お気楽読書日記: 4月

作成 工藤龍大

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4月

4月30日

なんとか、予告とおりアップできました。

それにしても、ちょっと見通しが甘かったです。
<Die Presse>の記事をプリンターで打ち出してみたら、A4用紙で18ページにもなってしまいました。けっこう分量があったんですね。ひさしぶりに辞書を引きながら、読んだのでくたびれました。(笑)

ところで、前にも書いたように、翻訳すると著作権上でも問題ですし、スペースもばかにならないので、ざっくりと抄訳します。
悪名高い「超訳」にならない程度に、かいつまんで紹介します。

インタビューが企画されたのは、5月1日にオーストリア自由党の党首の座をハイダー氏がスザンヌ・リース・パッサー女史に譲ることになったからです。
このインタビューについて結論からいえば、べつに新しいことを云っているわけではなく、従来からの主張を繰り返しているだけです。
極右や極左の人々は、この点パラノイアに似ていますね。
読みながら、あくびがやたらと出てしまいました。

党首の座を去ることについて、コメントを求められると、ハイダーはさらりと質問をかわして、EUの不法な制裁措置を非難した。
制裁措置は即刻解除するべきだと主張する。
自分たちやオーストリアは、スケープゴートにされているだけだと云うのである。

自分たちは不当に評価されており、いまは「極右政党」ではないと言う。
ハイダーの主張では、「極右政党」とは立派な憲法をもつ国家を転覆して、民主主義を破壊する団体だ。自分たちはそうではないと言うのだ。「極右政党」という名称は、マスコミの商業主義の産物だといいはる。
外国人観光客の数は増えているし、外国の右翼・左翼勢力にも自分たちを支持する人々がいる。だから、EUのやっていることは言いがかりに等しい。
残念なことに、オーストリアは自信がないおかげで、外国に噛み付かれるとすぐ泣きつく情けない国だと憤慨している。

ハイダーは、いまの状況を打開するために、ふたつの方法を考えている。ひとつは地方選挙や国政選挙で議席数を増やすこと、もうひとつは制裁措置をできるだけ早く解除させることだ。
さいわいにして、外務大臣と官房長官は自由党が押さえているから、後者についてはハイダーは大いに自信を持っている。

とにかくEU諸国のやり方、とくにフランスを非難して、ヨーロッパは多様でなければならない。だから、他国の内政干渉は止めろと主張している。
ほとんど、この主張一点張りである。
EUが内政干渉するのは、「植民地主義」だとまで云うほどだ。

記者がEU選挙への参入を考えているかと聞くと、ハイダーは考えていないという。自分たちがまだそこまでは大衆に受け入れられてはいないことを認めている。
しかし、オーストリアの地方政権や国政選挙には大いに野心を燃やしていて、シュトイアーマルク州や、グラーツ州、ニーダーエスタライヒ州では議席を増やしつつあることを誇示している。

大統領になる気はあるかと聞かれると、答えは避けているが、首相には野心がありそうな口ぶりだ。
労働政策や医療問題を手がかりにすれば、自由党が躍進するというようなことを言っている。言外に、これを手がかりにして、いずれは政権の座につこうとするようにもみえる。
以前は仲の悪かった産業界にも、ぼつぼつと支持者を増やしていることも、ハイダーの自信となっているらしい。

最後には、自分はもともと田舎者だから、田舎に引っ込むというようなことを言っているが、地方政府の政権をとってやがて国政の中枢部に踊り出ようという遠大な計画が見え隠れしている。

ざっとインタビュー記事を読んだ感想では、とにかく、この男には理路整然と自己の主張を相手に聞かせる器量がある。

今回はいちおう撤退のかたちをとったが、きっと何らかの策をこうじて、巻き返しを図るだろう。
この男がいる限り、ヨーロッパは決して安心できないだろう――という感じがしますね。
いまヨーロッパで、いちばん熱いところは、かつてオーストリア帝国の領土だった地域です。
「20世紀はドナウで生まれ、アメリカで育った」という言葉があるのをご存知ですか?
じつはアメリカが作ったとされる電気製品、ハイテク製品の原型は、チェコやウィーンあたりで生まれていたのです。電子レンジも、電気冷蔵庫も。
そして、コンピュータの生みの親、フォン・ノイマンもこの地域の出身でした。
20世紀の偉大な科学者、思想家、芸術家のほとんどは、ドイツ南部からチェコ、オーストリア、ハンガリーあたりで生まれていたのです。
ドナウの沿岸で生まれた人々や、その弟子たちが、パリやベルリン、ロンドン、アメリカへいって花開いたのが、20世紀文明だというのです。

もちろん、すべてがそうだと云っているわけではありませんが、この地域で生まれた人々のアイデア抜きで20世紀を語るのは不可能でしょう。
そんなわけで、19世紀末とおなじように、20世紀末から21世紀初めにかけて、この地域がふたたび台風の眼になりそうですね。

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4月29日

本日の読書日記に入る前に、ちょっと一言。
読売新聞日曜版で連載していたドイツ語文学者池内紀さんの「ドイツ宝さがし」が本日(4月30日)で終了しました。
いまでは、大学でのドイツ語履修者の数は激減しているとか。
「気息えんえん」とまで、池内さんは云っています。
いまどきドイツなんて、流行りませんからね。
無理もありません。

ところで、池内さんによると現在、ドイツ語を母語とする人の数は1億人。
そのうちわけは、以下のとおりです。
  • ドイツ 8200万人
  • オーストリア 750万人
  • スイス 400万人
  • ルクセンブルク・リヒテンシュタイン 40万人
  • 東欧一帯 610万人
古いデータですが、フランス語使用者はフランス国内で5861万人。残りはベルギー、カナダ、スイス、アフリカ、カリブ海の一部です。母語とする人ならおそらくドイツ語よりも少ないかもしれません。
ちなみに、スペイン語使用者は1億人以上。たぶん、こちらはもっと増えていることでしょうね。

ドイツ語も母語とする人というなら、このくらいでしょうが、中東や南欧・北欧ではドイツ語を話せる人の割合は英語使用者よりも多いのです。

ヨーロッパの田舎では、英語よりもドイツ語のほうがはるかに通じます。このことは、ギリシアの田舎で道を聞くときに実感しました。

それというのも、ヴァカンスとなると、ヨーロッパの田舎や観光地へどっと洪水のようにドイツ人が繰り出すからです。ギリシアなんかは、引退したドイツ人が家を買って住むことが多いので、ますますドイツ語が通じます。
フランス人が国内旅行で満足するのに、ドイツ人はヨーロッパじゅうを民族大移動のときのゲルマン民族さながらに歩き回っています。

アメリカが不況だったころは、ヨーロッパの観光業者にとってドイツ人がいちばんのお得意でした。もちろん、日本人も。

こんなことを書くと、ドイツ観光局の回し者みたいですね。(笑)
とにかく、アメリカ英語を別にすれば、ヨーロッパ系言語としてはスペイン語の次に使われているということです。まあ、勉強しておいて損はないと思います。
たぶん、いま人気のイタリア語をやっても、観光くらいにしか役立たないでしょう。むかしがんばってスペイン語を勉強したひとは、いまはあんまり使う機会がないと嘆いています。
イタリア語も結局はそんなことになるでしょうけれど。(冗談)
とにかく、この国の語学ブームは一過性の片思いみたいなものです。はしかや、知恵熱と同じ次元だといってもいいかもしれません。

ただ英語だけは、アメリカ・ドルが強いかぎり必須になるでしょうけれど、それだって実はいつおかしくなるかはわからない。IT革命と英語の普及は、偶然の一致という厳しい見方だっておかしくはない。とにかく、日本という島国に生まれあわせた以上、日本語と英語だけですむと考えるのは大間違いだと、そっと云いたいのです。

などということを、うだうだ考えているうちに、またも更新のタイミングを逸してしまったので、本日(4月30日)の更新はお休みとなりました。
まことに申し訳ありません。
そのかわり、これから「論語を読む」を久しぶりに書いて、明日(5月1日)にアップしようと思います。
ぜひぜひ、読んでやってください。

読書日記を書こうと思っているうちに、ドイツ語のことだけで、こんなに長くなってしまいました。
ついでだから、久しぶりにドイツとオーストリアの観光サイトを調べて、うちのリンク集に追加しました。ここをクリックすると、飛びます。
ほとんどドイツ語ばかりですが、英語版のところを使用してください。
「ウィーンなんでも情報」は日本の観光業者が運営しているので、かなり充実したできです。

ところでドイツ語ではアマチュアにすぎないくせに、わたし自身、なんでドイツ語をやっているかというと、ひとつにはS.フロイトやC.G.ユンクの本を原書で読みたいという趣味と実益をかねた部分と、ギリシア歴史を本格的に勉強したいという願望があるからです。
ご存知の方もおられるでしょうが、古代ギリシアについての最良の百科事典はドイツ語のものです(バウリー・ヴィッソヴァという人の事典です)。
それに、ギリシア語の最良の教科書はケーギというドイツ人が19世紀に作ったものです。
19世紀とは古臭いと笑われそうですが、古代ギリシア語学についてヨーロッパではルネサンス以来の積み重ねがあって、それが集大成されたのが19世紀なのです。
専門家しか知らない大学者さんたちが今日でも価値ある大研究をなしとげたので、古代ギリシアに興味があればその恩恵に浴さざるをえません。
これはフランスにおいても同じで、語学の才能がないわたしごときやからがドイツ語や、フランス語をせめて読解だけでもものにしたいとおもう理由はここにあります。

英語と日本語だけで古代ギリシアを語る度胸は、小心者のわたしにはありません。

というわけで、いまでもドイツ語をやっているのですが、ドイツ語人気の大暴落にはまったくの門外漢でも「これでいいのかな」と不安を覚えてしまいます。
それは実はフランス語のほうにも感じてはいるのですが、こちらは英語ができる女の人たちが第二外国語として修練に励んで、仏語検定を受けたりしているので、たぶん大丈夫だとおもいます。
じっさい、英語ができる人にとって、フランス語はそんなに難しくはありませんから。ただし、話すのは別ですけど。(それは、わたしだけかもしれませんが……)

ところで、こんなごたくを並べたついでに、明日(5月1日)にはちょっとした企画を考えています。
別にたいしたものではありません。

このところ、愛読しているオンライン版の<Die Presse>というオーストリアの新聞に、ヨルグ・ハイダー氏のインタビューが掲載されていたので、内容を紹介しようと思います。
翻訳すると、著作権上まずいとおもうので、大意だけですが、どうかお楽しみに。
でも、あんまりたいした内容ではないとかえって怒られるかな。(笑)
そこは少し心配です。

ちょっと本日は高ビーすぎたかもしれませんが、まあこれ(ギリシア史への想い)が、わたしのライフワークなので、ご勘弁を。

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4月28日

いよいよゴールデンウィークですね。
うちはその前に旅行に出かけたので、今回は自宅で読書三昧にふけることにしています。
シーズン前だったから、運賃も安かったし、宿泊代金も安くあがりました。(笑)

ところで、気がついたら、もうツツジの季節です。
街路樹ではハナミズキが紅と白の花を咲かせています。この花は、紅花の木や、白花の木だけではみょうに寂しいところがあって、両方が並んでいないとかえって花の盛りが寂しく見えます。
そのかわり、両方が並び立つと、豪奢な感じがあって、いいですね。

ミズキという木は葉っぱは盛大に茂らせますが、花は冴えません。ハナミズキは、同じミズキ科の植物なので、枝の伸ばし方はそっくりですが、花はまるで別です。ただし、ミズキの枝は実物をみるとよくわかってもらえるでしょうが、まるで節句の雛段みたいな葉のつけかたをします。よく茂ったハナミズキの花のつきかたは、ミズキの葉のつきかたとそっくり。
名前をつけた人は、よく観察していたんだなと感心してしまいます。

このサイトで連載していたエッセー「植物探偵の冒険」は、しばらくお休みしていますが、今度強力な助っ人にきてもらいました。
その名も、「学生版原色牧野日本植物図鑑」(北隆館)です。
廉価版とはいえ五千円くらいする本ですが、古書店で1000円ほどで買いました。昔から欲しかったのですが、仕事以外の本に5000円も出すのは気が引けていたのです。

これを愛読して、植物探索エッセーを再開しようと思っています。
ちょっと自慢すると、「植物探偵の冒険」はインターネットの国際ニュースで有名なあの田中宇さんに見ていただいて、褒めていただいたことがありました。
田中さんのHPにリンクを張ったときに連絡しただけなのに、田中さんは律儀にこちらのHPを読んでくれたのです。
「無断でリンクを張るな、張るなら報告しろ」というHPは多いのですが、実際に連絡したところで梨のつぶてというところがほとんどなのは、皆さんもご存知のことでしょう。
MSNから独立して多忙なのにもかかわらず、田中さんからわざわざメールまで頂戴しました。田中さんは良い人だと思います。(感謝)

ところで、本日読んだのは、いささか毛色が変わっています。本と読んでいいのかどうか。
NHK教育TVの「人間講座」のテキストだからです。
教育TVの「人間講座」「文化セミナー」「こころの時代」「宗教の時代」といった教養番組のテキストはなかなかバカにできない充実ぶりです。
書き手も一流ですし、深い内容を質を落とさずにコンパクトにまとめているいるところが凄い。
値段も、普通の文庫本くらいします。(600円くらいから1000円くらい)
あとで、NHKブックスや新書に入れてしまうケースも多いので、乱読派の活字人間には見逃せませんね。
だとすると、テキストブックとはいえ、立派な本としてしまっていいでしょう。

それで今回取り上げるのは、古書店主にして直木賞作家の出久根達郎氏の「漱石先生の手紙」です。

出久根達郎さんは茨城県の中学を卒業してから、集団就職で古書店に入りました。
今でも、「芳雅堂」という古書店を経営しながら、作品を発表しています。
この人の古書エッセイはほんとに泣かせますね。ほんとに苦労人で、思いやりにあふれた作風で。
わたしは大ファンです。
余談ですが、この人の小説の後書きを書いた評論家に、出久根さんを評して「いまも古書店を細々と経営している苦労人」と書いた大バカ者がいます。本人が謙遜して云うならまだしも、作家のフンドシで相撲をとる評論家がそんなことを云うとは。しばらく、絶句して、のち腹をかかえて笑ってしまいました。

そんなことはどうでもいいですが、出久根さんは「漱石は上の学校へいけなかった私の大学である」と考えています。
手紙の書き方から、言葉遣い、世間常識、金銭感覚をすべて教わったそうです。もちろん、文学も。
店では携帯電話やEメールが流行る今も手紙の書き方の本を求めるお客さんが多いとか。
出久根さんは、そんなお客さんに「手紙の書き方」の本を差し出しながら、漱石の書簡集を読むことを勧めることを忘れないそうです。

漱石になぜそんなに惹かれるかといえば、なによりも漱石の暖かい人柄が好きであるというのが最大の理由です。
漱石は胃病にもなったくらい気難しい人でしたが、誠がある人に対しては見知らぬ他人であっても、心を開く人でした。
小学生や芸妓の読者にも親切に手紙をだし、病気や貧困を告白する読者には励ましの言葉を送りました。
旧制第一高校で教えた教え子が、漱石の小説を読んで励みにしている手紙を出すと、教え子が43歳で亡くなるまで文通を続けました。
文通で知り合った関西の若く貧しい禅僧たちのために、東京旅行の旅費を出してやったり、自宅に宿泊させて小遣い銭まで与えました。
もちろんただの物見遊山に金を出したのではなく、この禅僧たちが見聞を広めて、世間の人々に役立つ人になるようにと考えてのことです。
これが漱石の亡くなるほんの二月前のことでした。
漱石自身も体調はあまり良くなかったはずです。

こんな漱石だからこそ、まわりに多くの青年たちが集まったのでしょう。
武者小路実篤や志賀直哉も、漱石に励まされた若者たちです。
昔の教え子をはじめとして、漱石は手紙を通して、いろんな人の教師役を務めていたと、出久根さんは云います。
人々は漱石の手紙に励まされて、誠実な人生をまっとうしたと。
それは、出久根さんその人の思いでもあるのです。

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4月27日

しばらく自分としては相当長い日記風エッセーを書いていたので、更新がずっと遅くなっていました。
本日あたりから、以前のペースに戻るようがんばります。
更新が遅いと、読んでくれる人が確実に減るようです。(笑)

ところで、本日は「旅のパンセ」(五木寛之)。
いつも思うのだが、五木寛之のエッセーは気分がいい。
風通しがいいのである。たぶん五木ファンは、遊牧民も好きだろう。
風に吹かれて、草原にいる気分が、どのページからも匂い立っている。

この本には、1970年代と1990年代に書かれた旅にまつわるエッセーがおさめられている。
70年代の旅ではヨーロッパと南米をまわった。そういえば、五木には「夜明けのタンゴ」という作品もある。傑作「戒厳令の夜」では、主人公たちは南米で死ぬ。スペインや南米をよく小説の舞台に使う。ある種の日本人は、ラテン文化圏(フランス語文化圏とは違うスペイン語文化圏という意味で)につよく情念的に惹かれる。
ヨーロッパでありながら、どこかアジアと共通するものがあるからだ。それはスペイン語が使えなくても、視覚や皮膚感覚でわかってしまう。五木もそうした一人だ。
飛行機が直陸する旅に乗客が拍手喝采するボリビアの旅客機に乗り合わせて、肝をつぶしながらも、なんだかほっとしたりする。
でたらめな南米の運行時間に怒りもせず、空港のコーキー・カウンターでグアテマラ美女の曲線美に見ほれたりする。いいかげんであるけれど、人間味あふれたラテン人種が大好きなのである。

それが一転して、ヨーロッパにゆくと、ストックホルムやパリを見る眼は厳しい。すでに色濃い疲弊と衰退の臭いを嗅ぎ取っている。
五木は作家デビューする前年に、ロシア経由で北欧四ヶ国をまわった。初期の五木の作品には、北欧がよく登場する。思い入れのある国だった。
しかし、それから10年後に訪れたストックホルムは荒涼としていた。
「この国の人間たちは今幸福ではない」
「理由のない荒廃の影を見た」
五木はパリでも同じことを直感した。
唯一、活力を感じさせたのが、ドイツのハンブルクだった。

さらに20年後、五木はドイツのアウトバーンで同じように「理由のない」衰退の影を観た。
かつてヒトラーがドイツ国民をかきたててアウトバーンをつくり、フォルクスワーゲン(国民車)を作らせたときのエネルギーや、戦後ドイツの経済復興をささえたエネルギーはもうないらしい。
ドイツ人はもう子供を作りたがらない。子供が16歳になったら、とっとと家を出して自活させようとする。子供は両親が十分に扶養してくれないからと訴訟まで起こす。
ヨーロッパ先進国を覆う人口減少の風潮は、ひとつの文明の終わりさえ感じさせる。おそらく、あそこが再生するには、いまは経済が停滞している東欧ががんばるしかないだろうが、自然と資源を浪費するヨーロッパ型文明が再活性することがよいことなのかどうか。
むしろ自然と共生する静かな刻を望んだほうがいいような気もする。
フランス人や、現代ドイツ人は、日本人と比べてさえはるかに都市の民であるが、いまはむしろその本来の姿である田園と、森林に帰るほうが幸せのように思えてならない。
わたしは活字やITの世界を通してしかしらないが、この頃のドイツの文物はとにかく荒んでいる。これがフランスになると、もう言葉を失ってしまう。
ヨーロッパには偉大な過去があるだけだ。

しかし、アジアも安閑としてはおれない。
五木が90年代に訪れた北京で、中国青年は「いまどき魯迅を読む人はいない」と語った。
「時代が魯迅を忘れようとしている。時代が魯迅を読んでいない」
五木は云う。もはや中国の人々には魯迅は何ほどの意味もない。
「魯迅という作家は、その国の民衆が<自省>すること深い時代に読まれる人なのだ」
そのときには、魯迅は時代の風潮となった。作品を読んだ人、読まない人、映画化された作品、噂で名前しかしらない人。そういう人たち全員が直接・間接的に影響を受ける。

いまの中国の民衆は、そうした作家から眼をそむけようとしていることを、五木は感じている。
しかし、五木はこのことを、ただの土産話としているのではない。
五木が17年間やっているラジオ番組のスタッフとの雑談である。
中国史の歴史ゴシップが話題となった。
唐代の暴君が北京の花たちに一晩でいっせいに開花せよと命じた。
しかたなく、花たちは一斉に開花したが、ボタンの花だけは咲かなかった。暴君は激怒して、ボタンの花を残らず掘り起こして洛陽に送りつけた。
すると、ボタンの花は洛陽で見事に開花した。以後、喜んだ洛陽の民はボタンを都市の花とした。
五木がこの話を披露すると、若いスタッフは口々に云う。
「ヘンクツで、いやな感じ」
「わざとらしい」
「命令されて素直に咲いた花のほうがカワイい」

このエピソードを聞いて、こう感じる人は今も多いだろう。たぶん、若者だけでないはずだ。そういう人に云うべき言葉は、さすがの五木にも見つからなかった。

何を云いたいか、おわかりですね。

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4月26日

小松空港から、羽田に帰る飛行機も揺れた。
この路線は、揺れないことがあるんだろうかと、ふと疑問に思った。最初は機内サービスでドリンクが配られたので、あらためて驚いた。行きの便ではキャンディーを配っただけだったので、ドリンクのサービスはないものだとばかり思っていたからだ。
しかし、サービスを始めたとたんに気流が乱れて、サービス中止である。
そんなことなら、最初からしないほうがいいように思うが……。

とにかくも埼玉の自宅に引き返して、あらためて総持寺で買ったガイドブックを開いてみた。
飛行機や電車では寝てばかりいたからだ。
朝五時に温泉に浸かって、八時に旅館を出たので、眠くてたまらない。
おかげで、眼がさえて夜中に本を読むはめになる。

ところで、昨日から気になっていた道元没後の曹洞宗の様子は、だいたいわかった。
いままで道元を曹洞宗の開祖と書いてきたが、宗門ではそうは呼ばない。
道元は曹洞宗の内部では「高祖」と呼ばれている。ちなみに、宗門の「太祖」というのが、総持寺の開山瑩山紹瑾禅師である。

道元の開いた永平寺と、この総持寺は、深刻な本家争いをしていて、ガイドブック「曹洞宗大本山 総持寺祖院」(総持寺祖院刊)の冒頭にも、そうした事情をおぼろげにうかがわせる説明文がある。ただし、よほどさりげなく書いてあるので、ほとんど観光客には気にもならないだろう。

永平寺と総持寺の仲の悪さは、道元の法灯を継いだ二世・孤雲懐奘(こうんえじょう:『正法眼蔵随聞記』を書いた人)と三世・徹通義介(てっつうぎかい)のあいだで深刻な路線上の対立が生まれたためだ。
簡単にいうと、二世・懐奘は永平寺にとどまって、道元以来の孤高な仏道修行を続けた。三世・徹通は永平寺を出て加賀に大乗寺をつくり民衆への布教・教化をおこなった。

瑩山紹瑾はもともとは懐奘の弟子だったが、その死後に徹通の弟子となった。
徹通は加賀に勢力のあった天台宗をとりこんで、教勢を伸ばしていた。徹通の路線を継いだ瑩山も天台宗をとりこむばかりでなく、地元の白山信仰、観音信仰もとりこんでいった。
熊野信仰や山王信仰という天台宗と関係のふかい神仏習合思想もどしどし取り入れた。
純粋な宗教的思弁を尊ぶ立場から言えば、あまりにも不純物が混入していることに、嫌悪感しか抱かないとしても無理はない。
おかげで、孤高な永平寺の禅風からは嫌われたが、いっぽう民衆からは絶大な支持を獲得した。

宗教を思想と修行とのみ理解する立場からみれば、たしかに徹通や瑩山のやり方はいやらしくみえる。
だが、このところ日本の宗教史を調べるにつけて、わたしは違った見方をするようになった。なにも、インド仏教の原点に帰ろうとするだけが、唯一無二の正論とは思えないのである。

あえて無謀にも、日本の宗教の根本を一口で定義すると、「神仏習合」という考えにつきる。
神も仏も同じものだという、世界でおそらく東アジアのモンスーン地帯でのみ受け入れられている思考といえるかもしれない。
西洋哲学や、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教、そしてインド宗教になじんだ人には、反発しか感じない「神仏習合」だが、これがわからなければ、東アジアの人々の心情にはなじまない。

出自は別であっても、異質なものを包含する「曼荼羅」みたいな世界観を、わたしたち東アジア人はばくぜんと持っている。
それを否定する世界観は、やんわりとだが、峻烈に拒否される。

この地下水脈に近い何物かにアピールできない宗教は、この日本では存続できない。
瑩山紹瑾禅師が、加賀の白山信仰と観音信仰を取り入れたのは、まさに瑩山禅師の宗教的天才のなせるわざだ。
すでに白山信仰と観音信仰は行基の伝説を介して、「神仏習合」をとげていたのである。
白山信仰は、加賀において太古から祀られていた地域の大神だった。奈良時代を通じて浸透した仏教のために、白山の神(のちに白山権現と呼ばれる)を観音菩薩と同一視する信仰が生まれた。これは、地方豪族の民衆統治ともからんで、時代の必然だった。

信仰とは純粋な祈りであるよりも、現実生活においては政治・経済の反映とみなければならないことが多い。「神仏習合」はその意味で、日本的現実をあくまでも忠実に反映しているだけであって、「シンクレティズム」(宗教的混合主義)の名で否定するのは、あまりにも子供っぽい。

ともあれ、瑩山紹瑾は現実を知り抜いた上で、理想をとげようとするリアリストだった。

知識人が否定する猥雑さこそ、宗教的エネルギーの源泉だ。
現実の猥雑さを包含して、そのエネルギーを取り込む大きな度量が、瑩山禅師にはあった。

ここで頭を切り替えて、瑩山紹瑾の悪評のもととなった「葬式」について考えてみたい。
まず何よりも、瑩山禅師の生没年を見るべきだろう。
1268年に生まれて、没年は1325年。
誕生した頃は、元寇(1274・1281年)があり、没年の翌年には後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の謀議をこらした。いわゆる正中の変である。

瑩山禅師の生涯は、外国軍の侵略と、それに続く鎌倉幕府の衰退、そして全国の動乱のなかにある。

さらに、前に読んだ古都・鎌倉の歴史を思い返すと、鎌倉時代も半ばを過ぎると耕地面積が増え、人口が増えたおかげで、墓地が足りなくなったという事実があった。
それまでは、庶民の遺体は豊かな階層なら木棺にいれて、山林や野原に放置していた。普通は筵に包んで放置する。さらに貧しい階層では、衣服をつけたまま山野に放置する。
とにかく、貴族や上級武士、身分の高い僧でなければ、山野に捨てるのが風習だった。
陰惨なことに、末期の病人も死体がるいるいと転がる場所に放置される。病人や捨て子の嬰児をそんな場所に放置するのは、野犬などが始末してくれるのを期待していたわけである。
「地獄草子」という絵巻物では、そうした「墓地」の惨状をよく描いている。

鎌倉では死体を火葬にして一箇所に骨を埋めるというかたちで、墓地問題を解決した。
このことを考え合わせると、瑩山紹瑾が庶民の葬式を「かたち」として作り上げたという事実には、時代の要請があったといわざるをえない。
以前は墓だった山林や野原は、集落の近くであるから、耕地や住宅地に転用されている。いまや山野に遺体を野ざらしにすることはできなくなっているのである。
しかも、ようやく鎌倉時代をつうじて成長した自我の意識は、風葬にも似た古代的な遺体処理には我慢ができなくなり、死者に対しても新しい尊厳を要求するようになっている。
「遺体の処理」もまた時代の要請であったと思うべきであろう。

そうしたことどもを矛盾を含みながら、すべて呑み込んで、民衆の魂の救済にあたったのであるから、瑩山禅師はやはり偉大な宗教者である。

だが、「高祖」道元が開いた仏教の本質に肉薄しようとする志については、どうなのか。

瑩山禅師には二大弟子がいる。そのひとりが、総持寺二世となった峨山韶碩である。
この人については、ただ一つのエピソードですべてが象徴される。
峨山韶碩(がざん じょうきん)は総持寺とともに、師・瑩山禅師が開いたもうひとつの寺「永光寺」(ようこうじ)の住職を兼ねた。
総持寺の二世を継いだのが、49歳のとき。永光寺の住職になったのが65歳だった。
それから、二十数年間、峨山韶碩は五十二キロの山道を毎朝往復して、二つの寺の仏事をおこなった。
永光寺は能登半島の付け根の部分にある羽咋市にあり、総持寺はそこから能登半島を縦断した北端近くにある。
半島の脊梁部分の山道を走るように往来する。永光寺では夜明け前に仏事をすべて終え、総持寺で朝食を終えて、師を待つ弟子たちのもとへ駆けつけるのである。それも、朝の読経が終わらないうちに。
これが60代後半から80代後半の男のすることだろうか。

この超人的な日常を送った男のもとから、曹洞宗の俊英たちが続々と生まれたのは当然であろう。
封建時代を通じて、曹洞宗が全国に普及したのは、道元・瑩山という宗教的大天才だけによるものだけではなく、人材育成に骨身を削ったこの偉大な情熱家の存在によるところが大きい。

総持寺でもらったパンフレットに、峨山が駆けた山道の地図が載っている。
その行程の半分ほどは、車で往復した能登有料道路と平行している。
車でいってさえ、すさまじいほどの山中である。高速道路として、きちんと整備されているとはいえ、大都市近郊のハイウェーとは違う。やっぱり田舎の高速道路である。
そこでさえ、夜明け前や夜に歩く気にはなれない。ましてや、凄いような山中の人跡もまれな道を歩くのは無理だとおもう。しかも、峨山が生きていた頃には、日本狼は健在だった。禅でよほど気概を練り上げたと思うほかはない。

ほんの短い旅で、人に話すことさえ気恥ずかしいほど、つつましい家族旅行だったが、最後にとんでもないものを掘り当てたようだ。
まだまだ、この国にはあまり知られていない巨人たちが埋もれていることを改めて知った。その人々の多くは、歴史を書いた体制側の人々や、偏狭な知識階層によって不当に貶められていることも。
そのことをあらためて、思い知ったことも、いい勉強になったとおもう。

ところで、峨山韶碩は91歳で死ぬ。ガイドブックを見ると、総持寺の住職を弟子に譲ったのは、死の二年前であったらしい。
ということは、そのころまで、つごう104キロの往復をやっていたことになる。
無謀ともおもえる二十数年間の山道の往来を、功なり名を遂げた老僧に続けさせたものは何だったのだろう。
この問いに軽々しく、答えを出すのはよそうとおもう。
これは曹洞宗と宗派は違うが、臨済宗の<公案>のように、頓悟するまで抱えているべき問いであろう。
いま出来ることは、年老いてもなお毎日104キロの道のりを駆けつづけた一人の男の姿を思い描くことだけだ。

――これで、金沢・能登の旅の話は終わります。

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4月25日

昨日の金沢・能登旅行記の続きです。

輪島で昼食をとったあとで、そのまま門前町の総持寺祖院へ向かった。
同行した家族たちの熱意にもかかわらず、輪島ではお土産に塗り箸を買っただけだ。親戚中に配ってあるくだけ、かなりの数を買っていた。餞別をもらっていたので、仕方がないと言う。
輪島塗の製品を他には買わなかったのは、値が張るのも一因だが、それ以上にこれほど立派な漆器を買ったところで、日常生活では使えないと女性陣が諦めたせいでもある。
和家具でインテリアを統一して、茶道でも教えているのでなければ、こんな立派なものがあっても、どうにもならないとか。
といっても、女性陣は茶道を知らないわけではない。
いまは辞めているが、10年ほどは続けていた。それなりのところまでは云ったらしいし、家元相手にお手前を披露したこともあるとか。ただし、本音は着物を着るためだったので、いまは飽きたと云っている。
ただ抹茶こそはやっていないが、煎茶道をいまでも習っているものもいるし、和琴の準師範とかいうものもいる。それで、これである。

というよりも、それだけ美意識があるから、むくつけき現実生活と優美な漆器文化のギャップに耐えられないのかもしれない。
煎茶道の茶会も、和琴の演奏会もいまでは着物を着る人はほとんどいない。和琴では家元夫人が奇怪なステージ衣装を着ていたりする。二度ほど見た例では、東映特撮アクションもの(注:仮面ライダー)の「女怪人」(例:ハチ女)を連想した。笑いをこらえるのに苦労した。
日本の女性たちは、伝統文化のジャンルからも、古い日本の美意識を放逐するべく、努力を重ねているのではないか。

旅館の仲居さんたちと話をしていると、いまどきの二十台の女性は正座ができないそうだ。立てひざもだめ。女すわりもしない。肉体的にできないというよりは、知らないらしい。
浴衣姿であぐらをかいたり、子供のように両膝をかかえて、箸をなめなめ、飯を食っている。そういえば、そんなのを見たことがあるなと思い出した。
一部の人だけと思っていたら、いまどきの脚のきれいな女の子はみんなそうらしい。
二十代はじめまでなら、それなりに可愛くないこともないが、それ以上になると、異様な感じがする。
人体はもともと美しいものではない。マナーというのは、美しくない人体を美しくみせるために必要なのだとつくづくおもう。
しょせん、人類はボノボやチンパンジー・アイちゃんとたいして変わらない生き物なのだ。サル科の生き物は可愛いくはあるが、美しいとは思えない気の毒な生物である。
日本の伝統工芸を守るためにも、志ある男は着物や作務衣を着て、日常生活を送らなければなるまい。ビジネスパーソンが着物や羽織袴姿で仕事する環境は来ないものか。
たまには、ちょんまげを結うのもいいぞ、きっと。

輪島から車で二十分ほど行ったところに総持寺祖院があった。
ここは道元の開いた曹洞宗の本山である。
ただし、曹洞宗大本山の総持寺はもうひとつある。
神奈川県横浜市鶴見区にある「総持寺」が、それだ。

こんなことになったのも、明治三十一年に火災がおきて、能登の総持寺がほとんど焼けてしまったためだ。
そこで、布教と修行の道場を横浜市へ移した。わたしは行ったことがないが、敷地面積15万坪という広大な寺域だときく。

能登の総持寺の開山は、道元の四世弟子・瑩山紹瑾(けいざん しょうきん)禅師だ。
曹洞宗中興の祖といわれる人物である。

しかし、道元を好む知識人からは人気が無い。
開祖・道元は、瞑想と労働によって、ある意味で純粋な仏教を日本において成立させようとした思想家だった。
思弁性に富むその主著「正法眼蔵」は、日本人がなしたもっとも高度な宗教哲学として、明治から日本の知識人層に祭り上げられてきた。

ところが、瑩山紹瑾は道元没後にあまり振るわなくなっていた曹洞宗を、大衆化させることで一気に大教団に育て上げた。
瑩山禅師は公家・朝廷・室町将軍家・大名などを布教対象とせずに、農民・職人・商人を教化した。
そこで、密教(天台系)や神社信仰(白山信仰)、観音信仰まで取り入れた。おかげで、曹洞宗の教義や修行の仕方も、道元在世のころとはかなり変わってしまった。
だが、「臨済将軍、曹洞土民」という言葉があるように、農民層に爆発的に浸透した。
現代においても、伝統的仏教教団にあっては、浄土真宗に次いで信者数が多い。

このことで、「純粋主義」を尊ぶ日本知識人から嫌われている。開祖道元の高みを、じべたまでにひきずり降ろしたという観があるからだ。

しかも、日本仏教が葬式において信者から金をとるシステムを作り出したのも、瑩山禅師である。曹洞宗ではじまった豪華な葬式の儀式が、しだいに他宗派に取り入れられたのである。
日本仏教が葬式仏教化した元凶は、瑩山紹瑾禅師であると、非難する仏教学者の口ぶりに、権威に弱い日本知識人も同調している。

わたし自身も、けっこう仏教関係の本を読んできたので、瑩山紹瑾禅師については悪いイメージを持っている。
「葬式仏教の開祖」だとして、道元の理想を堕落させたとおもうわけである。

ところが、総持寺の門前に降り立ってみると、なぜか気持ちがよい。
古寺にあるどこか暗く、かび臭い雰囲気がない。
深山にある古い神社の奥の院にでもいるような、すがすがしさを感じた。

これでも旅行するたびにご当地の古寺名刹はかならず歩くので、観るだけならかなりの数の寺を訪れているとおもうが、このような寺は珍しい。

とにかく掃除がいきとどいている。それも観光寺のような綺麗さではなく、生活感のある清潔さである。

山門の脇にある総受付の、「香積台」という建物のわきに「門前町ロータリークラブ会合所」と墨で書かれた看板がかかっている。
受け付けのところから、お坊さんが顔を出して、順路を教えてくれた。

順路といっても、ここから回廊でつながった建物郡を一巡するだけである。建物は大正元年から昭和のはじめにかけて、再建されたものばかりだから、京都や鎌倉の古寺に比べるとそれほど古い感じはしない。
仏殿・法殿という大きな建物は、回廊からかなり位置に広間がある。そこに、釈迦牟尼如来・達磨大師・大権修理菩薩の像があり、瑩山紹瑾禅師や道元禅師、二代目の住職となった峨山韶碩禅師の仏壇がある。

みる限り、いくらもある禅寺とそうたいして違いがあるわけではない。
ただ仏殿の襖にある山岡鉄舟の書がみごとだとおもった。
わたしは、山岡鉄舟という一徹で、誠実なひとが好きである。
書などはまるでわからないが、ものすごい気迫のようなものを感じた。
草書なので読めないが、案内の掲示板をみると、「鉄樹抽枝、石樹開花」とある。
「鉄樹(てつじゅ)枝を抽(ぬきん)じ、石樹(せきじゅ)花を開く」と読む。
「鉄の樹木が枝を伸ばして、石の樹木に花が咲く」という意味だが、なんのことかはわからない。たぶん、禅に関係しているのだろうと思った。
山岡鉄舟は剣道の達人にして、書の達人でもある。そして、禅の大家でもある。
剣道では「無刀流」を開き、禅では「鉄舟禅会」を起こして、東京と静岡(知事として赴任)に禅寺を開いた。
武道家としての鉄舟は、日本剣道史においてもっとも優れた剣士・指導者のひとりであろう。在家でありながら、明治仏教界においても大きな足跡を残した。
とにかく、その字に見ほれていた。

順路を歩くうちに、北国新聞に連載されていた総持寺の史譚の挿絵が壁にかかっていた。小学生の絵もあった。
なんとなく、この寺は地域と密着して生きていると感じた。
もとバンドマンだったらしい雲水の挿絵には、微笑ましい好ましさを覚える。たしかに、この寺は生きている人たちのものだ。死者のためだけの寺ではない。

順路を歩いているだけでも、坊主頭を日本手ぬぐいで隠して、ウィンドブレーカー姿の雲水さんたちが草取りをしたり、ガラス磨きするのに行きあった。
これも、とりすましたところがなくて、好ましい。
勝手に想像すると、このあたりのお寺の後継者たちが横浜ではなく、近所の大本山に修行にきているのではないか。
東京の青年たちのような空虚な眼はしていなかったので、そんな風に思ったのかもしれない。
修行僧が座禅する僧堂の入り口におかれたサンダルの名前をみると、いかにも寺の後継ぎのような名前だったので、自分の直感がいよいよ本当らしく思えた。

昭和のはじめにできた立派な山門を出ると、経堂という経典を収める蔵がある。
これは江戸時代のもので、明治の火災を免れて、今日まで残っている。
車の中でガイドブックを眺めていて、これは例の大槻伝蔵が奉行として建立したものだと知った。
じつに立派という他はないたたずまいである。
しっかりとした作りであり、江戸時代のものにありがちな安っぽい感じがない。
どこか品格があるのである。人間でいえば、責任感にあふれた誠実な人を見るような印象が、この建物にはある。
わたしは調べ物はする方だが、根は直感型だ。
この建物を見る限り、大槻伝蔵という人物はけっして歌舞伎や芝居でいわれるような、姑息な悪党であるはずがないと信じた。
悪人でも立派な建物をつくることはあるが、できあがった建築物にはどこかに卑小なもの、いびつなものを現してしまう。そこを観れば、建物を作らせた人物の人間性がわかる。
大槻伝蔵の人間性を、わたしは信じる。

ここで、あらためて山門とその内にある伽藍を振り返ってみた。
たとえ再建したとはいえ、これほどすばらしい寺を開山した人物が、ただの葬式仏教元祖であり、高邁な仏道を大衆化して堕落させただけだということがありうるのか。

総持寺を出て、最後の宿泊地・片山津温泉にいく車中で、ずっとそんなことを考えていた。
自問自答のあげく、結論めいたものが浮かんだが、それを確かめるのは東京に帰ってからにしようと思った。
それについては、また明日。

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4月24日

金沢という街は、じつに豊かな場所だと思います。
食べ物が良い。住民の方々の努力のせいかだと思うが、街もきれいだ。
まぎれもない観光都市ではあるけれど、すれっからしなところが感じられない。

ひとつには、この土地が豊かな農産物と魚介類に恵まれ、良水が豊富にあるからだ。
しかも、位置的に北陸地方の物産の集積地点でもある。
資源と、交通の便に恵まれている。
この点、古代日本の政治的中心地であった奈良・京都・鎌倉・江戸が近世以降の農業にはあまり向いた土地ではなかったのと大きく異なっている。
奈良・京都には良水があったが、海産物には恵まれていない。鎌倉・江戸については、海産物はあるが、谷間や火山灰地であるため農作物はさほど美味ではいえない。
そうしたことを考えてみると、金沢は日本において、もっとも恵まれた土地のひとつといえるだろう。

しかし、金沢の豊かさは第一次産業だけによるものではない。
能登半島にある漆工芸や、加賀友禅といった工芸品も、ここの豊かさの根源だ。

加賀友禅を頂点とする金沢の工芸は、藩主前田家が京都から誘致した商業文化の賜物だ。能楽・謡曲・茶道をはじめとして、加賀前田家は京都の文化をこの地に導入した。京文化そのものを、加賀の地に移植しようとしたわけである。
大きな川があり、良水に恵まれた加賀は、京文化に親和性があった。それは単なる物まねではなく、一向一揆を通じて、中世において自治共和国をつくった加賀の国人・商工民・農民は、同じように日本においては例外的に自治的傾向の強い京都の町衆文化と本質的に同じものを持っていたからだろう。

加賀前田家の政策もさることながら、封建社会において、それなりの自治を保ちえたところに、金沢文化の秘密があるように思う。

しかし、逆説的な言い方だが、この土地の豊かさを支えているもうひとつの鍵は、対照的に厳しい自然環境にさらされた能登半島だった。
今回の旅行では能登有料道路を経て、輪島へ入ったのだが、その途中ではまるで人家の徴もないような山中の谷間に棚田をおびただしく見た。
段々畑のように、山の上までちっぽけな田んぼを作る、あの棚田である。
車窓からみる限り、平地の水田や耕作地さえもかなり狭隘であった。
これでは自家用の食料でさえ生産できそうにない。

その生活をささえたのが、輪島塗である。
まだ塗り物に興味がある年でもないので、輪島にいったのは年配の他の家族のためだ。
ものの一、ニ時間もいただろうか。
輪島漆器会館で買い物をして、近所で食事をしただけだ。
同行した人々が買い物をしているあいだに、同会館の二階にある漆器資料館をのんびり見物した。小さい展示資料館なので、二、三十分も見ていると、かなり時間をもてあます。しかし、おかげで輪島塗の工程がよくわかった。

輪島塗はほぼ八つの工程をへて完成する。
この工程を一巡するには、半年から一年はかかる。各工程は、さらに十一種類の職種にわかれ、完全な分業制になっている。たとえば、木から椀・重箱・盆・座卓の足をつくる「木地師」は「椀木地」「指物木地」「曲物木地」「朴木地」の四種類があり、それぞれが独立した職人だ。
漆を塗るのも、下塗り、上塗りは別の職種である。漆は何度も塗り重ねられるだけでなく、漆を塗ったあとで、椀を磨く職人もいる。
そのほかにも、蒔絵を描く蒔絵師、金箔を彫りこむ沈金師という職種もある。

ひとつの塗り物ができあがるのに、潤沢に人手をかけているわけである。
こんなことは、物産が豊かな土地ではかえってできない。貧しい土地だからこそ、磨き上げた技術というべきだろう。

「忍耐」と「技能」は、手工業の世界では同義語だ。
輪島塗のみごとさは、製作者たちの忍耐力のたまものだ。

なぜそれほど手間ひまをかけたかといえば、もともと輪島塗が神事や仏事に使用される道具であったためだ。
神仏への信仰心が丈夫な漆器を作る工夫を生んだ。そして、その堅牢さゆえに、輪島塗は高級漆器としての名声を獲得した。

輪島にとって幸運だったことは、近くに金沢という大消費地があったことだ。ここに導入された京文化とそれをになう職人たちを、技術ごと輪島は取りこむことができた。加賀前田家の京文化への傾倒がなければ、蒔絵や沈金の技法が輪島塗に取り入れられることはなかっただろう。

さらに輪島の幸運は、北前船という江戸時代中期から海運の大動脈となった航路の寄港地であったことである。
この航路をつうじて、輪島塗は全国に販路を広げることができた。
銭屋五兵衛だけでなく、廻船業によって大をなした豪商は、加賀には大勢いる。

ただ輪島の漆器業者たちの弛まざる技術革新の熱意と、販路開拓の情熱が、輪島塗の発展をささえたことはいくら云っても云い足りない。
組合をつくり、分業制度を確立しただけでなく、たとえば労働時間・休憩時間の取り決めをして、過重な労働による労働災害を防ぎ、漆の植樹まで自分たちの手でやってのけた。

けっして、藩の旗振りで産業開発をしたのではない。
今日残る伝統工芸の多くが、破綻した藩財政のたてなおしのために、藩の指導で育成された当時の新興産業であったこととはまるで違っている。

その努力の甲斐あって、輪島塗は二度の大成長期をへて、今日まで残っている。
一度目は、元禄時代に全国に販路を広げたこと。これで、全国の豪農・豪商たちが輪島塗を使うようになった。もちろん、これは北前船の航路がこのころに盛んになったからでもある。
二度目は明治になって、最初は京・大阪(このころは旧名・大坂ではない)、ついで東京の高級料理屋へ販路を広げた。

明治期において販路を拡大するには、塗師屋(ぬしや)という上塗りを担当する職人たちの努力が大きかった。
彼らは自分で塗った製品を自らかついで汽車に乗り、東京・京都・大阪の料理屋に行商してのである。
自分の運命は、自分で切り開く進取の気風が強い土地は、戦国時代において、大名によらない自治を体験している。
能登・金沢にある明るい印象は、そうした気風のもたらしたものだと信じたい。

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4月23日

久しぶりに復活しました。
家族旅行で、能登・金沢へ行ってきたので、HPはお休みしていました。
モバイルで更新する環境もないし、それ以上に気力がない。
旅行しながらでも、更新する人は尊敬しますね、ほんとうに。

一日目はあいにくの雨で、ホテルへ直行した。
東京から小松空港へ飛んだのだが、飛行機もかなり揺れてずっとシートベルト着用サインが消えなかったくらいだ。
家から羽田空港へいくまでに、「ハリー・ポッターと賢者の石」(原書)を読み終わった。あと30ページくらいだったので、ついやめられず電車のなかで読んでいた。

後半に入ると、謎が謎を呼ぶ展開の妙で、なかなか止められない。
ハリーと友人ロンやヘルミオーネたちが、親友になって、魔法学園の謎に挑むあたりは、すれっからしの読者でも時間を忘れてしまう。
旅行から帰ったら、第二作・第三作を読んでしまおうと決意した。

それにしても、スピルバーグが映像化したいと考えた理由はよくわかる。
コンピュータ・グラフィックスならではの映像に向いた場面が、ゾクゾクと出てくる。
もしも、原作とおりに映像化されたら、「ネバー・エンディング・ストーリー」どころではない。映画「マトリックス」以上の映像感覚を楽しめる。
おそらくスピルバーグなら、そうしたことも可能なはずだ。

話を旅行に戻すと、金沢は今回で二度目だ。
前に行ってから、10年は経つ。そのときに、市の中心部は徹底的に歩いた。
「武家屋敷跡」も、「にし茶屋街」もきっちり歩いておいた。
ただし、今度は時間の余裕がないので、金沢市外は兼六園を散歩しただけだ。
兼六園には終わりかけとはいえ、まだ桜があった。よく作られた庭園である。
カメラ・ポイントになりそうな場所が随所にある。加賀前田家の美意識の高さはすごいものだ。
江戸幕府から巨大な所領を安堵されたので、加賀前田家は疑惑を招きかねない尚武奨励を辞めて、徹底した文治主義に徹した。歴代徳川将軍から藩主の正室を迎えたおかげで、前田家は徳川御三家に準ずる格式を与えられていた。
おかげで、牙を抜かれて、幕末の動乱期にはまるで活躍できなかった。
平和に暮らせたのだから、それもやむを得ないというべきだろう。

だが、藩財政はなんども深刻な危機を迎えたらしい。
江戸時代の加賀といえば、御家騒動で有名だ。
六代目藩主前田吉徳は、下級武士・大槻伝蔵を大抜擢して、傾いた藩の財政再建にあたらせた。大槻はかなり思い切った財政改革を断行して、藩財政を立て直した。
しかし、それは藩主の親戚である他の家老たちや、同僚・部下たちの反感を買った。

世継ぎからも嫌われた大槻は、藩主亡き後の身の振り方に悩んだ。
そこに、後継者争いが起きて、6代目藩主が死亡すると、新藩主は大槻を辞任させて、蟄居幽閉させた。
ところが、7代目の新藩主はすぐに急死した。大槻は毒殺の嫌疑をかけられて、山中の小屋に押し込められた。大槻はそこで自害した。
跡を継いだ8代目藩主にも、毒殺未遂事件がおこる。
6代目藩主の側室「真如院」が犯人とされて、大槻伝蔵との不義密通を自白させられたうえで、殺された。
しかし、事件の真相はほとんど闇の中である。
歌舞伎や口碑では、大槻伝蔵は御家乗っ取りの大悪人にされているが、作家海音寺潮五郎氏などは否定している。保守派の巻き返しの犠牲になったと見るべきだろう。
なんとも嫌な事件ではあるが、加賀前田家の武家社会は、文治主義を堅持するうちに、いつしか陰惨な権謀が渦巻くようになっていたようにおもう。

というのも、幕末に近いころ、加賀前田家ではまた有名な陰謀事件がおこる。
加賀の豪商・銭屋五兵衛が財産を没収されたうえに、獄死した事件である。

銭屋五兵衛は「銭五」と通称されて、質屋・古着商・両替・廻船業で財をなした。
この業種をみると、「銭五」がどうやって成長していったかがよくわかる。
質屋・古着商は元手が少ない上に、商社的な発想で急成長ができる業種だ。今日の同業者と違って、質屋・古着商は江戸時代においてはちょっと前の一流商社みたいなものだった。
繊維製品の生産が少ないうえに、産地が限られているから、大消費地で古着を仕入れれば、地方へゆけば高値で売れた。地方の武士・上流商家・豪農の奥方たちの晴れ着は、京・大坂の古着だったのである。
質屋で古着を仕入れ、それを地方へ売る。これで富を蓄積して、両替商になり、さらに私本を蓄積する。そして、廻船業に乗り出す。これは投機的要素が強いので大変な運転資金は要るが、そのかわり莫大な利益を生む。
このライフ・サイクルをみるだけでも、銭屋五兵衛が進取の起業家精神に富んだ傑物だったことがわかる。

事件は、加賀前田藩が銭屋五兵衛に河北潟干拓工事を命じたことから起こった。
干拓に反対する漁民たちを押さえ込むために、潟に毒を流して魚を殺したという罪名で、藩は銭屋五兵衛を捕らえて、全財産を没収した。
最後まで、罪をみとめなかった銭屋五兵衛は獄死した。享年は80歳。
それは1852年のことだった。ペリー来航の前年である。
明治維新が起きたのは、1868年だ。

銭屋五兵衛の家財没収は、財政危機に陥った藩の窮乏を救うためだとも言われる。
大槻伝蔵の改革がおこなわれたのは、「銭五」の事件が起こる100年ほど前だった。大槻の改革も、このころになると役にたたなくなっていたとみえる。
こんな幕末の動乱期の直前に、卑小な権謀術数を張り巡らしていたあたり、加賀の武家社会の衰退は激しいものがあったと断言していいだろう。

このように書いていくと、金沢や加賀について、よほど悪いイメージを持っているように思う人もあるかもしれないが、そうではない。
この土地は、武家ではなく、民が栄えさせた土地であると思うわけである。
江戸時代の身分制度でいえば、<農・工・商>が繁栄をささえた。
「民」が繁栄をになった土地は、気分が良い。
というようなことを云いたいと思う。
長くなるので、続きはまた明日。

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4月20日

幸運にも、本日(4月21日)も日記をアップできました。(笑)
ところで、昨日予告した<世界征服計画>についてです。
ちょっとうろ覚えのところもあるので、固有名詞などに間違いがあった場合はご勘弁を。

この<世界征服計画>とは、手短にいえば、アメリカの穀物メジャーと飼料会社が結託して、世界じゅうにアメリカ式酪農を普及させて、アメリカのダイズやトウモロコシを売りまくろうというものです。

その大きな理由は、20世紀になってから機械化大型農業の導入で、アメリカで膨大な穀物生産が可能になったことです。
古い話ですが、第一次世界大戦では戦禍で農業が大打撃をうけたヨーロッパへ、穀物を輸入してアメリカ農業は大儲けしましたが、戦後輸入が激減して農業生産者は破産するものが続出しました。
それと同じことが起きたのが、第二次世界大戦です。ヨーロッパへの輸出で、アメリカ農業は好景気に沸いたのですが、平和が到来するとともに、このままではまた同じ不況がやってくる。
そこで、ヨーロッパ以外の市場を開拓する必要にせまられ、当時、占領国だった日本に目をつけたわけです。
戦後、日本では鶏肉と鶏卵の消費拡大や、肉料理の普及のために、公共・民間レベルでさかんに啓蒙運動がおこなわれました。
雑誌などのメディアだけでなく、農村や地方都市へ自動車ででかけて、セミナーや試食会、講習会をおこなったのです。アメリカ仕込みの栄養学を振り回して、伝統的な日本料理を否定して、鶏肉・卵・肉を多食することを勧めました。
じつは、この裏には米国穀物飼料協会という業界団体のロビー活動があります。
かれらはこうして肉食を習慣としない国に、肉食を普及させる戦略を展開していたのです。ただし本当の狙いは、一般の消費者ではありません。
養鶏業者と、酪農家です。かれらに穀物入りの飼料を買わせるために、まず消費者に穀物入り飼料で育てた家畜の肉の味を覚えさせたのです。

第一段階では、養鶏業者がその陥穽にはまり、アメリカ製穀物入り飼料を使用するようになりました。ブロイラーの技術も、この時期に導入されました。
そして、日本人はアメリカ産穀物のおかげで、脂肪たっぷりの鶏肉の味を覚えたのでした。

そのいっぽうで、養鶏家だけでなく、肉牛・乳牛を飼う酪農家たちをアメリカに招待して、気前よく、アメリカ式養鶏・酪農法をコーチしました。
敗戦国民・日本人には無償の善意とみえたものが、将来をみこした用意周到な布石だったわけです。

第二段階が、なんとマクドナルド。
マクドナルドのハンバーガーは、当時の12歳以下の子供たちに、牛肉の味を覚えさせるために米国穀物飼料協会が送り込んだ<使徒>でした。
人間は12歳までに覚えた食習慣を一生変えないことが、アメリカの心理学で発見されていました。そのマーケティング手法を応用したわけです。

ひき肉を通じて、1960年代後半生まれの人々にとって、肉の味をおふくろの味となったのです。ここにいたって、肉食は日本人の食文化に定着しました。

穀物を飼料にすると、家畜の肉の脂肪分がだんぜん増えて、まるで別の肉のような味わいになります。脂肪分のある肉のうまさを知った日本人は、ついに「霜降り肉」という世界に類をみない脂肪だらけの肉まで開発してしまいました。
これには、成長しきった肉牛にさらに大量に穀物を与えつづけるという、アメリカ式酪農法からみてさえ邪道とおもえる穀物の大量消費が必要でした。
「霜降り肉」というのは、「肉のフォアグラ」みたいなものなんですね。

肉食の普及と、穀物入り飼料のおかげで、日本の食料自給率が平成10年度で48パーセントになりました。でも、アメリカの軍事力に守られることを望んだ日本の政権担当者にとって、これもやむをえない選択だったのです。

これだけなら、ただの「おもしろ歴史雑学」ですみますが、どうもそうはうまく行かないようです。

アメリカでは、いま中国にターゲットを変えて、日本でやったのと同じ手法で、中国人たちに脂ぎった牛肉の味を覚えさせようとしています。
もちろん、第一歩は鶏肉で、米国の穀物商社「カーギル社」は中国農村に押しかけ、無料でサンプル用の穀物飼料を養鶏農家に配っています。
そのときに、栄養学的にいまのやり方では駄目だと云って、「啓蒙活動」をすることも忘れていません。宣伝にあたっているのは、カーギル社中国支社の中国人技術者です。農村部に浸透するには、なかなか巧みなやりかたです。
これは、日本でやったのとまったく同じ戦略です。

しかし、中国政府は、食料を通じて同盟国を属国に変えたアメリカのやり口を知っているので、現在の食料自給率95パーセントを維持しようとして必死です。
ソビエト連邦が崩壊にいたった最大の原因のひとつは、民主化要求ではなく、天候異変と乱開発で穀物の自給が不可能になって、アメリカの食料戦略に組み込まれざるをえなくなったことにあります。
いくら軍事力を強化しても、現在のロシアはアメリカから穀物を輸入しないかぎり生存できなくなっています。
中国政府はロシアの二の舞を踏みたくないのです。

しかし、「中国のビル・ゲーツ」という企業家が乗り出してきて、穀物メジャー「カーギル社」と合弁で事業に乗り出すことになりました。
これは、穀物入り飼料を生産・販売する「新希望」という会社のCEO、劉永安という人です。
穀物入り飼料を農村に普及することが、中国では最大のビジネス・チャンスというわけです。
人類の四人に一人は、中国人だそうです。
もしも、中国人が伝統的な食文化を忘れ、アメリカ式食文化に染まったとき、おそらく地球は破滅するでしょう。

アメリカでは人工衛星の観測データから、遅くとも2007年には中国の食料自給政策は破綻して、穀物の輸入がはじまると予測しています。
それは、農地を破壊して、住宅地や工業用地にかえている中国政策の矛盾もあるでしょうし、中国で大規模にはじまった環境破壊による大洪水・台風の被害拡大、耕地の砂漠化も見込んでいます。

中国が食えなくなったら、アメリカが一手に引き受ければよいという考えの人もいるでしょうが、データではアメリカは旱魃によって、これから耕地がますます減少すると予測されています。
地球温暖化のために、アメリカではこれまでのような穀物生産は望めないというのです。

さらにいえば、アメリカの中西部の大規模農業は、アメリカ大陸が数万年かけて貯蔵した雨水(=地下水)を、わずか二世代にわたって汲み尽くして、砂漠にばらまくことによって成立しています。
アメリカ大規模農業をささえた地下水は、いまや枯渇しつつあります。

そんなわけで、米国穀物飼料協会の世界戦略は、世界崩壊プロジェクトに変貌してしまいました。

単純な市場経済ではなく、人類の生存を考慮した経済システムの登場がないかぎり、21世紀は恐ろしい時代となるでしょう。

その処方箋を考えるのは無理としても、肉や鶏卵を食卓から減らして、伝統的な日本型食事に戻ることなら、個人レベルでも可能だとおもいます。
体質をかえて、食料戦争時代を乗り切るというのはいかが?

追記:
近所のスーパーでゾッキ本セールをやっていました。
ゴンチチのチチ松村さんの「私はクラゲになりたい」、独文学者種村季弘氏の「不思議な石のはなし」というかなりマニアックな本を入手しました。
それについては、また講釈する予定です。

また前から欲しかった角川書店編「合本 俳句歳時記」も買いました。
廃人いや俳人という柄でもないのですが、「歳時記」は自然と生活が融けあってじつに楽しい読み物だと、愛好しています。
いろんな出版社の「歳時記」を集めて読むのは、楽しいですよ。
ときどき、ドキっとする俳句もあったりして……(笑)

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