お気楽読書日記: 1月

作成 工藤龍大

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1月

1月18日

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1月17日

「飛鳥ロマンの旅」(金達寿)を読む。

金達寿氏は、司馬遼太郎さんの友人で、在日作家だ。
「日本の中の朝鮮文化」というライフワークがあり、日本各地に残った朝鮮系渡来人の末裔の文化を追求している。
そちらは現在、中公文庫(講談社文庫の間違いでした:01/18記)に入っている。もう、完結したかとおもう。

ライフワークのほうも、そのうちぜひ読みたいのだが、なかなか本屋でお目にかからない。本屋には注文しても品切れと断れることが多いので、注文する気にはなれない。
そういう本にかぎって、都心の書店街(わたしのテリトリーとしては、池袋と神田神保町)へいくと、ひょっこりあるのだから。
これはただの余談です。

後書きのほうから読むと、作家坂口安吾のことが紹介されている。
安吾には、「安吾新日本地理」という歴史エッセイがある。
じつは、ここに書かれている内容が、昨日まで紹介してきた「倭国」と同じだ。
金達寿氏も基本的に同じスタンスに立っている。

坂口安吾=金達寿 説を要約すると、こうなる。
日本国内には、朝鮮から渡ってきたいろんな文化の人々がいた。
それは、遺伝子的にはほとんど同じだが、受容した文化によって、文化の色合いが異なっている人々だ。
そうした人々は、日本に来て豪族になりおおせた。
たぶん、自分たちが導入した中国文化を分け与えるというかたちで、圧倒的に多い原住民たちのボスになったにちがいない。
かれらは後の朝鮮国家の分類で区分すれば、百済、新羅、高句麗などの国家連合(クニの集合体)と文化的に同じ系統に属している。
そのために、日本国内でもそれぞれの派閥をつくって、あらそった。
聖徳太子のころから、朝鮮小国家群の文化の源流である中国本土と直接交渉して、朝鮮の古文化に由来する派閥抗争を止揚した中央集権国家をつくるこころみがはじまった。
奈良時代ころには、こうした豪族たち(ほとんど朝鮮系)も「日本人」というアイデンティティをつくりあげて、日本列島に大昔からいたような顔をしはじめた。
ただし、その出自は神話上の人物である「何とかのミコト」とか、「何とか天皇」、「なになに親王」というかたちで、痕跡だけは残っている。
すでに三韓系の政争やアツレキは藤原京のころから地下へくぐったことが分かるが、日本地下史のモヤモヤは藤原京から奈良京へ平安京へと移り、やがて地下から身を起こして再び歴史の表面へ現われたとき、毛虫が蝶になったように、まるで違ったものになっていった。それが源氏であり、平家であり、奥州の藤原氏であり、ひいては南北両朝の対立にも影響した。そのような地下史を辿りうるように私は思う。彼らが蝶になったとは日本人になったのだ。
(「安吾新日本地理」坂口安吾)
この安吾の意見について、
「私として、別にいうことはない。人種というものからそれが民族へと発展・変貌するプロセスについても、実にみごとな史観が働いている」
と、金達寿氏は評している。

金達寿氏によれば、坂口安吾は
「『第一流の歴史家であった』と思わないわけにはゆかないのである」
ということになる。

そういえば、わたしも「安吾新日本地理」は読んでいたけれど、すっかり忘れていた。
やっぱり、偉い作家だったんだなぁ。 安吾さんは。!!

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1月16日

またまた続いて、日本古代史のおなはしです。
読んでいるのは、「倭国」(岡田英弘)。

中国人のいわば<貿易ネットワーク>の通商路に誕生した倭人たちの国々は、どうじに<道教>を輸入していた。
この場合、<道教>といっても、まだ後代の経典をそなえたシステマティックな宗教ではなく、<五斗米道>のような原始的な自然宗教だった。
この段階では、道教にあっても、シャーマニズムがその根幹だった。
どうやら、卑弥呼の<鬼道>というのも、こうした段階の道教だったらしい。

この時代のクニは、朝鮮半島経由での中国貿易の交易センターという色合いが強かったから、後漢時代の戦乱で中国の人口が激減して、外国貿易どころではなくなると、えらいことになった。
政治的混乱のあげくに、シャーマニズムの巫女である卑弥呼を盟主とする宗教連合で、いちおうの政治的平和をなしとげる。ただし、基盤はあまりにももろく、卑弥呼が死ぬとたちまち再び戦乱状態におちいった。
おかげで、中国に使者を送ることもなくなり、いわゆる<空白の四世紀>が到来する。
五世紀になって、<倭の五王>が登場するころ、<倭>は朝鮮半島へ兵をおくって、新羅や百済、高句麗と争っている。
この<倭の五王>とは、賛(履中)・珍(反正)・済(充恭)・興(安康)・武(雄略)の五天皇にあたる。
だからといって、現代のような国境線をもった領域国家が日本列島や朝鮮半島にあったわけではない。百済文化圏の人々のムラ、新羅文化圏の人々のムラ、高句麗文化圏の人々のムラ、倭人文化圏の人々のムラがそこここに点在していただけである。
さまざまな色の小石を地図にぶちまけたように、多様な文化圏のムラが散在している。同じ文化圏のムラがとくに集まっているところが、新羅、高句麗、百済という国だ。
おおざっぱすぎる云いかただが、<国>とはムラをおさめる貴族の連合体なのである。
あえて、ムラをコロニーという風に考えると、新羅、高句麗、百済系のそれぞれの人々のムラは日本列島の西にもあった。
もちろん、倭人たちのムラも古くからある。だから、朝鮮半島にも、そうした倭人のムラは存在していた。<任那>というのは、そうした倭人のムラどもが、朝鮮半島でつくった国家連合体だった。

朝鮮では倭人勢力はしだいに衰微してゆくが、この体制ははるか後代まで続く。
それが決定的に不可能になったのは、663年の<白村江の戦い>だ。

唐との連合に成功した新羅は、660年に百済を滅亡させ、668年に高句麗を滅亡させてしまう。
この時代、百済や(当時はすでに滅びていた任那の後身である)加羅から、国ごと引っ越してきた感じさえするほどの大量の移住者が日本列島にやってくる。

唐や新羅の連合軍の侵入に脅えて、国家滅亡を危惧した天智天皇が、中国の唐にならって中央集権国家をつくったのは、この時代だ。
<日本>という国号も、この危機意識の産物として、この時代につくりだされたらしい。
岡田氏の考えでは、日本語という言語も、この時代に日本列島の原住民や、古くからいた<倭人>(越人の同族)や、日本国内で天皇家の政権と同盟していた高句麗系・百済系の人々が民族的アイデンティティをつくるために、創造した人工言語だという。

(この意見は、傾聴すべき点も多いが、人工言語とまで言い切るのはどうかとおもう。
「古事記」や「万葉集」に残されている<うた>や「日本書紀」で結実する自国の史書編纂の努力が、天智・天武以後の政権がめざした中央集権や、民族的アイデンティティ創造という国家プランの一環であることは、否定できないとしても。)

岡田氏の考えでは、日本列島には、次のひとびとがいた。
1)倭人
2)秦時代から朝鮮半島に入植していた中国人の子孫である<辰韓><弁辰>系の住民。
3)高句麗系住民、百済系住民。
岡田氏の本には書いていないが、
4)縄文人
も当然いたに違いない。

うちわけをみていくと、以下のようになる。

1)の倭人は、古代中国の越人の子孫。
3)の高句麗系と百済系をひとくくりにしたのは、これが文化的には同系と考えられるからだ。
どちらも、漢時代の楽浪郡、帯方郡に入植した中国人と、朝鮮半島原住民の混血である。
この場合の中国人とは、<殷人>の子孫である燕国からの入植者<燕人>だ。
燕人と同族の斉人ものちに含まれる。
<殷人>もじつは<越人>と同族の<夏人>の文化に影響されている。
この文化は、中国の南朝から強い影響をうけた。
そのせいもあって、中国南朝文化の遺風は、日本文化にかなり色濃く残っている。

2)と3)は、朝鮮半島で中国文明を古くから受け入れた朝鮮原住民と中国人の混血だ。
朝鮮には、もともと平地農耕民の「朝鮮」と、山地の狩猟・農耕民「穢貉」(わいばく)という二種類の原住民がいた。
遺伝子的に違っているわけではない。
中国文化をしたったほうを「朝鮮」と呼び、そうでないほうに<汚らしい獣>を意味する字をあてただけである。

言語学的にいえば、おもしろい事実がある。
朝鮮原住民の言葉は、もちろんウラル・アルタイ語族だ。
これは日本語や朝鮮語もそのグループに含まれる。
現代中国語は、シナ・チベット語族に属する。
ところが、<夏人>や<殷人>の言語は、アルタイ語族らしい。

どうやら、中国語は書き言葉として成立したので、漢文としてはあまり変化はなかったが、<殷>から<晋>時代までの話し言葉の中国語は唐時代以後とはよほど違っていたようだ。
中国人も北方からの異民族が大量に移民してきたので、とくに華北地方の住民は五胡十六国時代以後の人々と、それ以前の人々では人種や言語も異なっている。

いってみれば、古い時代の中国語の特徴は、日本語や朝鮮語に残っているらしい。
朝鮮語が、<辰韓><弁辰>の後身である「新羅」の言語から発達したことは間違いない。
日本語を造ったとまではいかないにせよ、その洗練に大いに活躍したのは百済、高句麗系の渡来人だ。
日本古代史の文化人・僧侶のほとんどが渡来人の子孫であることは偶然ではない。

華南から朝鮮半島にかけてのいろいろな異文化の人々が雑多に共存していた日本列島ではあるが、天智・天武の中央集権政権が誕生する以前であっても、そうした人々は人種的かつ言語学的に親和性があったおかげで、共通の言語をあらためて作らなくても、商談や交渉ごとはなんとかできた。
いまでいえば、フランス人がとくに勉強しなくても、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語がなんとかわかるというほどには、たがいの云っていることを理解できたのである。
日本語がそうした状況をベースにして発達してきたことは、たしかだ。
もちろん、縄文時代の言語も発達しつつある日本語のなかに取込まれていったに違いない。

おそらく、前に読んだ「東と西の語る日本の歴史」(網野善彦)とあわせて考えると、<西国>(西日本)とは、縄文時代には人口希少だった地域に、朝鮮半島の入植者たちがはいりこんだことから出発したのではないか。

岡田氏のおかげで、ごちゃごちゃしていた日本古代史と朝鮮・中国史が整理できたことはありがたい。
中世の関東や奥州の歴史を考えるときには、朝鮮から入植した人々のことに触れずにすませないとおもっていだだけに、この本で見通しがついたことが嬉しい。

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1月15日

ひきつづいて「倭国」(岡田英弘)を読む。

昨日書いた<三国時代の大移民>という説を、この本がとっているわけではない。
そのかわり、古代朝鮮史に注目して、中国の史書から古代朝鮮史を復元したうえで、日本古代史を考えるという方向性を採用している。
古代朝鮮史を考える場合、朝鮮には当時の資料はない。
そこで、「日本書紀」に記載・引用されるかたちでのみ残っている「百済本記」などの今は喪われた朝鮮の史書の引用をベースにすることが多かった。
この本が出た当時としては、珍しい考えかただった。
ただ、いまはこちらの岡田氏のような方向性で考える日本史の学者も多くなっている。

<倭>とは、もちろん日本人のことだ。
しかし、いまの日本人とそのまま同じというわけではない。
むしろ、「現代日本人の重要な祖先のひとつ」というほどに考えておいたたほうがよい。
<倭人>とはおそらく弥生人のことだろう。
もちろん、それとは言語・人種を異にする縄文人もいた。
そうした人々に後からやってきた異文化の人々がくわわって、いまの日本人の原形ができあがった。
現代日本人ができあがるにあたっては、よそからやってくる人・文化という対外的要素だけではなく、アジア情勢と深く連動している日本人の内部的変革もとうぜんのことだが、あずかっている。
日本人のなりたちは、日本史の本を読めば読むほど、複雑であることがわかる。
江上波夫さんが云うような意味での、「騎馬民族渡来説」はまちがっている。
征服王朝としての天皇家が、古墳時代に大挙押し寄せてきたという証拠はない。いくら地面を掘り返しても、そんな証拠はどこからもでてきていない。

そのかわり、考古学的な証拠が教えてくれるのが、古代朝鮮や古代中国文明と古代日本の深いかかわりである。
高松塚古墳に道教の信仰をしめす天空図が描かれていたのは、偶然ではない。

できるだけ手短に整理すると、古代の朝鮮と日本の歴史はこうなる。

越人という海洋民族がいた。かれらは、中国南方からベトナムにかけて活躍していた。
身体に龍のいれずみをして、魚と米を常食とした。
春秋時代に王国をつくり、やがて「越王句践」という王が出て、山東半島を占領した。
これが紀元前473年頃だ。
越王国のひと、つまり<越人>たちは海上活動によって、朝鮮半島や日本列島に米作を伝えたらしい。
いっぽう、それより、はるか以前に東南アジア系の海洋民族が南方から中国の淮(ワイ)河と揚子江沿岸にやってきて中国最古の王朝<夏>をつくった。
<夏>王朝は最近まで実在を認められていなかったが、数年前から中国政府が実在を認定している。
<夏王朝>の時代は、おそらく紀元前2000年から紀元前1500年ころだと考えられる。
岡田氏はほのめかす程度だが、どうやら<越人>と<夏人>は同じ民族だったと考えられる。

やがて、北方から来た狩猟民族が<殷>をつくり、<夏>を滅ぼした。
殷人たちは、<夏人>がつくりあげた海洋活動(商業)ネットワークをさらに拡大して、その通商圏を東方の遼東半島までひろげた。
その後、<殷>は<周王朝>に滅ぼされて、その地に周人たちは<燕>という地方政権をつくった。
これが紀元前12世紀ころ。
<燕>という地方国が支配した地域にいた<殷>の遺民たちは、遼東や朝鮮へ入植してゆく。
紀元前334年頃には、朝鮮南部まで<燕>の勢力はのびていた。
秦の始皇帝が<燕>を滅ぼすと、朝鮮は秦の勢力圏内に入っていた。
始皇帝は朝鮮に<遼東郡>をおいた。
短命な秦王朝が倒れると、亡命中国人(燕のひと)が<朝鮮王国>をつくったが、前漢の武帝が即位すると、たちまち朝鮮を征服して<遼東郡><楽浪郡><真番郡><臨屯郡><玄菟郡>をおいた。
これが紀元前108年のことだった。

こんな具合に、非常に古くから中国文明にさらされてしまったので、朝鮮では独自の民族文化が発達できなかった。
中国文明の広報・普及センターとでもいえそうな<楽浪郡>には、多数の入植中国人と原住民が雑居していた。
文化をしたって、まわりに原住民たちもやってくるので、朝鮮半島には古代中国文明に親和性をもったいろんな民族がいた。

岡田氏が考えるところ、<倭人>とは日本列島と朝鮮半島に入植した<越人>の子孫である。
これは弥生人ともいえる。
もちろん、別系統の文化・人種に属する<縄文人>はすでに日本列島にいた。
(岡田氏は、どうも弥生人の人口のほうが、縄文人よりも圧倒的に勝っていたと考えているらしいが、最近の考古学的見地からいえば異論のあるところだ。)

ともかく、朝鮮半島に新たに設置された<楽浪郡>以下の4郡へは中国から続々と人々が入植した。
この中国の人々は、そこからさらに日本の北九州沿岸、瀬戸内海まで交易活動を広げた。
どうやら、日本列島にいた倭人たちは、この交易路上にある湾や入り江、河口を中心に<クニ>をつくった。
国というよりは、交易センターみたいなものだ。
どうやら、岡田氏は農業中心のムラから、クニへの転換点を、朝鮮に本拠をもつ中国人との交易のはじまりとして考えているらしい。

そのあたりから、邪馬台国論争、騎馬民族渡来説、河内王朝説といった日本古代史ファンにはおなじみの論争にたいする岡田氏の独自のアプローチがはじまる。

それぞれとても面白いものだが、紹介すると長くなるので、続きはまた明日にしましょう。

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1月14日

「倭国」(岡田英弘)を読む。

ずいぶん前に出ていた本だが、最近まで手にとってみたこともない。
どうせ、邪馬台国のことでも書いているんだろうと、誤解していたせいだ。
歴史好きではあるが、わたしは邪馬台国にはまるで興味がない。
九州にあっても、奈良盆地にあってもどうでもいいとおもっている。
どうも最近の考古学的発見からいくと、畿内説の勝ちになりそうではあるが。
それよりも、日本という国ができたころの、中国・朝鮮の状態について興味があった。

最近の人類学や、民俗学では、中国が魏・呉・蜀にわかれた三国時代に、遼東半島をふりだしに南朝鮮を経由して、大移民団がこの国に来たのではないかということがいわれている。
この地域を支配していた公孫氏は、原始道教教団の長だった。公孫氏の王国は、後漢滅亡のどさくさに誕生した宗教王国だったのである。
のちに魏の曹操がそこを征服する。
そうした戦乱を逃れるために、道教教団の一部の人々が脱出した。
かれらは南朝鮮との交易をつうじて、対馬、北九州の情報をつかんでいた。
そこで、この人々が南朝鮮にいた前漢の楽浪郡・帯方郡の子孫たちといっしょに日本へ入植したという。

そういうわけで、原始道教ははやばやと日本列島に導入された。
したがって、邪馬台国の卑弥呼が奉じる<鬼道>とは、道教の影響をもとに成立したとも考えられる。

<神道>という言葉は、じつは日本の大和言葉ではない。
出典は<道教>の経典だ。
さらにいえば、<天皇>という言葉も、そうである。

神道の祝詞にある意味不明の言葉が、<道教>を源流とする例は他にもいっぱいある。
古代史家にいわせると、古代の日本神道は道教そのものであったらしい。
ただし<神道>がこんにち私たちが考える意味で使われるようになったのは、室町時代くらいからだ。
古代神道とは、まあ仏教ではないカミに対する祭礼というほどに考えていていただきたい。さもないと、これから書くことと矛盾するので。

本居宣長がいうような、ピュアな神道がもともとあったわけではない。
もとからあったのは、アイヌ民族や、韓国のシャーマニズム、沖縄のノロ、ユタなんかと同じ東アジアに普遍的に存在する基層的なアニミズムだ。
それが純粋な<神道>だという立場には、反対せざるをえない。
そんなことになれば、キリスト教もユダヤ教もイスラム教も同じ宗教だといっているに等しい。

つまりには、教義と祭儀をきっちりきめた宗教として、古代<神道>があったわけではないといいたいわけである。

こういう興味をもって、読み出すと、「倭国」は大変な本だった。
長くなりそうなので、続きはまた明日。

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1月13日

所用があって、日記はお休みしました。
めずらしくワインを飲んで、酔ったので読書もお休み。

明日から、気分を変えて書きますので、よろしく。

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1月12日

しつこくも遠藤周作と聖書を読み続けていたので、勘のいいひとはそろそろ……
と予想していたことでしょう。

たぶん、その予想はあたっています。

いま読んでいるのは、三浦綾子さんの「土の器」。
遠藤周作、聖書、キリスト教ときたら、三浦さんへたどりつかないほうがおかしい。

じつは、三浦さんの本はあまり読んだことがない。
TVで「氷点」をみていたから、原作はドラマよりももっと重たいとおもったので、敬遠していた。

そういえば、あの「氷点」は島田陽子がヒロインだった。人間、年はとりたくないもんだと、島田陽子のゴシップ記事をみるたびにおもう。
若い頃の島田を知っていれば、いまの島田はあまりにも哀しすぎる。

「土の器」は自伝三部作の二作めだ。
三浦光世という人と結婚して、小説「氷点」が新聞小説の懸賞で一位入選するところまでが描かれる。

三浦さんの夫である光世というひとが、じつにまじめで、ひたむきで、ぶっとんでいるところがいい。
この人の短歌が書中のあちこちにちりばめられている。
短歌のことはよくわからないので、まともな評価はできないのだが、ときどき腹をかかえて笑ってしまう。
もちろん、短歌がヘタというわけではなく、あまりにも純粋でひたむきなるがゆえに、三浦さんの前半生をしらないこちらには、没個性的で伝統的な部分と、しごくプライベードな部分が共存する短歌に出くわすと、その取り合わせの可笑しみに、つい理性が吹き飛ぶほどに笑えてしまう。

誤解をさけるために、あえてくだくだ書くと、この場合「笑える」というのは、いまのお笑い芸人たちの小手先のそれではなく、人生のかなり根源的な部分を直撃するたぐいの強烈な「笑い」だ。
しばらく笑いがとまらないほどで、腹部の筋肉がつるほどだ。

もしかしたら、三浦光世というひとは<ユーモア短歌>とでもいうべきジャンルの第一人者かもしれない。
これは、どちらかといえば、かなりつらい人生を誠実に歩いてきたひとしか持ち得ないたぐいの<笑いの感覚>だ。
このおかしみは、三浦綾子さんの原文を読んだ上でないと、たぶんわかってもらえないとおもうので、引用はさしひかえる。

大病に苦しみ、キリスト教を真摯に信仰して、寝たきりだった三浦綾子さんの回復をまって妻にむかえ、病弱な身体でまじめに公務員として働いた辛さを、三浦光世さんというひとは、この独特な笑いの感覚を磨くことで、もっとも値打ちのある宝物に変えていった。
人生のつらさに耐えるというネガティブな姿勢が、いつしか現実をそのまま受け入れる境地に変化したのだとおもう。

すっかり、三浦光世さんのファンになったので、残りの自伝三部作も読むことにした。

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1月11日

昨日は、雑談にはじまって、雑談に終ったこの読書日記。
まじめな大江ファンがいたら、怒るだろうな。
でも、まじめな大江ファンというのは、いないとおもう。
冗談がわからない人には、大江作品は退屈すぎる。

大江作品の長所であり、たぶん最大の欠点は「独特のユーモア感覚」だ。
あまりにも<独特>なので、たぶんよほど悪ふざけが好きな人でなければ受け付けないたぐいの<笑い>だ。
たとえば、それは大江作品によく描かれるエロチックな女性であったりする。
しかし、それは決して扇情的なものではなく、むしろ<艶笑譚>に近い。

例をあげると、「『雨の木』を聞く女たち」に登場する高安カッチャンという初老の作家は、かつての大学の同級生だった大江に同性愛を迫るかたちで、自分の妻を抱かせようとするのだが、その際に衰えた精力をおぎなおうするあまり、妻にあることをさせる。

これが、名作「万延元年のフットボール」の愛読者には、忘れられないあれである。
種をあかすと、男の肛門にキュウリを突っ込むこと――なのである。

大江作品には、この手の卑猥というか、みじめというか、とにかく笑っていいのか、同情すべきなのかわからない悲惨なエロが必ずあって、そこが魅力(?)だ。
ただし、これがあるので、大江作品を続けて読むと、しばし毒気にあてられて数ヶ月は手にとりたくなくなる原因にもなる。

「人生の親戚」は、いってみれば、大江のどす黒いユーモアを、まり恵さんという女性で、具現化したものであって、可笑しくもあれば、物悲しいような作品だ。
新潮文庫の後ろにある作品の宣伝文句にあるような、「人生の同伴者、悲しみを……どうした、こうした」という作品ではない。
「不幸を背負った一人の女性の魂の救済を……どうした、こうした」というものでもないのである。
むしろ、悪意がないだけに、かえってブラックな印象のユーモアを感じる。
こういう作品を、新潮文庫みたいな謳い文句でまとめるのは、冒涜にちかい。

こんなことを書いているけれど、「人生の親戚」は嫌いな作品ではない。
どうにも形容のしようがないほど、ミョウチクリンな人生を歩く<まり恵さん>という女性は、おそらく大江が創造したもっとも魅力的な女性であることは間違いない。
末期ガンで臨終を迎えた頃に、やせ衰えた身体をオールヌードにして、微笑みながら、ピース・サインを出す中年女性(しかも、それをドキュメンタリー映画として撮影させる!)なんて、あんまり想像したくはないけれど、<まり恵さん>はとにかくそうして死んでいった。
それがどうして魅力的かはうまく説明できないのだけれど、なんだか特別な美女よりも心に残るのだからしかたがない。

「イエスの方舟」や、米人尼僧レイプ事件といった時事ネタをとりいれながら、パワフルに<まり恵さん>の人生が語られるのが、あっというまに夢中で読めてしまう。

ところで、大江健三郎氏はどうやら窃視症的というか、フェティシズムなエロスに興味が移ったらしく、「『雨の木』を聞く女たち」の一編「泳ぐ男」のえぐすぎる想像(読めばすぐわかるので、あんまり書きたくなかったりします……)や、「人生の親戚」の陰毛フェチをたんねんに描く。
これも勘弁してほしい大江作品の<独特の>味のひとつだ。

そのうち、「新しい人よ、めざめよ」と「燃え上がる緑の木」三部作は必ず読もうとはおもっているが、たぶんまたこれがあるかとおもうと、しばらくは手にとる気になれない。
エロチックなものは嫌いどころではないけれど、大江氏が書くその手のものにはさすがに……どうも、なんだか、いやだな――とおもうわけです。


ところで、ネット版で年賀ハガキをつくってみました。
よければ、 ここ をクリックしてみてください。

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1月10日

「人生の親戚」(大江健三郎)を読む。

突発的に大江健三郎が読みたくなった。べつにわけはない。
それにしても、大江というひとも変わらない。
いまさらのように、そうおもう。

大江作品は70年代には、若いもんの必読書みたいなものだったから、そのころの作品は全部読んだ。
しかし、あれはどれをとっても書いてあることは、ほとんど同じだ。
いい加減に食傷したところで、「ピンチランナー調書」がでて、完全に飽きた。
それから、大江作品を手にしたことはない。
「ピンチランナー調書」に対する評価をすなおにいえば、「アホか」……である。

その後、大江作品を読み出すのは、ノーベル賞を受賞したからではない。
家人がひとに勧められて買ってきた大江光さんのCDを聞いたからだ。

このCDを毎日聞いているうちに、教育TVで大江光さんのドキュメントがあり、いよいよ光ファンになってしまった。

すると、今度は「回復する家族」という本を見つけて、家人が買ってきた。

父である健三郎氏は、光さんを原爆ドームにつれていって脅かしたり、無残な被爆写真集をみせたり、あいかわらずの神経症的な<教育>に励んでいるようだったが、光さんはそれに潰されもせず、けなげに生きている。

売り物だった「核時代の想像力」も、このごろは<癒し>に比重が移っているらしく、光さんは健三郎氏の大事なキャラクター商品になっている感がある。
というよりは、こっちが勝手にそうおもっているわけだが。

おもいかえせば、大江作品を最初に読んだのは、光さんが誕生したときの体験をもとにした「空の怪物アグイー」だった。
じつは、これが気に入ってしまったので、他の作品を読みはじめた。もし、「芽むしり仔撃ち」から読んでいたら、たぶんそれで終りだったろう。
なにぶん、わたしはそうとうひねくれた少年だったので。

どうやら、光さんが大江健三郎を読む回路になっているような気がする。
光さんがそのころ何をやっていたのか知りたいような気持ちで、本を手にすることが多い。
「『雨の木』を聴く女たち」にもわずかながら、光さんの消息があり、それが懐かしくて読んでいた。
(しかし、これもしょうもない本だとおもう。)
おそらく、これは勝手な勘だが、大江の本を読んでいるのは、大江文学のファンというよりも、光さんの音楽が好きな人ではないだろうか。

ともかくも、「人生の親戚」の女主人公の人生には感動しなかったが、光さんがあいかわらず施設に通う途中にあるラーメン屋で五目ソバを好物としていることに、なんともいえない懐かしさと、安らぎを感じたことはまちがいない。

昔の作品でも、運動不足の光さんをエクササイズの一環として散歩をつれだして、おやつ代わりに親子でチャーシューメンを食べて太ったので、大江氏が困り果てていたエピソードがあった。
大江作品の良い読者ではないので、作品の名前を忘れたのが残念だ。
それを探し出すために、もういちど読む気にはなれない。
考えれば、それがもっと残念なことだといえる。

と、本題から離れたことを書き続けたので、続きはまた明日。
(すっかり、朝の連ドラ「あすか」にはまってます。(笑))

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1月 9日

しょうこりもなく、「イエスの生涯」を読み直す。
どうやら、この本に感じた違和感は、遠藤周作のカトリック信仰のドグマ(教義)に起因するものらしい。
だが、我々は知っている。
このイエスの何もできないこと、無能力であるという点に本当のキリスト教の秘儀が匿されていることを。そしてやがて触れねばならぬ「復活」の意味もこの「何もできぬこと」「無力であること」をぬきにしては考えられぬことを。そしてキリスト者になるということはこの地上で「無力であること」に自分を賭けることから始まるのであるということを。
(「イエスの生涯」より)
少なくとも、わたし自身はこの文中の「我々」のひとりではない。
このドグマはどうしてもわからない。

どうやら遠藤の考えでは、イエスはエッセネ派のクムラン教団でいきなり「神の愛」にめざめてしまったということらしい。
出身地ガリラヤのココリコ(ひなげしのこと)咲く美しい自然に触れて育ったので、荒れ果てたユダの荒野で修行生活を営むエッセネ派の厳しい思想に違和感を感じたと、遠藤は解釈している。
では、一生を「神の愛」をつたえることに捧げるイエスの「愛」とはどういうものか。
「イエスは人間にとって一番辛いものは貧しさや病気ではなく、それら貧しさや病気が生む孤独と絶望のほうだと知っておられたのである」
「必要なのは「愛」であって、病気をなおす「奇蹟」ではなかった」
(「イエスの生涯」)
ところが、その愛は現実生活にはまったく無力だと遠藤は口が酸っぱくなるほど繰り返す。
だが「神の愛」とか「愛の神」を口で語るのはやさしいのだ。過酷な現実に生きる人間は神の愛よりもはるかに神の冷たい沈黙しか感じぬ。過酷な現実から愛の神を信ずるよりは怒りの神、罰する神を考えるほうがたやすい。
(「イエスの生涯」)
現実における愛の無力さ。……(中略)だが愛は現実世界での効果とは直接には関係のない行為なのだ。そこに、イエスの苦しみが生まれた。
(同上)
現実に生きる人間の眼には最も信じがたい神の愛を証明するためにイエスがどのように苦闘されたか――それがイエスの生涯をつらぬく縦糸なのである。
(同上)
そこで、イエスは自虐的な自己犠牲に生命をささげることになった。
それらの人間の苦しみを分かちあうこと。一緒に背負うこと。彼等の永遠の同伴者になること。そのためには彼等の苦痛のすべを自分に背負わせてほしい。人々の苦しみを背負って過越祭の日に犠牲となり殺される仔羊のようになりたい。「その友のために」「人間のために自分の命を捨てるほど大きな愛はない」それこそが人々にみえようとも、神の最高証明なのだ。 (「イエスの生涯」)
こうなってくると、イエスも後に彼を裏切ったとされるユダも同じ大義に生きた協力者となって区別がつかなくなる。
遠藤版キリスト伝で、キリスト教世界最大の背教者ユダがいちばん血が通った人間として描かれているのは、偶然ではない。遠藤周作もユダはキリストの教えを理解して救われたと「イエスの生涯」で断言している。
(ユダが自殺してはてたことを、認めておいて、どうしてこんな解釈ができるのかは、理解を絶する。「イエスの生涯」は背教者の視点で描かれたキリスト伝ではないかという、疑いが浮かんできた。ころび伴天連は、遠藤周作の大作のテーマだ。)
なぜイエスがそのように思いつめたのか。遠藤の解釈はこうだ。
「人間は永遠の同伴者を必要としていることをイエスは知っておられた。
自分の悲しみや苦しみをわかち合い、共に泪をながしてくれる母のような同伴者を必要としている。」
(「イエスの生涯」)
「神が父のようにきびしい存在ではなく、母のように苦しみをわかちあう方だと信じておられたイエス」
(同上)
つまりは、遠藤版のイエスは、全人類の母親になりたかったのである。
遠藤のキリスト観はこれにつきる。
遠藤が信じていたイエスとは、「母性の神話化」だった。
一歩間違えば、病理になりかねない「日本の母性社会」が生んだ「母親信仰」だ。

だから、イエスの姿はけっして日蓮や親鸞のごときいかつい偉丈夫であってはならない。
遠藤周作にとって、イエスとは殴り合いをしても人にひけをとらない男ではなく、かぎりなく年老いた女性に近いものでなければならない。
「痩せて弱々しかったにちがいないイエス」
(「イエスの生涯」)
彼等は生きていた時のあの人の顔や姿を思い浮かべた。疲れ果てくぼんだ眼。そのくぼんだ眼に哀しげな光がさる。くぼんだ眼が微笑する時は素直な純な光が宿る。何もできなかった人。この世では無力だった人。痩せて小さかった。
奇蹟など行なわなかったが、奇蹟よりももっと深い愛がその窪んだ眼にあふれていた。
そして自分を見捨てた者、自分を裏切った者に恨みの言葉ひとつ口にしなかった。にもかかわらず、彼は「悲しみの人」であり、自分たちの救いだけを祈ってくれた。
(同上)
こういう姿は、日本では老婆の姿をとった姥神(うばかみ)として敬われている。
町や村の辻に小さな祠があって、人々を優しく見守る老婆の神である。
もちろん、老いた母親の母性を神格化したものに他ならない。
年老いた優しい姥神こそ、遠藤の求めるイエスの原像だった。

そのうえに、他人の幸福のために一身を犠牲にする大乗仏教の「菩薩行」思想がおびただしくふりかけられている。
師匠である「ホトケ」に請願をたてて、衆生のために自分の肉身を焼いて供養した「菩薩」と、遠藤版イエスはたいして違わない。
もっといえば、釈迦の前生譚「ジャータカ物語」で、乞食に食をふるまうために、我が身を焚き火に投じたウサギとおんなじではないか。

遠藤は自分自身のおいたちからくる母親信仰(?)をキリスト教解釈にまで高めた。
わたしなどより、遠藤文学に詳しい人には常識だろうが、遠藤は幼い頃に両親が離婚した。遠藤は厳しい父を嫌い、優しい母になついた甘えっ子だった。
若い頃に死んだ母親に、遠藤は終生執着していた。
母性憧憬の底には、親離れできない母親への執着があったにちがいない。

そのせいか、自分自身のキリスト理解の知的枠組みをこえる現象については、こんどは遠藤本人が沈黙している。
使徒たちやパウロたちが信仰を守るためにあえて殉教までつきすすむほどに、イエスを神格化して<キリスト>としたのはなぜか。
これについては、レトリックではなく、言葉の本当の意味で謎だったに違いない。
「イエスの心は我々人間にはつかみ難い神秘にみちている」
(「イエスの生涯」)

さらに、執拗さに我ながら呆れつつ、「コリント信徒への手紙 一」と「コリント信徒の手紙 二」(ともに新共同訳 聖書)を読んでみた。
とにかく、読んでみないことにははじまらない気分だった。
これを読む限り、パウロ(この手紙の執筆者はパウロである)の時代には、原始キリスト教団には「使徒」「教師」「預言者」「異言を語るもの」「病を癒すもの」といった職分が存在していたことがわかる。

いくら遠藤周作でも、パウロの手紙の資料性までは否定しないだろう。
イエスとその教団が治癒者としての力を認められていたことだけは、歴史的に否定できない。
しかも、そのなかには<シャーマン>の神降しにも似た「異言」を語るものや、「預言」能力を誇るものさえいたことも。

遠藤周作のキリスト教は当時の宗教感情に即した歴史的理解というよりは、あくまでも日本化した信仰告白に他ならない。
断じて、これは一時代前の西欧人(いまでも大部分がそうだろうけれど)のキリスト教ではない。
いってみれば、中華料理の湯麺が変じてラーメンとなり、ついに味噌ラーメンとなったような――こういっても、たぶん言い過ぎとはならないだろう。

ただし、このことが別に悪いとはおもわない。
大乗仏教の「菩薩」という思想が、キリスト教思想との接触によって誕生したという考えもある。
遠藤の感得した<日本風キリスト>が、「菩薩信仰」とひどく似たものであればこそ、東西に分かれて流れ出たキリスト教の思想がそこで出会ったとしてもなんの不思議もない。

こうして考えてみると、自分自身が遠藤にこだわる理由がわかった。
プラトンやデカルトの西洋哲学を好み、西洋思想の裏表に浸りきって中年となった自分には、日本的なるものへの理解がどうしても偏っていた。
母性的な信仰がうとましく、やりきれなかった。
かえってそれを本質とする遠藤が、ひどく新鮮にみえる。
遠藤周作をつうじて、いままで自分が見ようとしなかったぐちょぐちょ、べたべたした日本的な母性の世界をしっかりと見直してみたい――と、自分が考えていることに、やっと気がついた。

ところで、上にいろいろ書いたように、理解できるところもあるわけだが、いちばん最初にあげたドグマはさっぱり解決していない。
遠藤が筆にした思想と冒頭のドグマが、すんなり接合されているとはおもえない。
この矛盾を、文学の魅力というのだろうか。

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1月 8日

「新訂 万葉集」(上下)と「土左日記」を購入する。
どちらも岩波文庫である。
これで、日本古典の完全制覇へまた一歩ちかづいた。(笑)

とりあえず「万葉集」からとりかかる。
しかし……岩波文庫版は補注が少なくて苦労する。
歌をそのまま味わえという編者の意図だろうが、古代人の恋愛の歌にはあくびがでる。
まだまだこれで、鼻血を吹き出すほど枯れていないせいだろう。

<古代人のおおらかな性の賛歌>
<はばかることない情愛の喜びを歌いあげる>
なんて、国文学者の謳い文句を信じたわたしが馬鹿だった。
どこをどう読んだら、そこまで考えられるのか、よくわからない。
男性淫乱症にでもならないと、国文学は極められないのかもしれない。

そういえば、「恋人よ、はやく(腰)紐を解け」という内容の歌がやたらあった。
これは、いまでいえば「はやくパンツ脱いでよ」というぐらいになるから、お年を召した国文学の先生たちはむらむらと下腹部を充血させたのかもしれない。
いや、それとも気の毒なことにその部分がもはや充血することがなくなったからこそ、ますます激しい妄想が湧いてきたともいえる。
インポテンツだったから、恋愛小説を量産したというフランスの文豪もいる。
でもなぁ、そんな感性はもちたくないなーっ。
以上のようなことは、読む人がほとんどいない読書日記だからこそ書けることなんで、読んだ人は忘れてください。お願いします。

「万葉集」におさめられている歌は、卑俗というよりは「古今和歌集」よりも格調が高くて感心してしまう。
じつはむかし「古今和歌集」と「新古今和歌集」をななめ読みしたことがあるが、視覚的なイメージの遊びがいっぱいある「新古今」のほうがおもしろかった。
しかし、格調という部分では、「古今」のほうが上におもえる。
和歌には興味がないので、はっきりとした論拠はないが、ともかくも感じとしてはそう云う他はない。

ところが、「万葉集」はじつに風韻がなつかしく、恋歌でさえ、純情な田舎の若い男女の恋愛みたいで心地よい。
唐突な比喩だけれど、「北の国から」の幸福なカップルたちの恋愛を連想する。
われながら、ボキャブラリーが少なくて、恥じ入る次第だけれど。

―と、まあ、こんな具合でぼちぼち読んでいます。
まだこの時代がよくつかめないせいだろう。
今日は拾い読みして、こんな感想をもっただけだけど、明日はきちんと読み込んでみようとおもう。

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1月 7日

自分でも物好きだとおもいながら、新約聖書の「ヘブライ人への手紙」を読む。

うっかりしたことに、これは使徒パウロが書いたものとばかり思い込んでいた。
だが、そうではなく、執筆者はわからないらしい。

遠藤周作の一連の作品を読んだいきおいでなければ、まず読むことはなかったろう。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの名前を冠した「福音書」と「使徒行伝」は、読み物としてはかなり面白い。
キリスト教徒でなくても、感動を覚えながら読むことができる。なによりも骨太な人間のドラマとして読めてしまうからだ。
幻想文学として読むなら、ヨハネ黙示録もおもしろい。
だが、パウロをはじめとして使徒たちが書いた書簡は、キリスト教信者でなければなかなか読めない。

非信者には、なにかどぎつく、えぐいような感じがあって、馴染めない。
イエスや使徒の物語から、いきなり別の次元に入り込んだとでもいうような違和感がある。
一部の聖書学者にいわせれば、イエスの殉教と復活の物語と、書簡の神学思想は別物であるらしい。
つまり、キリスト教はイエスの教えそのものではなく、パウロが造った信仰にもとづいていることになる。
その考えをすすめてしまえば、キリスト教徒ではいられなくなる。
あるいは、現代化をめざして、脱神話化することでパワーを失ってしまうことになるだろう。
このへんのところは、いまどきの真面目なキリスト教信者さんの泣き所のようで、ここをつつくと果てしない泥沼になる。

ともかくも、「ヘブライ人への手紙」は非信者には理解しがたいキリスト教思想のデパートのような文書だ。

神はとにかく試練を与える。
とにかく何があっても、耐えろ。なにがなんでも耐え抜け。
苦しいことが続々あるが、これは信者を鍛えるために、神がさずけてくれた試練だ。感謝して、がんばれ。
神は幸福を約束してくれるが、それは来世だ。死んでから後だ。生きているうちに報いがあるとおもうな。おもえば、負けよ。

――と、いささか気が滅入ってくるような自虐的な言葉が、とても励ましになるとはおもえない<希望の言葉>といっしょに怒涛のように押し寄せる。
文字通りにこの言葉を信じられるひとはしあわせだ。
どんなカルト宗教にでも、すんなりはいりこめるだろう。

この言葉を字義とおり理解するのは、たぶん間違いだろう。
この思想は、<うつ病>患者の自殺発作にひどく似ている。
だから、「手紙」の真の意味を解き明かしてくれる導師がどうしても要る。
カトリックやプロテスタントの教会関係者は、まじめな信徒のとまどいを飯のタネにしているのではないか。
非信者の言いがかりだが、そんな気がしてならない。

ニーチェではないが、「手紙」にはあまりにも社会的敗者のルサンチマンが満ち満ちているようにみえる。
たとえば、ギリシア思想のような見晴らしの良い爽快さはない。
東洋の思想であっても、これほど自虐的な思想は寡聞ながらしらない。

ヨーロッパの文学・哲学が好きでずいぶん読んできたから、かえって今まで「ヘブライ人への手紙」の異質さを生理的に理解していなかった。
むしろ異質なるヨーロッパを理解するには、ヨーロッパ人たちがこうした思想を持っていることを了解することが必要だと、他人事のように知的に納得してきた。
遠藤周作の偉いことは、外国語で外国文学を解する能力を身につけた人間が陥りがちな<思い込みのキリスト教理解>をかなぐり捨てたところにある。
皮肉なもので、<ヘブライ人の手紙>に感じる生理的違和感を殺さないと、ヨーロッパ文学の行間は読めず、内容をすんなり理解することはできない。だが、そうなると知らず知らずのうちにヨーロッパ文明の知的植民地人となってしまう。

フランスへ3年間留学していたうえに、フランス文学の研究者だったことを考えると、遠藤周作がそうした罠から少なくとも逃れようとしたことは、遠藤の作家としての<誠実さ>のあかしだ。
あまりにも根源的な質問をするのは、幼児か馬鹿か天才にきまっている。
真っ正直というところがポイントで、<訳知り>になってしまうと、ごまかしをいつしか己が心身にたっぷり染み込ませることになる。

ひるがえっていえば凡庸な作家であれば、「ヘブライ人への手紙」の思想を要領よくまとめあげて、そこからイエスや、使徒たちの生涯を逆照射してしまいかねない。
いや、むしろ、それがただの宗教解説書の書き方だろう。
あえて、根源的な謎に愚人のように拘泥してみせたところが、遠藤周作の真骨頂だったともいえる。
遠藤とキリスト教については、頭の悪い真面目なぼんくら小学生のように、しばらくこだわってみなければならないようだ。

めずらしく、今日は結論のない読書日記になってしまいました。

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1月 6日

いきごんで、「キリストの誕生」(遠藤周作)を読んだが、結果はがっかり。
この小説を読んで感動する人がいたことがよくわからない。

「イエスは十字架で無力に死んだ}
文学的な表現としてみれば、べつにこの言葉には文句をつけるいわれはない。
だが、「イエスには病者を癒す奇跡を起こせなかった」ということは疑わしい。
日本の「拝み屋さん」(=祈祷師)や、アメリカの「クリスチャン・サイエンス」にだって、神経症や心身症を直した実例はある。
すると、イエスには日本の街のあちこちにいる「拝み屋さん」ほどの心霊能力もなかったことになる。
さらにいえば、森田療法や箱庭療法の治療者ほどの<ちから>もないとさえいえる。
そんなことは、かえって信じられない。

遠藤の「イエスの生涯」を読んで、いちばんの難点は<なぜイエスが神格化されたのか>というあまりにも基本的な疑問が抜け落ちていることだ。
それが小説家としての限界なら、ちからにあまる題材を選んだ愚を認めなければならない。

「新約聖書の福音書はどれひとつとして、歴史的な資料ではなく、原始キリスト教団の信仰告白にすぎない」
遠藤や前に書いた山形孝夫氏の解説によると、これが現代の聖書学者の共通の認識だ。
いってみれば、「新約聖書」は仏教でいうところの「大乗経典」みたいなもので、歴史的存在としてのゴータマ・シッダルタとは直接的関係をもたない無名の宗教的天才たちが原始仏教の思想を発展させて<大乗思想>を生み出したように、イエスでもパウロでもない今は名前が伝わっていない宗教的天才たちのグループが生み出した<キリスト思想>を集大成したものということになる。

どうも遠藤が本当に云いたいことはそうではないか。
そんな気がしてならない。
というのも、「キリストの誕生」を読む限り、「イエスがなぜキリストになったのか」という謎はますます深まるばかりだからだ。

遠藤本人は絶対に言質をとられないように、「奇蹟」「復活」という現象に触れていることを避けている。
そんな単語にシンパシーを持っていることをみせたがさいご、一般読者は本を閉じてしまうことを、遠藤はよく知っていた。
だが、キリスト教信仰者には、遠藤の苦心が痛いほどわかって、「キリストの誕生」(新潮文庫)の解説を書いている作家高橋たか子氏は、遠藤がわざと云わなかったことをあからさまに表現している。
つまり、弟子たちは<イエスの復活>を目にしたのだと。
だからこそ、弟子たちはイエスを<キリスト>(救世主)として信じた。
非キリスト教信者である日本人読者のほとんどは、むしろ高橋氏のようなあからさまな宗教感情の表出には、へきえきするだろうから、小説というかたちをとる以上、高橋氏のようなばか正直な物言いよりは、遠藤の良識的なポーズのほうが戦略的にはよかった。

ただし、遠藤がオカルトや精神世界にもかなり造詣が深いことをおぼろげながら知っている一読者にしてみれば、<世の良識派>なんてどうでもいい連中に本を売るために、わざわざ本音をぼかさなくてもよかったのに、と残念な気持ちをもたざるをえない。
<世の良識派>なんて、自分で本を買わないで、図書館で借りてすますだけの連中だから、マーケットとしてはたいしたものではない。
身銭をきって買う読者は、もはや生ぬるい良識なんて見向きもしないだろう。

みずからの小説の題材にふさわしい解答として、遠藤が切り札にしたのは、論理ではなく、レトリックな表現だった。
つまり、
「信者にどんな苦難がふりかかってきても神は沈黙していた」
「苦難の時代にあっても、ぜったいにイエスは再臨しなかった」
この二つの歴史的事実が、キリストへの信仰を生み、それを成長させたという見解だ。

もしも、失敗と不運にのみ価値があるという自虐的信仰があるとすれば、これほど凄いはなしもない。
世界の終末において神による敵への復讐と己の幸福を待つことの他には、意義をみいだせない宗教があるとすれば、おそろしく気が長くて、絶望しきった人しか信じることはできないだろう。
それはまた「苦しみ」にしか、意義を見出せない宗教でもある。

なんだか<鬱病>に苦しんでいるみたいな世界観だ。
これではたまるまい。
ひるがえっていえば、こんな信仰をもっていたら、仮想的にでも<敵>を作るしかなくなり、その敵にたいしてどんなひどいことでもできそうな気がする。
自虐の毒が他者への殺意にかわる例は、神戸の少年犯罪でもおなじみだ。
もっとも、この意見にはキリスト教やユダヤ教の歴史からの類推も入っているから、あんまり当てにはならないが。

「イエスの生涯」も「キリストの誕生」も、生きたキリスト教を肯定的にとらえたというものではなく、遠藤周作が内面に秘めていた<日本教>ともいうべき元型的な地母神信仰の告白のような気がする。
遠藤のイエス(歴史的人間)やキリスト(霊的救済者)を読んでいると、固有名詞が日本名であればまるで浄土教や地蔵信仰、観音信仰のことを云っているようだ。

さらにいえば、遠藤は西洋的なキリスト教徒であるよりは、むしろ鎌倉仏教を通過して日本人が理解するインド文化のほうへ傾斜している。遠藤のカトリックへの<気遣い>は、むしろそちらにのめりこもうとする遠藤本来の資質を阻止する<躓き>ではなかったのか。

「深い河」のほうを先に読んだので、かえってそうおもえてならない。
今はまだ「イエスの生涯」と「キリストの誕生」のほうが評価は高いのだろうが、「深い河」のほうが内容だけでなく、小説という形式においても完成されている。

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1月 5日

この正月に読んだ本について書いてみる。
ひとつは「イエスの生涯」(遠藤周作)。
もう一冊は、「聖書の起源」(山形孝夫)。

山形孝夫氏の本は、大学生のころに「レバノンの白い山」と「治癒神イエスの誕生」を読んだ。
「レバノンの白い山」は、いまのイスラエル、シリア、レバノンのあたりにいたカナン人の農耕神、大地母神を崇拝した古代宗教を考察したもの。
シリアのラス・シャムラ(トルコ語か、アラブ語で「ウイキョウの丘」という意味だ。ウイキョウというのは、香料植物の一種)という土地で、ウガリト王国の遺跡が発見された。
サイラス・ゴードンという言語学者が古代ウガリト文字を解読して、その神話の全貌をあきらかにした。
山形氏の本は、ゴードンの解読にもとづいて、イスラエル民族が徹底的に敵対したカナン人の豊穣儀礼をあきらかにした。

この大地母神信仰は、ギリシアの<アドニス神話>と深い関係がある。
大学生のころ、ギリシア神話と中東古代史に夢中だったので、とてつもなく面白かった。
古代ギリシアと中近東がいっきに近づいた気になって、ますます中近東にのめりこみ、おかげで真面目な西洋史の学生とはますます話があわなくなってしまった。

「治癒神イエスの誕生」は、ヘレニズム時代ににわかに流行神(はやりがみ)となった医神アスクレピオスに、原始キリスト教のイエスがどうやってとってかわったかをじつに詳しく論考していた。
個人の病気を癒す医神が大流行したことについては、ヘレニズム時代をつうじてポリス国家が崩壊してゆく過程と深い関係がある。
この時代の古代ギリシア宗教と、原始キリスト教との関わりあいから、新プラトン主義が生まれて、それがさらにイスラム神秘主義とキリスト教オカルティズムを生み出した。
ヘレニズムという時代は、こうしてみると、ほとんどいまどきの精神世界の内容をカバーする面白い時代だ。

余談が長くなったけれど、その山形氏の二冊をダイジェストしたかたちになっているのが、「聖書の起源」である。講談社現代新書の一冊だ。
ところが、これを読んで、はたと意外なことに気づいた。
なるほど、前二書の内容をコンパクトにまとめてあることは便利だ。
だが、さっぱり聖書の起源にはなっていない。
新書版でいうなら、「聖書」(赤司道雄)ほどにも聖書の歴史的な起源になっていないのである。(ちなみに、こちらは中公新書)
じつは、「聖書の起源」の新約聖書を扱った部分は、「イエスの生涯」(遠藤周作)とほとんど変わらない。
むしろ遠藤のほうがよく調べている感じがするので、驚く。
いったい、どうなっているのだろう。

「イエスの生涯」はたぶん高校生くらいのときに読んだとおもう。
はっきりいって、「懐疑主義の日本インテリが喜びしそうな本だ」と問題にしなかった記憶がある。
生意気ざかりだから、当然のことだが、世の大人という大人、年長者をいっさい馬鹿にしていた頃である。
コーヒーの粉末クリームの宣伝に出ている狐狸庵先生がどんなものを書いても、まともに相手にする気にはなれなかった。
世の馬鹿な大人たちが褒めれば褒めるほど、ばかばかしくなる。
考えてみれば、わたしもそーとうにイヤなガキだった。
同世代の人間がオヤジ狩りに遭う御時世になったことを考えると、不謹慎な話だが、笑いがこみあげてくる。
脳味噌の足りないガキは、つまらない大人を心底馬鹿にしている。
そのことだけは、いつの時代でもかわらない。
当時からしこたま本だけは読んでいたわたしも、オヤジ狩りを楽しむいまどきの連中に劣らぬほど脳味噌の絶対量が不足していたことは、いまならわかる。

いまふたたび読み直したのは、昨年末に読んだ「深い河」に心を動かされたからだ。
「もう一度読み返せば、昔読み落したことがわかるのではないか」
そんな期待をもって、読んでみたのだが、やはりだめだった。
遠藤の云う「無力で優しいイエス」がなぜ神になったのか、どうしても納得できない。
遠藤がかなりの量の神学者の研究書を読んだことや、死海文書やクムラン教団について勉強したことはわかった。年齢を重ねたおかげで、遠藤の真摯な努力とそれに払った労力を正当に理解するだけの<あたま>は身についたわけだ。
「聖書の起源」を併読したかたちになったので、遠藤が読んだ本もだいたい見当がついた。
だが、「イエスはなぜ神になったのか」という素朴な疑問がどうしても解けない。
じつは山形氏の本でも、その部分が空白になっている。

今日、「イエスの生涯」の続編となるべき「キリストの誕生」(遠藤周作)を買った。
これを読んで、少しは遠藤周作の真意がわかることを希望している。

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1月 4日

思い立って早起きして、三峯神社へ参拝ででかける。
しかし、西武池袋線をのりかえて、秩父鉄道の三峰口駅までいったところ、神社へいく道が崖崩れで不通になっていることがわかった。
路線パスは運休しているが、西武鉄道が無料で神社へのシャトルバスを臨時運行していた。
ただし、バスはピストン輸送だから、いつ到着するかわからないと駅員から説明があった。
ふだんなら、15分の道のりが一時間いじょうもかかるとか。
タクシーももともと三台しかないのが、すべて出払っていて、まだ戻ってきていない。
とにかく、いつ来るかわからないバスを待つしか手はないということだった。
近くの温泉に泊まる予定らしい乗客たちは途方にくれていた。
昨年11月に崖崩れがあって、それ以来不通になっていたのが、その日の朝に開通した。
安心したとたんに、またも崖崩れがおこって、不通になってしまったという。
神罰かなと、こちらは苦笑するほかはない。

三峯神社はそうそうに諦めて、秩父まで戻って、秩父神社へお参りした。
こんなことをいうのも、罰当たりだが、秩父神社へは以前に来たことがあって、あまり気乗りしなかった。
そのときに、名匠左甚五郎作の「子育ての虎」や「つなぎの竜」なんかをみて、気に入って、じつにしげしげと眺めた。
江戸時代の派手な色彩感覚が、「嫌いではない」どころか大好きなのである。
どうも、わたしは日本人型インテリ知識人として行い澄ますことができない。
ああいう派手で奇麗なものはかわゆくて、好きだ。
どことなく、洗練されていないところがなんともいえぬ可笑しみと愛敬をただよわせている。
だれがなんといおうと、あれはいい。
今度も、連れがいなかったら、権現造りの本殿の壁面に据え付けられた極彩色の彫刻群をいつまでも阿呆のように眺め続けていただろう。

こうした彫刻は、じつは武蔵あたりの大工たちの得意業だった。
川越の市民博物館で仕入れてきた知識によれば、武蔵国(武州)の秩父・川越あたりの大工たちはこうした彫刻をおのが本領としてきた。
だから、御輿をつくるときなどには、じつに生き生きとした人物や動物をその周囲に彫り込んだ。
そんな文化財が武蔵国にはごろごろしているという。
たいていは埃まみれで気の毒な状態だが、いまでもそうした技能を伝える工匠の方々がいて、そうした人々の作品の一部が川越の博物館に展示されている。
着色されていない白木の状態のウサギなんかがあるけれど、これがリアルであって、しかも可愛い。
なんだか、そんなものをみると、ほのぼのとした幸せな気分になってしまう。

秩父神社には、武道の奉納額がどういうわけかたくさんある。
講道舘柔道の開祖嘉納治五郎の奉納額をはじめとする講道舘柔道の支部の奉納額。
名前は忘れたが、古流弓道の奉納額もある。
能の宝生流まであるのはなぜなのだろう。
祭神をみると、八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)があり、これは智慧と学芸の神様だから、芸事の上達を願ったのだろうか。
面白いことに、小野派一刀流と甲源一刀流の奉納額もあった。
小野派一刀流は、明治の剣聖高野佐三郎を生んだ高野家が伝えたもの。
甲源一刀流は、中里介山の「大菩薩峠」で有名だそうだが、残念ながら読んだことがないので知らない。
むしろ、千葉周作が上州へ武者修行したときに、馬庭念流とおなじように、周作と争った田舎剣法というイメージがつよい。
これも、いまどきの時代小説の読みすぎか。
ともかく、甲斐源氏の祖新羅三郎義光の末裔、逸見家がつたえた剣法ということで、甲斐源氏をつづめて<甲源>としたということだ。
逸見家十八代の太四郎義年が開祖となり、甲源一刀流が誕生したとある。
こういう話が好きなのは、爺さんだけだろうから、わたしの精神年齢はよっぽど高いのかもしれない。(笑)

秩父神社では、ちょっと面白いことを発見した。
といっても、普通の人にはちっとも面白いことではないのだが。

「妙見様」という神様がいる。
この神様の正体がよくわからない。
だが、千葉県の名前の由来となった桓武平氏の末裔、豪族千葉氏がこの「妙見様」をふかく信仰していた。
江戸時代にも、妙見信仰がさかんだった。
いったい、妙見さまとはなんなのだろう。

そのうち、調べてみようとおもっていたが、図書館にいかなければならないので、つい面倒でそのままにしておいた。
それが、わかったのである。
「妙見様」とは「妙見大菩薩」のことである。
「菩薩」とはあるが、どうも仏教の仏さまではないらしい。
どうやら道教の匂いがある。
しかし、どの宗教から生まれたものかははっきりしていない。
実体は、「北斗七星」を神格化したものだという。
これと北極星(=北辰)をあわせたかたちでの「北辰妙見信仰」が江戸時代に大流行した。
北極星は、中国道教では星や自然界を司る北極紫微大帝とされて、御利益をねがって信仰された。
北斗七星はその従者的な存在で、人間の生死・寿命・財産を司る北斗真君(=北斗星君)として信仰された。
こうした道教の神々を、日本の仏教が陰陽道をへてとりいれたのが、<妙見大菩薩>だ。
しかも、北斗のかたちから、升を連想して、地上に豊かに穀物をあめふらしてくれる穀物の精霊をも連想させて、「妙見信仰」が誕生した。

つまりは、道教の生死・寿命・財産を司る神と、日本古来の穀物霊信仰が融合して、神仏習合の風味をきかせたことになる。
日本人の信仰をみると、これでもかこれでもかと御利益を捏ね混ぜて、新しい神仏をつくってしまうものだが、<妙見様>もそうしたいい見本だ。

さらに、すごいのは、明治の神仏分離令と廃仏毀釈運動のおかげで、表立って<妙見大菩薩>という名前が使えなくなったとき、神官のだれかがいい智慧をしぼりだした。
「古事記」と「日本書紀」に名前がみえるが、あんまり神社で祭られることのない天地創造神のひとり<天之御中主命>(あめのみなかぬしのみこと)と、<妙見大菩薩>をすりかえたのである。
これをおもいついたのは、よほどの智慧者だったに違いない。
おかげで、妙見信仰はいまも生き続け、秩父神社本殿には「秩父妙見」とでかでかと描かれた大絵馬がかざってある。

秩父地方を平安・鎌倉時代に支配した秩父氏とは、平将門と戦った叔父のひとり村岡五郎平良文の子孫だ。
千葉氏も同族である。
平良文の孫の代から、秩父・千葉の両氏にわかれた。
秩父氏からは、川越(河越)の支配者、河越氏もわかれた。
秩父氏の本流は、のちに畠山氏と名前を変えた。
その末裔が源義経の平家追討軍の名将、畠山重忠である。
秩父あたりにくると、畠山重忠ゆかりの寺や神社がやたらと多いのは、かれがこの地のもっとも有名な支配者であったためだ。
秩父神社に妙見信仰があるのは、支配者秩父氏が千葉氏と同族だからだ。
村岡五郎良文は、よほど妙見様を厚く信仰していたとみえて、かれの子孫が入植した場所には妙見信仰の寺社が必ず建てられたそうだ。

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1月 3日

NHKの時代劇「蒼天の夢」を観る。
中村橋之助と、野村萬斎が魅力を十二分に発揮した感動巨編。
NHKの底力はすごい――とおもう。
こんなドラマを年に一本観ることができるなら、毎月受信料払っても惜しくはない。

近所の氷川神社へ参拝する。
たぶん、明日も遠方の神社へ参拝しにゆこうとおもっています。

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1月 2日

テレビ東京の12時間ドラマ「次郎長三国志」を観る。
杉良太郎が主演・監修した時代劇の傑作。
最近、こんなハイ・レベルな時代劇をみたことがない。
12時間、夢中で堪能した。
しかし、座りすぎて腰が痛い。
「聖書の起源」(山形孝夫)をまだ読んでいる。

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1月 1日

12月31日に、「魔女の一ダース」(米原万里)を読了。

ついで、「聖書の起源」(山形孝夫)をよみはじめる。
並行して、「イエスの生涯」(遠藤周作)を読了。

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