『俯き加減の男の肖像』を読了。
「大人の丁稚」石田勘平は、江戸の代表的思想家「石田梅岩」であった。 堺屋太一は、石田が打ちたてた心学に成長ゼロ時代の思想を見ている。 ただ、経済企画庁長官となったいまでも、同じなのだろうか。 たぶん、違うような気はするのだが。 ところで、この本の最後の章はほとんど走り書きのように、江戸時代経済史のおさらいというかたちになった。 おそらく、堺屋自身も大不況時代のもっと先の局面が分析しきれていないようだ。 小説がへたで、メッセージ性のある書き手ほど、自分が把握していないことを、上手にまとめる能力が少ない。 小説がうまいひとは、本人がよく理解していないことでも、たくみに描きだしてしまう。そうやって書いていても、深い意味で、理にかなっていることが多いものだ。 そこが、芸術のおそろしいことで、哲学者プラトーンが詩人たちのそうした能力をうらやんでいる。 堺屋は詩人ではないので、かえって物語作法の破綻が露骨にみえてしまう。 娯楽で読んでいる人には、ゆるすべからざる欠点だけれども、「歴史」を読みたいわたしには、「お話し作り」がうまい作家よりも楽しめる。 悪口を書いたが、この最後の章はそうした意味では、とても興味深い。 絶対不況時代に生きる二つの選択肢が、登場するからだ。 ひとつは、完全な自由放任経済を唱える尾張藩主徳川宗春。 もうひとりは、勤勉と禁欲で「家」という一企業の存続だけに全力を傾注する鴻池三代目当主善衛門宗利。 この一派には、ひたすら禁欲して辛抱することに価値をみる富士講の創始者伊藤身禄がいる。 ご存知のように、宗春は失脚して、尾張藩に莫大な借金を残した。 成功したのは、鴻池の生き方のようにもみえる。 鴻池は、いまの三和銀行の前身だ。 生き残った鴻池のほうが、勝者だったのか。 堺屋には、どうにもそうは考えられない。 堺屋が注目するのは、石田梅岩の思想だ。 この思想は、古い日本人にとってはありふれている。だが、世界にとっては、革命的ともいえる。 「諸行則修行」 ありとあらゆることは、修行だから、利益が出ようと出なかろうと関係ないという立場だ。 利子とか、投機とかを度外視して、労働そのものに価値を見出す哲学である。 労働、賃金、生産の利潤を度外視した思想は、すさまじい。 近代経済そのものの否定ともいえる。 だが、ひるがえって考えれば、欧米で誕生した「ボランティアの思想」とよく似ている。 また、いっぽうでは、利子を否定した「イスラム銀行」というアラブ諸国の金融システムにも相通ずるものを感じる。 石田梅岩の思想と、イスラム銀行の仕組みについては、また別の機会にのぞいてみたい。 ところで、堺屋が低成長時代という元禄以後だが、皮肉なことに江戸時代を代表する思想家たちは、この時期にこそ誕生している。 第一に挙げられるのが、安藤昌益、三浦梅園という現代においてさえ、世界的レベルの大思想家。 もしフランスなどに生まれていたら、当時としては世界一流の学者・思想家であったろう本多利明、山片蟠桃、海保青陵。 かれらに共通する自由主義経済と重商主義的傾向は、英仏の経済思想家たちと同じものだった。 まだいる。 神秘的な宗教観を排斥して、近代的な倫理思想を考えた富永仲基。 さらには、ドイツのグリム兄弟と同時代で、かれらがドイツ古代宗教学や歴史言語学を創設したように、日本の古代宗教学や歴史言語学を大成した本居宣長。 こうした人々は世界的にもっと評価されていいが、日本の歴史においては、もっと社会的な影響力があった大塩平八郎や、渡辺華山、高野長英、杉田玄白という人々もいる。 これはどういうことだろう。 生産性ということでは、ひどく割の悪い時代だった。 栄養が悪かったから、日本人の身長さえ、歴史上では最低だった。 それが回復するのは、明治になってからだ。 しかし、近代日本がアジア的停滞からテイク・オフするきっかけは、この時代に築かれた。 もし、江戸後期という慢性的な超大不況時代がなければ、明治日本は生まれなかった。 アジアの他の国にさきがけて、近代化に成功することは不可能だった。 繰り返すが、これはどういうことだろう。 経済成長という指標だけでは、計れない重要なものが、この暗い下り坂の時代にあったと結論するしかない。 いまのわたしには、その答えはわからない。 この問題は、しばらく宿題として、考えてみたい。 『私の聖書物語』(椎名麟三) を読みはじめる。 なかなか面白い。 |
『俯き加減の男の肖像』を読む。
浜屋円蔵(もと赤穂藩士石野七郎次)のプロジェクトは破綻した! もしかして、この読書日記は、ネタばらしをやっているのかな? まあ、いいや。ミステリーは読まないから、ネタばれしても、 問題にならない本しかないはずだ(と、おもう)。 ネタばれしても、読む値打ちのある本にしか基本的に興味がない。 歴史小説・時代小説はもちろん、SF・ファンタジーという ジャンルも、本質的にはそうだと、わたしは考えている。 登場人物たちの描写は、どういうわけか、ここにきて、がぜん下手になった。 主人公、浜屋円蔵など、やたら驚いてばかりいるデク人形である。 ところが、プロジェクトが崩壊していく顛末が、はらはらどきどきものなのである。 人間よりも、プロジェクトのほうが良く書けている。 ひとつのプロジェクトが生まれ、成長し、やがては当初とは似ても似つかないかたちで結実する過程を、これほどまでに克明に描いた小説はまだ読んだことがない。 山本周五郎の『永い坂』も、新田開発という小藩にとっての一大プロジェクトだったが、これほど詳細かつ具体的とはいえない。 芸術性においては、山本作品のほうがはるかに優るのはもちろんだけれど、プロジェクトそのものを生き物のように描いた堺屋に拍手を送りたい。 大阪万博、沖縄海洋博、サンシャイン計画を企画立案した上級通産官僚でなければ、これほどのものは書けない。 浜屋円蔵が夢見たのは、いまの大阪府にある河内地方に大規模な綿作農場を作ることだった。 そのプロジェクトは行政の都合と、金主のおもわくによって、むざんに潰れた。 金主と目星をつけた豪商「淀屋」の内紛と、破綻の顛末も、読ませる。 大坂の豪商「淀屋」が幕府によって取り潰されたのは、「お陰参り」に動揺する百姓・町人層への見せしめだった。 取り潰された淀屋の白壁に、黒々と落書がされていた。 「富めることは悪であるか 儲けることは悪であるか 儲けること罪ならば 百姓何故に耕すべきや 商人何故に働くべきや 銭持ち散財するは非なるや 銭持ち散財せずして職ありや 御倹約にて世は潤うや」 この問いは古い江戸時代にしか通用しないもののようにみえるけれど、「グローバル・スタンダード」と「低成長時代」の現代にあっては、いよいよ重くのしかかっている。 「バブル」「構造改革」「効率化」「財政削減」「リストラ」といった今日的な問題は、すっかりこの問いのなかに包含されている。 この答えを出す役割が、さきに登場した変わり者、「大人の丁稚」石田勘平にふられているらしい。 |
いやはや、日記の更新を1日お休みしてしまいました。
昨日、見てくれた方、申し訳ありません。 27日は、所用で丸一日外出していました。 だから、本もほとんど読めませんでした。 ついでに、NHK大河ドラマも見逃してしまいました。 放映前に帰宅できるとたかをくくっていたので、録画もしていなかった…… 土曜日があるから、いいか―― いま法然の『選択本願念仏集』を読んでいる。 とにかく、法然を知らなければ、鎌倉仏教はわからない。 もっといえば、鎌倉仏教がわからなければ、日本人のこころはわからない。 鎌倉時代がわからなければ、日本の歴史はわからない。 と、いうように大げさだが、考えている。 文化史でいえば、もっと華やかな時代は、べつにある。 平安期の摂関時代がそうだし、足利義政の東山時代、江戸期の元禄時代と文化文政時代があげられる。 しかし、空前の経済低成長時代でありながら、精神性の高い文化を築き上げたことを考えれば、鎌倉時代はひどく特異な時代だ。 平安時代末期と鎌倉時代は、社会史や文化史のうえでは、一連の時代としてとらえるべきものだろう。 この時代に、流血と飢饉、疫病が頻発するのは、経済発展の速度が人口増加の速度においつかなかったからだ。 たしかに、農業技術が進歩して、生産力は向上した。 しかし、それに倍して人口も増えた。 そのために、富の備蓄ができずに、いったん気候変動があると、たちまち幼稚な農業技術はいきづまり、それがために人口を養うだけの食料が生産できずに、飢饉がおこった。 さらにいえば、平安時代に疫病が何度も大流行したのは、当時の文学がいうように怨霊のせいではなく、外国との交渉が遣唐使時代よりもはるかに密になったせいで、江南あたりで発生したインフルエンザや、天然痘が、太宰府や瀬戸内の港湾都市につたわり、陸路と海路をへて、二段階で京都へやってきたせいである。 最初は瀬戸内海航路をへて、播磨、摂津、丹波をへて京都へというコース。 次は、山陽道、山陰道をへて、京都へやってくる。 もちろん、当時の人々には細菌学の知識はないが、そうした疫病がどうやら街道をつうじてやってくることは漠然と知っていたらしい。 丹波から京都へ入る大枝山あたりの老坂や、摂津から京へ入る入り口である羅城門に、<鬼伝説>があることを、伝染病の侵入と結びつけて考える歴史学者もいる。 余談が長くなった。 つまり、一般にイメージされているのとは反対に、遣唐使を派遣していた時代よりも、遣唐使が廃止した後のほうが、もっと外国と文物の交流があったということを云いたいだけだ。 『天平の甍』の時代よりも、『平家物語』の時代のほうが、輸出入もさかんで、人の往来も多かったというわけである。 ちなみに『源氏物語』の舞台となった摂関期から、『平家物語』の舞台となる院政時代までわずか六十年しか離れていない。 面白いもので、摂関政治は貴族文化の最盛期とおもわれているが、じつは軍事貴族の没落期であり、武士という新しい階層が社会的に進出しはじめた時代でもある。 法然の生きた時代は、その武士が源平合戦をつうじて社会の前面に躍り出たころだ。 若年から壮年時代は、武士階層の成長期だ。 だが、晩年のころになると、鎌倉幕府も成立して、政権が移動すると同時に、武士たちは大リストラに遭遇する。 地頭になれた武士はいいが、そうでない武士は没落した。 さらに、大豪族たちは北条執権政府に粛清される。 ましてや、平家に味方した武士たちはどうにもならない。 負け組になった小規模経営の自衛武装農民である武士たちは、どうして生きていったら良いかわからなくなった。 その武士たちの心のささえになったのが、法然の教えだった。 もちろん、貴族階層や有力農民層とは無縁の庶民もまた法然の教えにひかれた。 怨霊退治が商売の陰陽師さえも、その職業のまま法然の弟子となった。 そうしたことどもを、あれこれ考えると、法然のことをもっと調べてみたい――という希望がますます強くなる。 さて、『俯き加減の男の肖像』(堺屋太一)も、超低成長時代の人間の生き方を模索している。 いま読んでいるところでは、丁稚として勤めていた家が潰れた後も、その家にとどまって、丁稚のまま主人一家を養ったひとりの男が登場する。 その男は主人の子どもが成人したのを期に、別の商家で丁稚としてやりなおす。 すでに、年齢は二十五歳を越えていた。 丁稚とは、十三、四歳くらいから十九、二十歳までにやるものだ。 これは、いまの常識でいえば、いい大人が中学校へ入り直すようなものである。 現代日本人の精神年齢は、むかしの大人の七掛けだそうだから、この男のそれは三十六歳くらいだろうか。 この男、勘平は、この後どうなるのだろう。 堺屋のメッセージは、たぶん、この男の生き方に託されているとおもう。 |
このところ法然を扱った本を続けざまに読んでいる。
再三この読書日記に書いたことだが、いまの日本は旧時代の解体期だ。 明治からはじまった時代潮流が音を立てて崩れている。 そして、あたらしい時代の指針はまだ生まれていない。 いままでの歴史からみて、たぶんその萌芽はすでに登場しているはずだ。 だが、残念ながら、今をいきる私たちには、なにがそれなのか、わからない。 たぶん、わたしたちが死んで数百年たってからでなければ、わからないことだ。 これほどの大きな変動期は、日本史では三回しかなかった。 ひとつは縄文時代の終り。 あとは、推古女帝のころにはじまる朝鮮・中国文化の大輸入時代。 平安時代・鎌倉時代にかけての変動期。 勝手な仮説だけれど、地質時代の大陸分裂に匹敵する大変動は、この三つだとおもう。 織田政権の誕生、明治維新、太平洋戦争の敗戦といった歴史上の大事件でさえ、上の三つのうちの最後のものの結末だったとさえおもう。 (ちょっとだけいうと、「荘園制度から農地改革まで」という図式だ。これで、わかるひとには、わかるとおもう。) 三つの大変動時代は、日本人特有の思想を生んだ。 縄文時代の終りに誕生したのが、古代神道だ。 次は、国家鎮護の仏教。 三番目が鎌倉仏教。 こう書くと、宗教ばかりではないかということになるが、近代以前では思想は宗教として語られるから、しかたがない。 ぎゃくに、田畑の耕作方法から、商売のしかた、葬送のやり方といった人事いっさいが、そのエッセンスを凝縮して結晶化したものが、この時代の宗教だったといえる。 それで、法然である。 とにかく、この人がいないことには、鎌倉仏教は語れない。 美作国稲岡荘の武士、漆間時国の一子法然房源空が、専修念仏にいたった経緯については、後日書くことにする。 そのうち、法然、親鸞、日蓮、道元は、おもな著作を読破しようとおもっている。 弟子たちが書いた『歎異鈔』と『正法眼蔵随聞記』は読んでいるから、なんとかなるだろう。 『俯き加減の男の肖像』(堺屋太一)を読む。 赤穂浪士の討ち入りに加わらなかった男、石野七郎次は、浜屋円蔵という商人になっている。 どうやら、大坂の豪商「淀屋」の知遇をえて、土地干拓事業に乗りだそうとしているらしい。 先が楽しみだ。 大坂の豪商、「淀屋」について、おもしろいTV番組を観た。 あまり好きではないが、「ときめき歴史館」というNHKの番組だ。 この番組の前身だった「歴史への招待」が途中から、もの知らずなゲストを呼んで専門家とトンチンカンなやりとりをするようになってから、困惑顔の真面目な研究者や歴史小説家たちが気の毒で見ていられなくなった。 この番組を見たのは、ほんの偶然にすぎない。 その番組では、「淀屋」の初代、与三郎常安が考え出した「米の先物取引」を紹介していた。 説明すると長くなるので省略するが、初代淀屋をはじめとする大坂商人が考案した「先物取引」は、「先物市場」で収穫前の米を売買して得る利益を、収穫後に現物取引する時点でも確保するというすぐれた取引方法だった。 ただし、「先物市場」では投機家が入り込むことは避けられない。 このため、投機経済を忌み嫌う幕府から憎まれた。 いまの先物市場は、淀屋たち大坂商人とは無関係にヨーロッパで生まれたシステムだ。 仕組みそのものは、まったく同じといっていい。 大坂商人たちの先見性には、驚くほかはない。 ところで、淀屋は淀屋橋を私費で架け、中之島を開発した。さらに二代目も大坂の町の開発に務めた。 京都をしのぐ商都として、大坂をつくりあげたのは、この人々だった。 |
『奥羽の二人』(松本清張)を読む。
清張は41歳から小説を書き始め、42歳で処女作『西郷札』で直木賞候補となる。43歳で『ある『小倉日記』伝』で芥川賞をとる。 清張が推理小説に手を染めたのは、47歳のころ。それまでは、もっぱら時代小説がおおかった。 この本に集められたのは、清張が44歳から、49歳のころに書いた時代小説だ。 日本において、推理小説がジャンルとして大発展したのは、もちろん『点と線』の刊行が発端だ。 これは昭和三十二年、清張が48歳のときに、雑誌『旅』に連載。翌年一月完結。すぐに刊行された。 以後、清張は押しも押されぬ推理小説の旗手、大御所として活躍する。 のちには、古代史の歴史推理や、戦前の暗黒時代と戦後の疑獄事件をあつかう現代史にも、すぐれた業績を発揮することは、周知のとおり。 余談が長くなったけれど、『奥羽の二人』の完成度にじつは驚いている。 現代の文豪というべき清張にこんなことを云うのは変なことだが、表題作『奥羽の二人』は清張が45歳のときに書いたもの。 この筆致は、ベテラン作家のものだ。 しかし、清張が小説を書き始めてから、じつに四年しか経っていない。 その一年前に書かれた『三位入道』でさえ、同じレベルに達している。 歴史小説と時代小説は、似ているが、じつはまったく別のジャンルだ。 だが、書き手には、同じ態度が要求される。 史料を調べ、読み込み、自分流に解釈しなければならない。 もとより生き証人をもとめることができない分野だから、資料は一次的なものであればあるほど生々しく、生産力に富む。 しかも、史料だけを読んだのではとんでもない勘違いをするから、時代背景を知るための調査もかかせない。 それをしないと、例えば平安時代の合戦を描く場面で、「槍」が登場したりする。 「槍」は南北朝時代に使用されたもので、それ以前の文献・絵画史料には登場しない。 「槍」の登場は、古代貴族の末裔である武装農民が専門技術集団として軍事技術を独占した時代から、名もないほんとうの庶民が独立自存するために武器をとった時代へと大転換をとげる現われだから、ゆるがせにはできない歴史的事実だ。 おおげさに聞こえるだろうが、「鉄砲」が中世を殺して近代を出現させたように、「槍」の出現は古代の死と中世の誕生をつげる大事件だった。 「あんな簡単な構造なら、古い時代でも実際に使用されていなかったわけはない」 という考えもあるだろうが、それをいっては歴史にならない。 ドクター中松が発明した簡便なポンプ式石油入れが、なぜもっと古い時代になかったのか。 こたえは簡単だ。必要がなかったからだ。 石油ストーブが普及していないのに、石油入れを使う必要はない。 「槍」がなかったのは、使うひとがいなかったからにすぎない。 こんなことを書いたのは、現代を代表する歴史小説家が平安末期の院政時に、「槍」をつかっている人々を登場させた例があるからだ。 清張は登場した時点で、すでに作家としては完成していた。 それはたぶん、こういうことではないかとおもう。 「人間を見る眼」が作家の器量だ。 清張にあっては、それは小説を書く以前にできあがっていたに違いない。 そして、歴史小説や時代小説にあっても、「史料を読み解くちから」と「表現力」は、小説書きにとっては、じつは分離不能な能力だ。 「論理性の追求」「旺盛な調査力=事実に対する執着」は、歴史小説家としての必須条件だ。 清張は、出発点において、こうしたちからをすべて持っていた。 残念ながら、いまはそうではない人々が、このジャンルには多い。 ただし、念のために書き添えていくと、歴史小説の「論理性の追求」「綿密な時代考証」「すぐれた時代分析」をそなえた時代作家さんたちも、いっぽうでは続々生まれている。このジャンルは玉石混交だ。 昨日貶したかたちになった池宮彰一郎も、そうした点では優れた時代作家のひとりなのだ。 ところで、昨日の日記に書いたいきおいで『俯き加減の男の肖像』(堺屋太一)を購入する。 まだすべて読んだわけではないが、なかなか読ませる。 「歴史経済小説」と銘打っているが、経済史の視点を導入した堂々たる大作だ。 よい歴史小説は、学者さんの本よりも見事にその時代を描き出す。 江戸時代を知りたければ、司馬さんの『菜の花の沖』にまさるものはなく、室町時代を知りたければ、司馬さんの『箱根の坂』にまさる本はない。 堺屋太一のこの本も、綱吉、家宣、吉宗といった将軍の治世を知る最良の本ではないかとおもう。 この本の舞台となっているのは、元禄が終った大不況時代。 田沼時代の一時的な盛り上がりを別にすると、以後の日本は低迷する経済のまま明治維新をむかえる。 徳川吉宗、松平定信といった名前は、公益よりも組織防衛を至上命題とする権力者の立場にたてば見習うべきお手本だろうが、一般人の目からみれば、徳川幕府だけの利益を考えて経済を破綻させた恐ろしい独裁者である。 北朝鮮のきむ・じょんいる 氏みたいなものだと、理解しておくのが、権力とは無縁のわたしたちには正しいことだとおもう。 じつは明治になっても、日本経済の超低成長時代は続き、農民一揆は江戸時代よりも激化したわけだが、そのことはおく。 平成の未来を予見するような暗い低迷の時代を、ひとりの男がどう生きていくか、興味ふかい。 「バブル以前のような経済的な活況は、平成には決してない」 と、堺屋本人は、はっきりと見切っている。この本が文庫本として刊行された平成十年の時点で、堺屋があとがきに書いている。 政治家として、日本経済の建て直しに起用された堺屋は、じぶんの見通した結論にどう対応するのだろうか。 |
『四十七人目の浪士』(池宮彰一郎)を読む。
赤穂浪士のうちで、生き残った寺坂吉右衛門の後半生を描く四本の短編からなっている。 ここで描かれる大石内蔵助は、知謀神のごとく、未来も過去もみとおせるスーパーマンだ。 いざことあらばと、赤穂藩が健在なときから有為の人材に、金をばらまいて生活を助けていた。その金は、赤穂で生産された塩販売の利益から着服したものだ。 さらに、赤穂藩廃絶のどさくさでつくった資金を、大阪の出入り商人にあずけ、吉良邸討ち入りに参加しなかった旧赤穂藩士の面倒をみた。 寺坂吉右衛門は、そうした旧赤穂藩士や、浪士の遺族の安否を気遣って、生涯を旅に明け暮れる。 内蔵助の愛人、お可留の娘、可音を養育するために、盟約をぬけた瀬尾孫左衛門とも再会する。瀬尾は大石家の用人で、内蔵助からたっての依頼で、骨董商人に身をやつして一生をお可留母子の養育にささげていた。 瀬尾は、内蔵助の遺児、可音を大商人に嫁入りさせた。 その嫁入り行列の前に、奥野将監、大野九郎兵衛ら「忠臣蔵」の脱盟者たちが次々と現われて一行に加わる。 かれらは、みな大石の残した資金で新しい生活を踏み出していた。それを感謝するために、やってきた。 ――という具合に、いい話なのだ。 池宮の夢物語に、すなおに感動するのが、時代小説を読む<お約束>だろう。 時代小説だから、いちいちこと挙げするのは、野暮のきわみ。 涙腺うるうるさせれば、いいことだ。 時代小説としては、骨格がしっかりしているから、文句をつける筋合いはない。 このひとほど、骨太の時代ものをかくひとはそういない。 だから、これでいいのだ。(と、自分に言い聞かせる) しかし、どうにも、こういう夢物語につきあうと、お茶と口直しの塩菓子がほしくなる。 史実を、わずかな人間の策謀だったとする「陰謀史観」は、すかない。 大石内蔵助を、「デウス・エクス・マキナ」にしたてて、どうするのだろう。 旧藩が崩壊したあとをそれなりに懸命に生き延びたであろう現実の藩士たちに失礼になりはしないかと、頭の悪いわたしはおもってしまう。 純然たるフィクションであっても、逆境のなかで前向きに生きる<男>の物語が好きだ。 堺屋太一の忠臣蔵後日譚、『俯きかげんの男の肖像』を読むことにする。 ついでに、いっきに『峠の群像』まで読み返すか。 最後まで読んだら、この本の評価が逆転してしまった。 前日の日記にかいたことは、訂正しよう。 さきばしって書くものではないと、反省する。 |
『幻色江戸こよみ』(宮部みゆき)と、『その日の吉良上野介』(池宮彰一郎)を読む。
宮部みゆきは、時代もので見直した。 わたしは、長年のあいだ海外SF原書読み派・宇宙SF分科会という絶滅危惧種に属していたので、国産のえすえふ・ふぁんたじー系の本には点数がからい。 以前手にとってみた宮部みゆきの現代ものは、題材にそそられなかったので、あんまり面白くなかった。 というより、途中でほうり出した。 だれもが絶賛する『火車』も『クロスファイア』もだめだった。 心優しい宮部ワールドが、理解できなかったようだ。 人非人である。 ちなみに<海外SF原書読み派>は、人非人である。人間よりも、エイリアンが好きだからである。 恋愛もエイリアンとしたいタイプもいる。 宇宙SF好きは、不思議と世捨て人タイプが多い。不思議だ。 だが、現在は、好事家流歴史小説愛好派にコロんだので、宮部みゆきも楽しく読める。 じゅんブンガクも読める。 歳月の流れは、おそろしい。 宮部のストーリーには、いまどき風の「せつない話」が多いとみた。 山本周五郎が同じ設定で書いたら、たぶん二倍から三倍の分量になる。 なぜかは、周五郎ファンなら、わかるはず。 ところで、池宮は話がどうも出来すぎている感じがぬぐえない。 でも、硬派の時代ものだから許す。 フィクションとわりきれば、中味は「おとこのドラマ」だから、ぞんぶんに楽しめる。 正直にいうと、女性的な細やかなはなしよりも、こうした硬派のほうが好きなのだ。 池宮は未読だった『四十七人目の浪士』を買う。 ただひとり生き残った赤穂浪士、寺坂吉右衛門の後半生は読み応えがある。 ところで、古本屋でイスラム関係の新書・文庫本をみつけたので買う。 『イスラーム』(蒲生礼一) 『イスラームのこころ』(黒田壽郎) 『アラビアに魅せられた人びと』(前嶋信次) 蒲生礼一氏の『イスラーム』は、岩波新書でイスラム概説書としては基本ちゅうの基本。 以前から愛読していたが、本がなくなったので、あらためて買っておいた。 故前嶋信次氏は東洋文庫で『千一夜物語』の原典からの翻訳をされていた碩学。 この本はずっと前から捜していた。 黒田壽郎氏の『イスラームのこころ』もそう。 しばらく、イスラム世界にひたってみようかともおもう。 ところで、明日はサーバーの点検で、ここは午後1時から午後5時までアクセスできません。 もし、明日も読んでくれようという親切な方がいらしたら、 明日は午前9時までにアップしますので、よろしくね。 |
昨日は、いがいなことで、日記執筆を止めてしまった。
とにかく、まだ愛機は動いてくれている。 ほっと、安心したところで、昨日の続きにとりかかることにします。 『平家物語』の『第十二巻』の主人公は、平重衡と、義経、そして入水自殺した平維盛の遺児六代御前だ。 奈良焼き討ちで、奈良の僧侶の恨みを買った平重衡は刑死。 義経は、頼朝の刺客「土佐房昌俊」を倒したのもつかのま、再起を期して九州へ逃亡をはかるが、嵐で船団が散り散りとなって、失敗する。 この嵐を、ひとびとは平家の怨霊のしわざと噂した。 とにかく、これが義経の運のつきで、軍事力を失ったために、あとは奥州まで身をやつして逃げるしかなくなる。 頼朝は義経追討の院宣を手にする。 『平家物語』で語られるのはここまでで、義経のことは、あとはいっさい出てこない。 前のふたりよりも断然比重が大きいのが、六代御前だ。 御前というけれど、読んでみると、男であった。だから、生命を狙われることになる。 十二歳で父の死にあった六代御前は、あやうく生命をひろう。 頼朝挙兵をすすめたあの文覚上人が命乞いしてくれたからだ。 だが、三十歳になったとき、文覚上人が政争に巻き込まれて、隠岐に流刑になったとばっちりで、斬首された。 六代御前は、十六歳で出家して、文覚上人の弟子となっていたからだ。 そのとき、頼朝はすでに没していたから、とりなしてくれる存在もいなかった。 とはいえ、一度は捨てた生命を十八年も生き延びたわけだから、運命というべきだろう。 『平家物語』の末尾、『潅頂の巻』は、後白河法皇と建礼門院の再会の場面だ。 建礼門院は清盛の娘。後白河法皇の息子、高倉天皇の中宮で、安徳天皇の母。 壇の浦で入水自殺したところを助けられ、出家して露命をつないでいた。 文治二年(1185)4月20日ころ、後白河法皇が大原寂光院の建礼門院のもとをお忍びで訪ねる。 天皇の母である「国母」であった身が、いまや実の妹たちおかげで、やっと暮らしている身の上である。妹たちは、それぞれ公卿の夫人となっていて、姉の生活を面倒みていた。 建礼門院は、平家の栄耀栄華から、義仲の入京、一の谷の合戦、逃亡中の船上生活、壇の浦の一族滅亡までを、仏教でいう天人・人間・修羅・餓鬼・地獄になぞらえて嘆く。 輪廻転生しながら、ひとが体験する世界を、生きながら巡ったという嘆きだ。 仏教でいう「六道」には、あと「畜生」がはいるのだが、「平家物語」の作者は直截に明言することをさけた。 建礼門院の夢に、平家の亡魂があらわれて、壇の浦の海底で「龍神」として生まれ変わった苦しみを告げ、供養を頼んだということが語られて、平家のひとびとが畜生道に落ちて、「六道めぐり」の輪が完成したことを暗示するにとどめている。 建礼門院の嘆きをきいた後白河法皇は、 「かの三蔵法師は悟りを開くまえに、六道をみた。日本でも、日蔵上人も蔵王権現のおかげで六道を見ることができた。あなたは『まのあたり御覧ぜられけることこそ、有り難う候へ』」 と、言ってのけた。 「有り難し」という単語には、(1)「めったにない」(2)「なしがたい」(3)「生き難い」という意味があり、(1)から転じた(イ)「めったにない」(ロ)「珍重すべきだ」(ハ)「尊い、もったいない」という「意味」もある。 この場合は、どれだろう。 前後の文脈を考えると、つぎの二つのどちらか、あるいは両方としかおもえない。 (A)「そんな体験をするのは、珍しい」 (B)「聖人と同じ体験ができるとは、尊いことだ」 「貴人の情なし」というけれど、出家した身としては、三蔵法師や日蔵上人の体験を実地に味わったことを、同じ僧侶として本気で羨ましがっているとおもえてならない。 後白河法皇は、「今様」というジャンルを集大成した大芸術家でもある。 ふつうの人の神経は、もっていない―― などと、考えるのはうがちすぎか。 このことは、宿題として、しばらくおいておこう。 『平家物語』は、建礼門院の死と、最期まで女院につかえた元女官たちの死の仄聞で終っている。 後白河法皇が大原を訪ねた御幸から、二十年から四十年ほどして、建礼門院は没する。 その没年は、1202年(48歳)、1213年(58歳)、1223年(68歳)と諸説があり、わからない。 そのあいだの生活の暮しぶりは、ひどく窮迫したものだったに違いない。 皇族だからといって、権力者でないかぎり、だれもかえりみない。 もっと古い時代でも、れっきとした皇孫が遊女になったこともある。 生き残った女官たちは、係累をすべてなくして、女院の庵にひっそり身を寄せ合って、平家の菩提をとむらいつつ暮らした。 彼女たちが暮しをどうたてたかについては、『平家物語』は語っていない。 女院の傍にいられたのは、それでも阿波内侍や大納言佐局という高級女官だけだ。 その他の女官たちは、尼となったり、庶民の身分に落ちぶれたり、谷の底、岩のはざまに暮らしたという。 この時代、身寄りをうしなった女官たちが、どうなったかは、かんたんに想像がつく。 京都の「大原女」は、阿波内侍が薪売りをした姿を真似たと伝えられている。 |
『平家物語 潅頂の巻』を読み終わる。
これをもって、『平家物語』全巻の終り。 それにしても長くかかった。 今年の三月くらいに本を買ってから、一時中断して、八月からじっくり読み出した。 『平家物語』は『大鏡』よりも読みにくい――というのが、実感だ。 事件が複雑だし、背景の社会・経済的なものまで読み取っていかないと、ストーリーを把握することさえむずかしい。単純な『大鏡』などとは、構成からして違う。 と、ここまで書いていたら、停電した。 あとで、狭山市に自衛隊機が落ちたことが報道された。 そのときに、電線がきれたとか。 東京じゅうが停電だったのだなと、驚く。 マシンのチェックをしたので、時間がかかった。 本日はここまで。 ハードディスクがとんでいなかったので、ほっとする。 ああ、心臓に悪い。 |
『平家物語』は、ついに壇の浦で平家滅亡まで読み進む。
やっとここまで来たか――と、おもう。 那須与一が扇を射落とした一件も、興じて船上で踊り出した平家の武者を射殺したことから一転して血なまぐさいものにかわる。 射殺すように命じたのは義経の命令だが、源氏でさえ、その命令に反感をもつものがいたことをさりげなくほのめかしてある。 とにかく、このあたりは義経の独擅場だ。 義経を道連れにしようと追いすがる平家の猛将能登守教経を、船から船へ跳んで逃げまくる。 逃げまくって、褒められるひとも少ないが、義経は当時としては常識破壊的な作戦と、非力をおぎなう逃げ足の速さで、日本人のヒーローとなる。 夜討ちにあたっては、民家や山林を焼き払い、船を漕ぐ非戦闘員の水夫(ほとんどは、ただの漁師)を射殺させる。 戦国時代の大量虐殺者、織田信長と同じで、「愛民」の思想が根本的に欠けている。 ひどい話だが、戦争だから仕方がない――と、日本文芸史上では褒め称えられる。 軍事戦略の革新者として、賞賛される。 つまらないことである。 追いつめられた平家の将軍たちは、鎧に船の錨を巻きつけて次々と入水自殺する。 猛将教経も、源氏の武者ふたりを道連れに海底に沈む。 このひとは、男っぽくていい。 『平家物語』のヒーローは、このひと、平教経だと勝手にきめる。 平家を滅ぼしてしまえば、戦争が上手いだけの破壊者義経に用はない。 頼朝は、義経を抹殺するために次々と手を打つ。 義経は地方武士たちの生き残りをかけた功名争いに理解をしめさないので、武士たちからは嫌われて孤立する。 前にも書いたが、命を捨てても功名をたてようというのは、伊達や酔狂ではない。 厳密には名誉欲でさえ、ないのである。なによりも、わずかばかりの土地を所有する権利を鎌倉殿である頼朝に保証してもらうためだ。 そこがわからないまま、部下といっしょに功名争いする義経に、つきあう馬鹿もいない。 義経が<流れ者>から拾いあげて家来にした弁慶以下わずかのものの他は(奥州平泉から来た佐藤兄弟は別にして)、愛想をつかして去ってゆく。 鎌倉まで呼び戻されたが、けっきょく入府は許されず、腰越で詫び状を書く。 ここは大衆歴史小説では泣かせどころだけれど、いままでの行状を考えると、和解は不可能だ。 なまじ戦争がうまくて、政治的な白痴であるだけに、危険この上ない。 新しい秩序の建設者は、当然のなりゆきとして、こうした存在を取り除く。 頼朝が冷酷なだけではなく、政治力学の方程式だから、止むをえない。 見苦しいまでに、命乞いする平家の総大将、平宗盛が息子清宗ともども、斬首されるところで、『平家物語第十一巻』は終る。 あとは、『第十二巻』と『平家物語 潅頂の巻』を残すだけだ。 21日じゅうに読んでしまおう。 ちなみに、わたしが読んでいるのは、講談社文庫の『平家物語 上・下』(校訂者 高橋貞一 )である。 数ある本のなかで、これを選んだ理由は、「補注」の部分に類書よりもはるかに多く、他の資料が引用されているからだ。 平家物語の数多い異本からも、注目すべきテキストが「補注」に収録されているのもいい。 なによりも、異本のひとつ、「覚一本」にある「剣の巻」が「補注」としてまるごと収録されているのが、決めてだった。 日本の宗教やオカルトに興味があるものとしては、小松和彦先生ご推薦の『平家物語 屋代本』にある「剣の巻」が読みたかったのだが、大きな図書館で捜さないとないようだ。 ともかく、文庫本にはいっていた『覚一本 剣の巻』が増補改訂されつづけて、『屋代本 剣の巻』になったという事実で、いまのところは満足している。 昨日、書いたとおり、川越へゆく。 中院、喜多院、仙波東照宮、日枝神社、三芳野神社、川越城本丸跡、市立博物館、駄菓子横丁、蔵つくり資料館、時の鐘といった定番コースを歩く。 ごく近所なのに、なかなか機会がなくて行かなかった。 いまは紅葉が盛りだった。いい季節にいったものだとおもう。 中院、喜多院、仙波東照宮は大あたりだった。 高台にのぼる東照宮は、石段の下からみあげた風情が、京都の寺社をおもわせた。 喜多院、中院の庭も紅葉が美しい。 喜多院の五百羅漢は楽しめた。ぜひ、おすすめ。 釈迦の高弟(16人の羅漢さん)と、その下の弟子(尊者)、それに釈迦仏、脇侍の文殊・勢至菩薩、阿弥陀仏をあわせて、540体の像がきちんと列をなして並んでいる。 羅漢と尊者はまったく区別できない。たぶん、もっと調べれば識別する方法はあるのだろうが。仕方がないので、いっしょに「羅漢さん」と呼んでしまう。 とにかく、羅漢さんは、表情と動作が楽しい。 泣いたり、笑ったり、本を読んだり、巻き物を抱えていたり。 いぜん、京都の嵯峨野でみた羅漢さんとは違った意味で面白かった。 猿を抱きかかえていたり、ネズミを膝においたり、蛇を抱いたり、巻きつけたりする羅漢さんもいる。 これは、インドや日本の<福の神>信仰や、神獣信仰が関係しているのではないかという気がする。 川越は「小江戸」というけれど、ほんものの江戸だった東京都千代田区・中央区・港区なんか(新宿、渋谷は江戸じゃない!)が、関東大震災と東京大空襲(ついでに再開発)のせいで、ちっとも江戸らしくない。 「江戸」の残り香は、東京都の周辺にしかないのかもしれない。 NHKの『街道をゆく』シリーズでみたところ、司馬遼太郎さんは八王子に往時の「江戸」を発見している。 文化財の保護でも、川越はなかなか頑張っている。 上野寛永寺のあたりをいろいろ見学して、あまりにも荒廃した雰囲気に暗然としたことがある。 京都などの寺とは、違いすぎる。 明治政府の江戸文化にたいする憎しみさえ感じた。 それにひきかえ、「街をあげて、郷土の文化を守ろう」という気概が、川越にはある。 こうした誇りは、よそ者からみてさえ気持ちのいいものだ。 川越はいい。すっかり気に入った。 交通の便もいいことがわかったので、また出かけることにする。 |
最初にお詫びです。
昨日の日記はあわててアップしたので、とんでもない誤字をやってしまいました。 たぶん、歴史に詳しいひとは、すぐに気づかれたこととおもいます。 われながら、恥ずかしーっ! 平身低頭して、お詫び申し上げます。m(_ _)m どこが間違ったかは、ご勘弁を。 いっきに信用をなくしそうな大ボケでした。(もともとあるんかい――って云われそう、グッスン(; ;)) 『平家物語』は、いよいよ屋島の合戦へ突入。 一の谷の敗北後、源氏は船がないので、四国へ進撃できない。 京都では三種の神器がないままに、新天皇が即位。 義経はよせばいいのに、後白河法皇から検非違使の位をもらう。 それで、「九郎判官」となるわけだが、頼朝を怒らせていることに気がつかない。 その結果は、ご承知のとおり。 位をもらって、がぜんやる気をだした義経は、頼朝の指令をまたずに後白河法皇から院宣をとって、平家追討の軍を起こす。 おまけに、監察官の梶原景時と船の装備(いわゆる「逆櫓」の争い)でもめる。 このあたり、さりげなく書いてはいるけれど、後年の義経の悲劇の伏線として、緊張状態があますところなく描写されている。 『平家物語』のプロトタイプをつくった作者(信濃前司行長?)は、なかなかただものではない。 この作者は、よほど東国武士に反感を抱いているらしい。 義経が新天皇即位後の儀式、大嘗会にでた姿をこう評している。 「以ってのほかに京慣れたりしかども、平家の中の選り屑よりも猶劣れり」 『平家物語』の義経は、後年ほどには英雄視されていない。 なにせ、『義経記』ができて、義経が国民的ヒーローになるのは、室町時代からのことだから、やむをえない。 ところで、今日は川越に遊びにいきます。(この日記は20日に書いています。) 詳しい話は、明日の日記で。 |
『平家物語』を読む。
いっきに一の谷の決戦を読む。 このへんには、「武蔵の国の住人なにがし」とか、「猪俣、児玉、野井輿、横山、西、綴喜(つづき)、私市(きさいち)」の「党」という固有名詞がやたら出てきて大活躍する。 これは、いまでいえば、群馬、神奈川、埼玉、東京都西部にいた群小の武士たちのことである。 武士とは騎馬に乗る兵(つわもの)のことで、歩兵は戦闘単位には数えられない。せいぜいが輜重兵・看護兵の扱いである。 この程度の武士たちでは、戦闘力である騎兵は、本人を含めて一人から数人ほど。 三浦、鎌倉、秩父、足利といった大豪族は、騎兵が500人以上である。 大豪族では部下の戦功も、リーダーのものとなるから、名の通った武士たちは、先陣争いや大将首に血まなこになったりはしない。 しかし、群小の武士たちは戦功を認められて、自分の所領を、鎌倉にいる頼朝に保証してもらわなければならないから必死だ。 というのも、この時代の武士の所領は、自分のものであって、自分のものでない。 自分が汗水たらして開墾した土地をそのまま自分のものとはせずに、権勢のある貴族に献上して、自分は管理人として現地で土地を守る。 国司の苛斂誅求や、横暴な現地の大豪族から開墾地を守るためには、それしか方法がなかった。 長期政権だった平家に土地の支配権を献上した東国武士も多かった。 このたびの大きな戦いで、政権がかわった場合、新しい支配者である鎌倉殿に<戦功>というかたちで業績をみとめてもらわないと、いまいる自分の土地の名義が、鎌倉殿に味方した武士に間違いなくとられてしまう。戦功がなければ、土地の境界線をめぐって係争中の裁判も、不利にはたらく。 生命が惜しいなどとはいっていられない。 ここで、ひと働きしなかければ、妻子やわずかばかりの家来も路頭に迷う。 関東の群小武士は必死だった。 兄弟ふたりで参戦した河原兄弟は、そうした武士たちだ。 この兄弟は、本人たちの他には騎兵がいない。徒歩の下人たちがいるばかりだ。 兄は一の谷の平家陣営に、ひとり先乗りして、討死を決意する。生き残って、戦功の論功行賞にあづかるようにと、弟に言い聞かせる。 弟は兄だけを死なせるわけにはいかないと、兄といっしょに平家の陣営に躍り込み、無数の矢に射られて死ぬ。 熊谷直実が、平家の公達敦盛の首を討ち取ったのも、そうした戦乱のなかだった。 巨大なリストラと、産業構造変革の怒涛のなかで、必死に生き残りを模索する零細業者の悲哀を感じる。 固有名詞の羅列みたいな、一の谷の合戦の記述をみていると、なんだか泣けてくる。 みんな、必死に生きていたんだ。 たとえようもなく、卑怯でぶざまな戦いをする東国武士。それに引き換え、優雅な戦い振りの西国武士。それは持たざるものの必死さと、豊かさに飽きた徒労感の差かもしれない。 気合いが違う――としか、いまのわたしには思えない。 だが、このあたりはもう少し考えてみたい。 平重衡は、軍船に乗れず、逃げ遅れて自殺しかけたところを捕虜にされた。 奈良を以前に焼き討ちにして、焼け野原にした恨みから、奈良の仏僧の訴えで、最期には斬り殺される。 それでも、平家が持ち去った三種の神器を、自分の生命と引き換えに後白河法皇へ返すように頼んだりと、なんだか情けない。 平維盛にいたっては、屋島に退却した平家の軍からこっそりと抜け出して、高野山に入って出家する。 そして、熊野詣でをしてから、入水自殺をとげる。 高野山にいた滝口入道というのが、それをすすめて、想い迷う維盛に自殺を決行させた。 念仏では、極楽浄土に生まれ変わって、戦死者や生き残った人々の菩提をとむらうということらしい。 のちの時代の一遍のころにも、現世を嫌って宗教的自殺をすすめる念仏はあとを断たなかった。 日蓮が念仏宗を嫌ったのは、念仏宗がもっている死臭ではなかったか。 親鸞の高級な哲学思想と、平安・鎌倉期にあった念仏宗派の現実はまったく違うものだということは、忘れないようにしようと想う。 |
『平家物語』を読む。
義仲が死んだのを好機として、平家は四国の屋島を捨てて、一の谷へ本拠を移す。 その途端に、四国の武士たちが源氏に内通した。船団を率いて、攻め寄せたので、猛将平教経が奮戦して撃退する。 そして、勢いをかって、教経は讃岐の屋島に上陸して、河野氏を攻める。 休むまもなく、教経は九州からやってきた源氏方の武士たちを、備前で撃退する。 平家はこの人ひとりが頑張っている。 そろそろ一の谷、屋島、壇の浦という大詰めだ。 なんとか今月中に読み切るよう、がんばろう! ここ数日、『平家物語』にすっかりはまっているが、 『平安鎌倉史紀行』(宮脇俊三)を並行して読んでいる。 鉄道紀行作家だとばかりおもっていた宮脇さんだが、歴史紀行も書いていることを知った。 かつての史跡が現在どうなっているのか、興味があって、この本を購入した。 後書きを書いている歴史小説家中村彰彦氏によれば、史跡へのアクセス・ガイドとしてはこの本に優るものはないとか。それはそうだろう。旧国鉄全線を踏破した「つわもの」だ。 ちかいうちに、源平関係の史跡をまわろうと計画している。きっと、この本は役立ってくれるに違いない。 それにしても、古い関東武士の史跡は案外乏しいらしい。 武蔵七党という関東武士団に興味があるのだが、かれらの居住地は、いまやベッドタウンや山間の寒村になったり、しているそうだ。開発の犠牲になったり、取り残されたり、無常な世の中だ。 期待したけれど、宮脇さんの本にも、関東武士の史跡はあまり出ていない。 南北朝から戦国時代になると、いろいろあることは知っているのだが――。 ただし、鎌倉や三浦半島あたりだと、まだいろいろあるらしい。 関東北部では平安・鎌倉時代の史跡は、案外とない。 けっきょく、この時代の富は京都と鎌倉に集中された。関東北部が豊かになったのは、江戸時代の商品経済のおかげだから、神社・仏閣もこの時代に改築された。これよりも古い時代の建築様式を保存しているところは少ない。 江戸は、日本史上ではじめて誕生した<関東ユートピア>だったんだなぁ。 平将門の霊に手をあわせる。 |
フランク・ベルナップ・ロングの<Howard Philips Lovecraft -- Dreamer on the nightside>を読了する。
いまどきのホラー好きには、ラブクラフトが読めない人も多いらしい。ホラー作家のほうが、そのことに驚いている。 モダン・ホラーと、クトゥルー神話は違うジャンルなのだろう。 それに、<コズミック・ホラー>というラブクラフトやアルジャーノン・ブラックウッドの作品感覚は、<サイコ・ホラー>とはまったく別物だ。 <サイコ・ホラー>愛好派は、自然との一体感や地域社会の煩わしさとは無縁なベッドタウン出身者だろう。 ラブクラフトの作品は、博物学に通じる自然との共棲感覚や、土俗的な文化(あるいは伝統的な都市文化)にたいする共感がないと親しめない。 突飛なとりあわせだけど、宮沢賢治が好きなひとはラブクラフトを面白く読める気がする。宮沢賢治の幻視感覚と、ラブクラフトのそれは案外近い。 ところで、『平家物語』は木曽義仲の戦死まで読み進む。 屋島に拠点をおいた平家は、九州・中国・四国地方に勢力を築き、水島合戦に勝利して、再起をうかがう。 木曽義仲は、征夷大将軍となり、やがて後白河法皇と対立。 かつて藤原道長の邸宅だった法性寺殿を、後白河法皇は御所としていたが、義仲の軍勢に焼き討ちされる。 後白河法皇は、比叡山延暦寺座主明雲大僧正と三井寺長吏円慶法親王を味方にして、僧兵を引き連れて防衛にあたらせたが、明雲大僧正も円慶法親王も弓で射殺されて、さらし首にされた。 天台座主とは、この時代の宗教界の帝王。三井寺の長吏とは、この寺の最高権力者である。 妙な喩えだが、現代におきかえてみれば、ローマ法王と、イランあたりのイスラム教最高指導者を、一般兵士が自動小銃で銃殺したようなものだ。 源三位頼政と以仁王が平家追討の軍をあげたとき、以仁王に組した三井寺の僧兵は平家の武士にさんざんに敗北させられた。 このあたりから、密教僧の呪力に対する畏れがなくなったらしい。 さらにいえば、古代では上級貴族には強大な呪術力があると、信じられていた。だから、同じ貴族であっても、身分の低い貴族が摂関家につらなる上級貴族に怪我をさせれば、神罰がくだると畏れ憚るのが、社会通念だった。 だから、天皇家や摂関家の血を引く円慶法親王や明雲大僧正を、ただの武士が射殺すことなど、二百五十年ほど昔であれば、たとえ平将門や藤原純友であっても、考えられないことだった。 この事件は、貴種に対する呪術的信仰や、密教のような神秘的呪力に対する畏れが、政治・軍事の世界から消え失せたことを見事なまでに象徴している。 木曽義仲は、古代を破壊した変革者の役割を演じてしまった。 この国では、変革者は喜ばれない。 義仲の最期にいたる描写には、作者の反感が色濃く感じられる。部下たちの奮戦はよく描かれているが、義仲は精彩をかく優柔不断な男にしかみえない。 木曽義仲の軍勢は、義経の追討軍にあっさり敗北する。権力争いで分裂していたうえに、逃亡して故郷へかえる兵士が後を断たなかったためだ。軍勢の数が違うから、勝負にならない。 義仲は逃亡中に、泥田に馬の脚をとられて身動きができなくなったところを、雑兵の手で首をとられた。 ところで、義仲の愛人、巴御前は義仲の乳母の娘。女ではあるが、乗馬と膂力にすぐれ、義仲の戦には武者として従軍して大活躍した。 最後の戦いで、死期を悟った義仲にさとされて、故郷に帰る。 のちに、鎌倉の有力御家人、和田義盛の妻となる。息子も生まれた。 ただし、夫と息子は、北条氏の陰謀によって滅ぼされる。 巴はその後も生きて、九十歳で大往生したとか。 この時代の「おんな」は、たくましく、強い――そして、何よりも毅然として美しい。 おそらく、日本の「おんな」がいちばん美しかったのは、この時代ではないか。 |
『ラブクラフト伝』を読む。
かの怪奇幻想作家が愛読していた作家たちを紹介してあったが、「怪奇幻想文学」という看板をはずしてみれば、みんな古臭い文体を偏愛した群小作家ばかりだ。 ラブクラフトが通常の意味の小説家としては二流だったのは、ディッケンズを評価していないことでもわかる。 おそらく物語作者としては、世界的にも第一流だったディッケンズの真価がわからないのは、作家としては致命的だ。 書き手としては、紛れもないパルプ作家にすぎない。 たぐいまれな幻視能力に比べて、表現力に問題があるのは、このひとの欠点だ。 とはいえ、このひとが持っていた宇宙的な幻視能力を考えれば、ヘボな物語などなんでもない。 ただ小説がうまいだけの作家よりも、百倍も楽しめる。 わたし自身、上手な小説作家の作品を面白いとおもったことはない。 退屈になって、ほうり出してしまう。 文章も大切だし、読者に娯楽を提供することはなによりも重要だけれど、中味が化学添加物まみれの、できあいコンビニ弁当だったりすると、見た目にきれいで、そこそこ食えたとしてもゲーッとなる。 畑からぬいてきたばかりの無農薬大根を水洗いして齧ったほうが、よっぽどいい。 インスタント・ラーメンと、屑肉ハンバーグになれてしまった舌とは、一線を画したいとおもう。 誤解されないように、書いておくが、 悪口を書いているようにみえても、わたしはラブクラフトが大好きなのである。 宇宙的な想像力(コズミック・イマジネーション)に恵まれたオラフ・ステープルドン、ラブクラフト、A・C・クラークといった作家が、なによりも好きだ。 ところで、『平家物語』も佳境に入った。 木曽義仲が都に入って、平家は都落ちする。 いま読み終わったのは、『猫間』の巻。 「猫間中納言」という冗談のような名前の公家が、粗野な義仲の振る舞いに辟易する場面だ。 「猫間」とは地名で、この藤原氏出身の中納言はそこに住んでいたので、このように呼ばれたという。 そこは、のちに新選組の屯所になった「壬生」のあたりだ。 壬生はそのころ北猫間と南猫間というふうに分割されて、呼ばれていたらしい。 このくだりを『平家物語』の作者の筆をすなおに信じて読むと、義仲が粗野で馬鹿で、いやな奴にしか思えない。 しかし、これは、あくまでも武士に財政的基盤を奪われて没落した公家である作者の視点だ。 「ぶぶづけ」で象徴される排他的、かつ「いけず」な京都人が、1000年前の嘘を信じて得意になるのはまだしも、他の都道府県のひとは騙されてはいけない。とくに、木曽義仲の出身地である長野県の人は。 後世の目から見ると、義仲は気さくないいひとだ。 猫間どのが辟易したのは、義仲にひどい食事を強制されたから。 評判の悪い食事というのは、てんこ盛りの白米に、おかず三品、茸の汁もの。 当時の京都は大飢饉の最中であり、中納言程度であっても飯には不足していたらしい。 それを気の毒がって、せいいっぱいのご馳走を出したのだが、器が木曽からもってきた田舎風の大ぶりのものだったので、気位の高い貧乏貴族の「猫間どの」は手がつけられなかった。 ちまちました京風の食器でなければ、食う気がしなかったのだろう。 女性的に熟(な)れた文化にどっぷり浸ってきたので、義仲が気さくに話しかけた言葉にさえ、不快がる。 「猫間どのは小食だな。猫が飯を残すようなことは止しにして、さあさあ、どしどし食いなされ」 という義仲の言葉は、どうみても強圧的というより好意的で、坂東武者独特の男性的なユーモアさえ感じさせるが、いけずな京都人の大先祖には通用しなかったようだ。 ところで、『平家物語』では、憎んでもあまりあるはずの義仲を「色白う見目は好き男にてありける」と書いている。 敵がそう書くからには、よほど美男子だったのだろう。 頼朝などは、「顔大(おお)きにして背短(ひき)かり」なんて書かれているくらいだ。 もう少し後の時代に生まれていたら、織田信長みたいに颯爽とした青年武将として人気を博したに違いない。 |
『ラブクラフト伝』を読む。
のちのクトゥール神話の創設者も、ニューヨークでは就職に苦労したようだ。 もともと、ビジネスの世界には縁遠いから、就職申込の手紙にもはかばかしい返事はもらえない。 生活設計もできないから、結婚にも不協和音がでてくる。 けっきょく、故郷にいたころのように、アマチュア作家の作品を手直ししたり、代作したりするくらいしか、金を儲ける手段が思い付かない。 これは、いまでいえば、売れない作家が「小説の書き方セミナー」をカルチャー・センターでやるようなものかもしれない。 変な商売だと思ってはいたけれど、あんがい新しいじゃないかと、感心したりする。 少なくとも、この「通信教育講座」(?)のおかげで伝記本作者のロングや、オーガスト・ダレスみたいなプロのホラー作家も出たわけだから、宮部みゆき氏や鈴木輝一郎氏を育てた「ミステリー実作教室」の作家先生(名前を失念してしまった……)ほどには、ラブクラフト直伝・通信講座「小説の書き方/代作もうけたまわります」(仮題?)も役にたったことになる。 ただし、なんといっても、いちばんの功績は、H・P・ラブクラフトその人に飯の種をあげたことに違いない……。 NHKにて、ドキュメンタリー『イスラム潮流』をみる。 イスラムのエネルギーは凄いと、改めて驚く。 アメリカでも、中近東からの移民のほかに、新しいイスラム教徒が次々と誕生している。黒人たちがイスラム教に入信・改宗しているからだ。 「カシアス・クレイ」がイスラム教に改宗して、「モハメッド・アリ」になった頃から、黒人層のイスラム化は問題となっていた。 「ブラック・パンサー」のような黒人過激派も、イスラム教徒だった。 ゴスペルのような独自の文化をもつ「キリスト教徒」は別にして、スラム街で家族や地域社会の社会規範をもてずに育った世代が、倫理とこころのよりどころをイスラム教に求めるのは当然だ。しかも、アフリカ系アメリカ人を自称するひとびとにとっては、アフリカの普遍宗教ともいうべきイスラム教は、民族自立という好ましい匂いがする。 いっぽうでは、アメリカのような激しい競争社会で「負け組」になってしまったら、なかなか浮かび上がれない現実がある。 アメリカ主導の「グローバル・スタンダード」経済は、ワールド・ワイドで「負け組」を量産している。 「負け組」になった人々には、もう寄ってたつ基盤がなにもない。 共産主義は破綻してしまった。 暴力と狂信的な宗教にしか、自分の存在価値を見出せない。 旧ソ連のイスラム独立運動といい、中近東のイスラム原理主義、インドネシアのイスラム暴動も、根底にあるのは、「グローバル・スタンダード」の金融市場主義による地域経済の劫掠と破壊だ。 イスラムは「持たざるものの武器」として、なおも世界に流血と硝煙を撒き散らし続けるだろう。 イスラム教徒であっても、武装闘争をとどめようとすれば、暗殺・虐殺は免れない。 それを考えると、インドネシアなどはますます大変だ。 |
なんだか、めでたいなぁ。
「こおりん」さんには、赤ちゃんが生まれるし、「とも」くんは結婚するし。 「ぼこさん」も2人目が生まれたという。 このあたり、カンゼンに私信モードなので、分っている人だけ、わかってください。むふふっ。(^^) ところで、いまどき本を読む人が泣かされるのがスペースの問題。 うちなどは理解のあるほうだけれども、それでも時々もめる。 「床が抜けそうだから、なんとかして!」 そんなことを云われても、処分できる本は整理しているのだし、雑誌は極力捨てている。 しかし、本については「処分に追いつく空間(スペース)なし」という自分流格言そのままに、駄目である。 捨てる本よりも、買う本のほうが多い。 これでも自称、歴史小説家なので、資料になりそうな本は古本屋でゴミみたいに扱われていても買う。次々とため込む。 ――減るわけがない。 古書には汚れたり、傷んだりした本が多いけれど、いまの日本の出版事情を考えると、いったん手放したら、次に手に入るかどうか不安だ。 だから、古紙集積場みたいになってしまう。 ぴかぴかの新刊本とは臭いも色合いも異質だから、奇麗好きなひとの神経に触るのはわかるのだけれど。 でも、しようがないやね。 いつか元をとるんだと、言い張ってガンバルことにしましょう。 というわけで、ひさしぶりに家じゅうの本の整理にとりかかったので、読書はできず。 また明日から、元気に読むことにします。 |
天皇在位10周年記念の式典。
反対デモがかなりあるかとおもったが、ごく小人数で局地的に行なわれただけだった。 このあたり、昭和とはひどく違う。なにはともあれ、<平成>である。 「激動!」という字面が似合わない、「まったり、まったり」したムードだ。 これも現天皇の「帝徳」なのかもしれない。 しばらく真面目な本を読みすぎていた感じがあるので、しばらく英語の本でも読もうとおもう。 前に読み出したきり、ほっておいた Frank Belknap Long の『ラブクラフト伝』を読み出す。 いま読んでいるのは、ラブクラフトがニューヨークでごく短い結婚をしていた頃である。 お相手は子連れの未亡人であった。 ついでに、ジョン・アーヴィングの<Setting free the bear>を取り出して読み出す。 これは邦訳がある。ただし、アーヴィングは翻訳よりも、原書のほうが圧倒的に面白い。 『ガープの世界』の翻訳は、絶望的にすごかった。もちろん、悪い意味である。 原書で笑えたぶん、翻訳では泣かされた。これは皮肉である。 本棚には読もうとおもっているうちに、次第に埋もれて忘れ去られた原書がかなり眠っている。 発掘して、供養してあげないと、<付喪神>となって化けてでるかもしれない。 ナモアミダバー(南無阿弥陀仏) |
平成11年11月11日ということで、各地でいろいろな行事があった。
(これでもいちおう日記なので、自分のためにメモっておくことにします。) 浅草では、「二代目ぴん助」さんという「かっぽれ踊り」の女家元が名前の「ピン」にちなんで、この日を「かっぽれの日」に決定。浴衣に草履履きの中年女性のお弟子さんたちをひきつれて、パフォーマンスをしていた。 「かっぽれ」は大阪の住吉神社を発祥の地とする大道芸だった。江戸にきて、お座敷芸になったらしい。 家元さんは、「かっぽれ」を大道芸の原点に戻して復興したいとか。 元気な中年のおばさんのエネルギーを感じる。このエネルギーは良質だ。 横須賀線が開通111年の記念行事をおこなった。 もともと軍港だった横須賀に軍事物資を運ぶためにつくられた路線だったとか。 わざわざ「111系」という電車車両を特別に用意した。車両番号は、1111番だったようにおもう。 現横須賀市長が開通当時の駅長の格好をして、一日駅長をした。 北海道では、今年最期のSL「すずらん」号が走った。 路線は留萌線だった。 記憶に間違いがなければ、このSL列車はNHK朝の連続ドラマ「すずらん」の人気に便乗して、JR北海道が臨時に走らせていたものだ。 「すずらん」がなつかしい。 <Return of Happiness> (幸福の再来) この言葉で、主題歌と日高萌(子役&娘役のほう。倍賞千恵子さんではない……)ちゃんの顔を思い出すのは、かなりはまった人だけか。(^o^) そういえば、連ドラ『あすか』も、主役が子役から大人へ変わった。 こっちのほうは、どうでもよろしい。 藤岡弘さえ出ていれば、嬉しい。 それにしても、このドラマでみるかぎり、京都のひとは「いけず」である。 ドラマでも、「ぶぶづけでもいかがどす」という殺し文句が出てきたっけ。 ところで、『日蓮』を読み終わる。 日蓮の思想によれば、いまは「末法」の時代だ。 日蓮が生きていた時代は、ひとの利己心が強くなり、互いに合い争う「闘諍堅固」(とうじょうけんご)という時代である。 宗教があっても、実践の方法である「行」もなければ、悟りの結果を身につける「証」もない時代だ。 人々の頭脳だけは鋭くなり、闘争の激しさはいやますばかり。 これは「末法万年」といって、永遠に続くらしい。 日本史でならったひともいるだろうが、釈迦の没後1000年は「正法」といって正しい仏法が伝わるが、のちの1000年は「像法」といって精神が空洞化した時代。その後に仏法が滅び去った「末法」がくるとされている。 出所は、「大集経」というお経だが、平安時代には国民的常識となった。 末法のはじめの500年は、「闘諍堅固、白法隠没」といって、仏法が滅び去る時期だが、その500年が過ぎてしまうとどうなるかは、わたしの知る限りは、書いていないようだ。 日本では「闘諍堅固、白法隠没」に突入したのは、1052年という説が有力だ。(1025年という説もある。) この500年間が終ったのが、1552年ということになる。 日本でいえば、織田信長が桶狭間で勝利したのが、1560年。 ヨーロッパでは、ルターの宗教改革が始まったのが、1519年。 くしくも、日本史と世界史での近代がはじまった時代でもある。 ひるがえって考えてみれば、1052年という時代は日本でいえば前九年の役(1051年〜1062年)がすでに始まっていて、ヨーロッパでは東西キリスト教会が最終的に分裂した年(1054年)に近い。 日本においては「武士」という中世・近世の主役が登場して、ヨーロッパは地中海世界と縁を切って独自の歩みをはじめた時期でもある。 日本やヨーロッパが独自の歴史をはじめた本格的な中世が開幕したわけだ。 末法時代の最初の500年間とは、少なくとも日本とヨーロッパの歴史的カレンダーにあっては、「中世」に相当する。 末法時代の末が、「近代」にあたる。 経典の予言があたったというつもりはないが、なかなか面白い事実だとおもう。 |
東京芸術劇場の久石譲コンサートへいってきた。
ジブリ・アニメや、北野映画の映画音楽ばかりかとおもったら、オリジナルの新作がいっぱいあって楽しめた。 意外なことに、久石氏はタンゴが好きらしい。 <Tango X.T.C>という自作もあるし、『太陽がいっぱい』をタンゴ風にアレンジして演奏していた。 幕間でコーヒーを飲んだ。ビールも、ワインもウイスキーもあるのだが、事情があって、酒がのめないので、仕方がない。(肝臓さん、ながいあいだ苦労かけたね……(泣)) みると、テーブルの上に、ここで売っているワインの説明書きがある。 それによると、ここのワインはオーストリア直送の「ホイリゲ」だった。 これはボジョレー・ヌーボーみたいな当年もののワインで、オーストリアのウィーン郊外にたくさんあるワイン居酒屋の名前でもある。 ただし、説明書きには「ホイリガー」とあったが、現地ではどっちの云いかたでもいいようだ。 冷たい白ワインのグラスをみると、飲みたくなったが、ここは我慢する。 だが、けっきょく後で遅い夕食といっしょに白ワインを飲んでしまった。反省する。 アンコールで、『もののけ姫』のテーマ曲を久石氏(ピアノ)とバイオリン奏者アレクサンダー・バラネスク氏のデュエットでやったが、じつに良かった。 アンコールのラストは、『紅の豚』の曲<Madness>だった。熱が入った演奏だった。 ということで、時間がとれずに、<イスラム神秘主義>の読書はお休み。 そのかわりに『日蓮 その生涯と思想』(久保田正文)を読む。 平安末期から鎌倉時代の日本人の猛々しさは、歴史上例がない。 いまののんびりした日本人からみると、種が違うのではないかという気さえする。 戦国時代という乱世でさえ、この時代の日本人からみれば、よほど気性が穏やかだ。 日蓮や親鸞、法然が迫害された理由として、仏教界による反発だけではなく、法律による支配が有名無実であり、「力だけが正義」という無秩序な社会情勢が大きい。 室町時代や戦国時代と違って、農民や地侍が自分たちの秩序を形づくっていなかったので、リンチや私闘がはびこっていた。 その時代のありようを考えてみれば、日蓮があのように強烈な宗教をつくったのも無理はない。 知識人このみの、無抵抗主義ではどうにもならない時代だった。 このあたりの事情は、じつは念仏宗であれ、禅宗であれ、たいしてかわらない。 やはり、日蓮は傑出した宗教者であった。 日蓮の偉さは、漁民や商工業者、運送業者といった当時としては、ほとんど人外の境地におかれていた人々に「あなたたちの生活は間違っていない」とメッセージを発したことにある。 日蓮の流れを汲む宗派は、貴族仏教の末裔や、京都のお公家さんと手を組んだ他の仏教諸派と違って、どことなく汗臭く、泥臭く、それでいて、力強い。 御会式という、日蓮宗系のお祭はまことにそのとおりで、地霊が大地に躍っている感じさえする。 関東の大地の霊をよびだしたような、男くささが日蓮の魅力だろう。 日蓮は立派な人だとはよくわかったが、その末流はどうしたことだろう。 「永住外国人」に「地方参政権」を与えるという国家の枠組みを揺るがす大きな問題を、ごり押しで決めてしまおうというほど思い上がってしまった。 大事な問題だけれども、あんまり国民は関心をもっていないようだから、やってしまえということか。 どうもよくわからない。 もしかしたら、「永住外国人」に某政党の支持基盤である某教団の信者がおおぜいるからではないかと、勘ぐりたくなる。「一党支配は地方から」の布石だろうか。まさか……と思いたい。 |
ふたたび『イスラムの神秘主義』(R・A・ニコルソン)を読む。
スーフィーズムは、念仏に似ている。 「ズイクル」とは念仏のように、コーランの聖句やアッラーの御名をとなえ続ける行だ。ズイクルはイスラム神秘主義者(スーフィー)にとっては、欠かせない。 インドのヨーガ行者の調息法という呼吸方法も、とりいれて、スーフィーたちはズイクルをおこなう。それは「ファナー(消滅)」というトランス状態にはいるためだ。 禅宗の座禅とは、この意味でも似ている。 しかも、スーフィーたちは、ズイクルにおいて、数珠を使用する。これは、大乗仏教のやり方を取り入れたものだ。 スーフィーズムが発展した東ペルシアや、パキスタン、アフガニスタンのあたりは、大乗仏教が広まっていた場所でもある。 イスラム神秘主義と大乗仏教は、形として似ているだけではなく、もっと深い意味で交流があったとおもうほうが自然だろう。 さらにいえば、大乗仏教でも、法華経を作った信徒グループには、キリスト教との交流が指摘されている。菩薩という信仰者のありようが、インド的というよりは、キリスト教信者の理想像に近いからだ。ちなみに、法華経が成立したのも、パキスタンやインド北部だったらしい。 こうやってみると、世界の三大宗教は案外近しいものだといえる。 ちなみに、イランでは19世紀にキリスト教の影響をうけて、バハーイ教という新宗教が誕生した。 これは、穏健平和主義を旗印にした社会改革をとなえたが、イラン革命では大弾圧を受けた。 成立を考えてみれば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はかなり血の濃厚な親戚みたいなものだが、一緒に生活するのはかえって難しいのかもしれない。 |
『ギボン自叙伝』を読む。
『ローマ帝国衰亡史』を書いたギボンの自伝である。 この大著はアメリカ独立の四年前(1772年)に書き始められて、アメリカ憲法が制定された年(1787年)に完成した。 日本でいえば、ちょうど田沼意次が老中となった年から、松平定信が寛政の改革を始めた年にまたがる。 もっといえば、池波正太郎さんの『剣客商売』と同時代だ。 ギボンは青年時代をフランスのローザンヌで過ごした。おかげで、フランスが達者になり、処女作はフランス語で書き上げた。 ローザンヌで引退生活を送っていたフランスの哲学者ヴォルテールとも親交があった。 とにかく、この時代のひとはラテン語ができた。 ギボンにとって、ラテン語は第二の母語であるフランス語よりも近しい言葉だった。江戸時代のひとにとって、漢文が近しいものだったように。 ローザンヌでギボンは16歳から21歳まで暮らした。 その間に、驚くべきことだが、ローマの創成期から帝国滅亡にいたるまで、当時手にできたラテン語の古典をすべて読破する計画をたてた。そして、みごとになしとげた。 読破にとりかかってから、達成するまで、二年と三ヶ月かかった。 ギボンがローザンヌにいったのは、オックスフォード大学を退学になったからだ。 ひとつには、田舎で気ままに勉強してきたので、頑迷な大学の教育が肌にあわず、学業をなまけたこと。 そして、もうひとつは、カトリックに改宗したことだ。 大学に対する反抗心が、英国国教会への反感へ姿をかえた。 父は怒ると同時に知人に相談して、外国へ息子を送った。結果的には、それがよかった。 もともと政治家で国会議員をつとめた父は、夢にもおもわなかっただろうが、後年の大歴史家が誕生する基盤はこの地で作られた。 ギボンがオックスフォード大学に入学したのは、15歳だった。 中等教育がなかった当時、家庭教師に教育された上流階級の子どもは、この年齢で大学に進学した。べつにギボンが天才だったわけではない。 その後、いっぱしに不良化して落ちこぼれてしまった。 本人に能力がなかったわけではない。 二年ほどで、ローマ時代のラテン語文献をすべて読破するのは、なみの人間にできることではない。 これは、誰に命じられたわけでもなく、ギボンが好きではじめたことだ。 ギボンの生涯は、いまもむかしも、学校などというものは、ほんとうにやる気のある人間にとって、役にたたないどころか、かえって有害にもなりうるという教訓だ。 こう考えると、不登校も、あんがいいいのではないかという気がする。 |
本は高いか、安いか。
ほとんどのひとは、「本は高い」と思うだろう。 でも、本を使うひとほど、「本ほど安いものはない」と思っているに違いない。 本のありがたさは、普通なら会うことのできない専門家の教えを受けられることにある。 社会的階層ということもあるだろうし、人格的問題ということもある。 世の中には意地の悪い専門家という人種がおびただしく存在する。情報はただではない。 その代価を考えれば、けっして本は高くない。 さらにいえば、無常なこの世では素晴らしいひとはどんどん死んでしまうのである。 もっとも、生涯かけていろいろ研鑚を積み重ねて、いっぱしの人になる頃には死がそこまで迫っている。 それが人間の運命だ。 だから、あいてが死んでいても、教えを乞うことができるのはすばらしい。 人類は言葉と文字によって、DNAとは別の遺伝子を獲得した。DNAはデオキシリボ核酸という壊れやすい化学物質にすぎないが、言葉と文字は不滅である。 たとえ、いったんこの世から消え失せても、エジプト象形文字やシュメール語やバビロニア語のように解読者が現われて蘇る。 有り難いものだ。 ついでにいうと、ものを書く人間で、自腹を切って本を買わない人間、蔵書家でない人間は、信用できない。 貧乏であることはいいわけにならない。 本を買わずにすませる物書きは、不正確にならざるをえない。 手元に本がないと、すぐに事実関係を確かめることは難しい。必要な本はどんに高くても、手元に置いておくべきだ。 そういうことが気にならないひとは、はっきりいって、嘘を書いても平気なひとだ。ひとに迷惑をかけることがあっても、恥じたりはしない。 そういうひとの書いたものは読むに値しない。たとえ、フィクションであっても。 たぶん、そういうひとは創作としてのフィクションと、でたらめの区別を知らないのだとおもう。少なくとも、本物の物書きはそのことだけは知っている。 ところで、インターネットの実力をあらためて知ったのは、「電子化された日本語テキスト」HPである。 ここには、奈良、平安、鎌倉・室町、江戸、明治以降の古典をデジタル化したサイトをリンク集として集めている。テキストでダウンロードすることも可能だ。 「どうして、こんな快挙が……」 と、唖然としてしまう。 「こういうボランティア的な智の交流が、21世紀の特徴となるのだな」 と、あたまを殴られたような感じだ。 入力されたみなさま、ありがとうございます。 そして、ほんとうにご苦労様です。 (「電子化された日本語テキスト」のアドレスは、本HPの「リンク集:国内電子図書館」にあります)
ここに集められた文書のすばらしいところは、「校正未了」とちゃんと断っていることだ。こんな断りをきちんといれているあたりも、入力した人たちが信頼できる読書人・研究者であることの証拠だ。 ところで、イスラムである。 『イスラムの神秘主義』をまだ読んでいる。 イスラム神秘主義者(スーフィー)の精神性は、トマス・ア・ケンピスに通じているなとおもう。 日本人でいえば、法然・親鸞に似ているような気がする。イスラム世界をイメージするときにどうしてもある過酷な感じがない。これは不思議だ。 スーフィーズムは、日本でいえば空海が見直される前の真言密教みたいに、土俗的な旧時代の遺物として、近代イスラム運動(ワッハーブ派)からは徹底的に排撃された。 いまのイスラム教徒にとって、スーフィーズムとは時代おくれの中世思想にすぎない。 この近代イスラム思想のいっぽうの極北が、イスラム原理主義だ。銃声がいつまでも止まないのも仕方がない。 平和なスーフィーズムから離れて現代をみると、西暦2000年がイエス・キリストが育った町ナザレに暗い影を投げかけている。 ナザレには聖母マリアが住んでいて、天使から受胎告知をうけた。その場所にはキリスト教会が立てられている。 ところが、その隣にイスラム教の寺院(モスク)を建設する計画が持ち上がっている。 西暦2000年にローマ法王とおびただしい巡礼者を受け入れる計画であったキリスト教会側は大反対した。 それがこじれたのは、対パレスチナ強硬派ネタニャフ首相がイスラム教徒の票欲しさに、モスクの建設許可を出したからだ。 失脚しかけていたのだから、無理もない。 ジャーナリスト田中宇さんのやっている「国際ニュース解説」というメール・マガジンで、そのあたりを詳しく書いている。 (田中さんのHPのアドレスは、本HPの「リンク集:国内の新聞雑誌」にあります)
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『文章を書くヒント』(外山滋比古)と『『自分の考え』整理法』(鷲田小彌太)を読む。
しばらく、仕事がきつかったので、小難しい読書に逃避していた。 一段落したら、難しい本が読めなくなった。 それで、気分転換することにした。それが、この二冊だ。 しかし、運が好かった。本屋でみつけて、直感でいけるとおもったが、はずれなかった。 この本のおかげで、脳味噌の整理ができた。 わたしは頭が悪いくせに、物知りだ。ひとが読みたがらない古典を読むのが好きだ。 それでいて、最新科学や国際情勢も好きだ。芸能ネタは、もっと好きだったりする。 自他ともに認める「おたく」な専門分野を、いくつもかかえている。 そうした「物知り」の悪い癖は、かかえこんだ情報で、すっかり頭が堅くなることだ。 知識が宿便と化して、柔軟な発想ができない。 まわりの人々からは、バカだと思われているようだ。 とくに、ホンモノのノータリンほど、そう思っているようだ。 そういうわけで、日々本を読みながら、脳不足者(ノータリン)にバカ扱いされる悲しい日々を送っている。 利口な人間にバカと思われるのは、じつは励みになっていいところもある。 しかし、脳不足者にバカとして愚弄されるのは、精神的にかなり負担だ。 そんなとき、自分と同じ考えのひとに会うとほっとする。 外山滋比古の本は、まさにそうで、ここに書かれていることは、少しでも本格的にものを書いた人間なら、「うん、そのとおり」とおもわず膝を叩きたくなることばかりだ。 こういう本には、勇気づけられる。 「ものを書きはじめたら、何があっても中断してはいけない」 外山のこの言葉には、まったく同感だ。 いったん、中断したばかりに「のり」がとまってしまって、調子を取り戻すのに、えらく苦労したことは経験者も多いはず。 ふだんから、ぼんやりと知っていた経験則を、きっちり力強く語ってもらうと嬉しい。 しかし、悲しいかな、忙しさに追われると、自分で発見した経験則さえ忘れてしまう。 鷲田の本は、そうした健忘症に良く利く。 今にしておもうと、内容からいえば、立花隆の『知のソフトウェア』そっくりだった。 鷲田がパクッたわけではなく、頭がいい人間はだいたい同じようなやり方をしているからだ。 (念のために書いておくと、わたしは自分が頭脳優秀だとうぬぼれているわけではない。 ほんとうに頭が良かったら、こういう本は読まないだろうということは、判っている。(;_;)) 「多数の意見は中間。中間にたったら、腐敗とおもえ」 「明晰であるためには、グレーゾーンが要る」 「難しい問題を解決する鍵は、習慣と前例にある」 「いまの困難の原因は、過去の成功にある」 「解決不能な問題を解決しようとするのは罪悪だ」 という逆説の海の中で、ひとはかえって生き生きと活力を蘇らせることができる。 あしたから、元気よく小難しい本を読むことにする。 |
『イスラムの神秘主義』(R・A・ニコルソン)を読む。
昨日の二冊と、これを並行して読んでいる。 イスラム神秘主義は、スーフィーズムというのだが、かれらの宗教指導者は禅宗の語録のような形で教えを残した。 <スーフィー>とはもともと「毛皮を着た者」ということで、宗教的苦行者を意味する。 スーフィーズムは形態でいえば、不立文字の禅宗とよく似ているところがある。 トルコの旋回舞踏で有名なメヴレヴィー教団も、スーフィーズムを奉じている。 その開祖が、最大のスーフィー、ルーミー(1207-73)だ。 大昔、大学生だったころ、西洋史を学んでいたが、そのじつイスラム世界にのめりこんでいた。 というのも、ギリシアに生まれたヘレニズム文明の流れが、ローマ文明をつうじて、イスラム教そのものの根幹になっていること。またヨーロッパ世界が受け継いだと自称しているよりも、イスラム思想のほうにヘレニズム文明が大量になだれこんでいるということが、わかったからだ。 誤解を恐れずいえば、 「ギリシア文明の正統な伝承者は、イスラムなんだ!」 と、おもっている。 わたしは、じつはどうしようもないほど、ギリシア世界が好きだ。マニアといってもいい。 それと、もうひとつわかったのは、近代までのヨーロッパは、政治史や経済史の分野でも、イスラム世界の風下にあったことだ。 大学時代、やむなくヨーロッパ中世史を学んだが、その結果、ヨーロッパ中世がイスラム世界の知的薫陶でほそぼそと生きていたことが、よくわかった。 こんなことは、いまどき大学で西洋史を学んだひとには常識以前のことなのではあるが…… とにかく、わたしが大学生だったころは、イスラムの知的遺産が日本の読書界にあきらかにされた時代だった。 さらにいえば、フランス歴史学がいちばん輝いていた時代で、中世史の見方が100パーセント変わった時代でもある。 いまの歴史教科書はどうかしらないが、いまから6年くらいまでに高校で日本史・世界史を履修したひとは気の毒だ。 あの内容は、最新の学界では流行らないカスみたいなものだったのである。 まあ、そんなことはどうでもよろしい。 ところで、ユーラシア大陸でいまだに生活共同体のバックボーンとして生きている宗教があるとすれば、それはイスラム教だけではないだろうか。 旧ソ連や、中近東でイスラム原理主義が暴れまわっていることは、どうしようもない事実だ。しかし、たとえば、貧者への相互扶助が喜捨(ザハート)というかたちで、政府に頼らずに、庶民レベルでおこなわれている。 日本などが真似している近代市民社会がめざしたものとは違う、民衆レベルの社会的安定装置が存在する社会。 ナチス・ドイツや旧ソ連の国家社会主義が、市場型資本主義に敗れたいま、市場社会の悪魔と戦えるのは、イスラムしかない! などと、中近東のひとびとは考えているらしい。 そうおもうと、イスラムの異質さと強さには、ただ驚くしかない。 |
『キリストにならいて』(トマス・ア・ケンピス)と"Thus Spoke Zarathustra" (Nietzsche)を読む。
邦訳もある『ツアラトゥストラ』を英文で読むのは、ただの趣味だ。 いまどきの人があんまり読まない本を読むのが、この読書日記の主旨である。 人生カナブン主義にすっかりはまっていながら、宗教の本を読むのは、どうかという気もしないではない。 だが、なんの役にも立たないものが大好きだからこそ、人生カナブン主義なんだ。 そうだ。きっと、そうに違いない! と、勝手になっとくして、日記を続ける。 極端に傾向の違う本を並行して流し読みしていると、お互いの毒性が中和されて妙なものだ。 「ニーチェ」は西洋的自我のかたまりだし、トマスは「西洋的自我信仰を捨てよ」という一派の精神的リーダーだ。 トマス・ア・ケンピスは14世紀後半から15世紀初めのひと。 同じころ、イタリアでは自分勝手を追求する風潮がルネサンスとして栄えていた。 でも、実体は<人間の解放>というよりは、中世的な分権制度が根強い中世都市国家の文化活動にすぎない。 むしろ、イタリア・ルネサンスとは、イスラム勢力がヨーロッパ文化圏と通商を再開する気になった時期に花開いた徒花であった。 もっとも、徒花が他の場所にいって根づいて、ついには原水爆を開発するまでになる。 ローマ文明、イタリア・ルネサンス文明の<正統的伝承者>を勝手に自認するフランスなどは、西洋文明の価値にたいしてネガティブになりノイローゼ状態におちいって、未来を考えるよりも、すっかり過去に埋没する国になってしまった。 しまいには、法律的な婚姻関係にある夫婦から生まれた子どもよりも、内縁関係または私生児として生まれた子どもの数が上回るにいたる。 きれいごとを云うのはよそう。 西洋的自我信仰は、ついに家族という最小の再生産単位さえ持ちこたえられないほどに毒性を帯びてしまっている。 ニーチェは、自家中毒で崩壊する文明を予期して『ツァラトゥストラ』を書いた。 超強力な西洋的自我さえもてば、すばらしい文明がくると信じたが、結果はそうでもない。 いまだフランスの文化に信仰に近いものをもっているひとは、違う意見をもつだろうが……。 そのルネサンスと同じ時代に、ドイツ語文化圏では、東洋的な精神性をおびたキリスト教一派が誕生した。 トマス・ア・ケンピスはそのうちの重要なひとりだ。 中世ヨーロッパというものを考えてみると、じつは近代ヨーロッパよりも東洋人のものの考え方に近い部分が大量にある。 人生カナブン主義に通じる「生産を志向しない文化」が根強くあるからだ。 生産が幸福とむすびつくという近代の理念とは、別の精神的風土である。 ここでいう「近代の理念」とは、「神殺し」の思想だ。 自然を収奪しつくして、排他的に人間を尊重する考え方だ。 19世紀のニーチェのころから、次第にヨーロッパ人のこころに浸透して、20世紀にいたって、その毒はアジア・アフリカ・南北アメリカにふりまかれ、ますます人類のこころを浸食している。 気がついてみれば、日本人である自分さえ、その毒にやられている。 トマス・ア・ケンピスを読むのは、「身体から砂をとるのにコンニャクを食べる」というぐらいの効能がある。 ニーチェの超人思想はもののみごとに破綻していて、世も末の「末人」思想がすっかり根づいている昨今。 こころの繊維質が、必要だ。 わたし自身のこのみでいえば、それが日本産であれ、舶来品であれ、ぜんぜんかまわない。 |
『列子』を読む。
この本は徹底して、「アホになりなはれ」とでもいうしかない思想で貫かれている。 大阪人でもないのに、こういう云いかたをするのは、標準語で「バカになれ!」と云ってしまえば、身も蓋もないなにものかを伝えるためだ。 そのニュアンスを表現するには、べつに大阪弁でなくてもいいが、京阪神の都市文化が生んだ言葉を借りなくては難しい気がする。 ときどき思うのだが、日本人というのは根っからの道教人間なんじゃないだろうか。 もちろん、すべてのひとがそういうわけではないけれど、「バカになるのが偉い」という精神的伝統がある。とくに、倫理的に高いものを求める人ほどそうだ。 宗教が徹底的に堕落した江戸時代にあって、高い倫理観を追求したひとは禅僧になったりしたが、そのグループでずば抜けているのが、良寛と白隠慧鶴だ。 良寛も白隠も、老子と荘子が愛読書だった。 若いころの白隠は老荘思想の本しか読まなかったし、良寛にいたっては修行時代をへて、諸国を放浪していたときには荘子のみを持ち歩いていたらしい。 それぞれ、立派な大寺院でしっかりした師僧について修行したのだが、自分の独自なものを捜しているときには、道教思想を道しるべにしていたのは間違いない。 肌があったのだろう。 かれらに刺激をあたえたのが、江戸初期に日本へ渡来した中国僧隠元だ。 隠元が開いた黄檗宗の本山、宇治万福寺へいったことがある。 あそこは、いっぷう変わっている。 日本のお寺というより、中国の明清時代にまぎれこんだような風雅がある。 しかも、仏堂に並んでいるのは、仏よりも古怪な顔つきをした羅漢像のほうがおおい。 それも、どちらかといえば、印度の哲人というより、山にこもった中国の仙人といった面魂である。 なんとなく、超俗的というよりは、世間とまっこうから格闘しているたくましくも、ひねこびた道者とでもいおうか……。 禅宗というのは、日本仏教のなかでも、とくに中国くさい一派だが、万福寺で感じたのは、それほど生易しいものではなく、道教と渾然一体化した中国スピリットとでもいうものだ。そこには、道教の臭いが、もっとはっきりいえば、民間道教と老荘思想の混合物が濃密な香煙となって立ち昇っている。 中国の文物において、儒教的なものにはどんなに整ったものであっても、あんまり日本人には心地よくなじめないものがあった。 おそらく、儒教とは中国人が内部で殺し合いをしないための、社会規範のかたまりだから、風土の異なる日本人には肌合いとして好まれなかったのではないか。 そこへいくと、道教が生み出されて、はぐくまれた風土は、日本人の先祖、倭族がかつて棲家とした中国江南地方と、遼東半島あたりだ。 遠い先祖の遺伝子にしてみれば、黄河文明の産物である儒教よりも、もっとなじむということではないかと、勝手に考えている。 「人生カナブン主義」は、根が深い。 それはプレ縄文、縄文、弥生時代にさかのぼる日本人の遺伝子的思想だ。 日本人にとっては、なにがどうなっても、けっきょくそれに落ち着くような気がする。 『列子』という本は、『老子』よりもはるかに理解しやすく、『荘子』よりも具体的だ。 日本人が自分を知ろうと思い立ったときに、読んでおいて損はない。 |
『一遍上人語録』を読みはじめる。
人生カナブン主義の先達として、一遍上人は世界歴史に輝く巨星だ! と、つよく思う。 なぜか文体まで、橋本治に毒されている気がする。 毒気が抜けるまで、このままか……。 ところで、最晩年の一遍には、 「一代の聖教皆尽きて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」 という有名な言葉がある。 生涯に集めた経典をすべて焼き捨てたのちに、吐いた言葉だ。 その後に、生涯最期の「踊り念仏」を催した。 「踊り念仏」とは、幕末の「ええじゃないか」のようなヒステリックな狂乱ではなく、いってみれば念仏聖がプロデュース、演出した観衆参加型のイベントとして、理解しなければ本質を間違う。 現代において「踊り念仏」ともっとも似たものがあるとすれば、既存の政治体制・社会に抗議する世代が、自由と解放を音楽表現に求めたころの、ロック・コンサートだろう。ウッドストックのような。 ただし、それに比べれば、よほど洗練されている。「踊り念仏」とは、独自のジャンルをきずいた洗練された歌と舞踊による芸能だった。 戦国時代に浄土真宗に信者を奪われ、江戸期に権力によって圧迫・衰退するまで、日本全国で念仏聖たちは華麗な「ウッドストック」の祭典を興行し続けたのである。 |
『宗教なんてこわくない』(橋本治)を昨日に続いて読む。
読むぶんには、時間はかからないが、その後にあれこれと考え込んでいる。 「オウム真理教」の本質を橋本が分析したことを、総括してみれば「ぶっ壊れた日本株式会社」ということになるのではないか。 「会社人間」になるべく教育されてきた子どもたちが、じつは「ぶっ壊れた日本教育」によってスポイルされて、教育の最終目的である「会社社会」(よく考えたら、冗談みたいに旨い表現ではある)からはじきとばされて、行くところがなくなって、ついにふらふらと「会社社会ごっこ」をしている集団に呑み込まれた。 どこぞの政党のおためごかしの進歩派的スローガンの化けの皮を剥がせば、「会社人間」の再生産の場でしかなかった「日本教育」が、内実のあまりの陳腐化によって、ついにはその機能すら果たせなくなっている現状。 そして、そのあげくにできた「甘えたガキ」が二十代、三十代になって大人の規範を身につけられないまま「ウソ大人」として生きている。 この世代こそが、オウムの土壌だ。 この「会社ごっこ」をしている集団は、「会社社会」に潜り込みたかったのだけれど、身体的欠陥や貧困のために、どうしてもそこに入れない人物を頂点とする「永久に大人になれないし、なろうともしないズルガシコい子ども」たちの集まりだった。 どう考えても、オウムに似た組織はなくなりそうにない。 けっきょく、繰り返しになるけれど、組織人間、会社人間、社畜を再生産するしか能がない「日本教育システム」が、学校だけでなく、家庭、地域社会ごと機能しなくなって、ガン細胞化したあげく誕生した奇形児がオウムだ。 橋本の考えをまとめるとこうなる。 なぜ、そうなってしまったのか。 スルドい橋本の考えでは、生産の場と、生活の場があまりにもとおく分離してしまい、価値をうみだす活動が職業のレベルでは、生産よりも情報操作にシフトしてしまった。 手作りでものをつくるよりも、株を操作するほうが、大きな価値を生み出すという経済学的な意味では合理的な、生活実感のうえではひどくあやふやな状態が、生活者のこころのバランスを崩している。 それをどうすればいいのか。 橋本は「機械」をつかわずに生産現場をすべて手作りにしたらどうか、と提案する。 たぶん、このひと一流のユーモアで、現代の生産・経済活動そのものが、人間をそういう方向へ進ませているという絶望的状況を表現しているのだろう。 「生産の場で、人間を回復することはできない」 ということを、云いたいのだとおもう。 情報革命がもたらす社会では、人間の回復はできっこない。 という残酷な真実を宣言しているわけだ。 ついでに、いえばキリスト教史や仏教史を橋本流に総括すると、こうなる。 キリスト教や仏教の精神など、とっくになくなっている。 その教えはすっかり変質してしまったから、「魂の救い」などできはしない。 自分のあたまでものを考えることを覚えた近代人には、宗教はいらない。というより、宗教を信じることはできない。 「宗教なんかこわくない」という本の最後で、橋本は「カナブン」になりたいと宣言する。カナブンとは、もちろん花の蜜を吸って生きる甲虫の一種だ。 「人間はやめてカナブンになる」と考えたのである。「成長して一人前のカナブンになって、なったその瞬間、“わーい!”と思いっきり飛んでって、マヌケだからそのまんま壁にぶつかって死んじゃうのがいいな」と思ったのである。この世に宗教関係の本は多々あるが、わたしが<まとも>だとおもった本に書いてある結論は、じつにこうしたことに尽きる。 「宗教なんてこわくない」 ほんとにそうだ。 「既成の宗教に、ビビるな、騙されるな」と、橋本は云っているだけだ。 べつに髭だらけのグルや、チベットで密教修行した宗教学者に、教わらなくても、たいせつなことは、なんとなく、みんな本当は知っているのではないか。 たぶん、「欲」というものが、ほんとのことを見る目を狂わせる。 だから、マヌケなカナブンになるってのが、案外大正解だとおもう。 |
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