オーストリアの歴史


目次


作成 工藤龍大

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オーストリアとはどんな国?


現在のオーストリアは中欧の小さな国ですが、かつては広大なハプスブルグ帝国の中心として繁栄しました。
中欧の創造的なエネルギーが首都ウィーンに結集したこともあり、ヨーロッパの偉大な文化的な中心となりました。
ウィーンに結集した天才には、ハイドン、モーツァルト、ヴェートーベンなどがいます。
さらには、チェコの偉大な作家カレル・チャペックやフランツ・カフカもその生きた時代からいえばハプスブルグ帝国の国民でした。
19世紀の終りから20世紀初頭にかけて、ヨーロッパの偉大なクリエイターたちが、パリ、ロンドンと並んで活躍した場所でもあります。
そのひとりとして、精神分析の創始者ジークムント・フロイトの名前もあげることができます。

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国情報

●正式名称
Republic Österreich
●地理
面積:約8.4平方キロ
(北海道とほぼ同じ)
緯度:北緯47〜49度
人口:790万人
首都:ウィーン(人口160万人)
主な都市:
グラーツ、リンツ、ザルツブルク、クラーゲンルフト、インスブルック
自治州:
ウィーン、ニーダーエステーライヒ、オーバーエステーライヒ、ブルゲンラント
シュタイヤーマルク、ケルンテルン、ザルツブルク、チロル、フォアアールベンク
●文化
言語:ドイツ語(公用語)
人種:ゲルマン系、東欧系、ユダヤ系
宗教:カトリック(国民の90%)
テレビ:国営2局(FS1、FS2)
ラジオ:Ö1、Ö2、Ö3
新聞: Die Presse

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祝祭日

1月  
  1月1日 元旦
  1月6日 三聖王祭
3月  
  * 3月31日 復活祭月曜日
5月  
  5月1日 メーデー
  * 5月8日 昇天祭
  * 5月19日 聖霊降臨祭月曜日
  * 5月29日 聖体節
8月  
  8月15日 聖母被昇天祭
10月  
  10月26日 ナショナル・デー
12月  
  12月8日 聖母受胎日
  12月25日 クリスマス
  12月26日 聖シュテファン

*は移動祝祭日

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ウィーン : 名前の由来

ウィーンという名前は、ヨーロッパの先住民族ケルト人がつけた地名「ウィンドボナ」に由来します。
ローマ時代は、「アウグスタ・ウィンデリコルム」という名前でした。
ローマの五賢帝のひとり、マルクス・アウレリウスがゲルマン人との戦争で陣没した地でもあります。(西暦180年)
中世にはハンガリー人のドナウ帝国の首都となったこともありますが、ハプスブルグ家の本拠地として発展しました。
当時のウィーンは、キリスト教国の最前線として、しばしばオスマン・トルコ帝国の軍勢を迎え撃つことになりました。
オスマン・トルコ帝国は、2回ほどウィーンを包囲しました。1683年の第二次ウィーン包囲に、ドイツ・ポーランドを主力にした救援軍を得て勝利したことで、オスマン・トルコ帝国の勢いはとまりました。
ウィーンと関係が深いコーヒーとカフェーは、このときの戦争の落とし子です。
さらに、軍事的天才オイゲン公(1663-1736)の活躍もあって、ハプスブルグ家は中欧のオスマン・トルコ帝国領を奪いとり広大な領域を手中にしました。

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ハプスブルク家の繁栄

ライン川上流の土豪から発展したこの家系は、たくみな政治手腕と婚姻政策によって、神聖ローマ皇帝の地位を世襲するまでになりました。
カール五世の時代には、スペイン王国も手中にいれ、<日の沈まない帝国>とまでいわれた世界帝国の建設に成功しました。
ハプスブルグ家の本拠地ウィーンは、ハプスブルグ家の世襲帝国の中心となり、優美な文化を華ひらかせます。
ただし、カール五世の時代にルターの宗教改革に遭遇したために、神聖ローマ帝国は宗教戦争にさらされカール五世は失意のうちに世を去ります。
その後も、ハプスブルグ家は神聖ローマ帝国皇帝として支配を続けますが、ナポレオン戦争や民族独立運動などをつうじて、帝国は衰退し、ついには1806年に神聖ローマ帝国は消滅。以後はオーストリア・ハンガリーを中心として、中欧の大国となりました。
ハプスブルク家の支配は、1918年の第一次世界大戦の敗北で終りを告げ、オーストリアをのぞく他の領土は独立してチェコスロバキア、ハンガリー、セルボ・クロアト・スロヴェーン王国(クラアティア・スラヴォニアとボスニア・ヘルツェゴビナなどからなる)となりました。またガリツィア地方はポーランドに、トランシルヴァニア地方はルーマニアに割譲されました。

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ハプスブルグ家とケーキ・音楽

武力によらず、子作りと結婚政策でひたすら権力を追求したこの家系は、美食家と音楽愛好家の血統でもあります。
ウィーンの名物はなんといってもコーヒーとケーキ。
コーヒーがウィーン包囲作戦をおこなったオスマン・トルコ軍のお土産だとすれば、ケーキこそはハブスブルク家出身の歴代皇帝たちの遺産だといえます。
実質上の最後のハプスブルク皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、おしのびでカフェーに出かけてはケーキを楽しんでいたほどです。

またハプスグルク家の支配したウィーンが、音楽の都であるのはご承知のとおり。 これも皇帝たちの厚い保護のたまものです。
モーツァルトやヴェートヴェン、ハイドン、ブラームス、シューベルトなどの楽聖たちがここで活躍しました。
もちろん、ワルツ王ヨハン・シュトラウスと同名の息子も忘れることはできません。 さらにはマーラーの名前も。
ウィーンの中央墓地“Zentralfriedhof”にはヴェートヴェン、シューベルト、ブラームス、シュトラウス父子が眠っています。
(ただし1791年に亡くなったモーツァルトは中央墓地ではなく、ザンクト・マルクス墓地に埋葬されています。)

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19世紀末ウィーン:最後の輝き

ウィーンが世界文化の上で輝かしい存在となったのは、皮肉にもその政治的凋落の時期でした。
ナポレオンがセントヘレナ島へ流刑となったころ、オーストリア帝国はヨーロッパの保守反動勢力の中心となりました。それもつかのま、1848年の3月革命では民衆運動のエネルギーにおされて政治的大混乱におちいりました。
その後の民族自決運動の盛り上がりに、他民族共存国家であったオーストリア帝国は内外の矛盾をかかえて緩やかに衰退の道をたどりことになります。
しかし、19世紀後半のこの時代こそ、ウィーンが世界に誇る輝かしい才能がぞくぞくと誕生したのです。

もちろん、ウィーン会議後の19世紀前半のピーダーマイヤー期も無視はできないのですが、個人的な好みでいえばやはり1890年代のユーゲントシュティル(フランスでいうところのアール・ヌーヴォー)です。
絵画では、グスタフ・クリムトやエゴン・シーレが活躍しました。
建築では、“ウィーン分離派”のオットー・ワグナーが設計したアム・シュタィンホーフ教会やカールスプラッツ駅などが有名です。

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繁栄の終り

第一次世界大戦は、ヨーロッパの旧秩序を決定的に崩壊させました。
事実上の最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の死と第一次世界大戦の敗戦は、650年間続いたハプスブルク帝国の終りでもあります。
その後、いくつかの小国に分裂した旧帝国領はナチス・ドイツの侵略にさらされることになります。
オーストリアも、1938年にナチス・ドイツに併合されました。
第二次世界大戦後に連合軍に分割占領されたのち、オーストリアは1955年に独立を達成しました。
その後は永世中立国としての道を歩んでいます。

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(c) 工藤龍大
最終更新日:
99/07/17