お気楽読書日記:7月

作成 工藤龍大


7月

7月26日

所用のついでに、鞍馬山と貴船神社に行った。

25日はあいにくの雨。
どしゃぶりのなかを杉の根が蜘蛛の巣のようにはい回る道を通って、鞍馬山の奥の院魔王殿まで行き、階段さながらの坂道をくだって貴船神社に降りた。
鞍馬山西門から貴船神社に向かい、参拝したあとそこから15分登る貴船神社奥の院に行く。

すでに足はがくがくだ。
ちょっと休憩してから、40分以上かけて叡山電鉄貴船口駅まで歩く。

すでに頭はもうろう何がなんだかわからない。
えらくハードな鞍馬山詣でだった。

鞍馬山といい、貴船神社といい自然はすばらしい。
雨で増水した貴船川沿いの道を通って、駅まで歩く道も素敵だ。

駅で電車が来る直前に傘を駅のトイレに置き忘れたことに気づいた。
傘をみつけて駅のホームに駆け戻ったときに、電車がすべりこんできた。
なんとか無事に電車に乗れたのでほっとした。これを逃すと、あと30分くらいは電車が来ない。

もうろうとしたまま、叡山電鉄の終点出町柳駅までゆく。
いろいろあったが、詳しいことは後日書くことにする。

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7月20日

今週読んだ本は下記のとおり。

『玉川兄弟』(杉本苑子)
『百鬼夜行の見える都市』(田中貴子)
『氏神さま・春雨・耳学問』(木山捷平)

『玉川兄弟』は、玉川上水を引いた桝屋庄右衛門・清右衛門兄弟を描いた歴史小説。
家の近所を流れる野火止用水と、会社の近くにあった四谷大木戸(碑は現在もある)にひかれた。
兄弟は上水完成の功で玉川の姓と名字帯刀を許される。
意外なことに、兄弟の人生はあまり伝わっていないらしい。
本書は杉本苑子の大胆なはなれ技でものされた。
歴史小説という分野には資料が欠かせないが、意外なほどに信頼できる資料はないというのが現実。学問ならそれでもかたちになるが、小説にするには純フィクションとほぼ同じ空想力が必要だ。

そのことをあざやかな手つきで実証してくれた杉本苑子の力量に惚れ直した。

『百鬼夜行の見える都市』は国文学の大学教授である著者が、「百鬼夜行」にいどんだ研究書。
妖怪というフォークロアをテキストに還元する馬場あき子の仕法なので、面白さは人によるかもしれない。

わたしにはよく分からない。
馬場あき子大先生のような、文学の香気がないので、京極夏彦タイプの妖怪愛好者でもなければ、国文学好きでもないのでは、無理もない。
この本を楽しく読むには、妖怪を記号に還元できる合理主義者である必要がある。

木山捷平は、司馬遼太郎のエッセイで取り上げられた私小説作家。
司馬さんは根暗な木山捷平作品のファンだったらしい。
この本を読了した結果、家のものにすっかりネガティブになったと叱られた。
私小説には、人生を暗澹としたものにする魔力がある。
それに惹かれやすいタイプ(わたしみたいな根が暗い人)はやめたほうがいい作家さんだ。なぜって、あんまり気が合いすぎて、すっかり引き込まれてしまうから。

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7月19日

今回読んだ本を次の三冊。
内容が濃かったので、書き上げるのに時間がかかった。

『パピルスが伝えた文明―ギリシア・ローマの本屋たち』(箕輪成男)
『目からウロコの空海と真言宗』(福田 亮成)
『真言・梵字の基礎知識(大法輪編集部)』


『パピルスが伝えた文明―ギリシア・ローマの本屋たち』は、資料がないギリシア・ローマ時代の本屋を考証した労作。著者は東京大学出版会に長年勤務して(東京大学出版会元専務理事)で、五十代からアカデミズムに入り新聞学博士(上智大学)を取った人。
内容はギリシア、ローマの本屋のことよりも、出版や中世写本のほうが分量が多い。
同時代の資料が少ないので仕方のないことではあるが、歴史学者ではなく出版学(?)を研究する著者だからこそ、発表できた研究といえる。

パピルスや羊皮紙の生産コストを試算するなど、アプローチは面白い。
ナイル川の河原に生えているパピルスが意外なほど高価な製品だと知って驚いた。これは歴代エジプト王朝が禁制品として王朝の専売制度をとり、輸出規制したためだそうだ。
おかげで紀元前数千年前から技術革新がなくなり、製法が進歩せず、増産もできなかったのが価格が高止まりした。

他言語版の福音書を羊皮紙で作ると、二万頭近くの牛の革が必要となる。しかし、肉食文化の西洋では現代人が想像するほど莫大な金額とはならない。肉をとった残骸というわけだから。それでも割高なのは当然としても、パピルスはさらに値段が高かった。
これでは、パピルスが古代世界の滅亡をまたずに廃れたのも無理はない。

ところで、古代ギリシアやローマの本屋だが、常設店があったというわけではないらしい。
前三世紀のギリシアでは、劇場で本を買ったそうだ。
ギリシア悲劇や喜劇を観たあとで、屋台みたいに店を出していた本屋で書物を物色したそうだ。
著者ははっきり書いていないが、この本はパピルス製の巻物なのだろう。
ソクラテスがいた前五世紀では、市場が立つ日に本屋が出店そうだ。
こちらはプラトンの対話編の言葉が出典。
著者は専門家ではないから、画期的な歴史資料の発見という具合にはいかないようだ。

残念ながら、古代ギリシアの本屋の実体はあまりよくわからない。
ローマ時代の資料から、写本で本を生産して、店頭で並べて売っていたようだ。ただどのような仕組みで著者にお金が流れたかわからない。

著作権もないわけだから、勝手に写して勝手に売っていたのだろう。
本は実利を得るものではなく、名前を売って、後世に残す売名の道具(広義のマーケティングともいえる)だから、お金が入ってこなくてもよかったらしい。

とにかく雲をつかむような題材をなんとかかたちにした著者の勇気に敬意を表したい!

『目からウロコの空海と真言宗』の著者、福田亮成さんは真言宗智山派智山伝法院院長、大正大学教授、摩尼山成就院住職(台東区東上野にあるお寺らしい)という偉い人。

調べてみたら、真言宗関係ではこの人の著作をいろいろ読んでいたことがわかった。
『空海「秘蔵宝鑰」をよむ 』という以前紹介しかけた本の著者でもある。
すっかり忘れているのは年齢のせい?

『目からウロコの空海と真言宗』は先に出版したいろいろな本を図解化して、整理したものと位置づけられる。
おかげで、目からウロコでごちゃごちゃした情報が整理できた。

「秘蔵宝鑰」の解説も、ここまで簡素化してもらったら言うことがない。

なかでも興味深いのは、『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』の言葉だ。

五大にみな響き有り
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身はこれ実相なり

これは、まさに丸山圭三郎が解説したソシュール理論ではないか!
自然は数学という言葉で構成されているというのが自然科学の理念だが、空海の場合は数学に該当するのがマントラ(真言)だ。
だからといって空海の理論が理屈だおれというわけではない。

空海が成就したという虚空蔵求聞持法は、虚空蔵菩薩のマントラを一日100万回以上唱えて、100日から50日間で、100万遍読誦する。
真言宗の修法は壇を設置して道場を荘厳するほかに、印を結び、マントラをとなえることが欠かせない。
空海の言葉は、こうして積み重ねた数え切れないほどのマントラの読誦をふまえたものだ。

このごろメンタルヘルスの一つとして、お経とマントラをとなえているが、字を黙読しているのとは違う何かを感じることがある。

生涯数え切れないくらい修法を実践した空海には、余人のうかがいしれない境地があったのではないか。

ここで興味深いのは「五大(すべての物質という意味)にみな響き有り」という言葉。
丸山圭三郎によれば、人間は言語があってはじめて世界を認識することができる。感覚と印象(=表象)だけでは世界を理解できないのが人間だ。

どうしても言葉がなければ、健常者として生活することはできない。
言葉がない世界とは、快不快の快楽原則にだけしたがう無意識の世界だろう。
そこには、うれしい・楽しいという「快」と、いやだ・恐ろしいという「不快(または恐怖)」の感覚しかない。
もっと複雑な思いは、どうしても言語を介さないと存在できないだろう。
悲しい、憎いという思いも、快不快よりは高次な言語的な層(レベル)の感情のように考えられる。

言語で再構成された仮想世界。
それだけが人間の認識できる宇宙で、物それ自体は人間の感覚ではわからない。

言葉とは、文字ではない。
音声であり、つきつめれば「響き」だ。

理屈ではなく、「響き」として、人は世界を理解している。
ソシュール+丸山圭三郎のいう「言語」とは、活字や文字ではなく、音としての言葉だった。

こう考えると、空海の「五大にみな響き有り」という言葉は、わたしたちにとってのっぴきならない真実であることがわかる。

一切の仏刹微塵の中に
盧舎那自在力を現ず
弘誓の仏海に音声を震って
一切衆生の類を調伏す

これは十住心論の言葉。
盧舎那(ビルシャナ=東大寺の大仏様)が神通力をふるって、衆生を救うという意味だ。ただ、これをみると、「音声を震って」「一切衆生の類を調伏す」とあらわされているように、マントラによって衆生の祈りを実現するという密教僧空海のマニフェストでもある。

こうした言葉の端々にも、言語=音響をふまえた密教的世界が横たわっている。

『真言・梵字の基礎知識』では、そのようなマントラの実際をみることができる。
真言、梵字関係の本をいくつも読んでいるが、われながら飽きないなと感心する。とにかくみていて楽しい。

福田亮成さんの本を読んだ後だからひとしおである。

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