Michel Tournier “Les Rois Mages”を読む。
キリスト生誕に登場する東方の三賢者ガスパールとバルタザールとメルキオール。それにお菓子好きの王子タオールの物語である。 いつもながら、Tournier はよい。 本棚でほこりをかぶっている “Vendredi ou la vie sauvage” も読まなくては。 |
今年も東京テレビの12時間時代劇をみてしまった。
毎年、12時間も潰れてしまうのは、われながらどうかと思うのだが...... |
昨年から読んでいるクセノフォンの『アナバシス ( Loeb Classical library) 』だが、なかなか進まない。
今年こそは読了してしまおうと決意する。 それにしても、ギリシア語で読むとやたら時間がかかってしかたがない。 たまにはこんなスピードで読むのもよいだろう。 |
志賀直哉の「朝の試写会」を読み直す。
試写会に出かけたのいいが、寒さに耐え兼ねて途中で抜け出して、馴染みの食堂でコーヒーを飲み逃げする。ただし、代金は置いておいた。 つまりは開店前の店に勝手に入って、勝手にコーヒーを飲んで帰ったいったわけである。 しかも、この試写会は志賀にみせるためにわざわざ東京からフィルムと上映道具をもってきたうえで開かれたものである。だが、志賀はさっぱりまじめに見ていない。映画の上映後に、他の作家と座談会まで企画されているというのに。 それどころか、途中で街に抜け出して、上のような行動をとり、ストーブで暖まってから会場にもどるのである。 とはいえ、こうした志賀のワガママ爺さんぶりがわたしは好きだ。 こういう老人になりたいものである。 試写会で見た映画は、スタンダールの『パルムの僧院』だったが、原作の恋愛小説の傑作を読みもしないで、自分の飼っている犬の発情期の行動と映画のストーリーをまったく同じ次元でみている志賀はやはりワガママで勝手な人である。 しかも、自分自身はといえば、若いころにはやっぱりそんな小説を書いていた。 この人はわけもなく偉そうで、多分にぬけぬけしたところがあって、ちょっと得体のしれない部分がある。実に面白くて素敵な人である。 わたしは、この人がみょうに好きだ。 |
宮本輝の『ドナウの旅人』を読了する。
今さらいうのも気がひけるが、名作である。 TVの2時間ドラマ向きの設定だが、ドイツ、オーストリア、ハンガリーなどの人や風景の描写が光る。ただ、女主人公がやたらとドイツ人に熱愛されるのは、どうであろうか。 この女主人公のように、日本人女性でドイツ好きというと、あんまり美人とは思えないし、いわんや魅力的であるとはなおのこと思えない。 以上はただの偏見である。 |
北村昌美著、『ブナの森と生きる』を読む。
『もののけ姫』を見てから、ブナの森に関心がある。 いろいろ本をよんでいくうちに、東北の縄文文明を育んだものは、ブナの森だと知った。 しかし、ブナをはじめとする広葉樹林にたいして、あまりにも無知であることを痛感する。 環境考古学者、安田善憲の著作によって、森と人類の深い連関を教えられてからというもの、どうにも森林や植物のことが面白くてならない。 ともあれ、フィトンチッドの効用をうたった神山恵三著『森の不思議』が、安田善憲や北村昌美を読むと、ひどく浅薄にみえる。以前には、ひどく感心したものだが。 人間なんぞ、所詮は森に寄生するだけの生き物である。森からみれば、野ネズミや毛虫と同じだ。 その分際で「森林浴」などとは、身の程しらずにもほどがあると深く反省させられた。 本日は、常になくほんの少しだけ真面目である。 |
腰痛で寝込んでしまった。なんとか本だけは読めた。
グリム童話をドイツ語で読んでみた。白雪姫は、“Sneewitchen”ということを改めて知る。 悪い后の有名な言葉を、下記に記す。 ヾpieglein, Spieglein, an der Wand, :rau Königen, Ihr seid die Schönste hier, それにしても、よその国の王妃に勝手に死刑を宣告することができるとは、すごいものである。 『デザート・フォックス』作戦を敢行したクリントンですら、こんなことはできない。王子の国と后の国、つまり白雪姫の母国の力関係に思いをいたし、国際関係の難しさを痛感した。 ついでにいえば、ブレーメンの音楽隊はついにブレーメン市には行き着かなかった。 なぜ、年老いた三匹の獣と一羽の鳥が「ブレーメンの専属楽士“Die Bremer Stadtmusikante”」と名乗り続けたかは、さだかではない。 |
昨年末からほっておいたNewsWeek 年末号を読み終える。
1998年はいろいろなことがあったと感慨にふける。 それにしても、「ジッパーゲート」事件はアメリカ史の最大の汚点として末永く記憶されるであろう。 |
狸に関する本を読みまくる。
なぜ狸が三枚目なのか。 どうして狐にくらべると、格好悪くてオッサンくさいイメージなのか。 化ける能力が狐よりも下に見られている理由はなんなのか。 中国で化け狸がほとんどいないのはなぜか。 ムジナと狸はどう違うのか。 以上、長年抱き続けた疑問がいっきに氷解した。 家人にこの偉大な発見についてかたったところ、まったく相手にされなかった。 タヌキにとりつかれたのかと疑われる始末だった。 真理の追究は孤独である。 |
『ディオニュソスへの旅』(楠見千鶴子)を読む。この人の本は、ギリシアの旅情にあふれているところが楽しい。
ギリシアの蒸留酒ウーゾが登場していた。ブドウ酒の絞り粕を蒸留してアニスなどで香りをつけたこのタイプの酒は、トルコではラク、南仏プロヴァンス地方ではパスティスと呼ばれている。地中海地方では、ひろく愛飲されている強い酒である。 水をいれるとカルピスのような感じになるが、香りとアルコール度数はかなりのものだ。とはいえ、いかにも旅情を感じさせてくれることは間違いない。 以前にギリシアへいったときには、一杯飲んで辟易したものだが、この本を読むうちにまた飲みたくなった。 読んでいるうちに、酒が飲みたくなる本は良い本である。 |
井上靖の『夏草冬濤』を読む。
永いこと、井上が少年時代を描いた一連の小説を読みたいと思っていた。だが、どうにも手にとる気になれず、やっと昨年末より読み出した。 いちばん良かったのは、『しろばんば』である。 祖父の愛人だった老婆と伊豆の田舎で暮した幼年時代の生活が、詩情豊かに描かれている。 すべての登場人物が詩人の感性でみごとに造型されている。結晶体のような美しい作品である。 それに比べると、沼津で過ごした少年時代を描く『夏草冬濤』は退屈だ。 むしろ、幼年時代をテーマにした『幼き日のこと』や『少年・あかね雲』のほうがだんぜんよい。 さらにいえば、青年時代を描いた『あすなろ物語』や『青春放浪』もよい。 井上靖といえば、歴史ものや西域ものしか読んだことがなかったので、こういうタイプの小説は新鮮に感じる。今回読んだ一連の作品のなかには、中学・高校時代に国語の宿題で読まされているものもあるはずだが、ストーリーは完全に忘れている。 いい小説は、中年以降に改めて読むべきものだと実感する。 コルサコフ症候群になって、昔読んだ小説を読み直したいという某有名SF作家の言葉が、しみじみと納得できた。 気分はすっかり老人である。 このあいだ40歳になったばかりだが、すっかり老人力が発現しているようだ。 |
古書店で岩波文庫の『大津順吉・和解・ある男、その姉の死』(志賀直哉)をみつけたので購入して読む。品切れらしく、都内の書店を探したのだが、見つからず探し続けていた本である。
そういえば、品切れ・絶版になった文庫本をコレクションしていた友人S君は元気だろうか。まだ絶版文庫本集めをしているだろうか。 ところで、父と息子の不和とは、べつにこの時代に限ったものではない。 多かれ少なかれ、どこの家庭でも起る出来事だ。父と子ばかりではなく、上司と部下の形で企業社会でさえ似たような出来事は起りうる。 古いが、永遠に新しい。 基本的には、青春の作家である白樺派の人々は、心に若さを秘めた人間にはいつまでも魅力的である。 |
『更級日記』を読む。
受験勉強いらい目を通すこともなかったが、摂関時代の時代背景を知る読み物として読むと、すこぶる面白い。 あらゆる制度が金属疲労を起こし昏迷する現代と、古代律令制国家が崩壊してあらゆるものが混乱のきわみにある平安時代はひどく似ている。 だれひとり、現実の破綻にたいする処方箋をもっていないからである。 平安時代は清盛と頼朝の政治的天才によって、いちおうの解答を得た。 だが、そのためには長い混乱と苦難を体験した−−それは、ほぼ三世紀半におよぶ。 |
『伊勢物語』を読む。
最近、平安時代づいている。 この書物が読みようによっては、隆慶一郎の小説のように読めることを改めて思い知る。 これは、「かぶき者」の物語である。 いいかえれば、熱い血の通った狂暴すぎる純情の持ち主を主人公とする物語だ。 隆慶一郎が『一夢庵風流記』でえがいた「かぶき者」そのものである。 こうした男は、スサノオ神の後裔であると隆慶一郎は書く。 スサノオ神は天上界での乱暴狼藉をとがめられて、追われ追われて地上界から地下界へ下っていく。日本書記は神の旅路を「辛苦(たしな)みつつ降(くだ)りき」と表現する。
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久しぶりにフロイトの『婚約書簡 (Brautbriefe)』を読む。若きジークムント・フロイトが婚約者マルタ・ベルナイスにあてた手紙をまとめた『書簡集』である。
たまたま開いたページは、友人ナータン・ヴァイスの自殺を報告したところだった。 つい読みふけってしまった。 性格的に破綻の予兆を感じさせる友人を、フロイトが追憶するこのくだりは、哀切きわまりない。 恐ろしげな写真でしか知られていない精神分析学の創始者が、じつに心の暖かい人間であったことがよくわかる。 『夢判断』や『ヒステリー研究』を読んでいると、フロイトはドイツ文学史上で最も偉大な作家の一人ではないかという気がする。 |
『王朝漢詩選』(岩波文庫)を読む。
編者小島憲之氏の解説を読むと、王朝の漢詩は中国語の詩ではなく、日本の詩として解すべきものらしい。和歌と比べると、発想はほとんど同じものだ。 小野岑守、良岑安世、菅原清公(きよとも)、桑原腹赤、紀長谷雄といった有名な漢学者たちはさすがに詩情を解しているが、藤原冬継、藤原道長といった権力者たちの作品は筆のすさびにすぎない。 そのなかで、傑出しているのが、嵯峨天皇と菅原道真である。 この人たちが、当時としてはおそろしくレベルの高い文化人であったことがしみじみとわかる。 それにしても、上に名をあげた人々を除けば、あまり面白い作品はない。漢文の文法や詩作の法則を知らないわたしが、単純に文学としてみた偽ざる感想である。 そのうち、和歌も読んでみようと思う。 |
『王朝秀歌選』(岩波文庫)を読む。
恋愛の歌も、この人くらい大変な人生を送ると、凄みさえ感じてしまう。
ところで、すっかり忘れていたが、この世には六歌仙とか三十六歌仙とかいうものがある。これは、それぞれ紀貫之や藤原公任が定めたもの。それぞれ当代の名評論家がピックアップした平安時代初期(六歌仙)と中期(三十六歌仙)の代表的歌人たちである。 出所は、貫之が執筆した「古今集 序文」と公任が編集した歌集「三十六人集」。後者が収録されていたので、改めて思い出した次第である。 いきなり高校時代の古典の時間にタイムスリップして、お勉強してしまった気分。 |
九世紀の仏教説話集『日本霊異記』を読了。
ここに出ている説話が、十二世紀の『今昔物語』や十三世紀の『宇治拾遺物語』にそっくり採録されていることに驚く。 あとで調べると、『三宝絵詞』という仏教説話集が前者と後者のあいだにあり、漢文の『日本霊異記』をひらがな書き下し文にして収録したとのこと。『今昔物語』はむしろ『三宝絵詞』を参照しているのだという。 先月は平安時代の古典をいろいろ拾い読みしていたので、頭がすっかり平安人になってしまった。 平安時代の摂政、関白、太政大臣がそらでいえる自分に気づいて驚く。我ながら、大丈夫だろうか? こんな調子で、1999年を乗り切れるであろうか。 OSをそのうちLINUXに切り換えてしまおうと思っているのだが、とっても不安である。 少なくとも、MSが Windows 2000 を出す前には、なんとかしたいものだ。 |
井上靖の短編「猟銃」、「闘牛」、「比良のシャクナゲ」を読む。
この文豪は、フロイトのいう「運命神経症」に取り付かれた人間がよほど好きだ。みんな、好き好んで不幸になるために生きているとしか思えない。 「猟銃」のヒロインである不倫の未亡人は、現代では想像することもできないほどモラリスティックでかつ可憐ある。愛の「歓び」(この場合は、他の漢字は不可)に、めくるめいてしまうのである。不倫という言葉は、教養があって「究極のお嬢様」とでもいうべき妙齢の美女に対してのみ使用が許される形容詞であると改めて思い知る。 たとえ元バイリンギャルの美人であっても、脳味噌がオヤジである場合は使ってはいけない。 「比良のシャクナゲ」は、傲慢な明治男の学者バカが主人公だが、こういうサムライは昔はそれなりにいたと聞く。家族にとっては迷惑意外の何者でもないが、ここまで徹すると小気味がよい。わたしは好きである。 「闘牛」の舞台は残念ながらスペインではない。読む前はヘミングウェイばりにスペインの闘牛が出てくるかと期待したが、戦後の混乱期に土佐の闘牛を大阪で興行するのだとわかって失望した。 それにしても、ここでも不倫の未亡人が登場する。 こちらは「猟銃」ほどハイソでもなく、むしろ焼け跡闇市の荒廃感ただよう戦争未亡人である。 だが、さすがに不倫しているだけに「めくるめく」のである。この場合は、闘牛場を勝ち誇った牛がぐるぐる走り回るのをみて、「めくるめく」のだが。 やっぱり不倫は「めくるめかない」と駄目らしい。 |
この一ヶ月、『大鏡』を訳文と原文で読んでいた。
なんだか摂関時代にやたらに詳しくなったような気がする。藤原氏主流と歴代天皇・皇族の親族関係もすっかり頭に入ってしまった。 この時代、文字になって残る歴史は、親戚同士の財産争いにすぎないといっても過言ではない。 政権担当者の頭蓋の内部にあるのは、女と官位だけだ。 地方がどうなろうと、いっさい気にかけていないことがよくわかる。 たとえば異民族「刀伊」(満州系女真族)が対馬に侵入したとき、奮戦して撃退した地方武士への恩賞は、まったく内実をかいた形式的なものにすぎなかった。 こんな連中が国家を食い物にして、三百年近くのさばっていたわけだ。 当時の庶民のつらさが、よくわかる。 |
ひさしぶりに『ふらんす物語』(永井荷風)を再読する。
人生の傍観者を標榜したこの作家は、どうにも好きである。 父親の世話で渡米して、ふらふら遊学したあげく、某銀行のニューヨーク支店に勤務したのち、今度はフランスのリヨン支店に転勤する。フランスではほぼ半年で銀行を退職。その後、パリに出て2ヶ月ほど芝居やオペラ見物に費やして、やがて帰国。その期間の身辺雑記を小説+エッセー風にまとめたのがこの作品だ。この人は、作りものめいた小説よりも、こうしたものがじつにいい。傍観の達人といっていいかもしれない。 本質的には詩人と規定するべき、この冷酷な観察者は小気味がよいほど他者への共感を排除する。だからこそ、かえって詩情が深まる。洋画家黒田清輝の情婦だったらしい年齢不祥の娼婦とのやりとりは、この作家の感傷の最たるもの。 ところで、ニューヨーク時代に愛人だった米人娼婦がパナマで病死したように書いてあるが、事実はどうなのだろう。気になるところだ。というのも、この米人娼婦イリスこそ、荷風の描く可憐なヒロインの原形だからだ。 |
童話『貝の火』(宮沢賢治)を再読する。
何度読み返したかわからないが、また賢治の童話を読みかえす。 最初に読んだときは、ただの勧善懲悪童話としか思えなかったが、いまは違う。 雲雀の子を助けて、鳥の王類からもらった宝石『貝の火』は、運命そのものだという気がする。主人公の子ウサギ、ホモイが失明したことは、人生そのもののメタファーである。 この童話のテーマは、はてしなく重い。 |
賢治童話がたまらなく読みたくなって、本日は『グスコーブドリの伝記』を再読する。
ついこのあいだの生誕○×年祭のとき、ずいぶん賢治本を読んだので、今ではこの詩人の生涯はかなり詳しいところまで頭に入ってしまった。 そうした目で、『グスコーブドリ〜』を読むと、はてしなく重たい現実をユーモアと幻想で童話にしたてあげた賢治の凄さと優しさをあらためて感じる。 とはいえ、わたしは「虔十公園林」がいちばん好きだ。 これは童話の価値とはなんのかかわりもない余談だが、「グスコーブドリ」がやったみたいに「カルボナール火山」を人工噴火させたら、二酸化炭素で気温が温暖化するどころか、火山灰で日照量が減って冷害がひどくなるのではないか。ブドリやネリのような悲劇は、いよいよ増えたはずだ。 もっとも現在のように、二酸化炭素を減らす必要が叫ばれる時代がくるなんて、昭和八年に死んだ賢治には想像もできなかったろう。 それにしても、すでに賢治の死んだ年齢よりも上になってしまった。(賢治は三十七歳で没。) 感慨しきり......である。 |
賢治熱がまた再発した。『イーハトーボの劇列車』(井上ひさし)を読む。
こういう作品を「評伝劇」というらしい。 よくある賢治本の<奥歯にものの挟まったような>ところがないのがいい。 微妙な言い方だけれど、この感じは「わかる人にはわかってもらえる」と思う。 賢治はルネサンスの<万能人>でもなければ、<農聖>でもない。 一生、経済的に自立できなかった人だし、詩人・童話作家としても自己の天才をとことん発揮することはなかった。「無念の人」といっていい。 そこが、この人の深さ、偉大さである。 よい賢治研究書・評伝と、そうでないものの差は、賢治の「無念」をどれだけ愛するかということに尽きる。 井上は、賢治の「無念」に深く共感している。さもなければ、こうは書けなかったように思う。 ダメな賢治の「一生懸命」を愛すること。それはすべての賢治ファンの根底にある真実だ。 |
井上靖の『四角な船』を読む。
古書店でみつけて購入した本である。 そろそろ現代日本が高度成長時代のきしみをあげだした昭和45年に読売新聞に掲載された。 人類滅亡の洪水が到来することを信じた男に、ふりまわされた新聞記者の物語だが、井上靖のもっとも美しい作品のひとつだと思う。 琵琶湖の岸辺で未完成の船材を燃やすラスト・シーンは哀しくて美しい。 |
所用で京都へゆく。往復の新幹線で、NewsWeek 英語版を三冊読む。
日本で翻訳されている雑誌を英語版でなぜ読むかといえば、話題の時事問題が英語でどう表現するのか知りたいという「野次馬根性」のなせる業だ。 「好奇心」と「野次馬根性」は、星の数ほどもあるわが悪癖のさいたるものである。 それにしても、モニカ・ルインスキーはいまや欧米マスコミの寵児である。 告白本が米国だけでなく、ヨーロッパ各国でもバカ売れだ。飛行機で各国を飛び回っては、サイン会をやっている。サインのスピードをあげるために、パイロットのペンをエージェントがプレゼントしたとか。 つまらないことである。 特集“Men at War”で、ジョージ・ブッシュが大戦中、爆撃機乗りだったことを知る。 さらにいえば、元大統領は大学時代、一塁手として野球でも活躍していたらしい。こっちは、ジョー・ディマジオの追悼記事で知った。 ディマジオというと、野球選手であり、マリリン・モンローの亭主の一人だったことしか知らなかった。父親はシシリア移民の貧しい漁師だったこと。若くして結婚したけれど、離婚。最初の妻とのあいだにできた息子はぐれて、父親を生涯憎んでいたこと。 スーパー・スターではあったが、だれも近づけない孤独な性格だったこと。 そうした人間的な面をはじめて知った。 やはり国際政治よりも、こういうネタのほうが、わたしは好きだ。 |
『ロンドンでフラット暮し』(岩野礼子)を読む。
作者はロンドン在住のイラストレーター兼エッセイスト。 園芸好きでもあるらしく、イギリス園芸案内としても楽しめる。 ロンドンをうろつくハリネズミや、ポリアンサス、チューリップ、バラにまつわるエッセイがよい。こういう身近な“ Natural History”は好きだ。 憧れの湖水地帯で、新田舎人として暮らす若いイギリス人夫婦の話もよい。 だが、なによりも面白いのは、世界に冠たる変物、イギリス男の観察である。 作家塩野七生さんといい、欧州在住日本人女性はイギリス男が好きらしい。 ただし、配偶者や恋人とはならないのは何故だろう。(塩野さんもこの作者も) 他にもエッセイがあるようだから、探して読んでみることにする。 |
宮本輝の対談集『メイン・テーマ』を読む。
するどい対談である。 「若いうちの苦労は買ってでもしろというが、買った苦労は身につかない」 「人間、努力すれば誰でもあるところまでいくが、そこからは先は才能次第」 という、辛口の言葉がそこらじゅうにあふれている。 “文学ものの毒気"に満ち満ちている対談である。小説家黒井千次との対談は、私小説的臭いがソレ者(‘しゃ’と読む)にはこたえられないかも。 映画評論家おすぎとのバイセクシャルな対談は秀逸。 小説家宮尾登美子や宮本が不安神経症を病んでいることをはじめて知った。 すぐれた作家は、こうした病気と縁があるのかもしれない。そういえば、どこからみても健康な椎名誠もノイローゼにかかっていたそうだ。 それにしても、カヌーイスト野田知祐氏は素敵だと思う。 |
久しぶりにW.S.モームの短編集を手にする。
“Point of Honour” と“A String of Beadss”を読む。 前者はスペインを舞台にした不倫の悲劇。時代がかってはいるが、心理描写はさすが。 後者は軽い掌編。モーパッサンの『真珠の首飾り』を想像すると、みごとに裏切られる。 宮本輝が ”おすぎ”との対談でいっていた。 (古典といわれる小説のほうが、現代の小説よりも深いレベルで人間を描いているから読み応えがある) その言葉はやはり真実である。 SF&ファンタジー情報誌“LOCUS”を読む。このごろのSF・ファンタジーに読む気になるものがあまりない。しかし、O.S.カードの新作は面白そうだ。 |
ぽつぽつと A. Cotterell の“A dictionary of World Mythology”を読む。
つれづれなときには、楽しい本である。 とくに時間がないときに読むのは良い。 日本の神々を含む東アジア編を読むと、よく知っている高僧の行動が無味乾燥な奇行として記述されている。 西洋人が日本宗教にむける冷たい視線はときとしてマゾヒスティックな快感を与えてくれる。 |
梅原猛『日本の深層 ―縄文・蝦夷文化を探る』を再読する。
きゅうに読みたくなって、書店で探して入手した。 東北はえらい! 縄文はすてきだ! 感想はこれに尽きる。 東北がますます知りたくなった。 そのうち、赤坂憲雄の東北学にも手をのばすつもりである。 |
ジッドの『法王庁の抜け穴』を読みはじめる。
いがいなほど面白い。 文学作品は中年になってから読み返すものだとしみじみ思う。 中年まで生きてこられてよかった。 感慨にふける。 さいきん、“しみじみ”が好きだ。 平安朝に凝っているからか。 まったく関係ない話だが、この国の国歌が気分が落ち込むから嫌いだというサッカー選手の談話が<NewsWeek>誌に載っていた。 どうでもいいことだが、あほか。 |
辺見庸『不安の世紀から』を読む。
この人がてがけたTVドキュメンタリー『もの食う人々』を観てから、この人の本を一度読んでみたいと思っていた。このドキュメンタリーはチェルノヴィリの放射能汚染地域で生きる老農民たちや、アメリカの汚染河川流域に住む川漁師の生きる根源である「食の問題」を通じて現代を考えるという、えらくハードで内容の濃いすばらしいものだった。 この本もNHK教育TVで放映された対談を活字化したもの。残念ながら、放送は見ていない。 対談の相手は、歴史心理学者ロバート・ジェイ・リフトン。スペインの文学者ファン・ゴンティソーロ。映画監督エミール・クストリッツァ。 オウム真理教、ボスニア・ヘルツゴヴィナ内戦を語りながら、「意識産業」が現代の心性を蝕んでいく現状をついている。 読んでいて思うのは、ここで持ち出されている概念は決して目新しいものではない。「変幻自在のギリシアの海神、プロテウスのように、困難な状況へみずからを適合させつづけよ」というリフトンの「プロテアン的自己」(=プロテウス的自己)は、概念としてみれば読書界ではすでに十数年も前に消費されつくして破綻が宣告されている。 辺見自身が遭遇した地下鉄サリン事件の実状と、現場で取材にあたったマスメディアの行動から、メディアの荒廃を訴える言葉ももはや古びてしまった。たとえ、繰り返す価値がある言葉であっても、使いふるされてしまえばパワーを失ってしまう。 むしろ、この書物の値打ちは、絶望の時代にあって、しぶとく戦い続ける勇気ある人々の息づかいを伝えてくれることにある。 民族憎悪のなかで史跡や歴史文献を破壊しつくそうとする「記憶殺し」が、ボスニア・ヘルツゴヴィナの戦場では行なわれた。その対局に、民族の記憶を語りつぐことを自らに課した人々がいる。民族の記憶とは、ある場所に生きた人々の平和な営みに他ならない。 狙撃テロリストに狙われながら、家の奥深くで蝋燭の明かりを頼りにしながら、淡々とした平凡な生活を描いた詩を書き続ける老いた女流詩人。 そうした人々が生きていること。それを知ることだけでも、昏迷の時代を生き抜くちからとなると思う。 |
『大河の一滴』を読む。五木寛之の大ベストセラーである。
これは名著だ。そのことはいくら言っても言い足りない。 歴史というものを人類の有り様の博覧会と考えてみれば、現代はあきらかに『畸形』、 『狂気』、『異常』の項目でくくられる。現代が求めた価値そのものが破綻しているからである。 五木が書いているのは、この国の中世期にわれわれの先祖が到達している知恵である。 ただし、その知恵はとっくに忘れさられた。いい年をした爺さん、婆さんさえ初めてこんなことを聞いたなどと感想を漏らす。五木の語る知恵は、戦中・戦後派(つまりは、その当時の子ども・若者であった)の老人たちがかつて捨て去った知恵である。かれらはこの類の知恵の持ち主(今は鬼籍に入った当時の老人たち)を、かつて自分たちが嘲ったことさえ忘れているようだ。 その爺さん、婆さんでさえ失われた叡智の輝きに気がついた。おそらくは迫りつつある「死」と「老い」のおかげで。 まさに五木の看破したような時代になりつつある――そんな感が深い。 五木寛之は、じつは昔から『大河の一滴』のような考えをしていた。そのことは昔のエッセイを読めばわかる。それが誰にもわかる噛み砕かれた形で現われてきたようだ。 荒廃する時代が、五木寛之にほんとうの自分自身を気づかせたとでもいうべき現象ではあるまいか。 このひとは、いつも時代の風のなかにいる。 |
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