れて行けないはず。津本さんは律令で認められているとしていますが、以前読んだ律令ではそうは書いていなかったように記憶しています。
さらに、親鸞夫婦は恵信尼の実家に住まわせてもらっているように描いていますが、流人であれば、身内の屋敷に住むのはおかしい。

津本さんはなぜそのように書いたのか。
そこが気になっていました。
平気でデタラメを書く人なら、こんなに気をまわしたりはしません。
やっぱり、津本さんを尊敬していればこそ……の話です。

手持ちの参考書を調べていたら、わかりました。
赤松俊秀氏が吉川弘文館から出した「親鸞」という本が根拠のようです。
この本はまだ未見なので、断言はできませんが。

赤松氏によると、恵信尼は京都で親鸞と出会い、流罪事件のときには夫とともに実家のある越後へ下ったそうです。
そうすると、善鸞はどうなるのか。
善鸞も恵信尼の子で、幼い実子を京都へ置きざりにして夫婦は旅立ったのだろうか。

ただ津本さんは京都時代の親鸞にはまだ子がいないことにしていますね。
これから先どうやって、話が展開するのか予断できません。

ところで、親鸞の結婚相手の数という最初の疑問の答えですけれど、正解はわかりません。(笑)
京都時代の人と、恵信尼で二人とも考えられるし、生涯結婚したのは恵信尼ひとりともいえる。ただし、後者はちょっと考えにくいですが……

この頃の人の婚姻形態を考えると、だいたい生涯に二人以上の妻を持つのが普通のようです。
ひとつには出産や疫病で女性が死ぬ確率が高かったこと、そして一夫一妻制と異なる複婚制が当たり前だったせいです。
とにかく史料がないから、なんとでも云えるのです。

ただし、史料と時代状況を踏まえて出てきた判断はそれなりに尊重すべき――だとは思います。

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9月25日

うだうだ取り紛れているうちに、更新が遅れました。
それにしても、いつも新聞ネタばっかりですね、一回目は。
世間が狭いもんでしょーがないな、これは。(笑)
もっと刺激的な生活をしていれば、もっといいネタがあるんでしょうけど。

ところで、本日も新聞ネタです。
指圧の浪越徳治郎さんと、映画監督の工藤栄一さんが亡くなりましたね。
浪越さんといえば「指圧の心は母心、押せば生命の泉わく!」という名フレーズが懐かしい。
マリリン・モンローが来日したとき、指圧治療した経験を書いた自伝を読んだのは、もう30数年前ですね。たぶん、400勝投手金田正一氏の自伝と同じ頃に読んだ記憶があります。
そういえば、金ヤンどうしたのかな。
息子もあんまりTVでみかけないし。
ふたりとも、芸能界(?)から引退して、実業家にでもなったのかな?

工藤栄一氏といえば、あの懐かしい「必殺」シリーズの監督。どうも時代劇にしては時事ネタを入れすぎて、好きじゃなかった「必殺」ですが、殺しの場面の映像感覚はどれもよかった。
個人的には緒方拳演ずる鍼医・藤枝梅安(「必殺!仕掛人」)と、藤田まことの八丁堀同心・中村主水のシリーズが好きでしたね。
中村主水は「必殺!仕置き人」が最初だったような。たぶん、山崎務と共演で。

あーあ、こんな具合にして、みんな居なくなるのかな。
石坂浩二氏が水戸黄門になる世の中だ。万物は流れる。パンタ・レイ……。

ところがいっぽう元気まんまんの人もいる。
哲学者・梅原猛さんの新刊の新聞広告と、新刊に対するインタビュー記事が読売新聞に載っていました。

あいかわらず梅原さんはやってくれますね。
鎌倉仏教のスタートランナー法然について本を書いたのですが、その史料にしたのは「醍醐本」と呼ばれる伝記だとか。
それはそれで結構なのですが、梅原さんは法然が15歳で比叡山にいたとき、郷里の父・漆間時国が殺害されたと語っていました。
他の伝記とは違う「醍醐本」だけの記述にしたがって、そう書いたそうです。
でも、この意見に賛成する人はあんまりいないでしょう。

法然は一人っ子です。男女を含めて、きょうだいはいません。
武士が一人っ子を出家させるわけがない。身体障害者であれば、話は別だけど。
武力で家を守らなければ、家財・所領をまわりの武士たちにそっくり切り獲られますからね。
実家がなくなれば、仕送りもできない。
かりに比叡山で暮らすとしても、赤の他人にすがって生きなければならず、ひどく肩身の狭い思いをしなければならない。
へたをすれば、食いはぐれる畏れもある。
いくらなんでも、我が子をそのような道へ追い込むなんて……。

常識からいえば、梅原さんの説には無理があるとしか思えません。
しかも、「醍醐本」でそのように書いてある部分は、「別伝記」と呼ばれて、法然の孫弟子が書いています。その人は、法然の高弟・勢観房源智の無名の弟子です。たぶん、法然とは一面識もないでしょう。「醍醐本」の本体は1938年に出来ましたが、「別伝記」は1242年に書かれています。
ちなみに、勢観房源智の没年は1238年。師匠に確かめることも出来ないですね、これじゃあ。

梅原さんは、結論ありきで、つっぱしるところが凄い。
「出雲には地方権力など存在しなかった!」という大仮説も、大量の銅剣が発見されたので吹っ飛びました。

「法隆寺は怨霊の寺である!」という大仮説も、仏像の頭に釘が打たれていることから、あれよあれよと論旨が天空へ翔んでゆく。
「柿本人麻呂は殺された!」という出世作の説も、じっさいに自分で万葉集を読んでみると、どーしてそう思ったのか、首をひねってしまいます。

素人がなんも知らんと思って、からかっているんでしょうかね?
梅原日本学はよく分からんです。

ただ伝奇小説家としてみると、梅原さんは凄い。
わたしには、これほど大胆なフィクションは書けません。
まだ世間と、歴史史料に気兼ねがある。(笑)

たぶん歴史作家と名乗っている人は、どんな大御所でも、梅原さんみたいなことはやれんでしょうね。
あれは、史料批判という作業をぶっ飛ばすからできる大風呂敷。
それをやったら、歴史作家は看板をおろさなければならない。

梅原さんは戦後最大の伝奇作家なんですね、たぶん。
あの人に比べたら、津本陽さんも、宮城谷昌光さんもものの数じゃない。
だいいち、そんな作品はお二人とも書かんでしょう、きっと。

わたしとしては、ボーゼンとするしかないです。
でも、梅原さんの書いた本はぜひ読みたいと思います。
小心者は、天馬空を行く豪傑を仰ぎ見るだけ……です。

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9月24日(その二)

読書日記です。
久しぶりにアブナい坊さん・明恵上人に戻ります。

伝説の域を越えないのですが、明恵上人が西行法師とであった話が伝記に残っています。
「明恵上人伝記」のこのあたりが、西行の和歌に対する考えを明らかにした有名な箇所――となっているのです。

「この歌即ちこれ如来の真の形体なり。
されば、一首読み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、
一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ」

和歌こそ、ホトケの本当の姿。
一首作ることは、仏像を一体建立するのと同じ事。
一句を考えるのは、密教のマントラ(真言)と唱えることと等しい。
有名な西行の言葉です。

明恵上人は、歌人としても有名で、岩波文庫の「明恵上人集」に収録された歌のうちでも九首が勅撰集に入っています。
中学生が歌会始めに出る今なら、「ふーんっ」と云われてお終いです。
でも、この頃には勅撰集に入るのは、大変な名誉だったのです。今で云えば、オリンピックの金メダルみたいなもんです。
「方丈記」の鴨長明という人はわずか一首が勅撰集に入っただけで気が違いかねないほど歓びまくったそうです。

歌人としては、それほど優れた存在だった明恵上人。
たとえ、フィクションだったとしても、紛れもない宗教的天才だった明恵上人と天才歌人・西行が出会うことは、同時代人にはゆるがせにできないロマンでした。

つまりは、和歌がホトケという宇宙の絶対者とコンタクトする方法だと、中世人としてはつよく、はげしく言っておきたいわけです。
じじつ、西行はもちろんのこと、明恵上人の和歌も、仏教の悟りに等しい境地を歌っていると考えられたわけです。

そこで、明恵上人の勅撰集に入った歌をふたつばかり紹介しておきます。

「清滝の 瀬々のいはなみ高尾山 人もあらしの声ぞさびしき」
「しるべなき われをば闇にまよはせて いづくに月のすみわたるらむ」

なかなか情緒ある歌ですね。
しかし、こんな真面目な歌ばかりでは、わたしたちが敬愛するアブナい坊さん・明恵上人にはふさわしくない。

そこで、いかにも明恵上人らしい歌をひとつ。
「われ去りて のちにしのばむ人なくは 飛びて帰りね鷹島の石」
鷹島というのは、前に明恵上人から手紙をもらった和歌山県の「苅磨(かるま)島」の、お隣にある島。
紀伊水道の水も釈迦のいる天竺とつながっているだろうと、明恵上人はここの石を拾ってきて、文机の上にいつも置いていた。
それに「自分が死んだら、自力で帰ってね」と諭すあたり、やっぱり明恵上人ですね。

えっ、なに。これは文学的虚構だから、そんなアブナい話じゃない!
なるほど、ごもっとも。

じゃあ、こんなのはいかが?
「山寺も法師くさくはゐたからず 心きよくはくそふくなり」

この歌を作ったのは、住職をしている栂野高山寺でも弟子が増えていろいろトラブルが増えてきた頃だそうです。
宗教界にも世俗が入りこんできた。この場合、法師というのは、俗にまみれた坊さんという意味で使っているのです。
そんなのは嫌だと、古参の弟子たちがごねだしました。

明恵上人は、そんな弟子たちにきっぱり宣言したんですね。
「うだうだ文句を垂れていないで、心をきれいにして、クソを拭け」

恐れ入りました!(笑)

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9月24日

「このHPが雑誌で紹介された!」
 ここの常連さんなら、意外なコメントに驚いたでしょうね、きっと。

ここぐらい地味なサイトも、そんなにないはず。
「いったい、どこの雑誌だ。そんな物好きは?」
なんてね。(笑)

その奇特な雑誌は、<Beautiful Aging>といいます。
ただし、市販はしていないそうです。
発行元は日経事業出版社という日本経済新聞社の関連会社。体裁としては、社団法人ビューティフルエージング協会の会員誌となっています。

編集者の方から取材申し込みのメールをもらったときには、驚きました。
いや、ほんと!
何かの間違いかと思いましたよ。(笑)

鈴木さんという女性ライターの方とメールをやりとりして、生まれてはじめて電話取材というのを受けました。
こんなこともあるんですねぇ。(ふーっ)

編集者の方も、ライターの鈴木さんも、丁寧に応対してくれたので、リラックスしてお話できました。
あがり症のわたしとしては、上出来。
こちらがしゃぺり倒した内容を、きちんとコンパクトにまとめて頂いたし、ありがたいことです。

「歴史作家を目指して着々と読書日記を更新中」なんて、過分のお言葉を頂戴しちまったい!(大照れ)(#^^#)

やっぱ、活字になると、てれてれですって!

この雑誌には、グループ読書の会を主宰する中学校の元校長先生や、四国遍路を決行した熟年ビジネスマン、それに童話の読み聞かせ運動を実行する図書館員の方が紹介されてました。

定年退職された元校長先生はさすがに六十代半ばですが、他の方は五十代に突入したばかり。
あれっ、そんなに年齢が違わないと思いましたね。
四十代になると、どうも十歳未満の年齢差はあまりたいしたものに思えないのです。
みんな、なかなか頑張ってんじゃないっと思ったくらいです。

世の中に揉まれながら、「知的生活」というものを大事にしている人は、みんなお仲間と勝手に思っているんです。
それは、年齢とは関係ない。
お金や会社組織のポジションとは違う価値観を大事にする人がいなくなったら、この世は闇だと思いません?

雑誌に載ったことは嬉しいけれど、世の中にお仲間がいっぱいいることが分かって、それ以上に嬉しいですね。(^^)

読書日記はまた後で。

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9月23日

女子マラソンも終わり、サッカーも終わった。
時間がたつのは早いって、と思うのは自分だけか。

昨夜の夜遊びがすぎて、日記もいつもより遅く更新しています。
けっこう洒落た居酒屋で、料理もうまかったから、ちょっと飲みすぎました。

ジョッキで生ビールを一気に二杯流し込んでから、スタートです。
ちょっと変わったものも呑みました。
レモンで作った発泡酒。名前は<Two Dogs>とか。味はレモンの炭酸ジュースそのものだけど、喉が乾いていたから、これも一気のみです。
久しぶりに楽しく飲みました。

昨夜はオペレッタというものを初めてみました。
タイトルは、ジャック・オッフェンバッハの「天国と地獄」。
場所は、西武新宿線と西武池袋線の住民じゃなきゃ、行く気になれんでしょうね。
所沢の航空公園にある「ミューズ」です。

オッフェンバッハという作曲家の名前と、タイトル名「天国と地獄」とくれば、まず大げさな名前に、裸足で逃げ出したくなりますね。

ただ去年もここではオペラ「魔騨の射手」を上演していて、これがわりと良かった。
出演者も、ウィーンあたりで活躍している歌手たちなんで、ウィーン・フリークのわたしとすれば、超一流の歌手たちが出ているうんたらかんたらよりも、良かったです。

しかし序曲を聞いて、まず笑えた。
まあ、誰でも知っているでしょうけれど、「天国と地獄」序曲は運動会の玉入れ競争なんかでお馴染みのあれ。ドリフターズの「8時だよ!全員集合」でもよく使ってましたね。
あれをもったいぶって、オーケストラでやっていると、かなり笑えます。

でも、もっと笑えるのが、あるCMにも使われていること。
「文明堂のカステラ」のCMで、クマのぬいぐるみがダンスするときの曲も、この序曲だったと知りました。
オーケストラの曲を聴きながら、頭のなかでクマちゃんたちが踊る、踊る。
目を閉じても、瞼の裏に浮かぶから始末が悪い。
お菓子屋さんの名前が、頭蓋のなかで呪文のように連呼されるのもすごかった。
クスリのフラッシュバック効果みたいなもんですね。
恐るべし、「文明堂」。
30年前にサブリミナルCMとして、告発すべきだった!(笑)

オペレッタというのは、オペラと違って毒のあるパロデイとエロっぽいダンスが売りだってことは知ってましたが、「天国と地獄」は予想以上でしたね。
古典観劇というよりは、面白い歌芝居でした。

オーストリア人のおねーさんたちが、足をあげて、スカートまくる踊りはそうとうな迫力です。
いっしゅ殺気をはらんでいたような。
なんとしても、受けなきゃという意気込みをびりびり感じました。

こうした古典系の観劇に来ると、かならずいるのが、劇場にケチをつけたり、自分が現地で見てきたオペラの自慢を聞こえよがしにする爺さんと中年女。
熟女は余裕があるのか、そんなことを身も知らない他人に吹聴したりはしないようです。

開演前には、必ずそういう人たちの聞こえよがしの自慢に気分を悪くさせられるのですが、そんな人たちも喜んで手拍子していた。
やっぱり、わが国民は基本的におっちょこちょいだと思います。(笑)
そこんとこが、憎めないですわ、ほんと。

この作品は1860年にウィーンで初演されたといいますから、これが出た19世紀末のウィーンはあなどれないと思いました。
ただし、ほんとうの初演は1958年のパリだとか。
日本で同じ頃初演されたのは、歌舞伎の「白波五人男」ですよ。
あれを歌舞伎でみて、げらげら笑える人間は……まずいないでしょうね。(吐息)

しかし、解説のパンフレットも笑えた。
誤訳がいやっというほど見つかりました。
あんまり、誤訳探しが楽しいので、本も読まずに辞書を開きながら、パンフレットを熟読しています。
外国語学習の楽しみのひとつは、人様の労作のあら探し。
人が悪い趣味ではありますが……。
でも、これがまた身につくんですよ、ほんと。

そんなわけで、本日は書くにあたいするほどの本を読んでいません。(笑)
まじめな読書日記は、明日書くことにします。
どうかお見捨てなきよう……よろしくお願いします。(泣)

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9月22日(その二)

読書日記です。
どうも難しい本ばかりで草臥れました。

これから天気も悪くなりそうだから、(って、あまり関係ないですが)軽めの本が読みたいです。
明恵上人についても、ちょっとお休み。
ギルモアはもっときっぱりお休み……です。

でも、精神世界づいているせいか、「仏像の声」(西村公朝)という本を読んでいます。
書店で「ナニワ金融道」の青木雄二さんの本を立ち読みして辟易したので、こっちを買ってしまいました。
青木さんの本はすごいですよ。
「人の足元を見る」って言葉は、この人のためにある。

いまの自分に不安を持つ人、将来に不安を抱える人、トラブルに巻き込まれた人。
もし自分がそういう人になりかけていたら、絶対に甘い話にのってはいけないと骨身にしみました。
たぶん、もっとひどい地獄へ転げ落ちることになる。

愛情深い、責任感の強い人が、借金の保証人として絶好のカモだというのも、よくわかる。
「神さんなんか、この世にいないって子供を教育せい!」
とは、青木さんの本音でしょう。
なるほど、こういう狼どもがうごめいている世の中では、すべて疑ってかかるしかない。

こういう本は世の中を知る勉強にはなるけれど、金を出して買う気にはなれません。青木さんには悪いけれど。
やっぱり、ちょっと甘い読書家です、わたしは。

まだ読みかけですが、西村さんの本はいい。
この人はだれども知っているとおり、仏像の修理と製作の第一人者。
それだけじゃなくて、本の表カバーの略歴をみて、おどろきました。
あの素人さんが作った五百羅漢さんで有名な嵯峨の愛宕念仏寺の住職さんでもあったのですね。
あそこは一度行ったことがあるけれど、手彫りの羅漢さんを見ていると、ほんとに楽しい。
なんとなくTVなんかで拝見する西村さんのお人柄にふさわしいお寺です。

この本の面白さは、仏像のポーズがホトケさんのメッセージだということをひとつひとつ具体的に解き明かしてくれるところ。
わたしだって、いちおう歴史を勉強していますから、小難しい仏教美術の専門書も読みますが、あれは知的すぎて情動面にぴんとこない。精神世界的な発想まではなかなかいきません。
定朝様式だの、寄木作りだの、施無畏印だの次々と出てくる言葉を暗記するだけで終わりです。
そこへいくと実作者の西村さんは、仏像のお約束ポーズに秘められたメッセージを噛み砕いて明かしてくれる。
教理の迷路でまごまごしているのが、いきなり見晴らしのいい山頂へ出たような気分です。
いいですね、こういう本は。

こういうので、のほほんとすることが、智慧をつけるということかもしれません。
ビル・ゲーツみたいに金持ちになる方法は書いていませんが、人の世を生きる智慧にはあふれています。
経典を読むばかりじゃなくて、いい仏像をみたほうが直感的に智慧がつくんでしょうね、きっと。

フロイトやユングなんかを読むと、人間の無意識では、どんなお馬鹿にみえる人でもかなり客観的かつ正確に自分の置かれた状況を把握していることがわかります。
そういう状況把握能力を仏教では「智慧」というんでしょうが、それはテキストよりも立体的なオブジェの仏像のほうがよりよく表現できるらしい。

西村さんの本を読んで、仏像が放つメッセージを受信できるようになれば、青木さんが警告する狼どもの餌食にはもしかしたらならなくてすむでしょう。
なぜなら、仏像が体現するホトケとは、宇宙のメッセージそのものなんですから。
いくら人間の悪知恵でも、宇宙の真理にくらべれば、どってことないって思いませんか?

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9月22日

柔道男子100キロ超級の篠原信一選手の誤審問題が話題ですけれど、わたしは「弱かったから、負けた」と云う篠原選手の言葉どおりだと思います。
国際化した柔道では、低レベルの審判が重要な大会の畳にあがることは否定できない。
それは、日本柔道界がこの20年間苦しみ抜いた問題です。

日本のゴールド・メダリストたちは、そうした状況にあっても勝つために研究を怠らなかった。国際化ということは、そういうことではありませんか。

国際大会では審判に技の見極めができなかったり、誤審することは当たり前。そのことを予め承知したうえで戦略を考えるのでなければ、国際大会では戦えない。
柔道界の人もそんなことを云っていましたね。同感です。

そのことは、国際大会の覇者でもある篠原選手がいちばんよく分かっているはず。
スポーツキャスターの同情など、よけいなことです。
敗北を噛み締めた選手だけに、次があるはず。

地獄をみた分だけ、人間は強くなる――と、わたしは思います。

ところで、今月の「ダ・カーポ」は面白い。
特集がなにせ「オヤジ殺し」!

といっても、オヤジ狩りみたいに、中年をボコボコにして金を取るわけじゃなくて、上司や会社のエラいさんに可愛がられて出世しようというのが狙い。

特集によると、「オヤジ殺し」が上手い松坂大輔はオリンピックでも向こうから頭をさげて出場を頼まれる。ぎゃくにこれが下手な千葉すずは実力があっても、出場はできなかった。だから、みんなも「オヤジ殺し」を勉強しよう……って。

歴史作家の童門冬二氏も、インタビューされてました。
このひとは、ヌカミソ臭い人間学を骨格にして、企業経営者の指南書めいた歴史小説を書く人だから、こういう話題は得意中の得意。

若くして良いポジションにつくには、やっぱり上の引きがなければ、どうにもならない。
若いもんが反逆して成りあがれる時代は終わった……という時代の閉塞感がしみじみと感じられる特集でした。

ただ、この特集はほんとに若いもんが使うには、いちばん大事なことが抜けている。
可愛がられるにしても、権力のあるオヤジ、今よりももう少し出世しそうなオヤジでなければ、どうにもならない。
ただのオヤジに好かれても、なんにもならない。
どうしたら、「力がある」「将来性のある」オヤジを見分けられるか。
ここが、じつは大事なポイントなんだけど、そこは書いていないようです。

だったら、この特集はすごい皮肉ではないか。
いちばん効能のある部分がなくて、どうでもいいことばかり書いている。
つまりは、「わしら実力があっても、可愛げのない若造は何をやってもあかんねん」とでも云いたいような、すごい毒のある特集だという気がしません?

「オヤジ殺し」というキーワードを使っているけれど、ほんとは「もうこの国ダメやん」というのが本音かなーって思いましたね。

やる気のある三十路のお姉さんたちは、シンガポールや香港へどしどし転職しているらしいし。

「オヤジの国ニッポンなんて大ッきらい」
オヤジ社会に反逆するお姉さんたちに、わたしは拍手したい。

時代のキーポイントは「可愛い男の子」ですけど、こんなのわたしみたいな前時代の生き残り、生きている化石には気持ち悪い。
「男らしい」おねーさんたちが好きですね、わたしは。

青年よ、松坂みたいに笑顔を磨いて、オヤヂに可愛がられなさい。
この国の未来は、ケツをまくってアメリカへ帰ったネーちゃんにこそある。

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9月21日(その二)

自分というのは、難しいものです。
はたして、おのれがどれほどのものなのか、本人にだけはさっぱりわからない。
長所も短所も他人なら、よくわかるくせに、自分のことはまるで駄目。

それもこれも、目が内側を向いていないせい?
でも、目が内側を向いていたら、あぶなくて道も歩けない。
やっぱり、自分のことがわからないのは、救いかもしれません。

明恵上人の「夢記」と、ギルモアの「心臓を貫かれて」を平行して読んでいると、ひしひしとそんな気がしてきます。

ギルモアの本は、自分自身に対する評価が低い男女が家族となって、さらに自己評価の低い子供たちを再生産する悲劇のような気がします。
まだ全部読みきっていないので、断言はできませんが。

社会において評価されない自分に、ますます自信を失って、鬱屈した憤懣を毒として蓄積してゆく。
それは、わりとありふれた構図です。十代の子だけじゃありませんね。中年と呼ばれる世代だって、おんなじです。

社会も、スポーツと同じで結果こそ全てというところがあります。結果が出せなければ、なんにもならない。
わかりきったことですが、自分のベストを出しても、さらにその上を行く他人がいれば、結果はでない。

でも、それは当たり前のことです。
そうやって局面ごとに競い合う人々がいるおかげで、社会は沈滞しないでやってこれるんですから。

ながながと、つまらないことを書きましたが、資本主義社会は敗者がいないと成り立たないということを再確認したかっただけです。
もしも資本主義社会の倫理を規制なしの無法状態で出現させたら、「敗者には何もやるな」「負け犬はスラムで死ね」という恐ろしいことになってしまいます。
けっきょく、ギルモアの兄はそうならないための第三の道を模索したあげくに、殺人者というステータスを選んだといえなくもありません。

殺人者であることと、刑死することは、兄にとっては、ただひとつ社会に己を認めさせる手段だった。
というふうに、ギルモアの本はもっていきたいのでしょう。

ほんとうはそうならない方法を探さないと、「生きる」ことは不可能です。
でも、その方法が資本主義社会の内なる倫理としてありえるのか。
どうも怪しい気がします。

自己評価のものさしを、自分の市場価値におく限り、どうしたってうまくいかないときがある。
むしろ自己評価のものさしは、別のものにおいた方が良いのではないか。
たとえば、あの世とか。

ここで話は明恵上人の「夢記」に戻るのですが、明恵上人は夢をどうやら自己が別の生活を送る現実と捉えているようです。
その別の生活では、物質生活の貧富とは違う次元のものさしが使われている。
物質的な現実とはまた違った意味での、「現実」なのです。

だれでもすぐ思いつくように、人生の時間を100パーセント、「夢」の探求に使うことは許されていません。そんなことをしたら、まずごビョーキになるか、餓死してしまう。
でも、こういう生活で裏打ちしていないと、紙風船や折り畳み提灯のごとき、わたしたちの「生活」はしぼんでしまって、しゃんと立つこともできない。

そんなことを思いながら、「夢記」を眺めていると、なんと幸せな先輩に恵まれたことだろうと、しみじみほっとしますね。
続きは、また明日。

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9月21日

自信を失うということは、悲しいものです。
自分の力をだせなかったオリンピックの女子柔道選手のことではありません。

全日本女子バレーボールが、外国人監督をインターネットで公募する一件です。
インターネット公募といえば、森首相がIT革命をお題目にする時代だから、聞こえはいい。

でも、有能な外国人指導者に、コンタクトする交渉能力はないんだろうかとも思います。
バレーボールのことはよくわかりませんが、いままでの実績に甘えて、外国人指導者の積極的導入を怠ってきたつけが今まわってきた――とみるのは、なんにも知らない素人の言い草でしょうか。

オリンピック出場を逃したことで、やっと危機を正面から見据えることができた――ということは評価できます。
かつての日本女子バレーの栄光を知っていると、つらい話ではあります。

でも、水泳だって、遠い昔には「水泳ニッポン」なんて云われたこともあったんですよね。
それが時代に乗り遅れて、まったくの低迷状態に陥ってしまった。
有力選手が海外でトレーニングを受けたり、指導者が海外で学んでくるようになって、ようやく世界で通用するレベルになりつつある。

そういう観点でいけば、女子バレーボールのIT革命も悪くはないでしょう。
手元にカードがないことをさらけ出すことも、今では決して悪くはない。むしろ、手元になんのカードもないことを隠していると、大胆な改革に反対する人々の暗躍を許してしまう。

自分には情報がないのだと、正直にさらけだせば、情報を売りたい人々がかえって集まる。騙される可能性もあるけれど、ゼロよりははるかにいい。
リスクがないところに、リターンがあるわけがない。

当人にとって耳の痛い話ですが、「運がない」とか「不遇である」ということの裏には、情報収集の弱さがあります。
わたしも、その弱さでどれほど痛い目にあってきたことか。(笑)
いや、笑い事じゃなかった。

HPを開いているのも、じつは自分の情報弱者を強化するため……なんてね。

今回の女子バレーの決断には、大賛成なんです。
ゼロからのやり直しだ。なんでも出来る。
他人事だけど、いい指導者が見つかるといいなと思います。

……
ところで、ダイジェスト版でオリンピック観戦していると、勝利者よりも敗者のほうに関心がむいてしまいます。
とくに初戦で敗退していった柔道選手たちや、とんでもないミスをした男子体操選手なんかに。
たいして出世もしていないせいか、勝者の気持ちよりも、敗者の気持ちのほうが痛いほど分かる……つもりです。
もっとも、敗者とはいえ、この選手たちは世界王者や日本選手権王者だったりするから、そんな思い上がった「同情」はよけいなお世話でしょうけれど。

負けたという事実を次回でがんばろうと誤魔化すよりも、敗北そのものをじっくり自分でかみ締めたほうが、それからの人生にはもっと役立つはず。

これは、選手というより、自分自身に言い聞かせる言葉ですけど。

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9月20日(その二)

いつもの読書日記です。
その前に、一言お礼を!

いつのまにか、6000Hitsを達成しました!

5000Hitsまで長かったけれど、6000まで来るのにそれほど時間がかかならなかったので、驚いています。
これも、いつも読んでくださる皆さんのおかげ。
ありがとうございます。(御礼)

この調子で、「目指せ!一万ヒット」
元気がどばどば沸いてくる感じがなんともいえません。
アクセス数は、HP作者のバイアグラ……って、すこしアブナすぎる。(笑)

さて、読書日記に戻ります。
ギルモアはしんどいです。
ここに出てくるアメリカのお父さんたちは、どうもアブノーマルな感じです。
息子といつも競争していて、息子が才能を伸ばそうとすると、それを叩き潰すことに情熱をかたむけたり、娘とデートするボーイフレンドにライフル銃をつきつけたり。
もっとも、娘のほうも、わざわざ家の前でキスなんかしなければ、お父さんもライフル銃をふりまわしたりしないでしょうが。

死刑囚の実父には、ちょっと「ガープの世界」じみた出生の秘密があるのですが、それにしても息子たちの成長を邪魔して喜んでいるあたり、気の毒としかいいようがない。

こんな家庭から、どんな犯罪者が出てきても、おかしくないような気がします。

読んでいるうちに気が滅入ってきたので、ギルモアをうっちゃっておいて、古典を取り出しました。
「宇治拾遺物語」です。

じつは、これも随分ひどい話が多いので、よくよく考えれば、人間の悲惨の展覧会といえないこともないのです。
ただ、悲惨については、古文という言語的フィルターと、想像力によって事態を分析・再構成するという二重の作業が課せられているので、もろに感情面に刺激がこない。

こういうことってのは、わりと大事だと思います。
感情面だけを刺激されると、どうしてもTVのワイドショー的なレベルでしか、ものごとをみることができない。
いまどき珍しい知的なアナウンサーだった草野氏が、お昼の番組でたまにみると、どうもアホになったようにしか見えません。
草野氏も、木村太郎氏なみに頭よさげにみえるには、夕方の時間帯に仕事を移したほうがよさそうです。
あれは、少なくとも、お昼のワイドショーよりは、理性的能力に訴える番組つくりしていますからね。

古典を読むことは、現代を読むことに通じます。ただ、それは理性を通して、現状を把握する分析力がなければできない。

古典が好きだってことは、ものごとを理性的に把握したいという欲求の現れだと思います。

「宇治拾遺物語」というのは、その原型となった「今昔物語」に比べると、やや分析的傾向が強いかもしれませんね。
あくまでも、ほんのちょっとですけど。

「念仏ノ僧魔往生ノ事」という一編には、妖怪が化けた阿弥陀仏に騙されて、念仏僧が発狂して死ぬ物語が収められています。
念仏僧が、極楽往生を約束する阿弥陀菩薩に連れ去らわれる。七日ほどして、深山に薪をとりにいった下級僧たちが、丸裸で木の梢に蔓草でしばりつけられたこの坊さんを発見するのです。
その木の梢は、大きな滝の上にかかっていた。木登りが得意な坊さんがなんとか気の毒な師匠を下ろした。でも、ご本人は阿弥陀仏を待っているつもりなので、必死に抵抗する。
けっきょく、正気に戻らないまま、寝付いて死んでしまったそうです。

たぶん、この妖怪は天狗でしょう。
天狗という妖怪は、旧仏教の高僧が転生してなるものなので、すこし頭の足りない行者をからかうのが好きなのです。
しかも、生前自分たち旧仏教の徒が目の仇にしていた念仏僧を、騙して痛い目にあわせるのが大好きです。

だから、念仏ばかりやっていないで、旧仏教の勉強もちゃんとやっておけと、この説話は言うわけです。
さもないと、天狗に化かされるぞっと。

こんな話があると、この説話集を作ったひとの背景がだいたい見えますね。
たぶん貴族階級の出身で、南都北嶺の旧仏教関係者でしょう。実名は未詳ですけれど。

こういう話を収録するあたり、鎌倉新仏教の芽を潰そうという意図が露骨ですね。
自分自身に絶望した人だけが、アメリカの意地悪なお父さんみたいに、他人の成長を邪魔する情熱を抱くものなんでしょう。

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9月20日

やってくれた!
――といっても、サッカーの決勝リーグ進出のことではありません。
人並みに試合だけは観てしまったけれど、そういうことはもっと熱狂的なファンが書くでしょうから、わたしは止めておきます。

へそ曲がりではありますが、いちおう自分の筋を通したい――というところ。(笑)
なに云ってんだか――とも思いますけど。(苦笑)

さて、「やってくれた!」というのは、ご存知のひとも多いでしょうが、千葉県の県議さん。
習志野市長のオフィスを襲撃(?)して、干潟のゴミをばらまいて立ち去った。
「干潟がきれいになるなら、おれは警察に逮捕されてもかまわない」
という一言を残して。

いや、かっこいい。
こういう過剰なセンチメンタリズムには弱いです。

この県議さんがいう干潟とは、習志野市にある谷津干潟で、ラムサール条約という国際条約で「渡り鳥の生息地」として登録されているとか。
ラムサール条約とは、「湿地の生態系を保護して適正な利用を勧めるのを目的とした」条約で(@マイペディア)、正式名称が「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」。よほどバードウォッチング好きな人でなければ、記憶する気になれませんね、これじゃ。

だから、採択されたイランのラムサールの地名をとって、「ラムサール条約」と呼ばれているそうです。

個人的には、わたしは水鳥派のバード・ウォッチャーなんで、干潟の保全と聞くと、つい過剰に反応してしまう。こういう過剰なセンチメンタリズムは行政の敵なんでしょうね、きっと。

この県議さん(森田三郎氏・55歳)は、日ごろから干潟のゴミを拾っていて、この干潟の保全を訴えて市議から県議へ鞍替え当選した人だとか。

市の環境保全に対する取り組みがあまりにも生ぬるいと、この暴挙(!)を決行したなんて、う、うつくしすぎる。

ゴミの入った籠を背負い、縄でしばった海草をひきずって、市長のオフィスに現れたという雄姿はぜひ映像として見たかった。
どうやら、市長は接客と称して応接室に引きこもっていたらしいのですが、とめる秘書課長を無視して、県議さんは市長室の応接セットの上にゴミをばらまいて上のたんかをきって、帰宅されたそうです。

なんとも素敵な環境テロリストさんです。

あとで警察に事情聴取されたときには、「ゴミをまいたのではなく、職員に押さえられてこぼれた」と云ったそうですが、やはり市役所職員ともみ合いぐらいはあったんでしょうね。

テロリストとしては、素直に非を認めるわけにはいかない。すくなくとも、ゴミを不可抗力でこぼしたと誤魔化す姿勢がないと、かっこうがつきません。
それがテロリストの美学というものでありましょう。

無責任みたいですが、こういう環境テロリストさんたちがどんどん地方政治に登場してほしいですよ、ほんと。

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