お気楽読書日記:7月

作成 工藤龍大

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7月

7月 1日

いつのまにか、日記がメモ帳で開けないほど大きくなっていた。
遅まきながら、読みやすいように分割する。

H.G.ウェルズの『トーノ・バンゲイ』を読みはじめる。
わたしはかつて熱狂的な海外SFファンであったために、かえってSF以外のウェルズ作品に 触れる機会がなかった。この作品は一般作家としてのウェルズの代表作である。
イギリス階級社会のいやらしさを描く滑り出しの部分は秀逸である。なかなか期待できそうだ。

7月 2日

本棚の整理をしていて『私は宇宙人にさらわれた!――エイリアン・アブダクションの真実』 という本を発掘する。
翻訳にあたっているのは、TVによく出る霊能力者秋山真人氏だが、中味は真面目な本だ。
著者ジョン・リマーは宇宙人に誘拐されたと称する人々のレポートを分析して、いわゆる「エイリアン・アブダクション」 なるものが心理学的なトランス状態であることを論証している。

わたしは「トンデモ本」のたぐいが好きだが、心情的には「トンデモ超常現象」を まじめに考えたいと思っている。UFO実在論者には組みしないので、こういう理性的な本には 好意的にならざるをえない。

7月 3日

大雨で散歩にもゆかずに読書する。本屋にもいかないので、本棚の発掘作業を継続する。
我が家は四畳半が文字通り本で埋まり、その他にも押し入れ、玄関先、物置に置いた段ボール箱に本が詰め込まれている。特に四畳半はいつ床の底が抜けるかと、我が家を訪れた人々を恐怖に陥れ、家人の頭痛の種だ。だから、本の発掘はなかなかの難事業である。
いったん行方不明になった本を探しだすのはほぼ不可能なので、必要にせまられたら買い替えることになる。

そして掘り出したのが『大乗仏典――世界の名著2』。
この中に収められている『維摩経』は、十代から二十代にかけて愛読書だった。
お経ではあるが、ストーリー性に富んでいるので、読み物としてじつに面白い。
俗人の維摩詰(インド名:ヴィマラキールティ)が釈迦の十大弟子や文殊菩薩たちをやりこめる痛快なドラマである。人生の達人である維摩詰の飄々として威厳ある姿はみごと。

7月 4日

『歌行燈』(泉鏡花)を読む。
鏡花のストーリーはいつ読んでもシュールだ。
たぶん、あまり読む人もいないだろうから、ネタばらしをしても誰も怒らないだろう。

『東海道膝栗毛』を気取った老人ふたりが宿屋に泊り、芸者を呼ぶ。すると、その芸者が能の舞いをひとさし舞う。老人たちはその舞いの見事さに息を呑む。老人は能の唄いと踊りの名人、家元であると正体をあかして、若い芸者に誰にその舞いを習ったかと問う。
いっぽう、饂飩屋に流しの若い三味線引きが現われ、酒を飲んでいる。寒い冬の夜に、按摩の笛が鋭く響くと、三味線引きの若者は恐ろしげに身をふるわせる。
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ここまで、もったいぶって書いているうちに、もしかしたら、この小説は大変な名作ではないかという気がしてきたので、これ以上ネタばらしをするのはやめることにする。

7月 6日

『夢見通りの人々』(宮本 輝)を読む。
またまた宮本輝の傑作に出会ってしまった。この人はほんとうにうまい。
さえない商店街「夢見通り」の住人を描く連作長編だが、キャラクターがいい味をだしている。
主人公はお人好しのアマチュア詩人。そのまわりに徘徊する商店街の住人の個性的な面々が泣かせる。強姦常習犯で元組員の肉屋の息子、夫婦ゲンカで連日血まみれの中華料理屋夫婦、淫乱系の厚化粧クラブ・ママ、マッチョ系ホモのカメラ屋……とこう並べていくと、筒井康隆みたいな残酷ドタバタ劇になりそうだが、絶対にそうならないのが宮本輝だ。
ひさしぶりに良い本を読んだ。

連日、他の本に横目を使っているうちに、ウェルズの『トーノ・バンゲイ』は家人に取り上げられた。こうなると、向こうが読み終るまで返してもらえない。生存競争はきびしい。

7月 6日

『フランス妖精民話集』(現代教養文庫)を読む。
いちおう幻想文学研究者という怪しげな肩書きを名乗っている身としては、恥ずかしながら初めて読んだ。社会思想社の文庫版では、『フランス幻想民話集』を読んだきりで、フランス民話についてはほっておいた。いつでも買えるからと油断していたからだが、昨今の文庫事情の恐ろしさを忘れていた。いつのまにか現代教養文庫そのものが近所の本屋から姿を消して、いざ買おうとしても見つからなくなっていた。本を読む時間はあっても、いきつけの本屋よりも遠いところへ買いにいく時間がなかったりするので、困ってしまう。しかも、本屋さんに頼んでも版元で品切れという回答を一週間もかけてもらうことになる。

幸運にも、今回は同じ文庫の『フランス怪奇民話集』といっしょに偶然見つけたので、さっそく購入した。それにしても油断すると、あっというまに書店から消えてしまうのが文庫の宿命だ。
文庫でいつか買おうと思っていても、いつのまにか本屋から消えているものが多い。本屋から版元に注文して在庫がないと回答されたものが、都心の本屋ではごっそりあったりする。この国の流通事情はどうなっているんだ。
紙製の本を在庫しているだけで高い税金を払う法律があるいじょう、出版社はオンライン電子データ販売や電子図書館をぜひとも真剣に検討して欲しいと思う。

いっぽうで民話といえば、イギリスやドイツ語圏だと思いこんで、フランス語圏を軽く考えていたのも、この本探しに苦労した遠因であったと、深く反省した。
植田祐次が訳出・編集した現代教養文庫版のフランスの妖精譚は、イギリスやドイツとは違った味わいのものであった。固定観念にしばられていたのが、かえすがえすも残念である。
ちなみに植田氏が訳出されたフランス革命期の作家レチフ・ド・ラ・ブルトンヌの『パリの夜』(岩波文庫)はとても面白い。だが、こちらも古本屋でやっとみつけることができた。一味変わった面白い本を手に入れるのは、だんだん難しくなっている。

7月 7日

昨日いらい『フランス妖精民話集』と『フランス怪奇民話集』を読んでいる。
民話は非常に超現実的なシチュエーションが多くて、幻想文学好きのわたしは大好きだ。
それにしても、編者の好みもあるだろうが、ここに集められたフランス民話はえらくプリミティブな荒々しさに満ち溢れている。
実の娘の美貌に嫉妬して、殺そうとしたり、両腕を切り取らせる母親。魔法にかけられて小人になった王女を妻にして、鞭でなぐるは、馬の拍車で蹴飛ばすは、やりたい放題の暴力王子。魔法で醜男に姿を返られた王子は、自分を愛してくれない美人姉妹を次々とめとっては殺しまくる。

ウェールズ、スコットランドのケルト系や、ブリテン本島のアングロサクソン系、ドイツ語圏のゲルマン系、ロシア系、ハンガリー、スペインのヨーロッパ周縁部の民話群とくらべてさえ「凄い」と感心するほかはない。
「ほんとはとっても残酷な○○童話」というのが、このところ出版界をにぎわせている。でも、本来童話の原形である民話そのものには倫理性や近代的なヒューマニズムはない。
むしろ人間の内心の欲望や憎しみを、虚飾なくさらけだすところに値打ちがある。

とはいえ、このフランス民話集は凄すぎる。
だが、それゆえにこそ、編者の意図かどうかはわからないが、心の底に沈殿する暗黒面をえぐりながら、智慧と忍耐を通じて「魂の救済」を達成する奇蹟物語として読めてしまう。
ファンタジーとは、こういうものだと意を強くした。

7月 8日

『怪盗ルパンの時代――ベル・エポックを謳歌した伊達男』(和田英次郎)を読む。
ずいぶん前に購入しておいて、ついこの間発見した本である。

このホームページを見ていただくとわかるとおり、最近わたしは19世紀末に凝っている。
モーリス・ルブラン描くところのルパンは、この時代の申し子だ。
カーマニアの著者は、当時最先端のテクノロジーだった「自動車」と、ルパンにつきものの「美女」をキーワードに、世紀末から第一次世界大戦勃発前の「旧き良き時代」(ベル・エポック)を駆け抜けた快男児アルセーヌ・ルパンを斬る。

最近では日本で勝手に生まれた自称“孫”のほうが人気が高いので、20世紀末の少年少女はご本家を知っているだろうか。「ルパン一世」なんていうと、カルト的人気のアニメを連想してしまう……
でも、やっぱり、本家ルパンはかっこいい。
ルパンは「大昔の良い子」のスーパーヒーローだったなぁと思いつつ、頁をめくる。
(でも、ほんとは「三世」のほうも、そうなんですけどね)

7月 9日

読みかけて中断していたフランク・ベルナップ・ロングの『Howard Philips Lovecraft』を読みはじめる。
ロングが面白いことを云っているので、引用する。
……Marcel Schneider's La littérature pahtastique en France"(1964), Tzvetan Todorov's “Introduction á la littérature fantastique”(1970), and “L'Amérique fantastique de Poe á Lovecraft”(1973).※

※ The occurrence of “fantastique” in the title of all three volumes is a tribute to Gaelic perceptiveness, for there is no other adjective that conjures up so instantly, in all-embracing way, the literature of the weird, the strange, and the marvelous.
シュナイダーとトドロフというフランス幻想文学研究の大御所が、ラブクラフトを紹介した評論のタイトルに使った“fantastique”という言葉ほど、簡単かつ的確にこのジャンルを表現する単語がこれ以前には、英語圏では思いつかなかったというわけである。
70年代にアメリカにはじまったfantasyブームは、こうしてみると、フランス読書界の“la littérature fantastique”再発見と同期していたのか。
そういえば、あの頃に再刊された渋澤龍彦氏や種村季弘氏のエッセイをむさぼるように読むふけったものだった。日刊ペン社で荒俣宏氏が妖精文庫を編纂していたり、そろそろ日本でも幻想文学が一部愛好者の心にしっかり根をおろしはじめていた時代だった。
あのときから、現代的でないどころか、反時代的ともいえる怪奇・幻想・驚異の文学にすっかりとり憑かれてしまった。

ラブクラフトの系譜を汲む怪奇・幻想・驚異を怒涛のようにぶちこんだ“fantastique”な作品はもう出てこないものか。

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7月11日

『失投』(ロバート・B・パーカー)を読む。
私立探偵スペンサーもの。解説の北上次郎氏によれば、スペンサーが本領発揮をするのは、この作品からとか。
正直にいうと、以前読んだときは退屈で半分まで読んでやめた。
スペンサーや恋人スーザンの顔がどうしても浮かばなかったからだ。
主人公になりきるわけにもいかず(ライフ・スタイルが違いすぎる)、キャラクターのイメージもわかないとなると、退屈してしまうのも無理はない。だいたいわたしは本を読むとき、無意識に人物を映像化してみている。あたまのなかで、映画にしているようなものだ。
スペンサーについていえば、それができなかった。

今回読めたのは、アメリカ製TV映画でそれとしらずにパーカー原作のスペンサーものを観たおかげだ。二時間ドラマ程度の内容になっていたので、途中まで主人公が「この」スペンサーだとは気づかなかった。つまらないストーリだったが、スペンサーという男をイメージすることはできた。今回読み通せたのは、このTV映画のおかげだ。
だが――今後このシリーズを読み続けることはまずないだろう。

7月12日

『17世紀のある悪魔神経症』(S.フロイト)を読む。
ハインツマンという17世紀に実在した画家の悪魔憑きを、精神分析で解明した論文だが、どうしてもミステリーとして読めてしまう。
フロイトのことだから、悪魔を克明に描き出してオカルト好きを喜ばせる内容では、もちろんない。
だが、ハインツマンの病歴を生活史(ライフサイクル論)としてまとめあげた力量は凡俗のミステリー作家の遠く及ぶものではない。
詳細は別のエッセイに書くことにするが、身につまされて泣ける一編である。

7月13日

『鉄腕アトム VS 鉄人28号―僕たちの『少年』時代』(池田啓晶)を再読する。
この本が最初に出版された当時、雑誌『少年』に初出された鉄人の内容がそのころ入手できた単行本とひどく違うことをまだ知らなかった。絵柄がずいぶん違うから書き直しているとは思っていたが、池田氏のおかげで「失われた部分」は自分の知っているストーリーとはかけ離れたものだと知って驚いた。
そうとう昔に光文社から七巻本で出た“幻の”「鉄人28号」に収録されたその部分をぜひ読みたいと思っていたが、時価40万円の貴重本だったので諦めたものだ。

ところが、光文社が文庫で「鉄人28号」を復刻してくれたので、“幻の”ストーリーが日の眼をみた。十二巻本で「宇宙人間ケリー」編の導入部分までを出してくれたのだが、その後にさらに十二巻本で「ギャロン」編までも復刻してくれた。しかも、雑誌掲載時のままの復刻であるところが嬉しい。
もちろん、どちらも入手した。
光文社文庫をそろえたのも、池田氏の本で“幻の”ストーリーの存在を教えてもらったおかげだ。

正直にいうと、「アトム」は好きではない。アニメはともかく原作は暗くて読んでいられない。たぶん、著者池田氏のように後年特撮好き・アニメ好きになった旧「少年」たちのほとんどがそうだろう。
「アトム」の本質は少女だ。それは手塚治虫が認めている。大むかしの「男の子」にはつきあいがたい。この場合、「男の子」とはジブリ作品に出てくるような少年と解されたい。平成十一年の今日では、立派にジジイかオヤジである。

それにひきかえ、「鉄人」は機械や恐竜や怪人が大好きな男の子の永遠のアイドルである。
この作品に出てくる悪人はちっとも悪人のような気がしないので困る。ただし、アメリカのギャング「スリル・サスペンス」やゴラムス司令官のような例外もいるが。

ところで、「鉄人28号」は正体不明の悪人の手で製作され、背中のロケットも「ソ連」をモデルにしたらしい謀略好きの「S国」が開発したものだ。アニメで鉄人の開発にあたったはずの敷島博士は鉄人誕生になにほどの活躍もしていない。
少年探偵金田正太郎の父が鉄人を造った事実は、TVアニメ放映後の設定だ。
こうした邪悪な誕生を秘めたヒーローであるところが、「鉄人28号」の隠れた魅力だろう。ダースベーダーの出てこない「スター・ウォーズ」にいまいち魅力を感じないのも同じ理由による。
悪の出自を匂わせ、不気味な影を漂わせながら、無敵である。時には主人公の味方、ときには恐ろしい敵。
「鉄人」はヒーローの王道だ!

7月14日

本屋に出かけてシュニッツラーの本を見つける。
キューブリックの遺作映画が中編「夢小説(Traumnovelle)」を原作にしていることに眼をつけたらしく、ハヤカワ文庫と文春文庫が同作品を翻訳出版していた。後者にはこれしか収録されていないので躊躇したが、訳者が名訳者・池田香代子さんなので買うことにした。ドイツ語の翻訳者はうまい人があまりいないので、良い訳者の本はそれだけで値打ちがある。
とりあえずハヤカワ文庫も購入する。病床の訳者氏の解説が泣ける(作品とは無関係であるが……)

先ごろ、岩波文庫が池内 紀氏編・共訳の『夢小説・闇への逃走』をひさしぶりに重版したのも、キューブリックのおかげであったかと得心する。
ひさしぶりに同文庫で代表作『輪舞』を復刊してくれたのも、しょせんは同じ理由だろう。なにはともあれ、嬉しいことである。
買っただけでくたびれたので、その後については後日記すことにする。

ところで本日はパリ祭である。フランスにそんな祭りはないと云われてしまえば、そのとおりだが、久しぶりに古いシャンソンでも聞いてみよう。
もちろん『さくらんぼの実る頃』がいい。
ただし、酒はカロリー減らしのために焼酎だったりする。

7月15日

“In der alten Sonne"(Hermann Hesse)を本棚から引っ張りだして眺める。
ヘッセは翻訳だと楽しめるのだが、原文はポエティックで抽象的な部分が多くて疲れるとさっぱり読めない。ドイツ語がダメになったかと恐慌をきたして、H.Heineの“Deutchland Ein Wintermärchen"を取り出すと文意がとれたのでほっとした。

ドイツ語はむずかしい。とくに文学作品は。
これがニュースだったりすると、えらくわかりやすい。欧米の文芸作品は総じて時代が現代に近くなるほどわかりやすい。もっとも、英語・ドイツ語・フランス語でしか本を通読したことがないので、ほかの国についてはえらそうなことはいえない。

ところで、まったく関係ない話だが、今年の直木賞は桐野夏生氏と佐藤賢一氏が受賞した。どちらも注目していた作家なので嬉しい。自分の眼は確かだったと自信をもった。

7月16日

『夢小説・闇への逃走』を読了する。
“Traumnovelle"は他の訳者のものと読み比べてみたが、やはり池内紀・竹村知子訳(岩波文庫版)がいちばんよろしい。
同じ名前で出版できない事情があるのは百も承知でいうと、この幻想譚には「夢小説」という題名がいちばんふさわしい。この作品が発表された1925年にはフロイトの「夢判断」は古典となっていた。あきらかにフロイトの本を意識した題をつけているいじょう、字義とおり「夢小説」と訳すのが原作者の意にかなうはずだ。

ちなみに「夢判断」を「夢解釈」と訳す場合もあるが、これもいかがなものか。
現題“Traumdeutung"は字義とおり、夢を材料にした運勢判断・夢占いを意味する。フロイトもそれを承知のうえで、わざとこのタイトルをつけた。ユダヤ人流のアイロニーだと、フロイトならにやりとしながら云うだろう。
運勢占い・人相占い・手相占いのたぐいは、「運勢解釈」「人相解釈」「手相解釈」とはふつう云わない。

ともあれ、『夢小説』は幻想文学の傑作である。
緊張感にみちた展開、謎めいた設定、生と死が交差する夢幻的冒険とカタログ的にならべるだけではいいつくせない魅力がある。
「闇への逃走」は発狂する主人公の破滅への道程が痛々しい。迫害妄想の結果、悲劇的な死を迎える主人公を描く力量はすさまじい。
小編「死んだガブリエル」もなかなか読ませる。行間を読まなければ、何が語られているかわからない。心理的ミステリーとして読んでみても傑作だ。
ただし、これはジャンクフードに慣れた「お子さま」の読むものじゃない。

7月17日

コンラッドの『密偵』と『ギッシング短編集』を買う。
H・G・ウェルズの親友であり、文才はありながら不運な人生を送ったギッシングは『ヘンリ・ライクラフトの私記』であらゆる活字好きの共感の涙を誘った。この本が出たことは、『南イタリア周遊記』の刊行につぐ岩波文庫の快挙だ。

コンラッドといえば、映画『地獄の黙示録』の原作『闇の奥』しか読んだことがない。
正直いって、あまり面白いものではなかった。
だが、この小説は期待できそうだ。二十世紀初頭のロンドンを舞台にした冒険小説として楽しみたい。

それにしても近所の本屋でNHKのラジオ・ドイツ語講座のテキストを買おうとしたが、どこにも置いていない。フランス語・イタリア語・スペイン語はいくらもあるのに。
仕方がないから、大手書店へいったときにバックナンバーを買うことにする。

それにしても、ドイツ語はすっかり人気がなくなった。グルメ・ブームとは無縁だし、テレビ・ラジオ講座にも人気者がいない。現代日本人にとって、ドイツという国そのものに魅力がないのかもしれない。でも、少数派になると、なぜか嬉しいという歪んだ性質をもつわたしにはかえって面白い。
入門編はつまらないので、ふだんはまったく読まないのだが、今シリーズは火星人ピポを主人公にしている。ピポくんのイラストが可愛いので、毎月楽しみにしている。
衛星放送の「どーもくん」といい、最近のNHKは「おたく」ごころをくすぐるのがうまい。「ダンゴ三兄弟」みたいに自爆しないことを祈る。

7月18日

ハヤカワ文庫で『夢がたり』(シュニッツラー)を読む。
短編の女主人公たちは精神病理的な境界例ばかりだ。「フロイライン・エルザ」の狂気へのプロセスを描いたリアリティは「闇への逃走」に匹敵する。《息詰まる描写》というより、息苦しいほどだ。
死を暗示するラストが救いのようにさえみえる。
とにかく、シュニッツラーは狂人を描くのがうまい。
「花嫁」という短編では、精神病理学的な意味で淫乱症(ニンフォマニア)に陥った娼婦がヒロイン。
どれもこれも性の本能が壊れて自損へといたるストーリーだ。
かなり重苦しい気分になる。

7月19日

『独逸日記』(森鴎外)を読みはじめる。
鴎外は二十二歳から二十六歳までドイツに留学した。
二十一歳で東京大学医学部(この時代はまだ東京帝国大学ではない!)を卒業して陸軍軍医となって一年後のこと。(ちなみに漱石はまだ高校生だった。)

ベルリンでは、司馬遼太郎の作品でおなじみの陸軍卿大山巌や青木周蔵にあう。
留学先でであった人々は、注釈をみると、のちに明治時代の官界・学界のエスタブリッシュメントとなったものばかりだ。鴎外はそういう人脈のなかに組み込まれて生きていた。そのことは、決して本人とって本意とすることではなかった。
若い鴎外は後年の苦衷を予感することもなく、陸軍軍医森林太郎として、留学エリートとの交友や衛生学、社会見学、観劇に熱中する。

この人は当時としてはよほどドイツ語会話力があったらしい。
いろんな会合では通訳として大活躍する。それで、ねたみやそねみを買ってしまい、帰国後に苦労した。
鴎外は知るひとぞ知る翻訳の天才である。
現代ではあたりまえの原文一致風書き言葉が作られるにあたっては、鴎外の翻訳と漱石の天才によるところがおおきい。自然主義の作家や白樺派の初期のおぼつかない文章をみれば、このふたりが現代日本語創世期にどれほどの力を発揮したかは一目瞭然である。
大学受験の知識としては常識以前のことだが、このことは何度繰り返してもいいほど大きな事実であることを、司馬遼太郎は教えてくれた。

ところで、鴎外は滞欧中に陸軍食を和食にするべしという著書を書いて、帰国後に西洋かぶれの「肉食」推進派をやっつけたりもしている。いろいろ批判もあるが、権威や知識で眼がくもることだけはこの人に限っていえば……ない。その人が保身のために後でとった行動は、このことを考えあわせるとひどく切ないものがある。

7月20日

『独逸日記』を読む。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』で悪名をはせた伊地知幸介の名前がでる。このエリートのおかげで、あの二〇三高地ではどれほどの若者が無駄に殺されたことだろう。
ただし、本人が登場するわけではなく、ドレスデンの酒場にこの男そっくりのウェートレスがいたので、大笑いになったというだけのことだ。

『三木のり平のパーッといきましょう』を入手する。
探していた名優三木のり平の芸談聞き語りだ。
この本ではじめて知ったが、三木のり平は慶応大学で精神医学を教えていた大川定次郎氏の息子だった。いわゆる私生児である。
このごろ、精神医学関連のことを調べているので、大川氏の名前はどこかで見た記憶がある。さっそくチェックしておかねばなるまい。

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7月21日

三木のり平の『パーッといきましょう』を堪能する。
聞き語りなので、梅干し入り焼酎のお湯割りをすすりながら、良い気分で語り続ける名調子がおもしろい。記者が巧みに構成したおかげで、テープからそのまま興した感じだ。

待合で私生児として誕生した三木は、男女の情痴の巷で門前の小僧のたとえ通りにさまざまな遊芸をおのれの血肉と化してゆく。
大学に入学して左翼演劇にまぎれこみ、西村晃と親友になる。特高に検挙されて、左翼演劇から離れて、戦後にはやくざの三下になったり、闇屋になったり、危ない世界を渡り歩く。その時代には、刺青までいれていたらしい。
三木鶏郎のグループにはいって、ラジオ番組に出たのが運のつきはじめだ。
「三木のり平」という芸名は、ふざけてリーダーの「三木鶏郎」からつけた名前だ。
この人の本名は、田沼則子という。則子とかいて「ただし」と読む。最初は、本名をもじって「三木のり子」という芸名だったのが、番組紹介の誤字で「のり平」と出たのがきっかけで今の芸名になったとか。
三木が云うには、有名な「桃屋」の海苔佃煮の宣伝に出るようになったのは、この名前のおかげ。このCMは、名優亡き後もいまだTVで放映されている。

さて、焼酎をすすり、記者(小田豊二氏。この人は『勘九郎とわず語り』の構成もしたという。この本も楽しく読んだ)を叱り飛ばしながら、三木は屑屋とバタ屋の違いから、秋葉原の名前の由来まで次から次へと江戸っ子の雑学を披露しながら、「芸談なんざ、いいたくねぇ」と含羞にみちた口調で重みのある芸談を語ってくれる。
それはひとことでいえば、観察と蓄積の尊重に尽きる。
たとえば、三木は決してギャグを思いついても、その場では絶対に云わない。それを使えるシチュエーションを徹底的に考え抜いて、絶対にはまる場所で「殺し文句」として使う。しかも、いったんそれが「流行語」になると、二度とやらない。
つくづく凄い芸人であった。

雑学も、ギャグも、この人にとっては、「笑い」をとるための蓄積の一環だった。瞬間芸のギャグではなく、周到に伏線をはりめぐらしたナンセンス・ギャグで観客の見当識を崩壊させるのが、三木の笑いだ。弱者をいじめて、観客をいじる笑いは、峻厳に否定した。
ひどく気難しい孤高の天才ではあるが、最後まで己の美意識を貫きとおした「傾き者」だ。その後ろ姿は、男として惚れ惚れするほど美しい。いろいろな美女に愛されたという噂は本当だろう。

7月22日

ひさしぶりに飲み会にでかけたので、読書はお休み。
ついでに池袋の大手書店に寄ってNHKラジオ・ドイツ語講座8月号を買う。バックナンバーを探したが先月号はなかった。他の外国語テキストはいっぱいあるのだが。
ドイツ語の未来に暗澹たるものを感じる。

不安な気持ちをいだいて、外国語学習本の棚へむかうと、おもしろい本があった。
某社の児童版世界名作文学全集に収録されていた『悪童物語』である。対訳本なので、わずか三編しかないが、懐かしいので購入した。
ドイツ語そのものも、とても易しいのですらすら読める。
作者ルードヴィッヒ・トーマはバイエルンの人だと知る。この作品のユーモアと明るさの秘密がわかったような気がする。わたしは南ドイツの文化が好きだ。陰鬱な北方ドイツは苦手だ。
つらつら考えてみると、わたしが好きな作家は頑固もののシュワーベン人か、陽気なバイエルン人だということに思い至った。リューベック生まれの文豪(トーマス・マン)も育ちはミュンヘン(バイエルン州の首都)である。

ところで、某社ともったいぶって書いたが、タネをあかせば、小学館のものだ。
実家に帰省したおりなど、いまでも手にとることがある。
子どもむきとはいえ、これに入っているユーモアものはかなりのレベルである。ジェロームの『ボートの三人男』など、著名な大評論家先生が、権威ある大手出版社から出した定評ある立派な翻訳本よりも、リライトされたこちらのほうが数百倍おもしろい。不思議な話だが、ほんとうである。
この文学全集の同窓生というべき活字人間はたくさんいるが、わたしの知る限り、だれもが首をかしげている。
いつか原文と照らし合わせて、この謎を解明してみようと思う。

7月23日

『司馬遼太郎が語る日本――未公開講演録VI 完結編』を読む。
このシリーズもいよいよ終りか。
全巻ともに面白く読んだ。司馬さんは『街道をゆく』をはじめとする紀行エッセイを生涯で最後の仕事とした。
この「完結編」に収められているのは、そのころの講演だ。
小説家としての自己限定を捨てて、思想家司馬遼太郎が誕生した時代である。面白くないわけがない。
大企業トップが自涜気味に愛読する司馬史観は、そこにはない。『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』の英雄豪傑に、自分を重ねるかれらは、この時代の司馬さんの澄み切った世界はなじめなかった。そのことについては、いろいろな場所で証言がある。だが、一部の雑誌や言論人は、いまだ「戦後日本資本主義」をことほぐ「曲解された司馬史観」の宣伝・顕彰につとめている。

7月25日

24日にメガネが壊れたせいで、読書ができなくなった。
メガネの修理には月曜日までかかるというので、とにかく眼をつかう作業はお休みとなってしまった。
さらに、25日は法事で京都へでかけたので日記も読書もお休み。

京都では、午後から時間があまったので、思い切って比叡山延暦寺にいってみることにした。
京都から比叡山坂本までいって、ケーブルカーで山上までいった。
坂本では日枝大社にもいくことができた。叡山の歴史を語るとき、日枝大社は欠かすことができない。ここの御神輿をかついで叡山の僧兵たちが京都へ強訴へでかけたのは周知の事実。
僧兵対策のために、院政期の上皇たちが起用したのが桓武平氏だ。いってみれば、日枝大社は、日本中世という輝かしい時代の幕開けの舞台であった。
ここはうっそうとした森に囲まれた落ち着いた良い場所だ。紅葉の時期は別だとタクシーの運転手さんから聞いたが、いまは観光客もあまりいない。
山から湧き出た奇麗な水が境内の道の脇を静かに流れる。石組みの橋もみごとだった。
「神寂びた」というほかはない、厳かな佇まいである。
ぜひ、またいきたい。

叡山では、大急ぎで横川と根本中堂をまわった。
横川は日本の浄土教の発祥の地である。ここの横川中堂と元三大師堂にはぜひいきたかった。
ここも清浄な土地である。この地で元三大師(良源)とその弟子恵心僧都源信が修行したかと思うと感慨がふかい。
鎌倉仏教の大立て者、法然、親鸞、一遍、日蓮、道元もみんなここで修行した。
以前は知らなかったが、中世仏教の雄、蓮如までここで学んだという。
日本仏教を価値あらしめたほとんどすべての人間がこの地にいた。そう思うと、歴史の重みをずしりと感じた。
ただし、まわっている最中は猛暑のせいで脱水症状をおこしかけていた。あんまり考えもしないで、せっせと早足に歩き回った。物好きもここまでくると、たいへんだと我ながら思う。
時間がなかったので、西塔と東塔はパスして、根本中堂と大講堂をみる。
根本中堂は最澄がはじめて庵を結んだあとに建てられた。
わたしは日本の宗教人のなかでは、最澄という人がいちばん好きだ。およそ開祖という人々がもついかがわしさとカリスマ性がまったくない。「清冽な渓流の清水のような」と喩えるのがいちばんふさわしい。
およそ人間のありようとしての好ましさ、美しさを、この人ほどさりげなく備えた人はそれほどいないのではないか。
その人の祖像が、格子で隔てられた薄暗い講堂のむこうにあった。
参詣者は格子窓ごしに中の仏壇を拝むかたちになっている。内部はかなり広い空間で、いっしゅ幽冥をことにした異世界と感じられないこともない。
みると、格子窓のわきに鉄製の数段組みの蝋燭立てがある。どうやら燈明らしい。
一本20円なりで蝋燭を献じることができるとある。鉄皿みたいな賽銭入れに小銭をいれて燈明をあげた。その形といい、落語の「死神」にでてくる「生死の蝋燭」を連想してしまう。注意しながら、開いている蝋燭立てにたててみた。
その蝋燭立てには、説明文がついていた。
「不滅の法灯」とある。
信長の叡山焼き討ちでも消されることなく、ともされ続けている「不滅の法灯」が、これであったか。
それとしらずに最澄いらい綿々と絶えることなく、燃え続けた法灯に、一灯を献じたことになった。
わたしは合掌して瞑目した。

7月26日

ひさしぶりに『知的生活の方法』(渡部昇一)を取り出して読む。
この本にはじつに素敵な老人が登場する。
渡部昇一の中学校の恩師、佐藤順太氏である。還暦をこえて、戦後教職に復帰したこの老教師に出会った頃、渡部はいまでは信じられないが劣等生だった。初歩のリーダーを教えるだけのありふれた英語の授業なのに、なにかバイブレートするものを感じたのだろう。
佐藤の隠居所を訪れると英語はもちろん漢文、古文の古典までが天井まで積み上げられていた。
世間話のあいだにも、江戸時代でいちばん良い『伊勢物語』の注釈書をひょいと取り出したり、『孟子』の訓読方法が注釈学者によってちがうことを実物で教える。
ラフカディオ・ハーンの立派な全集をもっていて、英文学者ハーンの素晴らしさを中学生の渡部に力説したりもする。
とにかく凄い学者である。
それでいて世の中からみれば、東北の田舎で中学教師をやっている囲碁好きの老人にすぎない。
渡部少年は《大人が知的生活を営むこと》の美しさを、この無名の老教師に身をもって教えられた。

渡部の本は、立花隆の『知のソフトウェア』と並んで、知的生活を送ろうとする人にとって大切なアドバイスに満ち満ちている。
「本は身銭を切って買うものだ」
このなによりも大切なことを教えてくれたのは、渡部と立花隆だった。
「金はなくても良い本はとにかく買ってしまおう」というのが、わたしの人生哲学となっている。

7月27日

『雨の襲撃者』(ジャック・ヒギンズ)を読む。
くたびれたのか、さっぱり頭が働かないので、昔読んだヒギンズをとりだす。
だいぶ前に読んでいたが、ストーリーは少しも覚えていない。
ヒギンズの感動の名作はストーリーを鮮明に記憶しているから、これはあんまり面白くなかったのかもしれない。
とはいえ、読み返してみるとなかなか面白い。

ヒギンスの作品では、『鷲は舞い下りた』と『暗殺のソロ』がいちばん好きだ。
次点では『死に行くものの祈り』がいい。
ハリー・パターソン名義の『ヴァルハラ最終指令』と『ウィンザー公掠奪』もいい。

7月28日

デパートへでかけて、買い物につきあう。
ついでに、海老天丼を食べて「えびす」ビールを二本飲む。家人がビール嫌いなので、ひとりで飲んでしまったようなものだ。
天丼が美味かったのと、ビールが冷やしすぎてなく、適温に冷やしてあったので、のどごしよくぐいぐい飲んだ。ダイエット中であることをつい忘れていた。
京都へいった疲れがでたのか、帰ったらそのまま爆睡する。
貸しビデオ屋でビデオを借りようとしたが、眠気にかてず、面倒になったのでやめた。

今日は電車でNewsWeekを読んだだけだった。反省する。

7月29日

『雨の襲撃者』(ジャック・ヒギンズ)を読了。
仕事が一段落したので、ワインを飲みながら読んだ。ワインは「こうべわいん」のロゼ。「淡麗」な味わいで、とても飲みやすい。あっという間に一本開いてしまった。
ところで小説のほうは、残念ながらあまり面白い作品ではない。
ヒギンズも後になるほどつまらない本が多い。例外は『ルチアーノの幸運』か。
あれはよかった。

夜寝苦しかったので、起きだして『平家物語』を読む。
ようやく巻第五の『源氏揃』まですすむ。源頼政が以仁王に挙兵をすすめるところである。

7月30日

ふたたび鴎外の『独逸日記』にとりかかる。
ドイツで鴎外は日清、日露戦争の大物、川上操六と乃木希典にあう。川上は日清戦争で肝胆を砕いた天才的な名参謀である。日露戦争の頃には病死していたと思う。
乃木は少将として、留学していた。長身で容姿のよい男であった。
この人物は将官としての無能を自覚しつつ、旧弊な精神主義でともすれば破綻しそうな脆弱な自我を補強しながら、かろうじて生涯を続けた。ドイツ留学もこの人物が要路の人々から愛された証明だろうが、本人にとってそれがありがたかったかどうかはわからない。
日記の記述からすると、例の伊地知や乃木と鴎外はよくつきあっていたらしい。

7月31日

『UFO事件の半世紀』という本を読む。
ケネス・アーノルドという有名実業家が目撃したことから、UFO伝説は誕生した。
誤解されているが、アーノルドはけっして円盤型の飛行物体をみたわけでない。
物体の動きが、まるで水面を跳ねて跳ぶ「皿みたい」だと云ったのである。つまり、石を水面になげて水のうえを跳躍させながら距離をきそう遊びの「平らな石」の動きに、謎の物体の動きをなぞらえたわけである。
ところが、それからぞくぞくと円盤型の飛行物体の目撃報告や写真がマスコミによせられた。
ただし、現代ではメカニックな金属製の円盤を撮影した写真は、ほとんどガセネタだと証明されている。
有名なUFO本で紹介された写真も、精密なコンピュータ解析によって、トリックがあばかれた。

わらってしまうのは、世界ではじめて宇宙人に誘拐されたヒル夫妻の宇宙人の描写が、事件から数年後に夫妻がみたB級SF映画のそれとそっくり同じであったというデータだ。
退行催眠で宇宙人誘拐事件を調査するといっても、こうした経験まではいりこむから、事実としての信憑性はあまりない。
もっとも、こんなことは深層心理学やカウンセリングをちょっと勉強したら、すぐわかることである。心理学の世界では、こんなことは常識だ。
催眠や心理分析をあまり神秘化したり、深刻に考えすぎることは禁物だ。

とにかくUFO事件の「証言報告」がB級SF映画に「汚染」されていることは、まじめな研究者たちにとってはもはや常識らしい。
B級SF映画にたいするマニアックな偏愛が、UFO研究者には必須の資質だと主張する「専門家」までいる。
「UFO」とは、物理学の仕事であるよりは、社会心理学や都市民俗学の領域に属するものだとおもう。

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