お気楽読書日記:1月

作成 工藤龍大


1月

1月18日

この半年間、漠として消えなかった体調の不安がなくなった。
それは良いのだが、だからといって調子が戻ったわけではない。
特に、本を読むという行為において。

本を読むという行為は相変わらず続けているが、読書日記に書くほどの「感銘」がない。この場合、「感銘」とは「自分より大きなものに出会ったときの、心の底からわき上がってくるような感動」(保坂和志)をいう。

たとえば、今読んでいるのは『納得する物理数学』(都筑卓司)、『理系なら知っておきたい物理の基本ノート[物理数学編]』(為近和彦)、『ユーザーエンジニアのための光学入門』(岸川利郎)。
仕事がら理系数学や光学の知識が必要となり読んでいる。
(物理数学に関する本は内容理解に手間取り、何度も図書館から借りだして再読している。受験数学は苦手だったが、これはさらに面倒だ。)

時間を切りつめながらせわしく参考文献を読んでいるうちに、「感銘力」が擦り切れたのだろうか?
おもしろい小説を見つけたが、隆慶一郎や宮城谷昌光と出会ったような高揚感は持てなかった。

行きづまるとその原因をあれこれ考えるのが「僕の悪い癖」。
この間も書いたように、哲学をおろそかにしているツケがいま巡ってきたのだと思う。

人の言葉を使うのはあまりフェアとは思えないが、今日再読した本から引用する。

「思想が心をつくる。心が行動に反映し生きざまとなる。人の生きざまが人格を形づくり、人格が運命をつくる」(船井幸雄)
「運命を結果ととらえれば、人を中心とした世の中では思想が結果をつくる」(同上)

無限ループに陥っているようだが、いま自分にとって必要なことは、「幸せ」「善い」「真実」「正義」「愛」という根本義に関する問いかけだと改めて思う。

いいかえれば、本気で哲学したいと願っている。

いまはそういうことを後押ししたり、励ましてくれる本でないと読書日記に書く気になれないということだ。

今年は哲学少年だった昔に回帰したい。
十代の頃、愛読書はデカルトとニーチェ、そして実存主義だったが、いまは入門編としてあっさりスルーしたプラトンとカントが無性に読みたい。
フッサールよりも、ヘーゲルとハイデッガーだ。
あとは東洋哲学(中国)や日本の思想も。

知識だけではどうにもならないところまで来てしまった。
半世紀生きた分だけ、今回の読み直しが観念遊技にはならないと信じている。
飯塚毅というすばらしい先駆者を見つけたことでもあるし、今年はなにかが開けてくると予感している。

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1月04日

今日が2009年初の読書日記。
この年末から正月にかけて、まるで本を読んでいないことに改めて気づいた。

大掃除や帰省、不慮の怪我などなど、どうにも本を読めない環境にいる。
読みたい本や世もなければならない本は増える一方なのに、これはどうしたことか!

世の中に流されて、自分の精神世界も不況のまっただなかにある。

こうした「自分不況」の原因は、ここ数年哲学をおろそかにして、技術知識の集積にむかった姿勢にあるように思える。
「勤勉の仮面をかぶった怠惰」
これが「自分不況」を招いた無為無策の正体だと、いまさらながら痛感した。

世の中から少しずれた立ち位置に身を置かないと、やっていかれない自分。
今年は足元をしっかり観ていきたい。

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