『国家の罠』(佐藤優)を読んだ。 ご存知のように、ノンキャリアの異能外交官佐藤優が国策捜査により有罪とされるプロセスを自ら記録した本だ。 この本が政治がらみの収賄事件や経済事件の被告たちの告白本と一味もふた味もちがうのは、著者の特異な才能のたまものだ。 『国家の罠』を自伝的なノンフィクションとみるのは間違いだろう。 単純な二項対立の法律的論理が、元神学者の弁証法的思考に叙述のなかで飲み込まれてゆく。事実なのか、佐藤の文才がえがいたイリュージョンなのか。どうも後者のように思える。 いや、それは正しくない。 この本はそれほど単純にはできていない。 取調べに当たった西村尚芳検事とのやりとり。 東郷和彦元欧州局長の変節と和解。 鈴木宗男議員とのコミュニオンにも似た交流。 (佐藤はそれを鎮魂と呼ぶ)。 これはプラトンの対話篇に似た思想劇だ。 検事との対決といえば、以前読んだTKCの飯塚毅氏やライブドアの元監査人田中慎一氏の事件を思い出すが、佐藤はあのような不毛な対立劇を演じたりはしない。 取調べを記録しているはずが、いつのまにか西村検事を巻き込んで特捜の動機と行動原理を解明してゆく思想劇になっている。 佐藤は収賄がらみの不正事件というマスコミから宣伝されたイメージを、叙述を通じて国家=小泉政権と外務省親米派の鈴木宗男の政争に変成しようと試みた。 その試みは、わたし個人に限っていえば成功したようだ。(笑)。 ただ注意深く、『国家の罠』を読めば、佐藤本人の事件へのかかわりの核心がたくみにカモフラージュされ、記述されていないことがわかる。 何月何日にすき焼きを食べたり、てんぷら丼チェーン店「てんや」で海鮮かき揚げ丼とビールを飲んだことまで記憶している男が、こと事件の核心については触れていないのでは作為としか思えない。 ひるがえって考えてみれば、この本は読者のターゲットをしぼることにおいても戦略的だ。 佐藤は対人戦略的には、二項対立を基本としているらしい。 ここではふたつのグループを構想し、それらを対立の枠としておくことで自分の読者となるグループを作ろうとしている。 ひとつは経済と思想。 もっと正確にいえば、簿記や会計、金融といった経済活動の局面に関心をしぼるグループと、哲学思想、社会思想にコミットメントしたいグループ。 さらに、表現をかえるとアメリカ系の英語モノポリー文化の心酔者と、複数のヨーロッパ語や東洋語に関心をもち新米主義者ではないグループともいえる。 後者は教養主義の時代の選良だったが、最近は旗色が悪い。 佐藤はこのグループをチェコの神学者フロマートカとか、チェコ語とドイツ語のブラッシュアップ、ヘーゲルの「精神現象学」というキーワードで誘い込み、弁別する。 そして、こちらのグループのオピニオン・リーダーになろうとした。 そして、その企図は実現しつつある。 この本についてはまだまだ語り足りない。 また次回も触れてみようと思う。 |
以下は、読んだ本または読書中の本の備忘録。 『古本とジャズ』(植草甚一) 『ブラームスはお好き』(F.サガン) 『孔子 人間どこまで大きくなれるか』(渋沢栄一著、竹内均編) 詳細は例によって別稿で書く予定。 |
小説を読みながらいつも思うのは、作家が描く夢のコミュニティーだ。 どんな小説も結局は理想のコミュニティーを作ることが創造の目的なのではないか。 それが恋人同士であり、家族であり、仲間であり、企業体・国家であったとしても。 自分が所属したいコミュニティを創造することが、小説の仕事だ。 『エデンの東』は、いるべき場所がもともとない人間たちが、新たに見つけた場所で生きることを選択する物語だ。 主人公アダム・トラスクは生まれた土地を捨て、放浪し、サリーナス盆地にたどりつく。 スタインベックの母方の家系ハミルトン家にとっては、アイルランドからアメリカ西部への旅。そして書かれざる父方家系は、ドイツからアメリカ西部へ。 また故郷をもたない「アメリカ人」リーは、サリーナスとトラスク家を自分の属するコミュニティーとして見いだす。 そうした旅は、自分が何ものかを選択する旅でもある。 自己省察のちからに乏しいトラクス家とハミルトン家の人間たちは「自分がなにか」を答えとして出すことには失敗しているようにスタインベックは造形している。 「自分」を知ることを避けながら、衝動のちからで行動してゆく人間。 スタインベックには、「アメリカ人」とはそうした人間の集まりだという文明認識があったようだ。 ここでまたリーの属する中国人たちの結社について考えてみたい。 サンフランシスコの中華街にあるリー一族の結社本部。 それは実在の場所ではなく、歴史的にも存在しない場所だ。 華僑の同郷会館ではなく、「洪門会」のような秘密結社でもない。 シナゴーグにも似た「賢者の館」といった場所だ。 ここで四人の老賢者(最年少が90代)がヘブライ語をユダヤ人ラビから学び、「ティムシェル」の謎を解き明かす。 かれらはその後にギリシア語をマスターして新約聖書の研究に励んでいる。 リーは老賢者たちの知的営為に力づけられ、「中国人」という自分のルーツを受け入れることができた。 ここがリーの人生のポイントだった。 出生と生育環境のせいで、リーは中国人にもなれず、アメリカ人としても受け入れられない存在となった。高い教育を受けても、ピジン英語を使うことでしか白人社会では生きられない。 かれにはアメリカ在住の中国人社会で生きることもできなかった。 白人だけが人間であり、有色人種は「影」としてのみ存在を許される西部で、リーが人格の統合を失わずに生きられたのはなぜだろう。 アイルランド人だが白人のハミルトン家は、自殺と病死というかたちで、人格統合の失敗者を生み出してしまったのに。 その鍵は誇るべき「知的コミュニティー」の一員だという自覚だったのではないかと考える。 たとえそのメンバーが四人と一人だけであっても全然かまわない。 なにか大きなものに挑み続けるコミュニティーにある限り、ひとは「善良」であり続けられる。 そうであればこそ、リーはトラクス家の人間にとって、魂の導き手である続けることができた。 『エデンの東』を再読するにつけ、そうしたコミュニティーがなにも実在の人間だけに限らないという思いが強くなった。 「孟子」に「尚友(しょうゆう)」という言葉がある。 書物を通じて、歴史上の人物と友だちになるという意味だ。 ただの本の虫になることではない。 歴史上の人物に問いかけ、議論することをいう。 スタインベックが「孟子」を読んでいたとは思えないが、四人の老賢者というのは「尚友」というコミュニティのアナロジーだと思う。 幼い頃からアーサー王物語を好んだスタインベック本人も、アーサー王伝説という物語の「尚友」コミュニティに属していたように思う。 さらにいえば、旧約聖書という「尚友」コミュニティにも。 リーが尊敬する4人の賢者は、物語の単なる道具ではない。 サイコパス(良心のない人間)と自殺者の物語となりかねない『エデンの東』を、放浪者が安住の地(いるべき場所)をみつける救いの物語に変える「賢者の石」だった。 |
『エデンの東』の登場人物、リーは厳密には中国人移民ではない。 かれの父母は借金の方に苦力(クーリー)として売られた人間であり、かれはアメリカで出生した。 男装して労働者の群れにはいった母は、陣痛で女であることが判明した。 その陣痛のさなかに飯場じゅうの男たちに強姦され、リーをなんとか出産して絶命する。 自分たちの冒した罪の深さにおののいた中国人労働者たちは、赤ん坊のリーをみんなで育てた。 出生の時点で、先進国と後進国の悲劇や、資本主義の獣性を身をもって体現したリーは成長すると、非凡な知性の持ち主となる。 いちど中国に戻ったが、アメリカで教育を受けたかれに住む場所はなかった。 結局、アメリカに戻り、アメリカ人として生きることを選択する。 そうであっても、当時のアメリカで生きるには、ピジン英語しか話せない愚昧なチンク(中国人)としてふるまうほかはなかった。 オリジナリティも知性も隠して、低劣なピジン英語しか使えない中国人召使いとして生きるリーが、小説の知的側面をになう存在になっているのは、むしろ当然かもしれない。 罪と贖罪のなかで育ったリーが、聖書のような倫理的書物に深い関心をもつのは不思議ではない。キリスト教について自由に語れない当時の文化レベルにあっては、独自の宗教観を表現したかったスタインベックにとって、リーのように自分を仮託できる他者の目がどうしても必要だったのだろう。 『エデンの東』は小説という思考方法で倫理というものをとらえようとした作品だが、スタインベック本人はあまり研究や思索にはむいていなかったようだ。 前回書いたヘブライ語の解釈は、編集者に調べてもらった受け売りらしい。 リーとその知的師匠連である中国人街の老賢者たちは、ひどく意地の悪い言い方をすれば、スタインベックの探求の浅さを塗り隠すための装置といえる。 だからといって、小説のテーマが浅くなるわけではないが、小説の風景が少々寂しくなるのは否定できない。 言葉を創造の道具にせざるをえない小説家にとって、探求といういっそ無駄にさえ思える部分が、言葉にちからをあたえる地力となる。 小説家の「地頭」をそだてるには、探求という営為がどうしても必要だ。 このリーというキャラクターは、書かれざる言葉によって、そのことをずっと昔から教えてくれていたのだと、いまになって思う。 このことについて、もう少し考えてみるつもりだ。 また次回もこのテーマについて書くことになるだろう。 |
『エデンの東』を読み終わる。 長い物語だが、大河小説という感じはしない。 一家の物語として主軸であるべきトラスク家のエピソードが実際にはほとんどアダム・トラスクの一代記にすぎず、脇役であるハミルトン家(作者スタインベックの母方の家系)もスタインベックの祖父と伯父たちの親子のストーリーだけだった。 物語の重層構造が、小説の奥行きを与えるとしたら、山脈や高原をつくるだけの地層がない。 むしろサリーナス盆地という風土が人間よりも重要なキャラクターとなっている。 過去にしばられながらも、過去をもちえない人間。 記憶を故意と無意識の両方で隠蔽しながら、過去を反復する。 スタインベックは、自分がそうであるような「アメリカ人」を造形している。小説の地層構造の薄さは、作品としての欠陥ではなく、アメリカという文化の必然だ。 過去もなく、記憶が秘密である「ひと」には家族しかない。 捨てるにせよ、憎むにせよ、「愛」という名の執着だけが人と人のつながりとなる。 この場合の「愛」が執着であるのは、等価交換を前提とした欲望だからだ。 等価交換をこえた関係は最後の最後に希望としてあたえられる。 「ティムシェル」というヘブライ語がそれだ。 「汝、能う(あたう)」と解釈する言葉に、大きな意味が込められている。 この小説では人が成長する姿はかかれていない。 成熟もなく老成もなく、人は永遠に若者のまま老い朽ちてゆく。 東洋の賢者である中国人召使いリーは若々しい知性のまま老いてゆく。かれもまた記憶と過去を隠蔽し喪失して生きる「アメリカ文明」の体現者だ。 この小説は「アメリカ人」とは何者なのかという問いかける。 その答えは、サリーナス盆地のような実在の大地と自然との対話からしか出てこない気がする。 アダム・トラスクが農場を出て町に住み、ハミルトン家の農場をついだトム・ハミルトンが自殺したことで、小説は大きな謎に答える動機を失ったのではないか。 ところで、前回触れた中国人リーについてもう少し書いてみたい。 それについては次回に書く予定だ。 |
2010年の最初の読書日記です。 今年はしっかり本を読んで、外国語を勉強するつもりです。 毎週更新するというのが、年頭の誓い。 いろいろ工夫して、更新回数を増やしてみよう! 「工夫」っていうのが、今年の課題だなあ。 |
© 工藤龍大