お気楽読書日記:4月

作成 工藤龍大


4月

4月26日

今週も忙しくて、新規購入本は読んでいない。
厳密にいうと、参考書は読んでいるが、他までは手が回りかねている。

たとえば『法令用語の常識』(林修三)と『法令解釈の常識』(林修三)などだが、これは仕事のため。
忙殺という言葉がぴったりだ。

翻訳業は IT 関連の仕事が増えて勉強することが多い。
泥縄で調べ物をしながら仕事するわけだからかなりしんどい。
なんとかクレームが来ないように祈りつつ。。。と心臓にもわるいな、これじゃあ。(笑)

仕事ばかりで頭がかるーくなったような気がする。 あえて難しいのをということで、旧約聖書と『孟子』を読む。
孟子というのは孟母三遷の教えというくらいだから、きまじめな学者先生かと思ったら、妻一名と妾数名のなかなかお盛んなヲジサンだった。
しかも他国に遊説に行くときは、孟嘗君とまではいかないが、ぞろぞろ食客門人を引き連れて練り歩いた(あるいは馬車で駆け回った?)らしい。

孔子には妾や食客がいたとは聞いたことがないので、孟子とはずいぶん違うと思った。

「万世師表」(永遠の教師)と尊敬される孔子に比べると、孟子はかなりいかがわしい。
孟子は孟嘗君とほぼ同時代だから、日本作家の中国歴史小説にもう少し登場してもいいはずだが、そういう小説はあまり見た記憶がない。
あまり詳しくないから、見落とししているだけかもしれないが。
孟子は韓非子や孫子と比べると、日本人受けする人ではない。

こういう人が性善説をとなえるのは納得できる。
手を汚して金集めする与党政治家のほうが人情家として人気があるのに、きれい事で汚職を追及する野党政治家が冷たいやつといわれるのに似てはしないか。

それにしても、孟子を読んでも、論語ほどには人間学の勉強にならない気がする。
中国流の詭弁術が孟子の時代くらいになると、よほど発達してきて、議論の筋があちこちねじれていて妙にかみあわない。

わたしはやっぱり論語が好きだな、うん。

先頭に戻る | 目次に戻る

4月19日

『走ることについて語るときに僕の語ること』(村上 春樹 )を読む。
小説を書き続けることが、体力作りとどれほど緊密に関係しているかを教えてくれた。
ことは小説には限らないが、自分の体験からいっても、小説書きと他の執筆活動は体力、精神力の消耗度が違う。
コンスタントに作品を発表し続けるためには、生活のリズムを構築することが絶対条件だ。
このことは実作者の小説入門には必ず書かれているが、やってみるとものすごくしんどい。年齢を重ねた作家の創作力が落ちてくるのは、基礎体力が減ってくるからだと若いときに洞察した村上春樹はすごい。

直感をふまえて努力してきた結果が、ノーベル賞最短距離作家へ村上を導いた。大切なことはなかなか分からないものだ。
しかも、分かった頃にはほぼ手遅れ。

それでも、ものを書こうとする人間にとってはこの本は役に立つ。
村上は長距離ランナーやトライアスロン選手どうしが感じる連帯感を語っている。
書き手になろうとし続けている人間は、ひょっとしたら、長距離ランナーやトライアスロン選手よりも希少種かもしれない(評価されない作品を少なくとも十編以上は書き、なおも書くことを辞めていないという条件つきだが)。
そうした人間は、危険なけものみちにいる仲間として、互いになかば警戒しつつ(いつ自分も相手も脱落するかしれたものじゃない)、いうにいわれない連帯感がある。
少なくとも、そう思えないのでは書き続けることは不可能じゃないかと考えた。

北海道のサロマ湖を一日100キロのウルトラマラソンで走ったり、真夏のアテネでマラトン―アテネ間を編集者とカメラマンの自動車に見守られるだけで完走したりなんて、すごすぎる。

この快挙だけで、村上は超人ではないか。

ところで、無名時代の村上は千駄ヶ谷で喫茶店兼バーを経営し、いまは神宮外苑や赤坂御苑あたりをロードワークしている。
このあたりは、ときどき散歩するあたりなので、親しみを感じた。
まったく縁がないと思っていた村上とほんのわずかだけ距離が縮まった。

中国書店に注文した三国志演義中国版が届いた。
ぽつぽつと読んでいるので、日本語読書の時間が減っている。
道楽だから、仕方ない。
できる限り、中国語読書を続けよう。

中国づいているのか、『浅田次郎とめぐる中国の旅 『蒼穹の昴』『珍妃の井戸』『中原の虹』の世界』(浅田次郎)を見つけた。

浅田次郎は現代最強の「嘘部」だ。
「嘘部」の本家元祖半村良よりも格上。
物言いを素直にすると、現代最高の娯楽小説ストーリーテラーだ。

その浅田が書いた歴史小説だから面白いのだろうが、そうとう虚構が入っているのではないかと思うため、『蒼穹の昴』三部作には手が出ない。

三部作の舞台を解説しつつ、中国ツアーしたこの本でいよいよ虚構のすごさを予感した。
浅田ワールドにひたる覚悟がでたら、三部作を一気に読むことにしよう。
それにしても、浅田次郎も実に勤勉な作家だ。
村上といい、浅田といい、勤勉な生活者という基盤がはんぱじゃなくすごい。
きっと、この人たちはどんな仕事をしても成功者になっただろう。

小説書きとは特権的な才能がなければそもそもなれるものではないが、なったあとで伸びてゆくには生活者としての根っこがよほど丈夫でないとやっていかれないのだと改めて思い知らされた。

先頭に戻る | 目次に戻る

4月12日

会社の研修で土曜は休日出社した。

なかなかHPの更新は難しい。
こつこつやるしかないと覚悟しています。(笑)

下記は今月読んだ本の一覧。

『鉄砲無頼記』(津本陽)
『天狗と修験者』(宮本袈裟雄)
『ロシア異界幻想』(栗原成郎)
『アメリカ・インディアンの世界−生活と知恵』(マーガレット・フィート)
『古代ハワイ人の世界観―人と神々と自然の共生する世界』(マイケル・キオリ・ダドリー)
『ぼくの・稲荷山戦記』(たつみや章)
『となり町戦争』(三崎亜紀)

以下、感想を手短に書きます。

♥ 『鉄砲無頼記』はブログでも書いたが、ニヒリズムの果てにアドベンチャーがあるこの作家の独擅場。
なにをいっても始まらない。面白いと思ったら、読むべし。

♥ 『天狗と修験者』は再読。
山岳仏教はおもしろい。
修験道や鎌倉仏教以降の仏教修行を調べていくと、日本仏教とはインド宗教でも中国宗教でもない縄文時代からのアニミズムの擬態であるという消息がよくわかる。
じつはこれが次の三冊と、関心としてつながっている。

♥ 『アメリカ・インディアンの世界−生活と知恵』はネイティブ・アメリカンの生活を記録した労作。
ロッキー山脈とシエラネヴァダ山脈の間にひろがる大乾燥地帯グレートベイスン。
そこに住むノーザン・バイユートというインディアン族の夫婦、ウジー・ジョージとその夫で偉大なシャーマン、ジミー・ジョージから著者が聞き取ったインディアンの生活の知恵の数々。
具体的な道具の作り方、石器の鍛錬法、罠の作り方、サカナの卸方まで教えてくれる。

この老夫婦は、アメリカ先住民の貴重な知恵を伝える最後の人々といえるかもしれない。
かれらの子供たちは、おそらくインディアンの狩猟採集生活がどういうものか全くしらないだろう。

♥ 『古代ハワイ人の世界観―人と神々と自然の共生する世界』は、アイルランド系米国人であり、日本人妻ともつ著者の学術論文を一般向きに書きなおしたもの。
息子のイラストレーションがかわいらしい。(子供じゃなくて大人!)

ココナッツの実に、水平的なポリネシアの島々と垂直的な七つの天界を描いたハワイ人の宇宙地図には、なぜか心地よく秘密めいたなつかしさがある。

死後の楽園が天界の大洋に浮かぶ島であり、人は鳥の姿をとってその島と現世を往来するイメージはなんとなく納得できる。
その他いろいろな面で、古代ハワイ人の世界観は、日本の神道によく似ている。
フラが一部で強烈な愛好者を持つのも当然だ。

火の女神と水の男神の複雑な恋愛感情によって、世界は動いている。
「恋」を宇宙の諸物が活動する「動力因」(@アリストテレス)とした日本の原始神道とよく似ている。

原始宗教はみんな似ているという素朴な議論ではなく、すべての生物・無生物には魂があるというロボット大国日本にも通じるアニミズム思考を、生物を機械にすぎないと切り刻んだデカルト的合理主義よりも優先すべきではないかという危機意識が著者にも翻訳者にも共有されている。

その認識をもつ限りにおいて、読者もこの本にひかれてやまない。

♥ 『ロシア異界幻想』はスラブ世界の吸血鬼を私たちに紹介してくれた栗原成郎(しげお)さんが描くロシアの異教+民衆宗教としてのロシア正教の姿。
ロシアで書かれた聖書外典(アポクリファ)が民衆の死生観を伝え、異教の神は妖精ドモヴォイとして農村で語り伝えられる。

死者はついふらふらと現世に舞い戻り、配偶者や子供をさびしがってあの世に連れて行く。
死後の40日までこんなのは当たり前で、その日以降帰ってくる死者は悪霊以外のなにものでもない。亡霊を追い払う呪術が必要だ。

マルクス・レーニン主義の唯物論とスターリン以降の伝統文化破壊の歳月のあとで、こうした精神世界を振り返ることで、混沌と暴力の渦のなかに翻弄されるロシアを栗原さんはみつめなおそうとしている。

異界とは、見るものの心にこそあるという真実を教えてくれる本だ。

♥ 『ぼくの・稲荷山戦記』(たつみや章)は面白かった。
この作家さんは女性で、1954年生まれ。
熊本市に住んで市議会議員もやったことがある(もしかして現役なのかな?)。

ボーイズラブ作家としてデビューして、そのときのペンネームは「秋月こお」。
どっかで聞いたペンネームだなあ。
あのへんの(どの辺かは不詳、くくっ)の棚に結構並んでいる人だったのね。

ストーリーはきれいにまとめているが、少女漫画テイストで、愉しかった。
稲荷神社の神様(実は神社の山の頂上にある古墳に埋葬された古代の王)を救うために、お使いギツネとマモル少年が奮闘する物語。
泣かせどころが少女漫画のツボにはまっている。
こういう作品をわたしは読みたい。(謎)

♠ 『となり町戦争』(三崎亜紀)
この作家さんの新人賞受賞作。
絶賛されていたので、読んでみた。
意外に、実存主義文学していて、状況がつかめないまま、人が死に、主人公が恋愛して、別れを経験する。
読んでいて興はそがれないけれど、なにが書きたいのか、いまいちつかめなかった。
この人を評価するには、もう一冊ぐらい読んでみなければならない。
なにかありそうな気はするのだが。

先頭に戻る | 目次に戻る

4月 4日

先月読んだはずれの本。
まずは、これ。

『天兵童子』(吉川英治)
『ひよどり草紙』(吉川英治)

『天兵童子』は主人公の出自が変わっている。
かつて後醍醐天皇に仕えた武士たちの末裔が、逆賊として室町幕府から隔離されている島があった。
隠岐島のあたりだが、そこから郷党の名誉を回復するために、一人の少年が大望を抱いて島を脱出する。

なんだかなあ。
この設定でかなり引き気味になった。

歌舞伎と同じで、登場人物たちが本来の身分を隠していて、実は歴史上の有名人とわかるのだが、この「やつし」という演出ははっきりいって―つらい。

正体をあかして「あっ」といっているうちに、だんだん興がさめてくる。
すっとばして最後までいって、ごく平凡な結末にがっかり。

『ひよどり草紙』は、もっとすごい。
徳川家光の幼年時代に、お家転覆をねらう悪人をからませて、得意の失せ物探しと悪人退治がはじまるのだが、お話は退屈そのもの。

巨匠の児童文学だが、いま読むとかなりつらい。
なかなか難しいものだ。

趣向をかえて、現代の児童文学に挑戦することにした。
それについては、また後で書くことにする。

先頭に戻る | 目次に戻る

4月 3日

先月、図書館でこんな本を読んだ。
『山窩と又鬼』(後藤興善)
『古代研究1〜3』(折口信夫)「祭りの発生」「祝詞の発生」「国文学の発生」

いずれも、民俗学の名著。
以前は独特の文章がつらくて、読めなかった折口大人(うし)の『古代研究』がこれほど面白かったとは。

柳田民俗学の帰納的方法は手堅くはあるけれど、想像力を刺激するパワーはあまりない。
それに比べると、折口大人の論考は文学的想像力をいやが上にも書き立てる。
伝奇小説、歴史小説作家には、なんとも魅力的な先生である。

山窩(サンカ)研究の名著とされる後藤興善の本は、意外に山窩に対する記述は少なかった。
だが、三角寛の山窩関連本に疑義を呈しているところはさすが。
三角の山窩研究は、ほぼネタだった。

後藤興善の貴重な研究はさておき、以下は別の雑談。

最近の民俗学や歴史学では、山窩は近世に誕生したものと考えられている。
江戸時代の飢饉でうまれた潰れ百姓たちが流民、乞食化したのが山窩―ということらしい。

山田風太郎の『忍法封印』(いまは「銀河忍法帖」と改題されている)で、山窩に入門した人間にはなんとも残念な研究結果だ。
山窩文字と日本古代文字の関連や、山窩の伝承と古史古伝の怪しい世界とのつながりも、ドゴン族の宇宙民話以下の評価に堕ちたようだ。

日本古代文字、古史古伝の愛好者としては、がっかりである。

先頭に戻る | 目次に戻る




© 工藤龍大