『ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け』 (池田 晶子)(新潮文庫)を読む。 アカデミズムと距離を置いた「哲学」を語り、しかも美人という才色兼備の哲学者。 著者の池田 晶子とはそういう人だった。 期待して読んだが、ソクラテスと妻クサンチッペのやりとりを除いては、哲学的エッセイの守備範囲におさまっている。 残念ながら、突き抜けたおもしろさはない。 突き抜けてはいないけれど、滋味がある。 あじわい深い小品だ。 けなしているわけではなく、好きだと言うことをまわりくどく言っている。 どちらかといえば、時事評論の色合いが濃く、哲学のことばを話し言葉にかえて、親父と小母さんがなれあっている夫婦漫才というところ。 漫才台本としては「ぼやき」と「つっこみ」が甘い。 ただ、こういうゆるい感じは好きだ。 ゆるい感じで、知的会話がなりたつのは極上のエンターテイメントだ。 学習マンガや、わかりやすい入門書マンガというのは退屈だが。 著者の評価が低い、もっと素直にいえば、馬鹿と思っている学者・評論家(立花隆や柄谷行人、ハンチントンなど)を語るところはつまらない。 池田さんは毒舌が芸になるタイプの人とは違う。 まっとうなことを、まっとうにいうことが絵になる人で、柄にないことをやると退屈だ。 その反対に、余談から直球勝負の哲学談義にあるあたりはぐっといい。 マルチメディア、花見、阪神・淡路大震災、ビアガーテンから、プラトン風哲学対話編にもってゆく芸のうまさは、ぜひ見習いたい。 王道といえば、そのとおりだが、本格派投手のすごさはそのまま素直に脱帽する。 この手の本格派に、久しく飢えていたことを、あらためて実感できた。 良い本を読んだと思う。 21世紀になって、マルチメディア化が進んで、わかりやすさが出版のデファクト・スタンダードになった。 いいようなものだが、食い足りないのもじじつ。 ウェハースばかりじゃ、だめだ。 塩せんべいをばりばり食べたい。 マルチメディア化とは、視覚偏重のことだ。 考えるな。感じろ! ブルース・リーなら、それでいいだろうが、普通の生活ではちょっと困る。 言葉って、大事だと思うから。 |
© 工藤龍大